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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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182/217

EP187. 檻を連れて帰る少女

 私は、外へ出たのだと思っていた。


 リメイク・ファクトリーの扉を越えれば、あの白い壁も、観察窓も、消毒された空気も、背後に置いていけるのだと。そこから先は、少なくとも“施設の外”であり、観測室ではなく、拘束区画でもなく、処置台でもない。そう分類できるはずだった。


 でも違った。


 檻は建物ではない。


 檻は、観測条件だ。


 誰に見られ、何として記録され、どの権限で名前を呼ばれるか。その条件が変わらない限り、人間はどこへ移動しても自由にはならない。廊下を歩いていても、空を見上げていても、窓のない護送車の中で呼吸していても、それが記録され、分類され、利用される限り、そこは檻だ。


 なら、私は何をしたのか。


 ネヤムを連れた。


 レイラを連れた。


 ソウヤを連れた。


 彼らを救ったのではない。解放したのでもない。Echo-marionnetteを神経に沈め、私の声紋と命令タグを鍵にして、私の許可なしには正常に崩壊も逸脱もできないようにした。


 それを“保護”と呼ぶことはできる。


 それを“再統合”と呼ぶこともできる。


 それを“帰還準備”と記録することもできる。


 けれど、正確には違う。


 これは戦力搬送だ。


 そして私は、その中心にいる。


 シオンを守るため。


 シオンを乱すものを排除するため。


 シオンの心拍に触れる不明因子を観測し、分類し、必要なら壊すため。


 そう言えば、まだ自分を正当化できる気がした。けれど本当は、分かっている。私はもう、救助者ではない。救助者の顔をして、救助のための論理を並べながら、対象の自由意思に手を入れた。


 歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力ではない。


 自分で選んだと思わせる構造だ。


 私はそれを知っている。


 知っていて、使った。


 この記録は、その最初の証拠だ。


 ――始める。


 リメイク・ファクトリーの外扉が閉じた瞬間、私はようやく理解した。


 人間は、施設から出たから自由になるわけではない。檻は場所ではない。檻とは、観測条件だ。誰に見られているか。誰の記録に残るか。どの装置に分類されるか。どの権限で名前を呼ばれるか。それが変わらない限り、人間は廊下を歩いていても、空を見上げていても、結局は同じ箱の中にいる。


 だから、これは脱出ではなかった。


 リメイク・ファクトリーからミネルヴァへの帰還。正式記録上は、そう処理されるだろう。けれど実態は違う。私は檻から檻へ移動している。ただし今回は、私自身が檻の鍵をいくつか持っている。


 ネヤム。


 レイラ。


 ソウヤ。


 三人は護送車の後部区画にいた。通常なら、個別の強化拘束ポッドに分けて収容されるべき対象だ。思想感染、捕食衝動、創作型加害衝動。いずれも、接触だけで二次被害を発生させる危険因子。だが今、彼らの神経にはEcho-marionnetteが沈んでいる。


 私の声紋。


 私の命令タグ。


 私の許可制限。


 彼らは自由ではない。


 そして私は、彼らを自由にするつもりもない。


 護送車は黒かった。外装は対狙撃用の複合装甲。窓はない。車体下部には爆圧分散用のV字フレーム。車内には独立換気、神経ガス遮断フィルター、心拍・脳波・筋電の三重監視。床材は衝撃吸収ゲルを挟んだ拘束用パネルで、暴れた対象の足関節を自動固定できる構造になっている。


 人間を運ぶ車ではない。


 危険な仮説を運ぶ車だ。


 私は前方寄りの座席に座り、膝の上にNo.XXXの封筒を置いていた。灰色の封筒。赤い封印。未来を破壊する記録。指先で封筒の角を撫でると、紙の繊維が乾いているのが分かった。私の皮膚温は少し低い。交感神経優位。末梢血管収縮。呼吸浅化。怒りの残響。


 まだ、シオンの心拍は揺れている。


 微弱だが、同期層の奥で不規則な位相差が続いている。誰かが触れている。私の観測できない場所で。私の許可なく。私のシオンに。


 その事実だけで、扁桃体は攻撃準備を完了する。前頭前野は倫理的抑制を提示する。海馬はキース上官の言葉を再生する。


 ――失わないために相手の形を変えるなら、それは救助ではなく所有だ。


 正しい。


 上官はいつも正しかった。


 でも、正しさは遅い。


 遅い正しさは、ときどき死体の横に立ってから説教を始める。私はもう、それを信用しない。


「リゼ様」


 横から声がした。


 特級人体矯正技師、雨宮。


 白い制服に、薄い灰色の外套。年齢は三十代半ばに見える。けれど眼球運動が若すぎる。瞬きが少ない。視線固定時間が長い。対象を人間としてではなく、処置対象として見る訓練を受けている。


 人体矯正技師。


 その肩書きは、医師ではない。軍人でもない。教育者でもない。壊れた人間を、社会が再利用できる形へ曲げ直す職能。


 嫌な名前だ。


「三名の監督権限は、移送中のみ私とあなたで共有されます。ですが、現時点で三名の反応は、あなたの音声命令に過剰に寄っています。これは共有監督ではなく、実質的な単独支配です」


「Echo-marionnetteの仕様よ」


「非承認装置です」


「でも有効」


「有効性は免責になりません」


「人類史を読めば分かるわ。免責はいつも有効性の後から作られる。戦争、植民地支配、情報統制、人体実験。結果が先、倫理は後。ミネルヴァも例外ではないでしょう」


 雨宮は数秒だけ黙った。


 彼は責めなかった。怒らなかった。倫理を語らなかった。代わりに、私の手元の封筒を見た。


「No.XXXを持ち出した時点で、あなたは既に戻れない場所へ踏み込んでいます」


「忠告?」


「分類です」


「便利な言葉ね」


「ミネルヴァでは、忠告より分類の方が長持ちします。忠告は忘れられますが、分類は検索されます」


 私は少しだけ笑った。


 面白くはなかった。けれど、その言い方は正確だった。


 人間は忠告を忘れる。だが分類は残る。危険。有用。観測対象。隔離対象。再教育対象。廃棄保留。名前を変えるだけで、殺意は行政手続きになる。


 後部区画で、レイラが鼻を鳴らした。


「ねえ、リゼ。ここ、血の匂いがする」


「黙っていなさい」


「はぁい。でも、するよ。古い血。雪に染みたやつ。冷たくて、鉄っぽくて、甘くない血。食べ物の血じゃない。捨てられた血の匂い」


 私はレイラを見た。


 彼女の瞳孔が少し開いている。食欲反応。嗅覚記憶の誘発。視床下部の摂食中枢に、微細な活動上昇。Echo-marionnetteが抑制信号を返すと、レイラの肩がびくりと震えた。


「う……ごめんなさい。まだ食べない。リゼが駄目って言ったから、我慢する」


「違う。私が駄目と言ったからではなく、あなたが今ここで食べれば、あなたの行動価値が下がるからよ」


「価値?」


「そう。あなたは飢餓衝動そのものではない。飢えを持ったまま待機できるなら、あなたは戦力になる。待てないなら、ただの処分対象よ」


 レイラは少しだけ唇を尖らせた。


「リゼって、優しい言葉を使わないね」


「優しい言葉は依存を曇らせる。私は曇った依存が嫌い」


「じゃあ、私たちは依存してるの?」


「しているわ。正確には、あなたたちの選択関数は私を経由するよう調整されている。自由意思は残してある。完全に奪えば、あなたではなくなるから」


 ソウヤが、後部座席で静かに笑った。


「美しいですね。自由を残したまま、帰路だけを支配する。檻ではなく、道を設計する。作家なら一度は憧れる構造です」


「ソウヤ」


「はい」


「その評価を続けたら、あなたの視覚野に痛覚を返すわ」


「黙ります」


 ネヤムが静かに笑った。


「この車、村の匂いを積んでるんだね」


「村?」


 私が聞くと、雨宮の視線がわずかに動いた。


 それは反射ではない。事前に準備していた話題へ接続する時の、認知切替だった。


「リゼ様。ミネルヴァ帰還前に、共有すべき資料があります」


「今?」


「今です。ファクトリーが何を飲み込んで建設されたか。あなたは知っておく必要があります」


「リメイク・ファクトリーの建設経緯なら読んだわ。旧山間実験区画の再利用。廃村跡地。地権処理済み。外部記録封鎖済み」


「それは表層です」


 雨宮は端末を取り出した。黒いケース。物理キー式。通信遮断モード。画面に、一枚の機密資料が表示される。


 白い雪。


 黒い髪の少女。


 赤い目。


 血に汚れた制服。


 名前。


 吹雪リョウカ。


 周囲の雪は、血に塗れていた。


 私は画面を見つめた。情報が入ってくる。所属、不明。役義、なし。年齢、不明。外見年齢、十歳前後。識別番号、MG-UNKNOWN-01。


 人物評価。


 かつて、ある村を壊滅させたとされる少女。手段、動機、経緯は一切不明。現場には遺体が存在せず、記録も残っていない。壊滅の規模、時間、方法すら不明。ただ、「吹雪リョウカ」という名だけが残されている。


「遺体が存在しない?」


「はい」


「なら壊滅の定義は?」


「村としての社会機能消失。住民記録の断絶。戸籍、土地台帳、医療記録、学校記録、防災記録の同時欠落。つまり、死体ではなく、村という集合知が消失しました」


 ネヤムが嬉しそうに目を細めた。


「群れが消えたんだ」


「黙って」


「はい。でも、いい言い方だと思う。人間は個体で死ぬだけじゃない。村として死ぬこともある。名前、役割、隣人関係、秘密、噂、恨み、食卓、葬式の順番。そういうものが消えたなら、それは群れの死だよ」


「ネヤム。あなたの思想感染は、まだ許可していない」


「ごめんなさい、リゼ」


 素直に謝る。


 それがまた不快だった。


 Echo-marionnetteの反応は安定している。謝罪は彼女自身の選択だ。だが、その選択が私の安定化構造に沿っている。自由意思は残してある。だからこそ、支配として完成している。


 雨宮は端末を切り替えた。


「リメイク・ファクトリーは、廃村跡地に建てられたのではありません」


「……」


「村を飲み込む形で建てられました」


 護送車の振動が、少しだけ変わった気がした。実際には道路の継ぎ目を越えただけだろう。けれど、私の脳はその振動を意味として処理した。


 村を飲み込む。


 その表現は比喩ではない。


「既存構造物を撤去せず、地下基礎と隔離区画に転用した?」


「正確には、村の地形、生活導線、共同体構造、住民間関係の残骸を、施設設計に組み込みました」


「悪趣味ね」


「機能的でした」


「その言い方、嫌いだわ」


「私も好きではありません」


 雨宮は淡々としていた。だが、嘘ではない。彼はこの話を好んでいない。表情筋の反応は薄い。しかし声帯の緊張に微細な硬さがある。嫌悪を抑制した専門家の声。


「村には三つの特徴がありました。一つ目は閉鎖性です。冬季は積雪によって外界との接続が極端に低下する。社会心理学的には、外集団への依存が下がり、内集団規範が強化される環境です」


「村落共同体の典型ね。革命政府、軍事独裁、宗教共同体、収容所。どれも外部遮断と内集団規範の強化から始まる」


「二つ目は相互監視です。生活導線が中心集会所を通過する構造になっていた。誰がどこへ行くかを、住民同士が自然に観測できる」


「観測が統治になる」


「はい」


「三つ目は?」


 雨宮は画面を止めた。


 そこには、雪原に立つ小さな少女の写真があった。


 吹雪リョウカ。


「三つ目。記録拒否です」


「記録拒否?」


「この村では、ある時期以降、外部記録が急速に欠落します。写真はぶれる。音声はノイズ化する。紙記録は濡れたように判読不能になる。電子記録はタイムスタンプだけ残し、本文が消失する」


 私は端末を受け取り、拡大する。


 少女の目。


 赤い。


 だが、赤い瞳というだけではない。虹彩の奥に、微細な白い点が散っている。雪。いや、ノイズ。視覚情報の中に、環境粒子のようなものが混入している。


「観測干渉型?」


「仮説段階です」


「違う。これは単なる認識阻害じゃない。観測媒体そのものの保存関数に干渉している。見る側の脳ではなく、記録側の安定性を落としている」


「そこまで読みますか」


「資料がそう言っている」


 私は画面を返した。


「吹雪リョウカは、村を殺したの?」


「断定不能です」


「断定不能という言葉は、責任を延期する時に便利ね」


「はい。ですが、この場合は本当に断定不能です。現場には死体がありませんでした。ただし、血液反応は村全域から検出されています。積雪層の下、井戸、屋根、学校の廊下、神社の階段、防雪倉庫の内壁。あらゆる場所に血液反応がありました」


「住民のDNAは?」


「一致しません」


「外部者?」


「それも一致しません」


 私は呼吸を止めた。


「人間の血ではない?」


「一部は人間です。一部は人間に近い。しかし、登録可能な個体情報として成立しない」


 ネヤムが小さく呟いた。


「群れがほどけたんだ」


 私は彼女を睨む。


 だが、否定できなかった。


 人間の血液。しかし個体として登録できない。それは生物学的には異常だ。だが情報論的には説明可能な場合がある。個体識別情報が崩壊している。DNA配列の照合ではなく、照合対象としての“個体”が失われている。


 村という集団が、人間の集合ではなく、別の単位へ変換された可能性。


 集団意思決定理論で言えば、個人ノードが消え、ネットワークそのものが単一の行動主体へ転化する現象。


 ネヤムの理論に近い。


 嫌な一致だった。


「リメイク・ファクトリーは、その村の構造を利用した」


「はい」


「なぜ?」


「人体矯正には、個人だけでなく環境が必要だからです」


 雨宮の声は冷たい。


「人間の心は頭蓋骨の中だけで壊れるわけではありません。部屋の広さ、扉の位置、音の反響、他者の視線、食事の匂い、就寝時間、監視周期。すべてが神経可塑性に影響する。村は、天然の行動改変装置でした」


「だから施設にした」


「はい。村の相互監視構造を観察区画へ。集会所を中枢管理室へ。学校を認知再教育棟へ。診療所を矯正医療区画へ。神社を深層隔離棟へ転用しました」


「信仰の場所を隔離に使ったの」


「信仰は、個人の内面を共同体に接続する装置です。矯正技術としては、非常に強力な空間記憶を持っていました」


「最低ね」


「同意します」


 雨宮は短く答えた。


 後部区画でソウヤが静かに息を吐く。


「美しいですね。村という舞台を、そのまま人体矯正の劇場に変える。生活の跡を処置の導線へ転用する。設計者は、かなり優れた演出家です」


「ソウヤ」


「はい」


「その評価を続けたら、あなたの視覚野に痛覚を返すわ」


「黙ります」


 レイラが不満そうに唇を尖らせる。


「村って、美味しいの?」


「食べ物の話をするな」


「はぁい。でも、人間が集まって、怖がって、秘密を作って、誰かを閉じ込めて、最後に血だけ残るなら、それって少し食べ物っぽい」


「レイラ」


「黙る。ちゃんと黙る。リゼが嫌な顔したから」


 ネヤムは窓のない壁を見つめていた。


「村を飲み込んだ施設。施設に飲み込まれた子たち。そこからまたリゼが私たちを飲み込んで、ミネルヴァへ持って帰る。階層構造だね」


「何が言いたいの」


「あなた、ファクトリーと似てきた」


 胸の奥が冷えた。


 Echo-marionnetteが、私の命令を待っている。ネヤムに不快信号を流すことは簡単だった。けれど私は、流さなかった。


 なぜなら、その言葉は正しかったから。


 私は彼らを飲み込んだ。


 ネヤムの思想を。レイラの飢餓を。ソウヤの創作衝動を。そして、自分の目的のために再配置している。村を施設にした誰かと、構造だけなら同じだ。


「安心して、ネヤム。あなたが壊れる可能性は、もう計算済みだから」


 私が言うと、ネヤムは微笑んだ。


「それ、安心する言葉じゃないよ」


「私は縛っているわけではない。あなたが私の外で崩壊する確率を知っているだけ」


「それも縛ってる人の言い方だよ」


「自由意思は残してある。完全に奪えば、あなたではなくなるから」


「リゼは、本当に怖いね」


「怖いと判断できるなら、あなたはまだ自分でいられる」


 ネヤムは、それ以上何も言わなかった。


 雨宮が端末を閉じる。


「吹雪リョウカは現在、ミネルヴァの極秘施設内に隔離・観測されています」


「生きているの?」


「生存定義によります」


「曖昧な答えは嫌い」


「では、こう言います。彼女は呼吸し、睡眠し、反応し、時折言葉を発します。しかし、通常の人格連続性は確認されていない」


「村の壊滅後から?」


「はい」


「接触記録は?」


「存在しますが、会話記録はほぼありません。接触・会話ログは保存されず、観測のみ許可されています」


「保存されないから?」


「はい。記録媒体が劣化する。音声は白色雑音化し、映像は雪のような粒子で埋まる。筆記記録は、水に濡れたように滲む」


 私は添付資料の少女の顔を思い出す。あの赤い目。雪。血。記録拒否。


 吹雪リョウカ。


「なぜ、その資料を今私に見せたの」


 雨宮は答えるまで、少しだけ間を置いた。


「あなたが今、No.XXXとEcho-marionnetteを同時に持っているからです」


「つまり?」


「記録を壊す存在。未来を記録する存在。人間の自由意思を曲げる装置。これらを一人の未成年が同時に持っている状況は、ミネルヴァの危険分類上、吹雪リョウカ案件に近い」


「私を彼女と同じ分類に置く気?」


「可能性です」


 私は笑った。


 今度は、少しだけ本当に笑った。


「面白いわね。村を消したかもしれない少女と、シオンを守るために三人の危険人物を操っている私。ミネルヴァから見れば、同じ棚に並ぶわけだ」


「棚は違います」


「どう違うの」


「リョウカは、記録を拒否する」


 雨宮は私を見た。


「あなたは、記録を利用する」


 その言葉は、胸に残った。


 私は記録を壊さない。汚染する。上書きする。遅延させる。別の意味を与える。No.XXXもそうだ。監視ログもそうだ。シオンの心拍もそうだ。


 記録は真実ではない。


 記録は、支配可能な媒体だ。


 そう学んでしまった。


 学びすぎるな。


 キース上官の声が、また蘇る。


 私は目を閉じた。


 上官。あなたは正しかった。でも、私はもう正しい場所にはいない。


 護送車が山道を抜ける。車体の奥で、低周波振動が変わる。ミネルヴァ管理区域の外縁センサーを通過したのだろう。


 私の端末に、認証通知が入る。


 MINERVA EDUCATIONAL INSTITUTE

 RETURNING SUBJECT: KAGAMIGAHARA RIZE

 TRANSFERRED OBJECTS: 3

 DOCUMENT: No.XXX

 RISK FLAG: RED/BLACK


 赤黒。


 いい色ではない。


 けれど今の私には似合っている。


 シオンの心拍が、またわずかに跳ねた。


 同期率、0.86%。


 情動振幅、再上昇。


 呼吸間隔、不規則。


 外部干渉、継続。


 私は拳を握った。


 ホノカ。


 あなたがそこにいるなら。あなたがシオンの心に触れているなら。あなたが彼女の自由を名乗って、彼女を私から遠ざけようとするなら。


 私はあなたを許さない。


 ホノカという存在は、制御不能な自由の象徴だ。殺意を遊戯に変換し、暴力を会話と呼び、壊れる瞬間を美しいと言う。彼女のようなものを、私は歴史上何度も資料で読んできた。革命の熱狂、群衆暴力、カルト指導者、戦場の英雄、崩壊期の都市伝説。合理的な分類から外れたものほど、人間の群れを乱す。


 だが、ホノカはそのどれより不快だ。


 彼女は構造を拒否する。仕様化を拒否する。意味づける前に笑う。観測者がラベルを貼る前に、ラベルを噛み砕いて吐き捨てる。


 宇宙から完全に抹消したい。


 その感情を、私は観測した。


 嫌悪。苛立ち。競争意識。排除衝動。シオンへの所有欲との結合。危険な混合物だ。だが、測定できるなら制御できる。制御できるなら、使用できる。


「リゼ様」


 雨宮が言う。


「ミネルヴァ到着後、三名は一時的に地下搬送路へ移されます。あなたは上層部への報告に――」


「行かない」


「規定では」


「規定より先に、私はシオンの所在を確認する」


「許可は下りません」


「下ろさせる」


「あなたは今、救助者の顔をしていません」


「そう」


「制圧者の顔です」


「なら、正しく観測できているわね」


 雨宮は黙った。


 ネヤムが微笑む。レイラが喉を鳴らす。ソウヤが祈るように指を組む。


 三人の中に、私の光の糸がある。


 私の命令が、彼らの脳内で重みを持つ。逆らうことは損失。従うことは安堵。自由意思は消していない。ただ、選択関数を書き換えただけ。


 それが一番たちが悪い。


 私は自分で分かっている。


 だからこそ、止まらない。


 護送車の前方に、ミネルヴァの外門が現れた。


 巨大な教育機関。白い壁。清潔な芝生。整いすぎた校舎。安全と才能と未来を掲げる、巨大な観測装置。


 私は帰ってきた。


 いいえ。


 私は、敵地へ戻ってきた。


 ミネルヴァは私の所属先だ。だが、私の味方ではない。ファクトリーは村を飲み込んだ。ミネルヴァは才能を飲み込む。そして私は、三人の異常者を飲み込んでここへ戻った。


 飲み込むもの同士が、これから同じ食卓につく。


 それだけの話だ。


 車が停止する。ロックが外れる音。外気が流れ込む。消毒薬、芝、金属、遠くの雨。そして微かに、シオンの匂いがした気がした。


 錯覚かもしれない。Echo-Bindingが作った幻覚かもしれない。所有欲が感覚野に投影した、ただのノイズかもしれない。


 でも、私はそれを信じた。


 信じることは、時に最も危険な認知バイアスだ。だからこそ、人間は信じたもののために殺せる。


 私は立ち上がる。


「ネヤム。レイラ。ソウヤ。ここから先、私の命令なく誰にも触れるな。誰にも話すな。誰も壊すな。あなたたちの自由意思は残してある。だからこそ、選択には責任が生じる。私の外で逸脱すれば、私はあなたたちを処分する」


「はい」


「はぁい」


「承知しました」


 声が重なる。


 私の軍隊。


 私の罪。


 私の帰還証明。


 雨宮が扉の横に立つ。


「最後に一つだけ」


「何」


「吹雪リョウカの資料には、記録されなかった一文があります」


「なぜ今言うの」


「あなたがミネルヴァに戻る前に聞くべきだからです」


「言って」


 雨宮は、低い声で言った。


「リョウカが唯一、明確に発したとされる言葉です。――帰りたい」


 私は瞬きを忘れた。


 帰りたい。


 村を消したかもしれない少女。記録を拒否する存在。ミネルヴァの極秘施設に隔離された、不明の子供。その子が残した言葉。


 帰りたい。


 どこへ。


 村へ。家へ。雪へ。血に塗れた場所へ。それとも、まだ自分が人間だった時間へ。


 私は答えを知らない。


 けれど、胸の奥で何かが微かに軋んだ。


 私も、帰りたいのかもしれない。


 シオンを所有する前の私へ。キース上官の言葉を素直に聞けた私へ。救助と支配の境界線を、まだ踏み越えていなかった私へ。


 でも、もう無理だ。


 私は帰還した。


 けれど、戻れない。


 なら進むしかない。


 私は扉の外へ足を踏み出した。ミネルヴァの白い光が、私の顔を照らす。清潔で、冷たくて、嘘みたいな光。


 私はその光の中で、静かに笑った。


「ただいま、ミネルヴァ」


 そして心の中で、もう一つだけ呟く。


 待っていて、シオン。


 あなたを乱すものを、全部、私が観測する。


 観測して。


 分類して。


 必要なら、壊す。


 私はもう、救助者ではない。


 私は、あなたを取り戻すために帰還した最悪の観測者だ。


 ミネルヴァの光は、いつも白い。


 清潔で、整っていて、誰も傷つけていないような顔をしている。けれど私は知っている。白は、血の色を隠すのに都合がいい。


 リメイク・ファクトリーは村を飲み込んだ。


 ミネルヴァは才能を飲み込む。


 そして私は、三人の異常者を飲み込んで戻ってきた。


 雨宮は言った。


 リョウカは記録を拒否する。


 私は記録を利用する。


 その違いは、たぶん決定的だ。私は壊すだけではない。書き換える。遅らせる。汚染する。必要なら、記録そのものに別の意味を与える。それが罪だとしても、もう構わない。


 シオンの心拍は、まだ揺れている。


 誰かが彼女に触れている。


 私の知らない場所で、私の許可なく。


 ならば私は進む。


 キース上官の言葉が正しいことは知っている。ネヤムの指摘が痛いほど正確なことも知っている。雨宮の分類が、たぶん間違っていないことも分かっている。


 それでも止まらない。


 帰りたい、とリョウカは言ったらしい。


 私も、帰りたいのかもしれない。


 でも、もう戻れない。


 だから私は、帰還したふりをして前へ進む。


 ミネルヴァへ。


 シオンへ。


 そして、シオンを乱すすべてのものへ。


 私は最悪の観測者になる。


 観測して。


 分類して。


 必要なら、壊す。


 それが、私が檻を連れて帰った理由だ。


 おめでとう。

 そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


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