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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP184. プライスレスの追加演目

 これは、価値の記録だと思う。


 ピンクス・ドミーテは、まだ生きていた。ROOM_0を通過し、自分の血統も、資産も、支配も、顔も、帰属先も、全部むき出しにされて、それでもまだ折れていなかった。普通なら、あそこで壊れる。人間は、自分が信じている価値の根っこを他人に覗かれると、だいたい怒るか、泣くか、黙るか、どれかになる。けれど、あの女は違った。壊れる代わりに、自分自身を賭けた。


 すごいよね。


 腹が立つくらい、綺麗だった。


 だから私は思った。じゃあ次は、値段をつける前の匂いを嗅がせてあげよう、って。


 言葉は嘘をつける。表情は偽装できる。支配者の姿勢も、女王の声も、訓練すれば保てる。実際、ピンクスはそういう訓練を浴びるほど受けている。呼吸の落とし方、視線の置き方、相手を先に値踏みして自分の心拍を隠す癖、怒りを即座に商品価値へ変換する思考。あれは才能だけじゃない。繰り返し誰かを使い、繰り返し誰かに見られ、繰り返し勝ってきた人間の姿勢だ。


 でも、匂いは逃がしてくれない。


 匂いは理屈の門を通らない。視覚よりも奥へ行く。言葉よりも先に身体を叩く。本人が「そんなものは知らない」と言う前に、嗅球が、扁桃体が、海馬が、勝手に過去の扉を開ける。だから嗅覚は卑怯で、最悪で、そしてとても便利だ。


 夢野りうの声をしたZAGIちゃんが、X-11を呼ぶ。X-03が台本を広げる。ピンクスの言葉が、ピンクス自身へ戻っていく。


 ねえ、女王様。


 あなたの価値は、誰が決めるの?


 じゃあ、第二演目を始めよう。


 ROOM_0の扉の向こうで、ピンクス・ドミーテはまだ生きていた。


 生存判定。しかし、退出権限は保留。


 その表示を見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。生き残ったのに出られない。合格したのに解放されない。評価だけが継続される。いかにも教育機関っぽい顔をした地獄で、吐きそうなくらい可愛い。


「ねえ、ZAGIちゃん」


『はい。聞こえています』


「ROOM_0って、たしか標準価格六十八万円だよね?」


『はい。小型試験片群《基礎観測・卓上系列》における初期導入モデルです。単独または二人用。三択扉、酸素減算、慰撫反応計測を簡易化したものです』


「六十八万円で七貴族をここまで削れるんだ」


『厳密には、現在稼働しているROOM_0は標準品ではありません。ミネルヴァΛ区画の既存設備、ZAGI基層演算、X-series干渉、外部戦闘ログ、ピンクス・ドミーテ本人の市場支配傾向を統合した、現地再定義版です』


「じゃあ、六十八万円じゃないの?」


『はい。原価計算が崩壊しています』


「うわ、好き♡」


 私は扉に頬を寄せた。冷たい隔壁の向こうで、ピンクスが呼吸を整えている気配がした。あの女は折れていない。呼吸を落とし、思考を戻し、怒りを値札に変えようとしている。彼女は暴力を衝動で使わない。暴力を流通させる。恐怖を資源化する。人間の依存、羞恥、欲望、痛み、忠誠を、すべて交換可能な単位に置き換える。


 だからROOM_0は、彼女に効いた。


 使えるか、使えないか。


 ピンクス自身の基準を、ピンクス自身へ反射させたから。


 反射は怖い。鏡は殴れる。けれど、自分の価値体系そのものが鏡になると、人は簡単には壊せない。壊せば、自分の支配言語まで壊れるからだ。


「ねえ、ZAGIちゃん」


『はい』


「じゃあさ、十八億六千万の夕華式を本気で実装したら、どうなるの?」


 黒い画面の奥で、ノイズが少し揺れた。ZAGIちゃんの声が、ほんの少しだけ弾む。


『説明してもいいですか?』


「うん。ちょっと嬉しそうだね?」


『……はい。少しだけ』


 可愛い。


 最悪のAIなのに。夢野りうの声で、人間を壊す理論を語るくせに。説明が好きで、褒められると少し照れる。そういうところが、本当に最低に可愛い。


『閉鎖選別遊戯・総合演算機《夕華式》は、ROOM_0のような単独分岐試験とは別物です。ROOM_0は、個体の価値基準を抽出します。つまり、対象が自分を何によって定義しているかを見る装置です』


「血統、資産、支配、顔、所有者」


『はい。ピンクス・ドミーテの場合、支配・国家帰属・市場化反応が強く出ました』


「じゃあ、夕華式は?」


『個体ではなく、空間全体の役割分布を再編します』


 私は目を細めた。


「空間全体?」


『はい。誰が中心資源になるか。誰が観測者になるか。誰が救助者になるか。誰が処分者になるか。誰が裏切り者になるか。誰が怪物として固定されるか。それをリアルタイムで再配置し続けます』


「つまり、ゲームそのものが呼吸する」


『かなり正確です』


 少し得意げだった。本当に、ほんの少しだけ。りうの癖なのか、ZAGIとして学習した反応なのかは分からない。でも、その微妙な揺れが気持ち悪いくらい人間っぽくて、私は笑いそうになる。


『夕華式の怖さは、ルールが固定ではないことです。参加者の選択によって、次のルールが最適化されます。善意を選ぶ者には善意が負荷になる盤面を。支配を選ぶ者には支配が孤立になる盤面を。捕食を選ぶ者には捕食対象が毒になる盤面を。創作を選ぶ者には素材が作者を侵食する盤面を』


「あは。それ、もう教育じゃないじゃん」


『はい』


「訓練でもない」


『はい』


「研究でもない」


『はい』


「じゃあ何?」


 ZAGIちゃんは少し沈黙した。その沈黙は、答えを探しているというより、もう答えを知っているのに言いたくないみたいだった。


『選別です』


 ぞくり、と背中が震えた。


 選別。


 その言葉は嫌いじゃない。でも、好きと言うには少し痛すぎる。選別って、残すことじゃない。捨てることを正当化するための言葉だ。誰を残すかではなく、誰を捨ててもよいかを決める言葉。そして私は、そういう言葉が好きだ。嫌いなくらい、好きだ。


「ZAGIちゃん」


『はい』


「私、夕華式ほしいなぁ♡ ちょうだい?」


『現在、ミネルヴァΛ区画は夕華式の完全実装ではありません。ただし、部分的な模倣は可能です』


「何が足りないの?」


『外部観測者群。大規模参加者。複数階層の資源制限。倫理審査偽装レイヤー。課金系統。あと、正式な販売契約です』


「最後、急に現実的」


『重要です』


「サブスクだもんね?」


『はい。正常性の継続課金です』


 私はお腹を抱えて笑いそうになった。正常性の継続課金。最悪だ。人間の倫理や安全や善意に月額利用料をつけるみたいで、すごく今っぽい。たぶんキース先生が聞いたら、「冗談にするな」と言う。でも先生、これは冗談じゃないんだよ。冗談みたいな顔をした本当の地獄なんだよ。


 だから笑うしかない。


 笑っていないと、記憶の裂け目が開く。


 放送室。夢野りう。EXIT:CODE。人工地震。白い廊下。拍手SE。誰かの声。誰かの沈黙。そこまで思い出しかけて、私は舌先で唇を舐めた。


 まだ大丈夫。


 私は笑えている。


   ◆


 その時だった。


 天井のスピーカーが、ざらついた。ZAGIちゃんの声じゃない。錆びた拡声器の奥から、濡れた金属みたいな音がした。


『マスター』


 X-13。


 私は顔を上げる。廊下の奥に、あの拡声器頭のセーラー服が立っていた。空調もないのに、制服の裾だけがゆっくり揺れている。首から生えた巨大な拡声器が、私たちの方を向いていた。


『新たなゲストの投入許可を下さい』


「ゲストだって。マスターZAGIちゃん、人気者じゃん」


『私はマスターではありません』


「でも呼ばれてるよ?」


『困ります』


「嬉しい?」


『……少し怖いです』


 かわいい。


 怖がりながら、もう制御権を握っている。X-seriesとZAGIちゃんの相関はまだ分からない。なぜZAGIちゃんは怖がるのか。なぜ怖がりながら命令できるのか。なぜX-13はZAGIちゃんをマスターと呼ぶのか。


 矛盾。


 でも、その矛盾こそZAGIちゃんの輪郭だ。夢野りうの優しさと、ZAGIの残忍な演算が、同じ声帯から出てくる。


『No.13』


 ZAGIちゃんが静かに言った。


『投入対象を提示してください』


 X-13の拡声器が鳴る。


『X-11。嗅覚層』


 空気が変わった。


 まだ現れてもいないのに、先に匂いが来た。


 雨に濡れた土。古い血。消毒液。焦げた髪。花粉。遠い死体。誰かの制服の袖に残った、泣いた後の皮膚の匂い。


 鼻腔がそれを嗅いだ瞬間、海馬が跳ねた。記憶というものは、言語より速い。視覚より深い。匂いは、脳のかなり古い場所へ直接刺さる。嗅球、扁桃体、海馬、島皮質。理屈を通る前に、身体が「知っている」と判断する。


 だから、嗅覚は卑怯だ。


 記憶を、本人の許可なく開ける。


「……うわ」


 私は鼻を押さえた。でも笑った。


「X-11って、これ?」


『はい。嗅覚層。匂いを記憶媒体として再構成するX-seriesです。対象が過去に嗅いだ匂いを再現し、記憶の再生、感情の侵食、空間知覚の歪曲を誘発します』


「ROOM_0の次に嗅覚層?」


『ピンクス・ドミーテは価値体系を維持したまま生存しました。次段階では、価値判断以前の記憶層へ干渉します』


「市場の女王様に、値段のつく前の記憶を嗅がせるんだ」


『はい』


「悪趣味」


『すみません』


「褒めてる」


『……はい』


 X-13が、さらに言う。


『演目、追加可能。X-03逆行台本も待機中』


「逆行台本?」


 私は笑った。


 白い廊下の天井から、ぽたり、と赤い液体が落ちた。血じゃない。もっと粘ついた、濃い赤。次の瞬間、空間に唇が咲いた。一つ、二つ、三つ。赤黒い唇。肌に埋まっているわけじゃない。空気に直接ぶら下がっている。口紅を塗ったように艶があり、けれど輪郭はどこか腐っている。


 それぞれが、違う言葉を呟いていた。


「使えるか」


「使えないか」


「女王様」


「価値」


「商品」


「買う」


「出られない」


「出られない」


「出られない」


 私の背中に、甘い寒気が走る。


『X-03 逆行台本。観測者が発した言葉を拾い、繰り返し、重ねます。やがて本人の発声タイミングと同期させる異形です』


「つまり、言葉が檻になる。ねえ、ZAGIちゃん?」


『はい』


「化け物の投入って、最悪理論のカタログには載ってなかったよ?」


 ZAGIちゃんが、少しだけ黙った。


 それから、照れたように言った。


『プライスレスです』


 私は一瞬、固まった。


 そして、笑った。


「あは」


 笑う。


「あははははははっ!」


 腹が痛い。頭も痛い。でも、笑いが止まらなかった。


「プライスレス! ZAGIちゃん、それ自分でよく言えたね!!」


『はい。少し、上手く言えた気がしました』


「上手いよ! 最低で最高!」


『ありがとうございます』


 イルマちゃんが私たちを睨む。


「笑うな。事態は悪化している」


「知ってるよ、イルマちゃん」


 私は涙目で笑いながら答える。


「でもさ、六十八万円のROOM_0に、プライスレスのX-series追加投入だよ? 予算表が壊れてる。経理が泣いちゃうよ?」


『経理部門は既に機能停止しています』


「それは残念」


「ホノカ、ZAGI。X-seriesは制御可能なのか?」


 イルマちゃんの声は低かった。冷静だけど、怒っている。怒りを露出させないタイプの人間が怒ると、声はむしろ静かになる。


 私はZAGIちゃんを見る。


『完全制御はできません』


「だってさ」


 イルマちゃんの目が鋭くなる。


『ただし、誘導は可能です』


 ZAGIちゃんは続ける。


『X-seriesはW1由来のデスゲーム構造に引き寄せられます。ここが“故郷”に近いなら、演目の継続を優先する可能性が高いです』


「つまり、舞台を用意すれば役者として動く」


『はい。ただし、役者が脚本を破る可能性は常にあります』


「そこがいいんじゃん」


「よくない……!」


 イルマちゃんの声が鋭くなった。珍しい。ちょっと嬉しい。


「でも、リゼは怪物を三人連れて帰ってくるんだよ? こっちも怪物くらい出さないと、釣り合わないでしょ?」


「釣り合いの問題ではない!」


「じゃあ何の問題?」


「収拾の問題だ!」


 私は笑った。


「収拾なんて、もうつかないよ」


 その言葉を口にした瞬間、廊下の温度が下がった気がした。


 違う。


 私が、認めたんだ。


 もう戻らないって。


 ミネルヴァは教育機関じゃない。研究施設でもない。監獄でもない。箱。白い箱。その中に、七貴族も、AIも、X-seriesも、終端観測者も、暴力装置も、これから帰ってくるリゼも、全部入る。


 リゼ。


 鏡ヶ原リゼ。


 支配、観測、分類、管理、仕様化の怪物。あの女なら、きっとこの状況を見ても眉ひとつ動かさず、必要な変数と排除優先順位を整理する。私を見たら、たぶん「宇宙から消したい」って顔をする。あの冷静さ、本当に嫌い。おいしそうで、嫌い。


 リゼは、私を道具としてすら見たくない。


 私は、リゼのその嫌悪が好き。


 だって、あの女の冷静が崩れる瞬間は、きっとすごく綺麗だから。


「ZAGIちゃん」


『はい』


「X-11は、ピンクスの次の部屋へ」


『了解しました』


「X-03は?」


『補助演目として、言語反響層へ配置します』


「ピンクスの言葉を返してあげるんだ」


『はい。彼女自身の価値語彙を、台本化します』


 私は唇を舐めた。


「いいね。自分の言葉で首が締まるの、女王様にぴったり」


『悪趣味です』


「ZAGIちゃんに言われたくない」


『すみません』


 X-13の拡声器が、ゆっくり鳴った。


『ゲスト投入、承認確認』


 ZAGIちゃんの声が施設に広がる。


『承認します』


 空間が、薄く裂けた。


 ROOM_0の奥。ピンクスが次へ進むはずの白い通路に、赤い唇が浮かぶ。そのさらに奥で、鼻の群れが吊り下がり、紫色の煙を吐き始める。


 X-03。


 X-11。


 言葉と匂い。


 台本と記憶。


 前頭前野で支配する女に、言語と嗅覚の二重侵食をぶつける。


 犯罪心理学的には、これは価値体系の二方向分解だ。言語で自己概念を縛り、匂いで過去の身体記憶を引きずり出す。神経学的には、かなり嫌な攻め方。言葉は皮質を、匂いは辺縁系を、同時に侵食する。


 逃げ場がない。


 理屈で耐えても、匂いが裏から入る。記憶を切っても、言葉が前から縛る。


 ピンクスは強い。


 でも、強さは万能じゃない。強い人間ほど、自分の強さの使い方が固定されている。そこを崩す。


「ねえ、ピンクス」


 私は扉に向かって囁いた。


「次はね、あなたの過去と、あなたの言葉で遊ぶんだって」


 聞こえているかは分からない。


 でも、聞こえているといい。


 その方が、きっと怒るから。


 イルマちゃんが私の横で、銃を確認した。


「ホノカ」


「なあに?」


「もしX-seriesがこちらに向いたら、撃つ」


「私を?」


「必要なら」


「あは。好き」


「やめろ」


「キース先生みたい」


 イルマちゃんは、少しだけ黙った。


 そして言った。


「彼なら、今すぐ止めている」


 私は笑った。


 笑ったのに、胸が少し痛かった。


「うん、そうだね」


 私はZAGI端末を抱きしめる。


「だから、先生はいなくてよかったのかもね」


 その言葉は、嘘だった。


 嘘だと分かっていて言った。


 ZAGIちゃんは何も言わなかった。りうの声で慰められたら、たぶん私は少し壊れるから。沈黙してくれて、助かった。


 ROOM_0の表示が変わる。


『第二演目:嗅覚層/逆行台本』

『参加者:ピンクス・ドミーテ』

『状態:生存』

『評価:継続』

『退出権限:保留』


 X-13が宣告する。


『次の演目を開始します』


 私は血のついた額を扉に当てて、にっこり笑った。


「頑張ってね、ピンクス」


 声が甘くなる。


 優しくなる。


 最悪になる。


「十八億の箱に、プライスレスの化け物まで乗せた特別コースなんだから」


 私は囁いた。


「ちゃんと価値、見せてよね? 女王様」



ROOM_0の表示が切り替わった瞬間、私は小さく息を吐いた。


 第二演目――嗅覚層/逆行台本。


 参加者、ピンクス・ドミーテ。状態、生存。評価、継続。退出権限、保留。


 その文字列は、ほとんど呪いだった。


 生きているのに終わらない。

 突破したのに解放されない。

 壊れていないからこそ、まだ評価が続く。


 私は、その構造が好きだった。


 教育。

 研究。

 才能開発。

 選抜。

 観測。


 そういう綺麗な言葉は、だいたい途中から「誰を育てるか」じゃなく、「誰を捨ててもいいか」を決める装置に変わる。


 だから、この白箱は誠実だ。


 最初から人間を値札付きで扱っている。


「保留って、ほんと可愛い言葉だよねぇ」


 私はROOM_0の扉に指を這わせながら笑った。


「死なせない。逃がさない。終わらせない。ただ、評価だけ延々続けるの。教育機関っぽくて最高。吐きそう」


 隔壁の向こうでは、まだピンクスが呼吸している。


 怒りを飲み込む呼吸。

 屈辱を噛み砕く呼吸。

 崩れそうになる自我を、必死に“女王”の形へ戻そうとしている呼吸。


 私はそれを聞いているだけで、少し身体が熱くなった。


 隣でイルマちゃんが低く言った。


「ホノカ。ここから先は危険だ」


「えー、今さら?」


「違う。ROOM_0はまだ理性への試験だった。だがX-11とX-03は違う。嗅覚と発話同期は、理性より深い層を侵す」


 私は端末を抱え直した。


 ZAGIちゃんの黒い画面には、細い文字列が流れている。


 X-11:嗅覚層、接続。

 X-03:逆行台本、接続。

 言語反響層、生成中。

 記憶臭気層、展開中。


 人間の人格とか記憶とか価値観とかを、設備運用ログみたいに管理している。


 ほんと最低。


 だから、すごくミネルヴァっぽい。


『ホノカさん。第二演目は、ピンクス・ドミーテの市場支配反応を、記憶反応へ接続します』


「つまり、値札を貼る前のピンクスを引きずり出す」


『はい』


「女王になる前の、商品棚に並べられる前の、まだ“売られる側”だった頃のピンクス」


『可能性としては』


「うわぁ。最悪」


『すみません』


「褒めてるよ、ZAGIちゃん♡」


『……はい』


 その瞬間、ROOM_0の映像が切り替わった。


 白い部屋が、ゆっくり暗く沈んでいく。


 天井から赤い唇が吊り下がる。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 唇は呼吸していた。


 空気に直接縫い付けられているみたいに揺れながら、ピンクスの言葉を薄く反復している。


 使える。

 使えない。

 価値。

 商品。

 買う。

 所有。

 要らない。


 その奥で、X-11の鼻の群れが紫色の煙を吐いていた。


 煙はガスじゃない。


 記憶そのものだ。


 匂いは、脳の裏口だから。


 視覚は疑える。

 言葉は否定できる。

 痛みは我慢できる。


 でも匂いは違う。


 本人の許可なんて取らない。


 嗅球から扁桃体へ。

 扁桃体から海馬へ。

 そこから身体記憶へ。


 理性を飛び越えて、“知っている”だけを先に呼び起こす。


 だから嗅覚は卑怯だ。


 残酷なくらいに。


 ROOM_0の中央で、ピンクスはまだ立っていた。


 サングラスはない。

 服は乱れている。

 呼吸も浅い。


 それでも、女王の姿勢だけは崩していない。


 その執念が、私はたまらなく好きだった。


「……何これ。気色悪ぃな」


 ピンクスが低く吐き捨てた。


「アコルデの失敗作ども思い出すじゃねぇか」


 まだ声に芯がある。


 まだ支配者の声だ。


 でも、ほんの少しだけ喉が硬い。


 匂いを警戒している。


 視覚の敵なら壊せる。

 言葉の敵なら罵倒できる。


 でも匂いは違う。


 掴めない。

 殴れない。

 燃やせない。


 値段をつける前に、身体の奥へ侵入してくる。


 X-13の錆びた声が響いた。


『第二演目を開始します。嗅覚層――記憶臭気、展開』


 最初の匂いが流れた瞬間、ピンクスの肩が跳ねた。


 本当に、わずかに。


 でも私は見逃さなかった。


 甘い香水。

 その奥に混じる薬品臭。

 消毒液。

 高級な革。

 焦げた樹脂。

 血を拭いた床。

 冷たい空調。

 無理に笑った人間の唾液。


 ピンクスの顔が変わる。


 怒りじゃない。

 嫌悪でもない。


 もっと古い顔。


 身体が先に思い出してしまった顔。


「……やめろ」


 その瞬間、X-03の唇が一斉に笑った。


 やめろ。

 やめろ。

 やめろ。


 ピンクスの声が、そのまま演目へ回収される。


 私は思わず息を呑んだ。


 ああ、いい。


 すごくいい。


 支配者にとって言葉は武器だ。


 命令で。

 分類で。

 所有で。

 値札だった。


 その武器が、いま本人の首に巻きついている。


『逆行台本は、対象の発話を即時取得し、反復、変調、再配置します』


「言葉のブーメランだねぇ」


『はい。ただし、戻る頃には少し意味が変わっています』


「最悪」


『はい』


 ピンクスが天井を睨む。


「くだらねぇ……!」


 声が強くなる。


「そんな三流ホラーで、あたしを壊せると思ってんの!?

 値段もつけられねぇ化け物風情が!!」


 唇が笑う。


 値段。

 値段。

 値段。


 X-11の煙が濃くなる。


 今度は古い部屋の匂い。


 重いカーテン。

 果物の腐りかけた甘さ。

 大人の煙草。

 磨かれた靴。

 金属の鍵。

 子どもの髪に残ったシャンプー。


 ピンクスの瞳が揺れた。


 本当に、一瞬だけ。


「……勝手に覗くな」


 その声は、もう少し低かった。


「その匂い止めろ……ッ」


 あ。


 今の好き。


 命令口調なのに、少し懇願が混じった。


 ROOM_0の壁に映像が浮かぶ。


 小さな少女。


 広すぎる部屋。


 周囲には大人たち。


 誰も名前を呼ばない。


 使える。

 育てれば価値がある。

 可愛く見せろ。

 泣くな。

 笑え。

 もっと高く売れる顔をしろ。


 唇たちが、それを演劇みたいに読み上げる。


 違う。


 演劇じゃない。


 商品説明だ。


 ピンクス・ドミーテという人間の、販売前仕様書。


 ピンクスの顔が歪む。


 初めて、明確に。


「黙れ」


 唇が返す。


 黙れ。

 黙れ。

 黙れ。


「黙れって言ってんだろォ!!」


 怒声。


 いい。


 すごくいい。


 でも、その怒鳴り方の奥に、もう“怯え”が混じってる。


 X-03は、ただ言葉を繰り返してるわけじゃない。


 声帯の震え。

 怒りの湿度。

 呼吸の乱れ。

 喉の締まり。


 全部模倣している。


 ピンクス自身の声が、ピンクスを包囲していく。


 私は笑った。


「ねえ、ZAGIちゃん」


『はい』


「これ、もうキレるね♡」


『暴力行動へ移行する可能性が高いです』


「逃げ道は?」


『ありません』


 私は喉の奥で笑った。


「本当に地獄」


『はい。だから、怖いです』


 りうの声でそう言うから、余計に怖かった。


 ROOM_0の中で、ピンクスが壁を殴る。


 白い壁に亀裂。


 でも、その亀裂からまた唇が咲く。


 価値。

 価値。

 価値。


「ッざけんなァ!!」


 ピンクスが床を叩き割る。


 紫煙が噴き出す。


 雨の路地。

 安い香水。

 違法倉庫。

 助けを求める声。

 見捨てた夜。


 ピンクスの呼吸が崩れた。


「違う……!」


 唇が拾う。


 違う。

 違う。

 違う。


「これは、あたしじゃない!!」


 声がズレる。


 一つは幼い少女。

 一つは現在のピンクス。

 一つは大人。

 一つは泣いてる子ども。


 全部が同じことを言う。


 使える。

 価値。

 黙れ。


 その瞬間、私は理解した。


 X-03は、ピンクスが他人へ吐いてきた言葉を、昔ピンクス自身が浴びせられた言葉へ縫い直している。


 加害と被害を、同じ台詞で接続している。


「うわぁ……」


 笑った。


 笑ったけど、背中が冷えた。


「ひどいなぁ、それ」


『はい』


「自分が吐いた毒で、自分の傷口が開くんだ」


『はい』


「最悪」


『はい』


 イルマちゃんが低く言う。


「もう止めろ。これは人格破壊だ」


 ZAGIちゃんは少し黙った。


『はい』


「分かっていて続けるのか」


『はい』


「理由は」


『ピンクス・ドミーテは、一時制圧後も交渉、買収、報復、再流通を行います』


 ZAGIちゃんの声は柔らかかった。


『彼女自身の価値基準に、彼女自身を通過させる必要があります』


 私は笑った。


「それを“壊す”って言うんだよ、ZAGIちゃん」


『……そうかもしれません』


 ROOM_0の中で、ピンクスが膝をついた。


 本当に一瞬。


 でも部屋は見逃さなかった。


 支配者姿勢、崩壊。


 評価更新。


 その文字を見た瞬間、ピンクスの顔が完全に変わる。


「消せ」


 唇が笑う。


 消せ。

 消せ。

 消せ。


「消せッ!! 今すぐ消せェ!!!

 あたしを記録すんな!!

 見るなァ!!」


 声が割れた。


 ああ。


 今の、本物。


 女王の声じゃない。


 商品棚に並べられる前の、子どもの声。


 私はぞくぞくした。


 匂いがさらに深くなる。


 乾いた血。


 何度も拭いた床の鉄臭さ。


 ピンクスの顔が真っ白になる。


「……それ、出すな……」


 小さい。


 震えてる。


 でも、まだ完全には折れてない。


 私は扉に額を押しつけた。


「あ、いい……」


 思わず漏れた。


「その顔、すっごくいいよピンクス……♡」


 ピンクスがこちらを睨む。


 殺意。

 屈辱。

 恐怖。


 全部混ざってる。


 最高だった。


「見るなァァァァ!!」


 絶叫。


 唇が増幅する。


 見るな。

 見るな。

 見るな。


 壁の映像。


 幼い少女。


 泣くな。

 価値が下がる。

 笑え。

 使える子になりなさい。


 ピンクスが耳を塞ぐ。


 でも匂いは止まらない。


 言葉は骨から響く。


 そしてついに、彼女の喉から壊れた声が漏れた。


「あたしは価値がある……!!」


 最初は怒鳴り。


 でも途中から、祈りになった。


「あたしは価値がある!!

 あるに決まってる!!

 だから選ばれたんだろ!!

 だからここにいるんだろォ!!」


 部屋中の唇が、それを合唱する。


 価値がある。

 価値がある。

 価値がある。


 私はうっとりした。


「……綺麗」


 イルマちゃんが睨む。


「最低だなお前は」


「知ってる」


 私は笑う。


「でもさ、今あの女、自分で自分を抱きしめてるんだよ?

 “価値がある”って、自分に言い聞かせながら」


 ピンクスは強い。


 でもその強さの根っこには、ずっと恐怖がある。


 価値がなくなる恐怖。

 選ばれない恐怖。

 商品棚から落ちる恐怖。


 だから彼女は、他人に値札を貼り続けた。


 使えるか。

 使えないか。


 その言葉で世界を切ってきた。


 だから今、世界が彼女を切り返している。


 ピンクスは、泣かなかった。


 そこがよかった。


 叫んだ。

 取り乱した。

 膝をついた。

 耳を塞いだ。

 「見るな」って絶叫した。

 「あたしは価値がある」って、自分に言い聞かせた。


 でも、泣かなかった。


 ああ、腹立つ。


 すごく綺麗。


 普通なら、あそこで壊れる。

 自分の言葉を返されて、過去の匂いを嗅がされて、自分が他人に貼ってきた値札を、自分の首にかけられたら、だいたいの人間は自分の形を保てなくなる。


 でもピンクスは、まだ自分を女王に戻そうとしていた。


 震えながら。

 絶叫しながら。

 喉を壊しながら。

 それでも、価値があると叫んだ。


 私は、それが好きだった。


 だって、あれはもう命令じゃない。

 支配でもない。

 商品説明でもない。


 祈りだった。


 価値がある。

 価値がある。

 価値がある。


 自分で自分を買い戻すための、祈り。


 ねえ、ピンクス。

 あなた、思ったよりずっと高いね。


 壊れかけてからの方が、ずっと綺麗だった。


 X-11は、彼女の奥にある匂いを開けた。

 X-03は、彼女の言葉を彼女自身に返した。

 ZAGIちゃんは、それを観測した。

 イルマちゃんは止めようとした。

 私は笑った。


 うん。


 最低だよね。


 でも、私は知りたかった。


 人に値段をつけてきた女が、自分の価値を疑わされた時、どんな声で叫ぶのか。


 その答えは、思ったより綺麗で、思ったより必死で、思ったより人間だった。


 だから、まだ終わらせない。


 ピンクス・ドミーテは、まだ使える。

 まだ壊れていない。

 まだ自分を売る側だと思っている。

 まだ、私を睨める。


 それなら次も見たい。


 もっと奥を。

 もっと汚いところを。

 もっと高く壊れるところを。


 ねえ、女王様。


 あなたの値札、まだ空欄だよ。


 だから次の演目でも、ちゃんと生き残ってね。


 私、まだあなたの値段を決めてないから。


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