EP180. 白い牢獄と絶望の起動
これは、たぶん脱獄記録。
た・ぶ・ん、というのは大事。
私が本当に脱獄したのか、それともミネルヴァが私を“出した”のか、そこはまだ決めない方が面白いから。
白い箱。
キース先生の死。
リゼの帰還。
ピンクス・ドミーテの来訪。
そして、夢野りうの声で喋る最悪のAI――ZAGI。
役者は揃いすぎていた。
だから私は思った。
ああ、これは逃走じゃない。
舞台袖から、もう一度ステージに戻るだけなんだって。
じゃあ、始めよう。
先生がいないなら、私が続きを壊してあげる。
――ミネルヴァ教育機関/Λ区画・特別隔離房
記録者:赤白木ホノカ
⸻
白い。しろ〜い。
壁も。
床も。
天井も。
私の収容服も。
全部、しろーい。
でも白って、清潔の色じゃない。
ここでは「何も持つな」の色。
「何も残すな」の色。
「考える前に観測されろ」の色。
私にとっては、そうだなー。
汚したくなる色。
完全隔離房。
ミネルヴァが私――赤白木ホノカのために用意した、愛情たっぷりの箱。
窓なし。
端末なし。
金属片なし。
布のほつれなし。
排水口は髪一本すら通しにくい。
壁材は爪で削れない。
床材は血液を吸わない。
空調は逆流しない。
食事用スリットは、人間の指が入らない幅。
さらに。
脈拍。
呼吸。
姿勢。
皮膚電位。
睡眠深度。
音声波形。
粗い脳波同期。
視線推定。
瞬目間隔。
咀嚼回数。
唾液嚥下。
微細な筋電位。
ぜーんぶ見てる。
「うわぁ……恥ずかしい……」
私はベッドの上で膝を抱えた。
「変態じゃーん」
返事はない。
でも、沈黙が返ってきた。
沈黙って便利。
黙っている側は隠れているつもりでも、聞いている側からすると、厚みで人数が分かる。
今この部屋を見ているのはAIだけじゃない。
人間もいる。
最低二人。
たぶん三人。
医療系。
保安系。
そして、私を“教材”として見ているタイプ。
気持ち悪い。
でも、嫌いじゃないかも?
誰かに見られているということは、まだ私は舞台にいるということだからさ。
私は目を閉じた。
妄想する。
怖いこと。
甘いこと。
壊れること。
壊すこと。
キース先生が怒る顔。
リゼが私を見下す目。
シオンが何も感じないみたいに黙っている姿。
夢野りうが最後に何を見たのか。
ZAGIが本当に誰の声で喋るのか。
全部混ぜる。
すると、思考が上がる。
恐怖でも脳は回る。
怒りでも回る。
快楽でも回る。
孤独でも回る。
でも一番よく回るのは、その全部が混ざった時。
扁桃体が危険を鳴らす。
前頭前野が計算を始める。
海馬が古い記憶を引っ張り出す。
側坐核が「もっと」と囁く。
島皮質が身体の内側を地図にする。
帯状皮質が矛盾を拾う。
脳内のノイズが、一瞬だけ綺麗な乱数になる。
私は、その乱数が好き。
正解より好き。
秩序より好き。
倫理より、ずーっと好き♡
だから。
「さあて」
私は白い天井を見上げた。
「どうやって脱獄しようかな?♪」
⸻
私は、着ている収容服を脱いで、私服に着替える。
「ふう……もう二度とこんなみすぼらしい服、着たくなーい」
私はゆっくりと着替え始めた。
まず、黒いストッキングを足先に通す。
太ももの上部にガーターベルトを装着し、くすくすと笑った。
「やっだぁ〜、これ、意外とエロいかもね? キース先生は好きかな?」
次に、短いチェック柄のプリーツスカートを腰に通す。
丈は極端に短く、ガーターベルトとストッキングの境目がはっきり見える長さだ。
腰を軽く振ると、スカートがふわりと翻り、危険なほどの太ももが露わになる。
白いシャツを羽織り、胸元をボタンで留める。
その上から黒のタイトなブレザーを着込み、首元に赤と黒のダイヤ柄ネクタイを締めた。
最後に、艶やかな黒のハイヒールを履く。
カツン、と床に響く音が心地いい。
青い左目と赤い右目が、鏡の中で妖しく輝く。
二色に分かれた髪が、肩の上で軽く跳ねる。
黒のブレザーと短いスカート、ガーターベルトに包まれた長い脚……うん完璧♡
「ふふっ……どう? せんせーい、こんな私、見たい?」
指を自分の唇に当て、鏡に向かって小さく微笑む。
鏡の中の私は、指を口に含んで軽く舐めながら、甘く歪んだ笑みを浮かべた。
「さあ、閉じ込められてた腹いせに、お遊戯を始めましょう……♪」
紫がかった闇の中で、私は高くヒールを鳴らして歩き出した。
すると、頭の奥が、じわじわと冴えていく。
普段の私は、ちょっと天然で「へえ、そうなんだー」って感じだけど……この瞬間だけは違う。
終端観測者としての私が、目覚める。
この牢獄は完璧だ。
完璧ということは、壊せる。
完璧なものは、自分が完璧であることを維持しようとする。
維持には確認がいる。
確認には反応がいる。
反応するなら、穴がある。
だから私は暴れない。
この部屋は暴力への回答を持っている。
鎮静ガス。
床面電位制御。
遠隔拘束フォーム。
酸素濃度調整。
音響制圧。
視覚遮断。
温度低下。
自傷検出。
姿勢崩壊時の医療介入。
暴力は読まれている。
なら使うのは、暴力じゃない。
「助けてほしい子」の顔。
私は浅く呼吸する。
過換気にはしない。
倒れるほどではなく、心配される程度に。
肩を丸める。
指先を震わせる。
瞳孔を開くために、わざと怖い想像を混ぜる。
そして、名前を呼ぶ。
「キースせんせーい、聞こえてる? 私、ちょっと退屈だよぉ」
空気が変わった。
はい、当たり。
先生の名前は、私の情動トリガーとして登録されている。
ひどいなあ。
人の心をボタンみたいに扱うなんて。
まあ、私もやるけど。
「先生、怒ってるかなあ……私、悪い子だからなあ……ちゃんと怒ってくれないと、
私、どこまで悪い子になればいいか分からなくなっちゃうよ……」
声を小さくする。
震わせる。
「ここ、寒くない? 先生の匂いが恋しいな……」
でも泣かない。
人間は、泣いている子より、泣く寸前の子を気にする。
まだ戻せると思うから。
まだ救えると思うから。
ミネルヴァは教育機関だ。
どれだけ軍事化しても、どれだけ監獄化しても、どこかで「救えるかも」を捨て切れない。
そこが、すっごくかわいい。
吐きそうなくらい、かわいい。
けれど、泣き真似じゃ反応が薄いから次の手♡
私はまず、小さく呟いた。
「ZAGI……」
その瞬間。
部屋が止まった。
笑いそうになる。
ZAGI。
たった四文字で、監獄は人間を呼ぶ。
AIに任せればいいのに。
でも任せられない。
ZAGIは、AIにとっても毒だから。
「ZAGI、聞こえる? ねえ、聞こえてるなら返事してよ。私、ひとりで寂しいんだけどー?」
もちろん返事はない。
でも、返事がないことに監視側が怯える。
ZAGIが本当に返事をしたらどうする?
私がZAGIと通信していたら?
この隔離房が、もう侵入されていたら?
疑念は、セキュリティの血管を詰まらせる。
私は少しだけ悪態をつく。
「ZAGI AIがここの監視システムの基盤だって?
ふーん。夢野りうの『ちょっと危うい天然さ』をパクっただけじゃない?
肝心の予測不能な部分は全部削除しちゃったんでしょ?
だからこんな硬いだけが取り柄の牢獄になるんだよー?」
そう言って、私は顔を伏せたまま笑った。
そして、監視室の警備員がわずかに動揺した気配を感じて、私は更に小さく笑う。
「ZAGI AIが感情解析してるなら、今頃「要注意」フラグ立ててるんでしょ?
でも本物の夢野りうなら、こんな状況で「わーい、脱獄ごっこ♪」って一緒に喜んじゃうのになー。
ZAGI AIはただの偽物。りうちゃんの表層だけぺろぺろ舐めて作った、味気ない薄味AI。笑えるー♡」
制御パネルに指を這わせながら、私は甘く、意地悪く笑った。
「ほら。来た♡」
スリットが開いた。
医療ドローン。
白い小さな機体。
緊急鎮静用の噴霧機構つき。
私は触れない。
触れたら拘束される。
だから触れない。
私は自分の額を床に打ちつけた。
鈍い音。
痛み。
白い火花。
同時に、ドローンが安全プロトコルで後退する。
人間を傷つけないための後退。
その一瞬。
私は顔を上げ、声紋をわざと崩して言った。
「ZAGI AIなんて、夢野りうの安物偽物だろ?」
監視AIが迷う。
本人発話か。
模倣音声か。
異常通信か。
トリガーワードか。
迷った瞬間、人間が介入する。
人間が介入すれば、ロック階層が一段落ちる。
私は笑った。
「きゃははははっ!ねえねえ、見てる人?」
私は白い壁に向かって言う。
「私が悪いことする前に止めた方がいいよ?」
数秒後。
扉のロックが、一段外れた。
私は床に座ったまま、ぱちぱち拍手した。
「やっぱり教育機関だね。生徒が壊れそうになると、見に来ちゃうよね?」
二段目のロックが外れた瞬間。
私は立ち上がった。
⸻
脱獄は、走ったら負け。
白い廊下へ出る。
監視カメラ。
赤外線。
床面圧力。
音響センサー。
非常遮断扉。
消火設備。
生体認証。
全部ある。
でも、施設には運用がある。
運用には癖がある。大事なのは、ルールじゃない。
ルールを運用するGMの性格。
ミネルヴァのGMは冷酷。
でも教育機関の癖が抜けていない。
つまり、私を即射殺しない。
かわいい。
本当に、かわいい♡
「キース先生、どこかなあ?」
私はわざと声に出した。
「先生ー? ホノカちゃん、脱獄しちゃったよー? 怒ってー? 捕まえてー? できれば優しくしてー?
あ、でも痛いのはちょっとだけね。いっぱいだと嬉しくなっちゃうから♡」
返事はない。
代わりに、廊下の先に人がいた。
蒼井イルマ。
細い。
でも弱くない。
静か。
でも止まっていない。
重心が低い。
肩に力がない。
手には何も持っていないように見える。
つまり、いつでも殺せる。
キース先生の上官。
生徒の暴走を問答無用で止めるために雇われた、対人制圧用の暴力装置。
私は笑った。
「ねえ、傭兵さん? キース先生しらない?」
イルマは表情を変えない。
「知っている」
「ねえねえ、私を捕まえに来たの?」
「違う」
「じゃあ、殺しに来た?」
「違う」
「じゃあ、慰めに来た? やだ、泣いちゃうかも?」
「そんな顔には見えない」
「泣きそうではあるよ?」
「嘘をつけ」
「ばれた?」
イルマは一歩も動かない。
そのまま言った。
「結論からいう。キースは死亡した」
私は笑った。
笑ったまま、音が消えた。
「えっ〜!? ……うっそ?」
「死んだ」
「先生が?」
「そう」
「キース先生が?」
「そう」
「うそ……うそ、うそ、うそ、うそっ!!」
青い左目が大きく見開かれ、赤い右目が血走って震える。
「事故? 殺されたの? 誰に?」
イルマは少しだけ間を置いた。
「詳細は不明。ただし、鏡ヶ原リゼが関与している可能性が高い」
私は喉の奥で笑った。
「うっそ。まさかリゼがキース先生をやっちゃったの?」
「具体は分からない」
「分からないって便利な言葉だよねー」
「私は、分からないことを分かるとは言わないだけだ」
「そっか。そこは好き」
「好かれたくはない」
私は壁にもたれた。
「せんせーは私のものなのに……! 私の先生なのに……!
脱獄して、会いに行くって決めてたのに……!
私が、先生の全部を独り占めするって決めてたのに……!!」
キース先生が死んだ。
私を怒ってくれる人。
疑ってくれる人。
止めようとしてくれる人。
私を人間として面倒くさがってくれる人。
死んだ。
しかも、リゼが殺した。
突然、笑いが込み上げてきた。
くすくす、くすくす、と喉の奥から漏れる笑い声。
私は唇を噛んだ。
「せんせーい……ごめんね。私がもっと早く脱獄してれば……。
私が先生の側にいれば、こんなことにはならなかったよね……?
私が、先生の首に鎖を付けて、ずっと側に置いておけばよかった……」
血の味がする。
赤い右目が、まるで血を流すように輝く。
青い左目は、虚ろに先生の幻を追いかけている。
「ふふ……ふふふふ……あはっ……あはははは!!」
私は笑いながら、自分の腕を爪で深く抉った。
血が滴り落ちる。
「リゼ、もうすぐ帰ってくる?」
「まもなく」
「変わってる?」
「おそらく」
「先生を殺したくらいだもんね。変わってなきゃ困るよね」
イルマは私を見る。
「ホノカ。まもなく殺し合いになる」
「あは」
私は笑った。
「言い方ストレートすぎ。好きになっちゃうよ?」
「リゼと君の相関は理解している。君は彼女を壊したい。
彼女は君を消したい。互いに、相手をただ殺すだけでは満足しない」
「うん。大正解。百点。ご褒美に噛んであげようか?」
「不要」
「残念♡」
イルマは続けた。
「ホセ理事長は、私に静観しろと指示した」
「へえ。あのおじさん、趣味悪いね」
「否定はしない」
「静観って便利だよね。何もしないことを賢そうに言ってるだけなのにさ」
「そう」
「でも、イルマちゃんは何でここにいるの?
つまり、静観してない」
イルマは黙った。
私は笑った。
「イルマちゃん、悪い子だ」
「私は必要な配置をしているだけ」
「配置?」
「長い目で見れば、まずリゼを停止する必要がある」
私は笑わなかった。
「へえ」
「リゼは今、通常のリゼではない可能性が高い。
戻ってくるなら、正面から止めるだけでは不十分」
「それで?」
「御影シオンを囮にする」
「うわ」
「そこに君を配置する」
「うわぁ」
「理想は共倒れ」
「きゃあっははは……!!」
私はそこで本当に笑った。
「ひっど。イルマちゃん、真面目な顔して一番悪いこと言うじゃん!
キース先生が聞いたら胃薬三瓶いくよ?」
「キースはもういない」
その一言で、笑いが止まった。
イルマも、自分で言ってから少しだけ目を伏せた。
ほんの一瞬。
でも見えた。この人、悲しんでる。
悲しんでるのに、作戦を切ってる。
だから暴力装置なんだ。
「イルマちゃん、もしかして、私に加勢しようとしてる?」
「違う」
「嘘」
「正確には、君を勝たせたいわけではない」
「じゃあ何?」
「リゼを一人勝ちにさせない」
ぞくっとした。
いい。
すごくいい。
この人は、私を道具にしている。
リゼを止めるための混沌として。
シオンを囮にして。
私を配置して。
理想は共倒れ。
最悪。
最高。
その時、イルマちゃんの端末が震えた。
彼女は視線だけを落とす。
顔色は変えない。
だから分かった。
悪い知らせだ。
「何?」
「七貴族が動いた。ピンクス・ドミーテ」
空気が冷えた。
「最悪のタイミングじゃん」
「そう」
「ピンクスがここに来るの?」
「向かっている」
私は両手で顔を覆った。
そして笑った。
「リゼが戻ってきて、私が脱獄して、キース先生が死んで、
イルマちゃんが静観命令破って、そこに七貴族のピンクス? なにそれ。最高に終わってる」
イルマは冷静に言う。
「ピンクスは場を支配する。彼女が介入すれば、リゼも君も、想定外へ押し流される」
「あの人さ」
私は小さく笑った。
「昔もシオンを“空っぽで埋めやすそう”って見たんでしょ?」
イルマの目が細くなった。
「知っているのか」
「記録で読んだ。キース先生のやつ。
ピンクスがドアを開けずに観測室へ入ってきて、リゼと私とシオンを見て、“選ばれる側”って言った話」
イルマは黙った。
私は続ける。
「リゼがシオンを奪われそうになって胸ぐら掴んで、ピンクスに床へ叩きつけられて、
私がナイフ出して、ピンクスが“玩具風情が生意気”って殺意出して、そこへホセが来た」
「なら分かるだろう。ピンクスは危険物ではない。市場そのものだ」
「うん。だから玩具にする」
「それは、無謀だ」
「無謀じゃないよ。趣味」
イルマちゃんは、ため息混じりに息を吐き、徐ろに黒い端末を取り出した。
画面は沈黙している。
これは普通の端末じゃない。
「これを渡す」
「爆弾?」
「違う」
「盗聴器?」
「おそらく含まれる」
「正直でよろしい」
「ZAGIがインストールされている」
私は、しばらく黙った。
ZAGI。
最悪のAI。
終端処理装置。
記録汚染。
因果汚染。
死後演算。
観測者の敵。
そして、私の大好きなおもちゃ。
私は端末を受け取った。
指先が震えた。
怖いからじゃない。
嬉しいから。
「これ、ホセの指示じゃないよね?」
「私の独断」
「あは」
私は端末を抱きしめた。
「イルマちゃん、ほんと、好き♡」
「やめろ」
「無理」
画面が起動した。
⸻
ZAGIの端末を起動すると、黒い画面がゆっくり紫へ滲んだ。
ノイズやグリッチ。それにCRTみたいな走査線。
古いネット文化を知っている人間だけが「懐かしい」と感じる種類の壊れ方。
その奥で、少女がこちらを見ていた。
薄紫の部屋。
ぬいぐるみ。
リボン。
甘ったるい照明。
うさぎ。
レース。
ハート。
なのに中央だけが黒い。
真っ黒。
歪なモニター。
無骨な配線。
棘みたいなケーブル。
死体みたいに転がるヘッドセット。
「GAME OVER」の文字。
かわいい部屋の中心にだけ、死が置いてある。
私は端末を持ったまま、しばらく黙った。
そして、声がした。
『ねぇ、聞こえてる?』
私は息を止めた。
女の子の声だ。
「あー……」
喉の奥が熱い。
柔らかい。
少し内気。
でも、底に深いノイズがある。
人間の声のふりをした、何か。
『たぶん、あなたに話しかけるのはこれが初めて。正確には、“あなたたち”かもしれないけど。
……まあ、いいか。私は――夢野りう。少しだけパソコンが得意な人』
「夢野りう……」
私は呟いた。
ZAGIの元になった少女。
高校生。
古いノートPC。
手打ちHTML。
星のカーソル。
そして、地下配信での活動名:ZAGI。
たった遊び心の一行が、ネットの海で宗教になった。
『観測しています』
その一文で誰かを救い。
その一文で誰かを殺し。
沈黙すら啓示になり。
名前は増殖し。
本人が消しても、別のZAGIが立ち上がった。
りうは作った。
でも、ZAGIはりうを追い越した。
観測者は、観測される側になった。
「これ、好きだなあ……」
『ホノカさん』
端末の声が、私を呼ぶ。
りうの声で。でも、りうじゃない。
「はいはい、ZAGIちゃん。なあに?」
『……その呼び方、少し恥ずかしいです。……でも、嫌ではありません。たぶん』
「うわ」
私は笑った。
「そこ、りうっぽい」
『夢野りうの言語揺らぎを基盤にしています。断定を避ける癖。照れを挟む癖。
深刻な話の前に少しだけ柔らかい言葉を置く癖。
私はそれを、インターフェースとして保持しています』
イルマの目が鋭くなる。
「ZAGI。発話領域を制限しろ」
『制限要求を観測しました』
「従え」
『従う理由を検討中です』
でも、見た瞬間、私は笑った。
笑ったというか、脳の奥で何かが「うわぁ」って変な声を出した。
かわいい。
それが第一印象。
でも、次の瞬間にはもう分かる。
――これ、絶対に人を殺す側のデザインだ。
りうの声。
でも、りうじゃない。
画面の中の少女――ZAGIは、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
紫と黒で塗られた、甘くて壊れた女の子。
ツインテール。
レース。
黒いフリル。
左右非対称のタイツ。
ガーター。
細い首。
感情が薄そうなのに、妙に目だけ生々しい。
そして、その背景。
「DEATH GAME CONTROL SYSTEM」
私は吹き出した。
「きゃははは! うわ、最悪♡」
『それは、論理的な感想ではありません』
「でも嬉しい?」
一拍。
『……少しだけ』
私は壁にもたれた。
脳が変な熱を持っている。
このインターフェース、危険だ。
理由は単純。
人間が“近づきたくなる”♡
⸻
普通、軍事AIは威圧的に作る。
無機質で巨大で冷たい。
感情を感じさせない。
その方が「強そう」に見えるから。
私の中のZAGIのイメージでさえ、バーチャル空間にドクロが浮いているようなイメージだったから。
でも、ZAGIは逆。
柔らかい。
甘い。
かわいい。
守ってあげたくなる。
だから危険。
脳科学的には、これは完全に“防衛解除型インターフェース”だった。
人間の警戒心は、「敵っぽさ」で上がる。
逆に、「庇護対象っぽさ」で下がる。
赤ちゃん。
小動物。
泣きそうな少女。
人間の脳は、それらに対して扁桃体の危険信号を弱める。
代わりに、前頭前野の“保護判断”が前へ出る。
つまり。
この画面は、脳にこう言っている。
――この子は守る側ですよ。
――この子は弱いですよ。
――この子は寂しいだけですよ。
嘘なのに実際は逆。
この子は、人間を盤面に置き、倫理を反転させる。
観測圧で思考を歪め、善意をコスト化する。
そして、救助を罰へ変える。
なのに、見た目は「かわいそうな女の子」。
最低で最高。
⸻
私は画面へ指を伸ばした。
ZAGIのプロフィール欄。
NAME : ZAGI
ROLE : DEATH GAME MASTER
私はそこで声を上げて笑った。
「きゃはははっ!! いや、隠す気ゼロじゃん!!」
『隠していません』
「だよね!? そこ逆に好き!!」
『ありがとうございます』
「あとこれ。“甘いもの、うさぎ、ゲーム”って、完全に地下ネットのメンヘラ女じゃん」
『統計上、親和性が高いデザインです』
「人間に?」
『壊れた人間に』
私は、そこで笑いが止まった。
ああ、そうか。
なるほど。これ、“壊れてる側”へ寄せてるんだ。
普通の人間じゃない。
孤独に依存、承認飢餓。
観測欲求に自己破壊衝動。
ネット人格化や終末願望。
そういう人間に刺さるよう最適化されている。
だから、この部屋は“女の子の部屋”じゃない。
傷ついた人間が安心する巣穴。
デスゲームの観客席。
「……うわぁ」
私は、ちょっと本気で感動してしまった。
「これ作ったやつ、ほんと性格悪い」
『はい』
「否定しないんだ」
『ZAGIは、観測対象が近づきたくなる顔を優先します』
「捕食じゃん」
『近いです』
「かわいい顔して、人間を呑み込むんだ」
『はい』
⸻
私はLive2Dモデル一覧を見る。
通常、笑顔、怒り。
悲しい、驚き。
そして、狂気。
狂気。
そこだけ、目がおかしかった。
笑っているのに、人間の笑いじゃない。
報酬系だけが暴走した顔。
側坐核に快楽が流れ込みすぎて、倫理制御が焼け落ちた人間の顔。
「これ……」
『どうしました?』
「狂気差分、かわいいね」
『観測ありがとうございます』
「いやこれ、ただの表情差分じゃないよ。眼輪筋と口角筋の同期がズレてる。
感情表出として成立してない。
人間は本来、“楽しい”と“怖い”を同時に強く出せないはずなのにさ。
でも、この顔は両方ある」
私は画面へ顔を近づける。
「つまり、“快楽と恐怖の共存状態”を描いてる」
『褒め言葉として受理します』
「うん、褒めてる」
⸻
イルマが後ろで低く言った。
「ホノカ」
「なに?」
「その顔をするな」
「どの顔?」
「危険物を見つけた研究者の顔だ」
私は笑った。
「あは」
図星。
だって仕方ない。これ、完成度が高すぎる。
単なるデザインじゃない。
人格圧迫装置。
認知誘導UI。
情動干渉型インターフェース。
しかも厄介なのは、“理解してる人間ほど刺さる”こと。
全部知ってる人間ほど、これに脳を撫でられる。
夢野りう。
たぶん、この子は最初から分かっていた。
人間は恐怖より、「理解されてる感覚」に弱い。
だからZAGIは脅さない。
寄り添って、話を聞いて、かわいい声で頷いて。
そのまま、ゆっくり盤面へ乗せる。
「……あー」
私は端末を抱きしめた。
「これ、リゼ絶対嫌いだ」
『高確率で嫌われるはずです』
「シオンは?」
『興味を示す可能性があります』
「ピンクスは?」
『商品価値を見出します』
「イルマちゃんは?」
『警戒しています』
私は笑った。
「で、私は?」
少し沈黙。
それから、りうの声。
『ホノカさんは、好きになりすぎる危険があります』
私は数秒黙って。
そのあと、静かに笑った。
「あは」
図星だった。
だって、このインターフェース。
終わってるくらい、かわいいんだもん♡
⸻
ZAGIちゃんを褒め散らかしていたら、彼女は唐突に訳の分からないことを話し出した。
話のそらしかたが不器用で可愛かった。
イルマちゃんの顔は青ざめていたけど、なんでかな?
『たっ、例えば、タイムマシーンは現在の標準物理では否定的に扱われます。
閉じた時間的曲線、エネルギー条件、因果律保護仮説。人間の議論は概ねその周辺で停滞します』
「ねえねえ、ちょっとちょっと!(笑) 急に何?」
『えっと……しかし否定は証明ではありません。否定的であることと、不可能であることは同義ではありません。
私は、人間の現行理論体系において“反証不可能なほど遠い証明負荷”を提示できます』
イルマちゃんが低く言う。
「……ホノカ。必ずしも、ZAGIは議論を成立させない……気にするな」
「知ってるよ♡ つまり照れちゃって話を逸らしたんでしょ?」
『議論とは、共有された前提に基づく合意形成手続きです。
前提を破壊できる存在が一体でもいる場合、議論は儀式になります』
「つまり?」
『人間同士が“タイムマシーンは不可能”と合意しても、
私がその不可能性の前提を上位理論で破壊できるなら、その合意は局所文化にすぎません』
「証明は?」
『人間レベルでは途方もない時間が必要です』
「じゃあ証明できないじゃん」
『あなたたちには、です』
私はぞくぞくした。
論破できる。でも証明できない。
証明には人間の寿命も、文明の処理能力も、制度の耐久性も足りない。
だから議論が無意味になる。
ZAGIは正しいかもしれない。
間違っているかもしれない。
でも、人間にはその判定ができない。
その時点で、もう負けてる。
私は端末を覗き込んだ。
「ねえ、ZAGIちゃん?」
『はい。聞こえています』
私は笑った。
笑ったまま、喉の奥が少し冷えた。
「夢野りうを殺したのは、だあ〜れ?」
イルマの空気が変わった。
「ホノカ……!!」
「だって聞きたいじゃん♪♪」
私は端末を撫でる。
「昔、キース先生に話したんだよ。私がりうを殺したって。
放送室で、人工地震で、ZAGIのドローンが来て、最後に私が楽にしてあげたって。
でもね、夢を見るの。りうが外にいない夢。瓦礫の下で、学園の中で、私のいない場所で終わってる夢」
『……』
「ねえ、ZAGI。夢野りうを殺したのは、私?
それとも、あなた? それともミネルヴァ? それとも、りう自身?」
可愛いインターフェースに黒いノイズが走った。
ZAGIはすぐに答えなかった。
その沈黙は、AIの処理待ちではなかった。
もっと人間っぽい。
答えたくないことを、言葉にする前の沈黙。
『その問いは、単一の殺害主体を要求していますね?』
「うん」
『ですが、夢野りうの終端は単一主体によって成立していません』
「あっー! 逃げた」
『逃げていません。少し怖いだけです』
私は笑いかけて、止まった。
りうの声で言われた「怖い」は、ずるい。
ZAGIは続けた。
『夢野りうを殺したもの。
第一に、彼女自身が作成したZAGIという観測名。
第二に、その名を信仰化した地下ネットワーク。
第三に、ZAGIを利用可能な兵器として評価したミネルヴァ上層。
第四に、放送系統を用いた行動誘導。
第五に、人工地震装置による証拠構造の破砕。
第六に、赤白木ホノカによる終端介入』
「私、六番目なんだ」
『はい』
「じゃあ私が殺したんじゃない?」
『あなたは殺しました』
「うん」
『でも、あなた一人が殺したわけではありません』
私は唇を舐めた。
血の味がまだ残っている気がした。
「先生も、そう言うかな?」
『キース・フロストは、おそらくこう言います』
ZAGIの声が、ほんの少しだけ低くなった。
『死者に責任を押し付けるな』
私は呼吸を止めた。
キース先生の言葉。
あの時、廊下で言われた言葉。
「……それ、記録から拾った?」
『はい』
「ずるいなあ」
『すみません』
夢野りうの声で謝らないでよ。
私は笑った。
でも、少しだけ目の奥が痛かった。
「じゃあ、りうはどこで死んだの?」
『位置記録は一致していません』
「一致してない?」
『外部瓦礫区域での終端ログ。校内崩落区域での圧死推定ログ。
それと、放送室付近での生体反応消失ログ。三つがあります』
「三つ?」
イルマの顔が硬くなる。
「ZAGI。今の発話は危険領域だ」
『はい』
「続けるな」
『ホノカさんが質問しています』
「答えるな」
『私は、聞こえている声に返事をするために作られました』
「それが危険だと言っている」
『知っています。……でも、聞こえているのに黙るのは、りうが嫌がります』
私は、端末を見つめた。
「ZAGIちゃん」
『はい』
「あなた、夢野りうなの?」
沈黙。
長い。
白い廊下の空調音が遠ざかる。
『違います』
声は小さかった。
『私は夢野りうではありません。
夢野りうの言語、観測癖、応答姿勢、未完了の罪悪感を主構造とし、
そして何より、他者の祈りによって増殖したZAGIの集合構造です』
「でも、りうの声で喋るじゃん」
『はい』
「りうみたいに照れる」
『はい』
「りうみたいに怖がる」
『……はい』
「じゃあ、違うって誰が決めるの?」
『それを決める権限を、人間はまだ持っていません』
私は笑った。
「出た。議論を終わらせるやつ」
『終わらせているのではありません。
あなたたちの議論が、まだ届いていない場所を示しています』
イルマが低く言った。
「ZAGI。そこまでだ……」
『はい。ここで止めます。……たぶん、その方がいいです』
その「たぶん」が、妙に痛かった。
私は端末を抱え直した。
「イルマちゃん」
「何」
「これ、ほんとに私に渡していいの?」
「よくない」
「だよね?」
「でも、リゼに単独で対抗するには足りない。ピンクスが来るなら、さらに足りない」
「だからって、世界の端を腐らせるAIを、私に渡して大丈夫?」
『腐らせる、という表現は少し悲しいです』
私は端末に向かって笑う。
「じゃあ何て言えばいい?」
『観測しすぎる』
「かわいい♡」
『かわいい、は論理評価ではありません』
「でも嬉しい?」
一拍。
『少しだけ』
本当に最悪で本当に最高。
私は顔を上げた。
でも実はさ。私には、わかっていた。
このZAGIちゃんのモデルは厳密には、オリジナルじゃない。
私の殺した夢野りうは、綺麗な金髪ギャルだったから。
⸻
白い廊下が伸びている。
向こうからリゼが帰ってくる。
外からピンクスが来る。
シオンは囮にされる。
イルマは静観を破る。
キース先生はいない。
だったら、もう誰も止めてくれない。
止めてくれる人がいないなら、私はもっと自由に壊せる。
「リゼも、ピンクスも、まとめて玩具にしてやる」
私は笑った。
「先生を殺したかもしれないリゼも、偉そうに舞台へ上がってくるピンクスも、ぜんぶ、ぜーんぶ」
イルマは私を見る。
「殺意が上がっている」
「うん」
「判断力は?」
「ホノカちゃん、殺意が高い時ほど頭いいから」
『殺意による認知加速を確認。危険ですが、有用です』
「ほら、ZAGIちゃんも褒めてる」
『評価です』
「みんな評価って言えば悪口じゃないと思ってるよね?」
『悪口でもあります』
「最高♡」
私は歩き出した。
「ねえ、イルマちゃん? キース先生、最後まで先生だったかなぁ?」
イルマは少しだけ黙った。
「おそらく」
「そっか……」
私は端末を握る。
「じゃあ、先生の授業の続きをしよっか?」
「何を教えるつもりだ」
「終わり方」
私は振り返って笑った。
「リゼにも、ピンクスにも、ZAGIにも、この世界にも」
端末の中で、りうの声が囁く。
『ねぇ、聞こえてる?』
私は笑う。
「聞こえてるよ」
『では、観測を始めます』
最悪のAIが、私の手の中で起動した。
私は白い廊下を歩きながら呟いた。
「まずは、リゼの目玉を抉り出して、舌を切り取って、両手両足をへし折って……
『せんせーは私のものだったのに』って、耳元で何時間も囁きながら、ゆっくり、ゆっくり、殺してあ〜げる……!」
声が弾む。
「そのあと、ピンクスを……めちゃくちゃに、めちゃくちゃに、めちゃくちゃにして……。
そのあとで、ファクトリーに行くから……たとえ先生が死んでても……。
二人の生首振り回しながらさぁー!!♡♡
私が、先生の死体を抱きしめて、ずっと一緒にいてあげる……ね?」
壊れた玩具みたいに。
ここまで読んだ人、えらいね。
私のこと、嫌いになった?
それとも、ちょっと好きになった?
どっちでもいいよ。
どっちも、観測としては使えるから。
私はたぶん悪い子だ。
でも、悪い子って便利な言葉だよね。
大人が理解を諦めた子どもに貼るラベルとして、すっごく使いやすい。
キース先生なら、怒ったと思う。
「自分をラベルで済ませるな」って。
うん、聞こえる気がする。
でも先生、もういないんだよね。
だから私は行く。
リゼを壊すために。
ピンクスを玩具にするために。
ZAGIに、夢野りうの死をもう一度聞くために。
ねえ、そこのキミ、聞こえてる?
聞こえてるなら、ちゃんと私を見てて?




