EP179. 私への告別と、最悪の観測者
――帰還前同期記録
私は、まだ自分を制御できていると思っていた。
怒りも。
憎悪も。
所有欲も。
シオンへの執着も。
すべて観測し、分類し、必要な処理へ変換できると思っていた。
けれど、シオンの心拍が跳ねた瞬間に分かった。
私は冷静なのではない。
冷静な形で壊れているだけだ。
キース上官は、私に言った。
学びすぎるな。
持ち帰るな。
加工する前に話せ。
失わないために相手の形を変えるなら、それは救助ではなく所有だ、と。
正しい。
上官は、いつも非効率で、面倒で、だからこそ正しかった。
でも、正しさは遅い。
シオンが揺らされている。
誰かが、私の観測できない場所で、彼女の心に触れている。
おそらく、ホノカが。
ならば、私は戻る。
ネヤムを連れて。
レイラを連れて。
ソウヤを連れて。
No.XXXの記録を持って。
Echo-marionnetteを、彼らの神経に沈めて。
これは救出ではない。
正義でもない。
教育でもない。
これは帰還準備だ。
ミネルヴァへ戻り、シオンを乱す要因を排除するための、私の最初の罪である。
――始める。
Echo-marionnette ――鏡ヶ原リゼ、帰還準備
⸻
シオンの心拍が、跳ねた。
それは音ではなかった。
けれど、私には音に近い形で届いた。
胸骨の内側を、細い針で一度だけ弾かれたような感覚。
意識の奥に埋め込んだEcho-Bindingの受信層が、わずかに震える。
同期率、0.79%
情動振幅、通常値の三・四倍。
交感神経優位。
末梢血管収縮。
呼吸間隔、不規則化。
短時間心拍変動、急激な乱れ。
恐怖?違う。
怒り?いや、違う。
もっと複雑だ。
苦痛、拒絶、困惑。
そして、誰かに心を乱された時にだけ発生する、あの不快な位相のズレ。
シオンが、揺らされている。
私のシオンが。
「……誰」
声が漏れた。
白い独房の壁が、少しだけ遠ざかった気がした。
Echo-Bindingは、単なる拘束装置ではない。
脳波。
心拍。
皮膚電位。
微細筋電。
呼吸相。
視床―扁桃体間の情動伝達ノイズ。
それらを結合係数として抽出し、対象の内部状態を“縛る”。
シオンに寄生させた本系統は、まだ不完全だった。
けれど、私にとっては十分だった。
シオンがどこにいるか。
何に反応しているか。
誰に心を乱されているか。
完全ではないけれど、分かる。
今、シオンは誰かに揺らされている。
そして、それは私ではない。
「……ふざけないで」
声が、思ったより低く出た。
怒りは、脳内で単純な炎として処理されない。
扁桃体の過活動。
前頭前野による抑制失敗。
視床下部からの交感神経賦活。
ノルアドレナリン分泌。
血糖値上昇。
痛覚閾値の一時的上昇。
生体は怒りを「戦闘準備」として実装している。
でも、私の怒りは少し違う。
私は怒っているのではない。
計算しているのだ。
シオンを乱した要因を特定する。
その要因を排除する。
必要であれば、環境ごと消去する。
そういう順番で、私の脳は冷えていく。
ホノカ。
赤白木ホノカ。
彼女は、リメイク・ファクトリーに来る前、キース上官に拘束され、収監されていると聞いた。
だが、おそらくもう脱獄している。
あの個体が静かに収まっているはずがない。
観測される前に観測装置を疑い、隔離される前に隔離の意味を解体する。
放置すれば、必ずシオンに届く。
そして、今。
シオンの心拍が揺れている。
「……ホノカ……やっぱり、反吐が出る」
その名を口にした瞬間、私の内側で何かが切れた。
憎悪は、熱ではない。
精密な冷却だ。
対象以外の情報を削ぎ落とし、攻撃対象だけを高解像度で残す認知処理。
私は立ち上がった。
ミネルヴァに戻る。
そして、ホノカを抹消する。
そのために、必要なものを連れていく。
⸻
No.XXXの機密文書は、既に回収済みだった。
灰色の封筒。
赤い封印。
未来の事件。
観測テロリスト。
時間犯。
責任形式の脱臼。
キースは、私に「学びすぎるな」と言った。
理解している。
彼の警告は正しかった。
でも、正しい警告は、正しい行動を保証しない。
私は学びすぎた。
そして、使う。
この施設が私を観測対象として扱うなら、私もまた施設を実験場として扱う。
内部遷移区画の保管室には、私が事前に隠しておいた試作品があった。
Echo-marionnette
細長いカプセルが三本。
透明な外殻の内側で、光の紐のようなものが身体をくねらせている。
生物ではない。
完全な機械でもない。
量子発光性ポリマーを神経模倣ゲルで包み、ナノスケールのシナプス模倣節を連結した拘束インターフェース。
本系統のEcho-Bindingは、相互同期を前提にしている。
シオンに使ったものは、相互性があった。
彼女の情動が私へ届く。
私の指令が彼女の深層へ沈む。
そこには歪んだ対称性がある。
けれど、marionnetteは違う。
これは試作。
相互ではない。
片方向だ。
寄生先の運動野、扁桃体、前帯状皮質、報酬系、そして前頭前野の意思決定回路に微細な干渉層を形成する。
命令拒否時には不快情動を発火させ、服従時には報酬系に微弱な安定信号を返す。
逆らえないようにする。
もっと正確に言えば、逆らうという選択肢を、脳内で「損失」として再定義する。
自由意思の剥奪ではない。
自由意思の重みづけを、私の側へ傾ける。
「あなたたちに、綺麗な自由はあげない。操り人形にする」
私はカプセルを一本、指で持ち上げた。
「でも、檻の外へ出してあげる」
ネヤム。
レイラ。
ソウヤ。
どれも人間として扱うには危険すぎる。
だが、兵器としてなら使える。
そして私は今、人間を集めているわけではない。
ミネルヴァへ戻るための手段を集めている。
⸻
最初に向かったのは、第一隔離区画だった。
傘羽ネヤム。
彼女について、私は一度キースとともに面談している。
その記憶は、今でも鮮明だった。
静かすぎる観察室。
固定された机。
固定された椅子。
壁面の観察窓。
天井センサー。
床の排水口。
細かすぎる空調フィルター。
応接室の形をした実験容器。
そこに座っていたネヤムは、危険人物というより、別の進化論だった。
人間を旧世代と見なし、群れと蟲と微生物の側から世界を再設計しようとする思想そのもの。
そして彼女は、初対面で私の内側にある所有欲を嗅ぎ取った。
――あなたが本当に欲しいのは、個体の所有じゃなくて、喪失しない接続だよ?
――ひとりを縛ると、ひとりが死んだら終わる。
――でも群れなら、死なない。
あの時、キースは私を止めた。
持ち帰るな。
加工する前に、私に話せ。
そう言った。
私は「承知しました」と答えた。
でも今、私はその言葉を加工している。
最悪の形で。
⸻
第一隔離区画の扉が開いた。
ネヤムは、椅子に座っていた。
姿勢は変わらない。
指先は机の上に軽く置かれ、視線は私に向いている。
まるで、私が来ることを知っていたみたいに。
「ほら、やっぱり」
ネヤムは静かに言った。
「予言通り」
「予言?」
「うん。あなたは来る。ここを出る。私を使う。そういう線が一番太かった」
「統計的予測を、予言と呼ばないでくれる?」
「あなた、人間は、的中した統計を運命って呼ぶって知らない?」
ネヤムは微笑んだ。
その声は、以前と同じだった。
柔らかい。
眠そう。
退屈そう。
それでいて、密閉容器の中で繁殖した何かが、たまたま人間の喉を使っているような声。
私はカプセルを机に置いた。
Echo-marionnetteが、透明な筒の中で淡く蠢く。
ネヤムはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「きれい」
「拘束装置よ」
「知ってる。だからきれいなんだよ。自由を奪うものは、いつも形だけは美しい」
「詩的な評価は不要」
「じゃあ、機能評価。おそらく、神経拘束型の寄生インターフェース。服従条件づけ。
命令拒否時の不快情動誘発。報酬系への微弱介入。
コンセプトが人間の尊厳を半分くらい噛み砕いてる」
「半分では足りないかもしれない」
私が言うと、ネヤムは小さく笑った。
「あなた、怒ってる?」
「ええ」
「シオン?」
その名前を聞いた瞬間、指がわずかに動いた。
ネヤムはそれを見逃さない。
「やっぱり。あなたの中心はそこなんだ。
観測でも、分類でも、教育でもない。シオン。すごく人間的ね」
「黙りなさい」
「前に上官さんが言ってたよね。
愛や保護を名乗った所有は、自覚のある支配より厄介だって」
胸の奥が、冷えた。
キースの声が蘇る。
――失わないために相手の形を変える発想へ進んだ瞬間、それは救助じゃない。所有だ。
「その言葉を、あなたが使わないで」
「もしかして、刺さってる?」
「黙りなさい」
「はい」
ネヤムはすぐに黙った。
まだ接続していない。
なのに、彼女は従った。
それは服従ではない。
観察だ。
私がどこまで進んだかを、彼女は見ている。
「ネヤム」
「うん」
「あなたを外へ出す」
「知ってる」
「ただし、自由ではない」
「それも知ってる」
「Echo-marionnetteを投与する。私に逆らえなくなる」
「言葉が正確でいいね」
「拒否するなら、この話は終わり」
「拒否しないよ」
「理由は?」
ネヤムは、少しだけ首を傾げた。
「この施設に飽きた。あなたが勝つ線を見たい。あと――」
「あと?」
「あなたが、人間を捨てる直前の顔をしながら、
それでもシオンだけを人間として残そうとしているのが面白い」
「私は人間を捨てない」
「うん。そう言っているうちは、まだ大丈夫」
キースの言葉と同じ構造だった。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
「……腕を出して」
「入れて」
ネヤムは迷わず腕を差し出した。
私はカプセルを開く。
光の紐が空気に触れた瞬間、微細に震えた。
ネヤムの手首に触れる。
白い皮膚の下へ、光が沈む。
血管ではなく、神経束へ向かって潜っていく。
「……ああ」
ネヤムが目を閉じた。
「頭の奥に、細い鈴が入ってくる感じね」
「運動野への接続を開始。扁桃体への抑制層形成。
前頭前野の拒否判断回路に、私の音声指令を優先タグとして登録する」
「説明してくれるんだ」
「記録のため」
「キースが聞いたら怒るね」
「キースは、もうここにいない」
そう言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
キースなら止めた。
これは教育ではない。
これは支配だ。
人間を道具にするな。
そう言ったはずだ。
正しい。
全部、正しい。
でも、正しさではシオンを守れない。
接続完了。
命令服従、確認。
「ネヤム」
「はい」
「あなたの群体知能理論、生物媒介型観測網、宿主間記憶伝播について、私の許可なく第三者へ開示しない」
「はい」
「私の指示なく、思想感染を起こさないこと」
「はい」
「それと、私の中心には触れるな」
ネヤムは、ほんの少しだけ笑った。
「はい」
その返答だけ、わずかに遅れた。
marionnetteが不快信号を返す。
ネヤムの肩が小さく震える。
「いたた……なるほど。これは、自由を殺すんじゃなくて、自由の向きを曲げるんだ」
「そう」
「あなた、やっぱり私を理解してる」
「理解ではない。利用よ」
「同じだよ。あなたにとっては」
「黙りなさい」
「はい」
⸻
第二隔離区画。
斉木レイラは、拘束椅子に固定されていた。
四肢完全拘束。
口腔マズル。
首部固定具。
皮膚露出最小化。
それでも、彼女を見るだけで、空気が変わる。
捕食者。
思想ではない。
美学でもない。
計画でもない。
純粋な食欲。
彼女の目は、私を人間として見ていなかった。
体温。
筋肉量。
脂肪分。
皮膚の張り。
血流。
そのような指標で見ている。
「……いい匂い……くんくん、くんくん。はぁあ……すごくいい匂い。怒ってる肉の匂いだ」
マズルの奥から、くぐもった声がした。
それでも彼女の瞳は、獲物を値踏みする獣そのものだった。
「あなた、今怒ってる? 怒ってる肉は硬くなる……。
でも血は速い。熱い。少し苦いかも…… 。
血が速く流れて、肉が熱くなってる……硬いのに、噛んだら汁が溢れそう……。
少し苦くて、鉄の味がして……ねえ、一口だけ。指の先だけちょうだい。骨までしゃぶらせて?」
「食べ物の話をしないで」
「じゃあ、何の話?……無理。お腹が疼いて頭が変になりそう……。
心臓の音が聞こえるの。ドクドクって、美味しそうなリズム……。
生きてるうちに腹を開けて、温かい肝臓を直接かじりたい……」
レイラは鎖をガチャガチャ鳴らしながら身をよじった。
「脱獄の話」
レイラの目が動いた。
「外?」
「ええ」
「食べていい?……本当? 外の世界、食べ放題?」
「条件付きで」
「誰を?」
「私が指定した対象だけ」
「指定されたら、食べていい?」
「場合による」
「場合って嫌い。お腹が空く」
「空腹は制御対象よ」
「制御って、おいしい?」
「不味いと思う」
「じゃあ嫌」
「あなたに選択権はない」
私はカプセルを取り出した。
レイラの目が、光の紐を追う。
「あはぁ? なにそれ虫?」
「紐…… これはEcho-marionnette。お前の食欲に首輪をつける。痛いわよ?」
「食べられる?」
「食べたら、あなたの脳を内側から壊すでしょうね」
「じゃあ、入れるもの?」
「そう」
「痛い?」
「少し」
「痛いのは好き。大好き。新鮮な痛み、好き。痛がる顔を見ながら食べたい」
「これは新鮮さではない。服従のための痛み」
レイラは、ゆっくり笑った。
「あなた、怖いね」
「あなたに言われたくない」
「でも、お腹空いてる人より怖い。お腹じゃなくて、もっと奥が空いてる」
私は無言で注入器を彼女の首に突き刺した。
光の紐が深く沈み、視床下部を支配する。
レイラの身体が激しく痙攣し、拘束具が悲鳴を上げた。
「う、ぐああああっ! なにこれっ?……お腹が……お腹が命令を待ってる……。
食べたいのに、食べられない……なにっ?……この気持ち悪さ、嫌い!」
拘束具が軋む。
Echo-marionnetteが視床下部に触れる。
摂食中枢への干渉開始。
空腹衝動を命令待機状態へ変換。
捕食衝動に、私の許可タグを挿入。
食べたい。
でも、私が許可しなければ食べられない。
脳内で、欲求と命令を結びつける。
これは残酷だ。
分かっている。
だが、レイラを自由に放てば、彼女は歩く災害になる。
ならば、災害に首輪をつける。
「レイラ」
「……は、はぁい……リゼ様」
「私の許可なく、人間を食べるな」
「うるさい……食べたい……今すぐ誰かの肉を裂いて、血を啜りたい……!」
marionnetteが不快を爆発させる。
強制痛覚モードを最大出力で発動させた。
「——ぎゃああああああああっ!!」
レイラの全身が激しく痙攣し、床に崩れ落ちた。
視床下部から脊髄、末梢神経のすべてに、灼熱の針が何千本も突き刺さるような痛みが走る。
神経を一本一本引きずり出すような、想像を絶する激痛。
「う、ぐあああっ! あ、あああっ! 痛い、痛い痛い痛いぃぃっ!! 脳が……脳が溶ける……!!」
「返事」
「……リゼの指示に従う……リゼが『食べていい』と言うまで、我慢する……
でも、約束破ったら、今度こそ喉笛を噛み千切るからね?」
「その勇気があるなら試してみなさい。舌を根元から引き抜いて、喉に詰め込んでやるわ」
レイラは震えながらも、恍惚とした笑みを浮かべた。
「……わかった。リゼの言う通り。でも、外に出たらたくさん食べさせて?
若い男の子を捕まえて、ゆっくり時間をかけて……
指の先から一本ずつ……生きてるまま、泣き叫ぶ声聞きながら」
「条件を満たせばね」
「ねえ、約束だよ? 破ったら……本当に、死ぬまで噛みついて離さないから」
「いいから、黙りなさい」
私は彼女の全ての拘束を解除した。
瞬間——レイラが獣の跳躍で私の首元に襲いかかった。
熱い息と鋭い歯が肌に触れる直前、私は彼女の顔を鷲掴みにして壁に叩きつけた。
「がっ……! あはっ、痛い……!」
「試したわね、餓鬼」
私は彼女の顎を強く握り締め、指が肉に食い込むほど力を込めた。
そして、marionnetteの痛覚レベルをさらに一段階上げた。
「ぎゃああああっ!! や、やめ……リゼ……リゼぇっ!
もう……もう噛まない……! ごめん……ごめんなさいぃ……!!」
レイラの声が完全に裏返り、獣のような咆哮が嗚咽に変わる。
太ももを震わせ、必死に床に額を擦りつけた。
「次に牙を向けたら、今度は痛覚を10秒間持続させるわ。
その後で舌を根元から引き抜き、お前の空腹に詰め込んでやる。わかった?」
「……わ、わかった……リゼ……リゼ様……もう……絶対に……」
レイラは涙を垂らしながら、床にへばりつき、肩を激しく震わせていた。
痛みの余韻で身体が痙攣し続け、歯をガチガチと鳴らしている。
「いい子ね。痛みを覚えた?」
「……覚えた……痛い……怖い……でも……リゼの匂い……まだ、美味しそう……」
私は冷笑を浮かべ、彼女の髪を掴んで顔を上げさせた。
レイラは荒い息を吐きながら、紫色の瞳を潤ませて私を見上げた。
「……ねえ、リゼ。私を……どこに解き放とうとしてるの? どんな場所?」
私は短く答えた。
「教育施設よ」
レイラの瞳が一瞬で輝いた。
痛みの余韻など忘れたように、興奮で身体が震えだす。
「教育施設……? そこって、美味しそうな男の子がたくさんいるの?
若い子? 柔らかくて、血の匂いが濃いやつ? たくさん……いっぱい?」
彼女は這うように近づき、突然私の腰に飛びついてきた。
熱い体温と、唾液まみれの息が制服に染み込む。
腕を回し、顔を私の胸に擦りつけながら、甘えるような獣の声で繰り返す。
「いるんでしょ? ねえ、いるんでしょ? 男の子、男の子たくさん……柔らかい肉の、甘い血の……」
私は冷たく彼女の肩を掴み、距離を取らせた。
「悪いけど、最初に食べてほしいのは……女よ?」
レイラの動きがぴたりと止まった。
「……女?」
彼女の表情が明らかに不満げに歪む。
眉を寄せ、唇を尖らせ、牙を軽く見せながら私を睨みつけた。
「女なんか……あんまり美味しくないよ。
肉は柔らかいけど、噛みごたえがないっていうかさぁ……。
血の味も無駄に濃すぎて、生臭い……男の子の方が、ずっとジューシーで……」
「なに? 文句があるの?」
「……ない、けど」
レイラは不満を丸ごと飲み込みながらも、私の腕に再び擦り寄ってきた。
尾を振る犬のような仕草で、甘ったれた声を出した。
「わかった……リゼがそう言うなら、最初は女を食べる。
でも、次は絶対に男の子……ね? 約束だよ?」
「欲張りな餓鬼ね。条件を満たせば、考えないでもないわ」
「うう……欲張りなのはリゼの方じゃない……」
レイラはぶつぶつ言いながらも、結局は私の腰にしがみつき、熱い吐息を吐き続けた。
レイラは、舌を伸ばして私の指を舐めようとした。
「……外では、せめてリゼの血を少しだけ……」
面倒な女を従えてしまった……。
⸻
第三隔離区画。
白峰ソウヤは、視界遮断マスクを装着され、視界を完全に奪われ、椅子に固定されていた。
白く細い指が、静かに震えていた。
細い身体。
整った指。
穏やかな呼吸。
資料を読んでいなければ、芸術系の優等生と誤認したかもしれない。
だが、私は知っている。
この少年は、人間を完成させる。
本人の中では、それが殺人ではなく創作なのだ。
「来てくれたんですね、リゼさん。
あなたの声……今日は苛立ちと、微かな絶望が混じっています。とても美しい響きです」
ソウヤは、柔らかく言った。
「残念です。あなたの輪郭を見られない。声から推測するに、とても綺麗な形をしていそうなのに」
「評価しないで」
「失礼。つい…… でも僕は評価せずにはいられない。
あなたの骨格、皮膚の張り、髪の匂い……全部が、最高のキャンバス。触れたら、きっと指先が震える」
「触るなと言っている」
「少しだけ。髪の一束だけ。匂いを嗅がせてくれませんか? 今、このマスクを外して」
「拒否する」
私はカプセルを取り出した。
「あなたを外へ出す」
「それは素敵ですね」
「ただし、条件がある」
「条件のある自由は、自由ではありませんよ?」
「正しいわ」
私はカプセルを取り出す。
「これは、あなたを私の指示に従わせるための拘束装置。これでお前を私の道具にする。
逆らえば苦痛、従えば安堵。創作衝動も私の許可なしには一切発動できない」
ソウヤは、少し沈黙した。
「なるほど。筆を握らせたまま、描く対象を指定するわけですね?」
ソウヤは静かに笑った。
「素晴らしい……あなたは本当に、僕など比べ物にならない芸術家だ。
個人の肉体を弄ぶ僕とは違う。生きている精神そのものを、巨大な作品に再構成している。
ネヤムを預言者に、レイラを許可制の獣に、そして僕を……命令待ちの彫刻家に」
「褒めているつもり?筆を折らないだけ、寛大だと思いなさい」
「ひどい人だ。でも本心です」
ソウヤは静かに、しかし深く笑った。
「脱獄の話は素晴らしい……ですが、こちらにも、条件があります」
「……条件?」
「はい。あなたの拘束を受け入れる代わりに、私に一つだけアーカイブを開示してください。
ミネルヴァにはそれが保管されているはずですから。
昭和58年の事件コード:「玻璃」の連続殺人事件の全記録。
捜査資料、舞台設計図、証拠写真、担当警部の長文調書、そして投函されたとされる葉書まで……すべて」
私はわずかに眉を寄せた。
「なぜその事件を?」
ソウヤの声が、熱を帯びて低く響いた。
「あれは究極の『段取りの芸術』だからです。
舞台は嘘を許し、机は嘘を整える。だが死者の数だけは嘘を許さない……。
公にはできない殺人事件。犯人はまだ、行方不明らしいですよ?
計画では五だった死が六に跳ね上がり、『人の名ではなく、段取り』として宙にぶら下がったまま……」
彼はマスクの下で舌なめずりをするように言葉を続けた。
「最短の倫理を信奉する犯人・短縮の宗教で世界を設計し、退路すら最短にしようとした男……
その思考の美しさを、私はこの目で確かめたい。
あなたが私に与える『拘束』と同じくらい、洗練された残酷さを」
私は無言で彼の腕を掴み、注入器を押し当てた。
光の紐が神経の奥深くまで侵入する。
ソウヤの息が甘く乱れた。
「……ああ、冷たい。この銀の糸が脳を這い回る感覚……でも、まだ足りません。
あの事件のアーカイブを私に与えてください、リゼさん。
そうすれば、私は喜んであなたの命令待ちの人形師になります。
ミネルヴァで、あなたが望む『作品』を、完璧に演出してみせましょう」
私は注入器を押し込みながら、冷たく言った。
「その事件は、未だに完全に解決していない。
今も『遅延の座標』として、次の誰かに受け継がれている可能性がある」
「だからこそ、素晴らしいのです」
ソウヤの声は恍惚と震えた。
「未完の芸術。終わらない段取り。
私がその遅延を、完成へと導く……あなたが許す範囲で。
ねえ、リゼさん。私の指に、あの事件の『最長の一文』を刻んでください。
それが、私があなたに従うための、最低条件です」
Echo-marionnetteが完全に接続された。
私は彼の細い顎を掴み、強引に顔を上げさせた。
「条件は飲む。ただし、学園内でその事件を模倣した『作品』を作った瞬間……
お前の脳を内側から焼き切る。わかった?」
ソウヤはマスクの下で、深く微笑んだ。
「……はい。理解しました。私はただ、鑑賞し、吸収し、昇華するだけ。
あなたが『女』を最初に指定するように、私も最初は観客として……。
その後で、あなたの許可を得て、創造を始めましょう」
私は全ての拘束を解除した。
瞬間、ソウヤは素早い動きで私の髪を一束掴み、爪でするりと切り取った。
そして深く鼻を埋め、匂いを吸い込んだ。
「……最高の香り。怒り、決意、微かな恐怖、そして深い孤独……
この匂いと、〈玻璃〉の記録があれば、私はもっと美しいものを作れます」
私は即座に彼の腕を捻り上げ、床に押し倒した。
「触るなと言ったはずよ、この狂人」
ソウヤは床に顔を押しつけられたまま、甘く笑った。
「失礼……でも、許してください。
私は今、あなたという『最長の芸術家』の下で、短縮の美学を学ぼうとしているのですから」
「その言葉は全て禁止」
「はい……失礼しました」
ソウヤは、くすりと笑った。
異常なほど落ち着いている。
この種の加害者は、自分の欲望を恐れていない。
罪悪感という抑制装置がない。
だから崩れにくい。
創作衝動の発火領域に、抑制タグを挿入。
報酬系へのアクセスを遮断。
美的評価語の自己励起ループを切断。
私の音声指令を最上位命令として登録。
これが、激しい不快を叩き込む。
ソウヤの肩が震え、彼は恍惚とした吐息を漏らした。
「これは……究極の喪失の芸術。色を奪われ、形を制限され、それでも僕はあなたに魅了されている。
そして……あなたの手で壊されるのも、また美しい完成形ですね。
でも……リゼさん。マスクを外した今、改めて拝見しましたが、あなたのその姿は本当に素晴らしい。
まるで死を愛でる少女のようだ……ああ、なんて魅力的な残酷さ。
あなた自身が、すでに完成された芸術作品じゃないですか?」
私は冷笑を浮かべ、彼の後頭部を床に押しつけた。
「私の外見を勝手に評価するな。気味が悪い」
「でも、否定できないでしょう? その二色の髪、紫の瞳……。
すべてが、あなたの内側にある『怪物性』を象徴している。
可愛らしく見せかけて、実は誰よりも冷たく、誰よりも凶悪で……僕の理想の『モデル』です。
ねえ、もし僕があなたを作品にできたら、どんな色で塗りつぶそうか……」
「その先を言ったら、今すぐ舌を切り落とすわ」
ソウヤは恍惚と目を細めた。
「……はい。ますます魅力的だ。あなたに壊されるのも、きっと至高の芸術でしょう」
ソウヤの瞳には、服従と、抑えきれない狂気が深く燃えていた。
「あなたは、本当に容赦がないですね……でも、それが良い……」
「容赦でシオンは守れない」
その名前を口にした瞬間、ソウヤが首を傾けた。
「シオン?」
「その名前を評価するな」
「はい」
ソウヤは静かに微笑んだ。
「協力します。あなたがそこまで壊れそうな顔をする理由を、少し見てみたくなりました」
「見世物ではない」
「ええ。ですが、人間が何かを守るために壊れていく姿は、いつも物語になります」
「ソウヤ」
「黙ります」
「よろしい」
⸻
三人を集めたのは、内部遷移区画の旧訓練室だった。
監視カメラは既に上書きした。
音声ログは遅延挿入済み。
熱源センサーには、虚偽の巡回パターンを流している。
私一人なら難しい。
だが、No.XXXの資料から得た発想がある。
記録が現実を支配するなら、現実を直接壊すより、記録の側を先に汚染すればいい。
監視記録に「異常なし」と刻ませ続ければ、施設は異常を発見できない。
観測されない逸脱は、制度上存在しない。
これはNo.XXXの理論そのものではない。
だが、応用ではある。
そして、その瞬間。
記憶が逆流した。
⸻
6年後の2025年。
影村学園VIP室。
双灯祭DAY1、十二時。
厚いカーテン。
琥珀色のランプ。
白い皿。
銀のカトラリー。
真っ赤なクランベリージュース。
御影シオンが、私の前に座っている。
Echo-Bindingの紐に手繰られ、拒否権を失った後継。
私は、味覚刺激を使って彼女の精神構造を再固定していた。
味覚は古い入力だ。
言語より古く、視覚より深く、倫理より速い。
舌から入った情報は、島皮質、扁桃体、海馬、視床下部へ届く。
記憶と嫌悪と快不快を、理性の検閲より先に結合させる。
肺の料理。
肝臓の料理。
脳の料理。
それぞれを、呼吸、罪悪感、記憶の象徴として与えた。
シオンは震えていた。
それでも、食べた。
彼女の中の拒絶は、Echo-Bindingによって命令遂行へ変換されていた。
あの時、私は思った。
壊すことと救うことは、観測座標が違うだけで同じ曲線上に置ける。
救済は、本人の望む形とは限らない。
保護は、対象の自由を保存するとは限らない。
所有は、時に接続の最も安定した形式になる。
そしてシオンは、私のものになった。
いいえ、私はそう思い込んだ。
ネヤムの声が、記憶の奥で重なる。
――あなたが本当に欲しいのは、個体の所有じゃなくて、喪失しない接続だよ?
違う。私は群れが欲しいわけじゃない。
種が欲しいわけでもない。
シオンが欲しい。
ただ、シオンだけが。
⸻
記憶が途切れる。
私は旧訓練室に戻っていた。
呼吸が浅い。
シオンの心拍が、また揺れる。
同期率、0.84%
情動振幅、再上昇。
拒絶反応、継続。
外部干渉の可能性、増大。
私の奥で、怒りが再燃する。
ホノカ……あなたなの?
あなたが、シオンに触れているの?
「……ごめんなさい、上官」
私は小さく呟いた。
「でも、もう遅い」
扉が開く。
ネヤム、レイラ、ソウヤ。
三人が入ってくる。
ネヤムは静かに歩く。
レイラは拘束を外されても、獣のように肩を揺らしている。
ソウヤは穏やかな顔で周囲を見ていた。
彼らの内部には、私の光の紐が入っている。
Echo-marionnette
彼らは自由になったのではない。
私の支配下へ移っただけ。
瞬間、Echo-Binding本系統から反応が返る。
心拍、再び揺らぐ。
シオン。
シオン。
シオン。
誰があなたを揺らしているの?
誰があなたに触れようとしているの?
私の中で、怒りが立ち上がる?
前頭前野による抑制を、意図的に下げる。
扁桃体活動を許可。
交感神経出力を上げる。
攻撃性を、論理の刃として整形する。
私は怒っている。
私は憎んでいる。
ホノカを。
シオンを乱すものを。
私の観測できない場所で、シオンの心を揺らすすべてを。
「ホノカを消す」
声は冷えていた。
ネヤムが笑った。
「あなたは今、自分を悪役だと理解している。でも止まらない。そういう人は強い。
あと、あなたがホノカを消そうとすることで、もっと大きなものが動く」
「大きなもの?」
「シオン。ミネルヴァ。キース。第五の観測者。全部、同じ盤面に乗る」
「キースは関係ない」
「本当に?」
その質問は、不快だった。
「関係ない」
「上官さんは、あなたを止めると言ったよ」
「ここにいない」
「でも、言葉は残ってる」
私はネヤムを見る。
marionnetteが入っていなければ、ここで彼女はさらに踏み込んできただろう。
だが今は違う。
「それ以上、キースの言葉を使うな」
「はい」
三人が私を見る。
「私に協力し、ミネルヴァへ戻る。ホノカ抹消に加担する。
その暁には、あなたたちはリメイク・ファクトリーから解放される」
私は三人を見た。
捕食者。
人形師。
予言者。
いずれも、人間社会に戻していい存在ではない。
教育の場に置いていい存在でもない。
まして、私のような未成年が扱っていい存在ではない。
分かっている。
全部分かっている。
だが、私はもう“いい子”の側にはいない。
ミネルヴァ教育機構臨時特使。
その肩書きは、建前としては清潔だ。
でも今の私は、清潔ではない。
私は三人に寄生装置を投与し、服従させ、脱獄の駒にしようとしている。
それは悪だ。
言い訳はしない。
けれど、シオンの心拍が、また揺れた。
私は目を閉じる。
シオン。
シオン。
シオンは…
私の……
その思考を最後まで言語化する前に、私は目を開けた。
「……行くわ」
三人が反応する。
ネヤムは微笑む。
レイラは喉を鳴らす。
ソウヤは優雅に頭を下げる。
私は、扉のロックへ手を伸ばした。
指紋認証。
静脈認証。
声紋偽装。
管理者キー複製。
監視ログ遅延。
内部警報の閾値改竄。
施設は、観測によって管理されている。
ならば、観測の順番を入れ替えればいい。
私は学びすぎた。
No.XXXから。
キースの警告から。
ネヤムの思想から。
シオンの反応記録から。
そして、シオンの心拍から。
「ホノカ」
私は、至上最悪の敵の名を呼んだ。
「あなたがシオンを揺らすなら、私はあなたの存在条件を揺らす」
扉が開く。
白い廊下の向こうに、非常灯が伸びていた。
私は一歩踏み出す。
背後に三つの影。
私の中に、シオンの乱れた鼓動。
そして手の中に、No.XXXの機密文書。
未来を記録する者。
未来を食い破る者。
責任形式を脱臼させる者。
そんなものを、私は恐れない。
いいえ、恐れている。
恐れているから、使う。
守るために壊す。
救うために支配する。
愛しているから、奪い返す。
矛盾している。
けれど人間の脳は、矛盾を抱えたまま行動できるようにできている。
前頭前野は倫理を唱える。
扁桃体は殺意を燃やす。
海馬は記憶を守る。
側坐核は報酬を期待する。
人間とは、綺麗な一つの意思ではない。
複数の衝動が、一時的に同じ方向を向いた現象にすぎない。
今、私の中のすべてが同じ方向を向いている。
ミネルヴァへ。
シオンへ。
ホノカの抹消へ。
「おめでとうございます」
私は、小さく呟いた。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
「そして、さようなら」
リメイク・ファクトリーの扉が、背後で閉じた。
もう戻れない。
でも、それでいい。
私は、シオンを乱す全てのものに対する、最悪の観測者になる。
――観測者になる前にリメイク・ファクトリーの扉が閉じた時、私は理解した。
戻れない、という感覚は恐怖ではない。
むしろ、安堵に近い。
もう迷わなくていい。
もう清潔な言葉を探さなくていい。
もう自分を、教育機構の優等生として偽装しなくていい。
私は三人を支配した。
ネヤムの思想を封じ、利用した。
レイラの捕食衝動を条件づけた。
ソウヤの創作欲求を命令待機状態に置いた。
彼らは自由になったのではない。
私の鎖へ、檻を移しただけだ。
最低だと思う。
でも、後悔はまだ来ない。
後悔より先に、シオンの心拍が届く。
シオンの乱れが届く。
シオンを奪われるかもしれないという、耐え難い誤差が届く。
ならば私は、その誤差を潰す。
キース上官。
あなたの言葉は、まだ私の中に残っています。
けれど私は、その言葉を守るのではなく、踏み越える方を選びました。
だからこれは、私の帰還記録であり、告別記録でもある。
清潔だった私へ。
まだ止まれた私へ。
まだ「所有ではない」と言えた私へ。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




