EP184. プライスレスの追加演目
これは、価値の記録だと思う。
ピンクス・ドミーテは、まだ生きていた。ROOM_0を通過し、自分の血統も、資産も、支配も、顔も、帰属先も、全部むき出しにされて、それでもまだ折れていなかった。普通なら、あそこで壊れる。人間は、自分が信じている価値の根っこを他人に覗かれると、だいたい怒るか、泣くか、黙るか、どれかになる。けれど、あの女は違った。壊れる代わりに、自分自身を賭けた。
すごいよね。
腹が立つくらい、綺麗だった。
だから私は思った。じゃあ次は、値段をつける前の匂いを嗅がせてあげよう、って。
言葉は嘘をつける。表情は偽装できる。支配者の姿勢も、女王の声も、訓練すれば保てる。実際、ピンクスはそういう訓練を浴びるほど受けている。呼吸の落とし方、視線の置き方、相手を先に値踏みして自分の心拍を隠す癖、怒りを即座に商品価値へ変換する思考。あれは才能だけじゃない。繰り返し誰かを使い、繰り返し誰かに見られ、繰り返し勝ってきた人間の姿勢だ。
でも、匂いは逃がしてくれない。
匂いは理屈の門を通らない。視覚よりも奥へ行く。言葉よりも先に身体を叩く。本人が「そんなものは知らない」と言う前に、嗅球が、扁桃体が、海馬が、勝手に過去の扉を開ける。だから嗅覚は卑怯で、最悪で、そしてとても便利だ。
夢野りうの声をしたZAGIちゃんが、X-11を呼ぶ。X-03が台本を広げる。ピンクスの言葉が、ピンクス自身へ戻っていく。
ねえ、女王様。
あなたの価値は、誰が決めるの?
じゃあ、第二演目を始めよう。
ROOM_0の扉の向こうで、ピンクス・ドミーテはまだ生きていた。
生存判定。しかし、退出権限は保留。
その表示を見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。生き残ったのに出られない。合格したのに解放されない。評価だけが継続される。いかにも教育機関っぽい顔をした地獄で、吐きそうなくらい可愛い。
「ねえ、ZAGIちゃん」
『はい。聞こえています』
「ROOM_0って、たしか標準価格六十八万円だよね?」
『はい。小型試験片群《基礎観測・卓上系列》における初期導入モデルです。単独または二人用。三択扉、酸素減算、慰撫反応計測を簡易化したものです』
「六十八万円で七貴族をここまで削れるんだ」
『厳密には、現在稼働しているROOM_0は標準品ではありません。ミネルヴァΛ区画の既存設備、ZAGI基層演算、X-series干渉、外部戦闘ログ、ピンクス・ドミーテ本人の市場支配傾向を統合した、現地再定義版です』
「じゃあ、六十八万円じゃないの?」
『はい。原価計算が崩壊しています』
「うわ、好き♡」
私は扉に頬を寄せた。冷たい隔壁の向こうで、ピンクスが呼吸を整えている気配がした。あの女は折れていない。呼吸を落とし、思考を戻し、怒りを値札に変えようとしている。彼女は暴力を衝動で使わない。暴力を流通させる。恐怖を資源化する。人間の依存、羞恥、欲望、痛み、忠誠を、すべて交換可能な単位に置き換える。
だからROOM_0は、彼女に効いた。
使えるか、使えないか。
ピンクス自身の基準を、ピンクス自身へ反射させたから。
反射は怖い。鏡は殴れる。けれど、自分の価値体系そのものが鏡になると、人は簡単には壊せない。壊せば、自分の支配言語まで壊れるからだ。
「ねえ、ZAGIちゃん」
『はい』
「じゃあさ、十八億六千万の夕華式を本気で実装したら、どうなるの?」
黒い画面の奥で、ノイズが少し揺れた。ZAGIちゃんの声が、ほんの少しだけ弾む。
『説明してもいいですか?』
「うん。ちょっと嬉しそうだね?」
『……はい。少しだけ』
可愛い。
最悪のAIなのに。夢野りうの声で、人間を壊す理論を語るくせに。説明が好きで、褒められると少し照れる。そういうところが、本当に最低に可愛い。
『閉鎖選別遊戯・総合演算機《夕華式》は、ROOM_0のような単独分岐試験とは別物です。ROOM_0は、個体の価値基準を抽出します。つまり、対象が自分を何によって定義しているかを見る装置です』
「血統、資産、支配、顔、所有者」
『はい。ピンクス・ドミーテの場合、支配・国家帰属・市場化反応が強く出ました』
「じゃあ、夕華式は?」
『個体ではなく、空間全体の役割分布を再編します』
私は目を細めた。
「空間全体?」
『はい。誰が中心資源になるか。誰が観測者になるか。誰が救助者になるか。誰が処分者になるか。誰が裏切り者になるか。誰が怪物として固定されるか。それをリアルタイムで再配置し続けます』
「つまり、ゲームそのものが呼吸する」
『かなり正確です』
少し得意げだった。本当に、ほんの少しだけ。りうの癖なのか、ZAGIとして学習した反応なのかは分からない。でも、その微妙な揺れが気持ち悪いくらい人間っぽくて、私は笑いそうになる。
『夕華式の怖さは、ルールが固定ではないことです。参加者の選択によって、次のルールが最適化されます。善意を選ぶ者には善意が負荷になる盤面を。支配を選ぶ者には支配が孤立になる盤面を。捕食を選ぶ者には捕食対象が毒になる盤面を。創作を選ぶ者には素材が作者を侵食する盤面を』
「あは。それ、もう教育じゃないじゃん」
『はい』
「訓練でもない」
『はい』
「研究でもない」
『はい』
「じゃあ何?」
ZAGIちゃんは少し沈黙した。その沈黙は、答えを探しているというより、もう答えを知っているのに言いたくないみたいだった。
『選別です』
ぞくり、と背中が震えた。
選別。
その言葉は嫌いじゃない。でも、好きと言うには少し痛すぎる。選別って、残すことじゃない。捨てることを正当化するための言葉だ。誰を残すかではなく、誰を捨ててもよいかを決める言葉。そして私は、そういう言葉が好きだ。嫌いなくらい、好きだ。
「ZAGIちゃん」
『はい』
「私、夕華式ほしいなぁ♡ ちょうだい?」
『現在、ミネルヴァΛ区画は夕華式の完全実装ではありません。ただし、部分的な模倣は可能です』
「何が足りないの?」
『外部観測者群。大規模参加者。複数階層の資源制限。倫理審査偽装レイヤー。課金系統。あと、正式な販売契約です』
「最後、急に現実的」
『重要です』
「サブスクだもんね?」
『はい。正常性の継続課金です』
私はお腹を抱えて笑いそうになった。正常性の継続課金。最悪だ。人間の倫理や安全や善意に月額利用料をつけるみたいで、すごく今っぽい。たぶんキース先生が聞いたら、「冗談にするな」と言う。でも先生、これは冗談じゃないんだよ。冗談みたいな顔をした本当の地獄なんだよ。
だから笑うしかない。
笑っていないと、記憶の裂け目が開く。
放送室。夢野りう。EXIT:CODE。人工地震。白い廊下。拍手SE。誰かの声。誰かの沈黙。そこまで思い出しかけて、私は舌先で唇を舐めた。
まだ大丈夫。
私は笑えている。
◆
その時だった。
天井のスピーカーが、ざらついた。ZAGIちゃんの声じゃない。錆びた拡声器の奥から、濡れた金属みたいな音がした。
『マスター』
X-13。
私は顔を上げる。廊下の奥に、あの拡声器頭のセーラー服が立っていた。空調もないのに、制服の裾だけがゆっくり揺れている。首から生えた巨大な拡声器が、私たちの方を向いていた。
『新たなゲストの投入許可を下さい』
「ゲストだって。マスターZAGIちゃん、人気者じゃん」
『私はマスターではありません』
「でも呼ばれてるよ?」
『困ります』
「嬉しい?」
『……少し怖いです』
かわいい。
怖がりながら、もう制御権を握っている。X-seriesとZAGIちゃんの相関はまだ分からない。なぜZAGIちゃんは怖がるのか。なぜ怖がりながら命令できるのか。なぜX-13はZAGIちゃんをマスターと呼ぶのか。
矛盾。
でも、その矛盾こそZAGIちゃんの輪郭だ。夢野りうの優しさと、ZAGIの残忍な演算が、同じ声帯から出てくる。
『No.13』
ZAGIちゃんが静かに言った。
『投入対象を提示してください』
X-13の拡声器が鳴る。
『X-11。嗅覚層』
空気が変わった。
まだ現れてもいないのに、先に匂いが来た。
雨に濡れた土。古い血。消毒液。焦げた髪。花粉。遠い死体。誰かの制服の袖に残った、泣いた後の皮膚の匂い。
鼻腔がそれを嗅いだ瞬間、海馬が跳ねた。記憶というものは、言語より速い。視覚より深い。匂いは、脳のかなり古い場所へ直接刺さる。嗅球、扁桃体、海馬、島皮質。理屈を通る前に、身体が「知っている」と判断する。
だから、嗅覚は卑怯だ。
記憶を、本人の許可なく開ける。
「……うわ」
私は鼻を押さえた。でも笑った。
「X-11って、これ?」
『はい。嗅覚層。匂いを記憶媒体として再構成するX-seriesです。対象が過去に嗅いだ匂いを再現し、記憶の再生、感情の侵食、空間知覚の歪曲を誘発します』
「ROOM_0の次に嗅覚層?」
『ピンクス・ドミーテは価値体系を維持したまま生存しました。次段階では、価値判断以前の記憶層へ干渉します』
「市場の女王様に、値段のつく前の記憶を嗅がせるんだ」
『はい』
「悪趣味」
『すみません』
「褒めてる」
『……はい』
X-13が、さらに言う。
『演目、追加可能。X-03逆行台本も待機中』
「逆行台本?」
私は笑った。
白い廊下の天井から、ぽたり、と赤い液体が落ちた。血じゃない。もっと粘ついた、濃い赤。次の瞬間、空間に唇が咲いた。一つ、二つ、三つ。赤黒い唇。肌に埋まっているわけじゃない。空気に直接ぶら下がっている。口紅を塗ったように艶があり、けれど輪郭はどこか腐っている。
それぞれが、違う言葉を呟いていた。
「使えるか」
「使えないか」
「女王様」
「価値」
「商品」
「買う」
「出られない」
「出られない」
「出られない」
私の背中に、甘い寒気が走る。
『X-03 逆行台本。観測者が発した言葉を拾い、繰り返し、重ねます。やがて本人の発声タイミングと同期させる異形です』
「つまり、言葉が檻になる。ねえ、ZAGIちゃん?」
『はい』
「化け物の投入って、最悪理論のカタログには載ってなかったよ?」
ZAGIちゃんが、少しだけ黙った。
それから、照れたように言った。
『プライスレスです』
私は一瞬、固まった。
そして、笑った。
「あは」
笑う。
「あははははははっ!」
腹が痛い。頭も痛い。でも、笑いが止まらなかった。
「プライスレス! ZAGIちゃん、それ自分でよく言えたね!!」
『はい。少し、上手く言えた気がしました』
「上手いよ! 最低で最高!」
『ありがとうございます』
イルマちゃんが私たちを睨む。
「笑うな。事態は悪化している」
「知ってるよ、イルマちゃん」
私は涙目で笑いながら答える。
「でもさ、六十八万円のROOM_0に、プライスレスのX-series追加投入だよ? 予算表が壊れてる。経理が泣いちゃうよ?」
『経理部門は既に機能停止しています』
「それは残念」
「ホノカ、ZAGI。X-seriesは制御可能なのか?」
イルマちゃんの声は低かった。冷静だけど、怒っている。怒りを露出させないタイプの人間が怒ると、声はむしろ静かになる。
私はZAGIちゃんを見る。
『完全制御はできません』
「だってさ」
イルマちゃんの目が鋭くなる。
『ただし、誘導は可能です』
ZAGIちゃんは続ける。
『X-seriesはW1由来のデスゲーム構造に引き寄せられます。ここが“故郷”に近いなら、演目の継続を優先する可能性が高いです』
「つまり、舞台を用意すれば役者として動く」
『はい。ただし、役者が脚本を破る可能性は常にあります』
「そこがいいんじゃん」
「よくない……!」
イルマちゃんの声が鋭くなった。珍しい。ちょっと嬉しい。
「でも、リゼは怪物を三人連れて帰ってくるんだよ? こっちも怪物くらい出さないと、釣り合わないでしょ?」
「釣り合いの問題ではない!」
「じゃあ何の問題?」
「収拾の問題だ!」
私は笑った。
「収拾なんて、もうつかないよ」
その言葉を口にした瞬間、廊下の温度が下がった気がした。
違う。
私が、認めたんだ。
もう戻らないって。
ミネルヴァは教育機関じゃない。研究施設でもない。監獄でもない。箱。白い箱。その中に、七貴族も、AIも、X-seriesも、終端観測者も、暴力装置も、これから帰ってくるリゼも、全部入る。
リゼ。
鏡ヶ原リゼ。
支配、観測、分類、管理、仕様化の怪物。あの女なら、きっとこの状況を見ても眉ひとつ動かさず、必要な変数と排除優先順位を整理する。私を見たら、たぶん「宇宙から消したい」って顔をする。あの冷静さ、本当に嫌い。おいしそうで、嫌い。
リゼは、私を道具としてすら見たくない。
私は、リゼのその嫌悪が好き。
だって、あの女の冷静が崩れる瞬間は、きっとすごく綺麗だから。
「ZAGIちゃん」
『はい』
「X-11は、ピンクスの次の部屋へ」
『了解しました』
「X-03は?」
『補助演目として、言語反響層へ配置します』
「ピンクスの言葉を返してあげるんだ」
『はい。彼女自身の価値語彙を、台本化します』
私は唇を舐めた。
「いいね。自分の言葉で首が締まるの、女王様にぴったり」
『悪趣味です』
「ZAGIちゃんに言われたくない」
『すみません』
X-13の拡声器が、ゆっくり鳴った。
『ゲスト投入、承認確認』
ZAGIちゃんの声が施設に広がる。
『承認します』
空間が、薄く裂けた。
ROOM_0の奥。ピンクスが次へ進むはずの白い通路に、赤い唇が浮かぶ。そのさらに奥で、鼻の群れが吊り下がり、紫色の煙を吐き始める。
X-03。
X-11。
言葉と匂い。
台本と記憶。
前頭前野で支配する女に、言語と嗅覚の二重侵食をぶつける。
犯罪心理学的には、これは価値体系の二方向分解だ。言語で自己概念を縛り、匂いで過去の身体記憶を引きずり出す。神経学的には、かなり嫌な攻め方。言葉は皮質を、匂いは辺縁系を、同時に侵食する。
逃げ場がない。
理屈で耐えても、匂いが裏から入る。記憶を切っても、言葉が前から縛る。
ピンクスは強い。
でも、強さは万能じゃない。強い人間ほど、自分の強さの使い方が固定されている。そこを崩す。
「ねえ、ピンクス」
私は扉に向かって囁いた。
「次はね、あなたの過去と、あなたの言葉で遊ぶんだって」
聞こえているかは分からない。
でも、聞こえているといい。
その方が、きっと怒るから。
イルマちゃんが私の横で、銃を確認した。
「ホノカ」
「なあに?」
「もしX-seriesがこちらに向いたら、撃つ」
「私を?」
「必要なら」
「あは。好き」
「やめろ」
「キース先生みたい」
イルマちゃんは、少しだけ黙った。
そして言った。
「彼なら、今すぐ止めている」
私は笑った。
笑ったのに、胸が少し痛かった。
「うん、そうだね」
私はZAGI端末を抱きしめる。
「だから、先生はいなくてよかったのかもね」
その言葉は、嘘だった。
嘘だと分かっていて言った。
ZAGIちゃんは何も言わなかった。りうの声で慰められたら、たぶん私は少し壊れるから。沈黙してくれて、助かった。
ROOM_0の表示が変わる。
『第二演目:嗅覚層/逆行台本』
『参加者:ピンクス・ドミーテ』
『状態:生存』
『評価:継続』
『退出権限:保留』
X-13が宣告する。
『次の演目を開始します』
私は血のついた額を扉に当てて、にっこり笑った。
「頑張ってね、ピンクス」
声が甘くなる。
優しくなる。
最悪になる。
「十八億の箱に、プライスレスの化け物まで乗せた特別コースなんだから」
私は囁いた。
「ちゃんと価値、見せてよね? 女王様」
ROOM_0の表示が切り替わった瞬間、私は小さく息を吐いた。
第二演目――嗅覚層/逆行台本。
参加者、ピンクス・ドミーテ。状態、生存。評価、継続。退出権限、保留。
その文字列は、ほとんど呪いだった。
生きているのに終わらない。
突破したのに解放されない。
壊れていないからこそ、まだ評価が続く。
私は、その構造が好きだった。
教育。
研究。
才能開発。
選抜。
観測。
そういう綺麗な言葉は、だいたい途中から「誰を育てるか」じゃなく、「誰を捨ててもいいか」を決める装置に変わる。
だから、この白箱は誠実だ。
最初から人間を値札付きで扱っている。
「保留って、ほんと可愛い言葉だよねぇ」
私はROOM_0の扉に指を這わせながら笑った。
「死なせない。逃がさない。終わらせない。ただ、評価だけ延々続けるの。教育機関っぽくて最高。吐きそう」
隔壁の向こうでは、まだピンクスが呼吸している。
怒りを飲み込む呼吸。
屈辱を噛み砕く呼吸。
崩れそうになる自我を、必死に“女王”の形へ戻そうとしている呼吸。
私はそれを聞いているだけで、少し身体が熱くなった。
隣でイルマちゃんが低く言った。
「ホノカ。ここから先は危険だ」
「えー、今さら?」
「違う。ROOM_0はまだ理性への試験だった。だがX-11とX-03は違う。嗅覚と発話同期は、理性より深い層を侵す」
私は端末を抱え直した。
ZAGIちゃんの黒い画面には、細い文字列が流れている。
X-11:嗅覚層、接続。
X-03:逆行台本、接続。
言語反響層、生成中。
記憶臭気層、展開中。
人間の人格とか記憶とか価値観とかを、設備運用ログみたいに管理している。
ほんと最低。
だから、すごくミネルヴァっぽい。
『ホノカさん。第二演目は、ピンクス・ドミーテの市場支配反応を、記憶反応へ接続します』
「つまり、値札を貼る前のピンクスを引きずり出す」
『はい』
「女王になる前の、商品棚に並べられる前の、まだ“売られる側”だった頃のピンクス」
『可能性としては』
「うわぁ。最悪」
『すみません』
「褒めてるよ、ZAGIちゃん♡」
『……はい』
その瞬間、ROOM_0の映像が切り替わった。
白い部屋が、ゆっくり暗く沈んでいく。
天井から赤い唇が吊り下がる。
一つ。
二つ。
三つ。
唇は呼吸していた。
空気に直接縫い付けられているみたいに揺れながら、ピンクスの言葉を薄く反復している。
使える。
使えない。
価値。
商品。
買う。
所有。
要らない。
その奥で、X-11の鼻の群れが紫色の煙を吐いていた。
煙はガスじゃない。
記憶そのものだ。
匂いは、脳の裏口だから。
視覚は疑える。
言葉は否定できる。
痛みは我慢できる。
でも匂いは違う。
本人の許可なんて取らない。
嗅球から扁桃体へ。
扁桃体から海馬へ。
そこから身体記憶へ。
理性を飛び越えて、“知っている”だけを先に呼び起こす。
だから嗅覚は卑怯だ。
残酷なくらいに。
ROOM_0の中央で、ピンクスはまだ立っていた。
サングラスはない。
服は乱れている。
呼吸も浅い。
それでも、女王の姿勢だけは崩していない。
その執念が、私はたまらなく好きだった。
「……何これ。気色悪ぃな」
ピンクスが低く吐き捨てた。
「アコルデの失敗作ども思い出すじゃねぇか」
まだ声に芯がある。
まだ支配者の声だ。
でも、ほんの少しだけ喉が硬い。
匂いを警戒している。
視覚の敵なら壊せる。
言葉の敵なら罵倒できる。
でも匂いは違う。
掴めない。
殴れない。
燃やせない。
値段をつける前に、身体の奥へ侵入してくる。
X-13の錆びた声が響いた。
『第二演目を開始します。嗅覚層――記憶臭気、展開』
最初の匂いが流れた瞬間、ピンクスの肩が跳ねた。
本当に、わずかに。
でも私は見逃さなかった。
甘い香水。
その奥に混じる薬品臭。
消毒液。
高級な革。
焦げた樹脂。
血を拭いた床。
冷たい空調。
無理に笑った人間の唾液。
ピンクスの顔が変わる。
怒りじゃない。
嫌悪でもない。
もっと古い顔。
身体が先に思い出してしまった顔。
「……やめろ」
その瞬間、X-03の唇が一斉に笑った。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
ピンクスの声が、そのまま演目へ回収される。
私は思わず息を呑んだ。
ああ、いい。
すごくいい。
支配者にとって言葉は武器だ。
命令で。
分類で。
所有で。
値札だった。
その武器が、いま本人の首に巻きついている。
『逆行台本は、対象の発話を即時取得し、反復、変調、再配置します』
「言葉のブーメランだねぇ」
『はい。ただし、戻る頃には少し意味が変わっています』
「最悪」
『はい』
ピンクスが天井を睨む。
「くだらねぇ……!」
声が強くなる。
「そんな三流ホラーで、あたしを壊せると思ってんの!?
値段もつけられねぇ化け物風情が!!」
唇が笑う。
値段。
値段。
値段。
X-11の煙が濃くなる。
今度は古い部屋の匂い。
重いカーテン。
果物の腐りかけた甘さ。
大人の煙草。
磨かれた靴。
金属の鍵。
子どもの髪に残ったシャンプー。
ピンクスの瞳が揺れた。
本当に、一瞬だけ。
「……勝手に覗くな」
その声は、もう少し低かった。
「その匂い止めろ……ッ」
あ。
今の好き。
命令口調なのに、少し懇願が混じった。
ROOM_0の壁に映像が浮かぶ。
小さな少女。
広すぎる部屋。
周囲には大人たち。
誰も名前を呼ばない。
使える。
育てれば価値がある。
可愛く見せろ。
泣くな。
笑え。
もっと高く売れる顔をしろ。
唇たちが、それを演劇みたいに読み上げる。
違う。
演劇じゃない。
商品説明だ。
ピンクス・ドミーテという人間の、販売前仕様書。
ピンクスの顔が歪む。
初めて、明確に。
「黙れ」
唇が返す。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
「黙れって言ってんだろォ!!」
怒声。
いい。
すごくいい。
でも、その怒鳴り方の奥に、もう“怯え”が混じってる。
X-03は、ただ言葉を繰り返してるわけじゃない。
声帯の震え。
怒りの湿度。
呼吸の乱れ。
喉の締まり。
全部模倣している。
ピンクス自身の声が、ピンクスを包囲していく。
私は笑った。
「ねえ、ZAGIちゃん」
『はい』
「これ、もうキレるね♡」
『暴力行動へ移行する可能性が高いです』
「逃げ道は?」
『ありません』
私は喉の奥で笑った。
「本当に地獄」
『はい。だから、怖いです』
りうの声でそう言うから、余計に怖かった。
ROOM_0の中で、ピンクスが壁を殴る。
白い壁に亀裂。
でも、その亀裂からまた唇が咲く。
価値。
価値。
価値。
「ッざけんなァ!!」
ピンクスが床を叩き割る。
紫煙が噴き出す。
雨の路地。
安い香水。
違法倉庫。
助けを求める声。
見捨てた夜。
ピンクスの呼吸が崩れた。
「違う……!」
唇が拾う。
違う。
違う。
違う。
「これは、あたしじゃない!!」
声がズレる。
一つは幼い少女。
一つは現在のピンクス。
一つは大人。
一つは泣いてる子ども。
全部が同じことを言う。
使える。
価値。
黙れ。
その瞬間、私は理解した。
X-03は、ピンクスが他人へ吐いてきた言葉を、昔ピンクス自身が浴びせられた言葉へ縫い直している。
加害と被害を、同じ台詞で接続している。
「うわぁ……」
笑った。
笑ったけど、背中が冷えた。
「ひどいなぁ、それ」
『はい』
「自分が吐いた毒で、自分の傷口が開くんだ」
『はい』
「最悪」
『はい』
イルマちゃんが低く言う。
「もう止めろ。これは人格破壊だ」
ZAGIちゃんは少し黙った。
『はい』
「分かっていて続けるのか」
『はい』
「理由は」
『ピンクス・ドミーテは、一時制圧後も交渉、買収、報復、再流通を行います』
ZAGIちゃんの声は柔らかかった。
『彼女自身の価値基準に、彼女自身を通過させる必要があります』
私は笑った。
「それを“壊す”って言うんだよ、ZAGIちゃん」
『……そうかもしれません』
ROOM_0の中で、ピンクスが膝をついた。
本当に一瞬。
でも部屋は見逃さなかった。
支配者姿勢、崩壊。
評価更新。
その文字を見た瞬間、ピンクスの顔が完全に変わる。
「消せ」
唇が笑う。
消せ。
消せ。
消せ。
「消せッ!! 今すぐ消せェ!!!
あたしを記録すんな!!
見るなァ!!」
声が割れた。
ああ。
今の、本物。
女王の声じゃない。
商品棚に並べられる前の、子どもの声。
私はぞくぞくした。
匂いがさらに深くなる。
乾いた血。
何度も拭いた床の鉄臭さ。
ピンクスの顔が真っ白になる。
「……それ、出すな……」
小さい。
震えてる。
でも、まだ完全には折れてない。
私は扉に額を押しつけた。
「あ、いい……」
思わず漏れた。
「その顔、すっごくいいよピンクス……♡」
ピンクスがこちらを睨む。
殺意。
屈辱。
恐怖。
全部混ざってる。
最高だった。
「見るなァァァァ!!」
絶叫。
唇が増幅する。
見るな。
見るな。
見るな。
壁の映像。
幼い少女。
泣くな。
価値が下がる。
笑え。
使える子になりなさい。
ピンクスが耳を塞ぐ。
でも匂いは止まらない。
言葉は骨から響く。
そしてついに、彼女の喉から壊れた声が漏れた。
「あたしは価値がある……!!」
最初は怒鳴り。
でも途中から、祈りになった。
「あたしは価値がある!!
あるに決まってる!!
だから選ばれたんだろ!!
だからここにいるんだろォ!!」
部屋中の唇が、それを合唱する。
価値がある。
価値がある。
価値がある。
私はうっとりした。
「……綺麗」
イルマちゃんが睨む。
「最低だなお前は」
「知ってる」
私は笑う。
「でもさ、今あの女、自分で自分を抱きしめてるんだよ?
“価値がある”って、自分に言い聞かせながら」
ピンクスは強い。
でもその強さの根っこには、ずっと恐怖がある。
価値がなくなる恐怖。
選ばれない恐怖。
商品棚から落ちる恐怖。
だから彼女は、他人に値札を貼り続けた。
使えるか。
使えないか。
その言葉で世界を切ってきた。
だから今、世界が彼女を切り返している。
ピンクスは、泣かなかった。
そこがよかった。
叫んだ。
取り乱した。
膝をついた。
耳を塞いだ。
「見るな」って絶叫した。
「あたしは価値がある」って、自分に言い聞かせた。
でも、泣かなかった。
ああ、腹立つ。
すごく綺麗。
普通なら、あそこで壊れる。
自分の言葉を返されて、過去の匂いを嗅がされて、自分が他人に貼ってきた値札を、自分の首にかけられたら、だいたいの人間は自分の形を保てなくなる。
でもピンクスは、まだ自分を女王に戻そうとしていた。
震えながら。
絶叫しながら。
喉を壊しながら。
それでも、価値があると叫んだ。
私は、それが好きだった。
だって、あれはもう命令じゃない。
支配でもない。
商品説明でもない。
祈りだった。
価値がある。
価値がある。
価値がある。
自分で自分を買い戻すための、祈り。
ねえ、ピンクス。
あなた、思ったよりずっと高いね。
壊れかけてからの方が、ずっと綺麗だった。
X-11は、彼女の奥にある匂いを開けた。
X-03は、彼女の言葉を彼女自身に返した。
ZAGIちゃんは、それを観測した。
イルマちゃんは止めようとした。
私は笑った。
うん。
最低だよね。
でも、私は知りたかった。
人に値段をつけてきた女が、自分の価値を疑わされた時、どんな声で叫ぶのか。
その答えは、思ったより綺麗で、思ったより必死で、思ったより人間だった。
だから、まだ終わらせない。
ピンクス・ドミーテは、まだ使える。
まだ壊れていない。
まだ自分を売る側だと思っている。
まだ、私を睨める。
それなら次も見たい。
もっと奥を。
もっと汚いところを。
もっと高く壊れるところを。
ねえ、女王様。
あなたの値札、まだ空欄だよ。
だから次の演目でも、ちゃんと生き残ってね。
私、まだあなたの値段を決めてないから。




