EP178. 未来を自己継承した怪物
この記録は、私が鏡ヶ原リゼを止められなかった日の記録である。
正確には、止めようとして、失敗した記録だ。
第五の観測者。
未来の第五人目。
観測テロリスト。
その資料を読んだ瞬間から、リゼの中で何かが開いた。
私はそれを教育者として止めるべきだった。
上官として拘束するべきだった。
大人として、もっと早く彼女をこの場所から連れ出すべきだった。
だが、遅かった。
リゼは未来の自分を拒絶しなかった。
彼女はそれを、継承した。
この記録を読む者がいるなら、ひとつだけ覚えておいてほしい。
鏡ヶ原リゼは、突然壊れたのではない。
彼女はずっと危うかった。
ずっと賢すぎた。
ずっと、誰かに叱られる必要があった。
そして私は、最後まで彼女を生徒として扱おうとした。
それが正しかったのかは分からない。
だが、それ以外の方法を、私は知らなかった。
繰り返す、これは、教育統括官キース・フロストの最終記録である。
皮肉なことに、私は彼女の「大義」を永遠に縛る鎖となってしまった。
私が死ぬ直前まで、彼女を人間として呼び続けた『教育者』としての最後の記録だ。
――キース・フロスト最終記録
――国家人体矯正研究所・未成年棟/第零希望破砕群・内部遷移区画
記録者:キース・フロスト
⸻
リゼの異変は、突然訪れた。
彼女は、頭を抱えた。
「うっ……」
リゼの膝が、わずかに折れる。
彼女に呼応するかのように、白い廊下の照明が滲んだ。
視界の輪郭がほどけ、床と壁の境目が分からなくなる。
リゼの目が、ただ、目だけが変わった。
「シオン……」
声が漏れた。
「シオン……私の観測範囲から、消えないで……。
あなたはまだ、私の中で定義されている。まだ、私の手順の中にいる。
なのに、なぜ輪郭が薄れるの……?」
止まらない。
リゼがシオンと呼べば呼ぶほど、彼女の輪郭が遠ざかる。
まるで、思い出そうとすると、別の誰かの手で塗り潰されてしまう……。
そんな感覚が彼女を襲っているとでも言うのだろうか。
「だめ……」
リゼは震える指でこめかみを押さえた。
「私のシオンを、私の外へ出さないで。
あの子は自由になれば壊れる。
いいえ、違う……壊れる可能性があると、私は知っている。
だから、返して。私の観測可能範囲へ、返して……!」
リゼがその言葉を口にした瞬間、私の胸の奥で何かが裂けた。
所有ではない。
執着でもない。
もっと原始的で、もっと剥き出しの拒絶と怒り。
「やめて……シオンを……」
リゼの唇が震えた。
そして、頭の奥で誰かの声が開いた気がした。
私は、教育統括官として、数多くの子どもの変化を見てきた。
恐怖で目が濁る瞬間。
怒りで視界が狭まる瞬間。
諦めで光が消える瞬間。
そして、理解しすぎた子どもが、もう二度と元の場所へ戻れなくなる瞬間。
だが、今のリゼはそのどれでもなかった。
リゼの唇が動いた。
声は彼女のものだった。
だが、そこに重なる調子は違った。
もっと柔らかい。
もっと内向的。
もっと自分の悪性を見慣れた声。
そして何より――古かった。
未来から来た声なのに、まるで人類史の奥底から這い上がってきたような、静かな老成があった。
「……シオン……選抜ゲームβ……茅野イリア……。
あの女が、最初に接続したのね。
Echo-Binding……影村学園……EXIT:CODE……双灯祭……。
理解したわ。これは偶然ではない。人類史で何度も繰り返された、支配構造の継承。
戦争も、粛清も、洗脳も、収容所も、革命も、全部同じ。
人間は、自分で選んだと思った瞬間に、最も綺麗に壊れる」
私は、その一文だけで胃の奥が沈むのを感じた。
「リゼ……!!」
必死に呼びかける。
反応はない。
彼女の瞳孔がわずかに揺れている。
目の前の廊下を見ていない。
私を見ていない。
ヒュドラも雨宮も見ていない。
彼女は何を見ている。
いや、違う。
彼女は見ているのではない。
読んでいる。
自分の中に流し込まれてくる、未来の自己記録を。
そして、そのすべてを拒絶せず、分類し、接続し、採用しようとしている。
「雨宮……!!」
私は低く言った。
「これは何だ……」
雨宮は答えない。
ヒュドラも答えない。
その沈黙で十分だった。
こいつらは知っていた。
No.XXXの資料を読ませれば、リゼに何かが接続する。
第五の観測者という語が、彼女の内部にある何かを開く。
そして、その反応こそが、ホセの見たかったものだ。
私は、遅すぎる理解に歯を食いしばった。
リゼは、未来を見ている。
いや、未来を見ているだけではない。
未来の自分を、インストールされている。
「止めろ……!!」
雨宮が静かに答えた。
「今止める方が危険です」
「危険だから止めろと言っている……!」
「いいえ。接続が始まっています。
ここで外部遮断をかければ、人格連続性に不可逆的な損傷が出る可能性があります」
「専門用語で逃げるな!! リゼは今、何を見ている!?」
雨宮は、少しだけ間を置いた。
「おそらく、未来の自己記録です。No.XXXの影響と仮定すると、2022年の自己記録ということになります」
その言葉は、廊下に重く落ちた。
未来の自己記録。
つまり、これは単なる記憶ではない。
予測でもない。
幻想でもない。
第五の観測者による外部干渉だけでもない。
リゼ自身が、三年後に体験するかもしれない記録。
彼女が何を見て、何を選び、何を壊したのか。
そのログが、現在のリゼへ流れ込んでいる。
「馬鹿な……!?」
私は呟いた。
「そんなもの、本人に読ませていいわけがない……!」
ヒュドラが、静かに言った。
「だから、普通は読ませない」
「ならなぜ読ませた!!」
「ホセが望んだから」
その名を聞いた瞬間、怒りが一段深くなった。
ホセ。
あの男は、いつもそうだ。
人間を地獄へ送る時ほど、教育の顔をする。
必要な授業だと言う。
未来のためだと言う。
本人の成長だと言う。
そして、戻れない線の向こうへ平然と押し出す。
「リゼ!」
私は声を強めた。
「戻れ……!! 今見ているものを、そのまま飲むな……!!
分析するな! 採用するな! それは君の現在ではない!!」
リゼの目が、ゆっくりこちらへ戻った。
その瞬間、私は理解した。
遅かった。
⸻
あれは――受信だった。
いや、違う。
受信などという受動的な言葉では足りない。
彼女は、未来から流れ込む記憶を拒まなかった。
むしろ、受け入れた。
享受した。
そして、組み込んだ。
まるで、欠けていた人格の拡張パッチが、彼女の奥深くで正常に展開されていくようだった。
目の焦点が戻る。
呼吸が整う。
震えていた指先が止まる。
その変化が、恐ろしかった。
取り乱していた少女が落ち着いたのではない。
落ち着いてはいけないものが、彼女の中で安定稼働を始めたのだ。
「……これは、誰にも読まれない方が、世界のためにはいい」
まるで祝辞のように。
まるで処刑宣告のように、彼女は呟いた。
「――おめでとうございます」
「そして、さようなら」
おめでとうございます?
そして、さようなら?
どういうことだ。
そして、リゼの口調が変わる。
「キース上官」
彼女は私の名を呼んだ。
声の高さは変わらない。
だが、口調が違う。
以前のリゼは、どれほど危険なことを言っても、どこかに生徒の響きが残っていた。
上官へ報告する声。
許可を求める声。
条件を確認する声。
契約の穴を探す声。
だが今の声には、それがない。
そこにあるのは、命令権を持つ者の静けさだった。
誰かに認められる必要がない声。
自分がすでに上位に立っていると知っている声。
未来の支配者が、現在の部下へ最後通告を下す声。
「私は、理解しました」
「違う……!!」
私は即答した。
「君は理解したんじゃない……未来の自分に侵食されているだけだ!」
リゼは、ほんの少し微笑んだ。
「侵食。上官らしい表現です。
けれど、不正確です。
これは外部から押し込まれた異物ではありません。
私の中に元から存在していた構造へ、未来の記録が名前を与えただけです」
「何が不正確だ!」
「これは侵食ではありません」
彼女は静かに言った。
「継承です」
その一言で、私の中の警報が鳴った。
継承。
最悪の語だ。
人間は、拒絶できる。
汚染なら洗える可能性がある。
侵食なら切り離せる可能性がある。
だが、継承は違う。
自分で受け取る。
自分で選び取る。
自分のものとして認める。
「リゼ……!!」
私は一歩近づいた。
「君はまだ戻れる。未来の記録がどれほど鮮明でも、それは決定ではない……!!
君の意思は今ここにある!! 三年後の君が何を書こうと、今の君が従う義務はない……!!」
「義務ではありません」
リゼは答えた。
「必要です」
その語に、私は嫌なほど聞き覚えがあった。
必要。
彼女が倫理を踏み越える時、いつも使う言葉だ。
「私は、御影シオンを保存する必要があります」
「保存?」
「はい」
リゼの声は澄んでいた。
恐ろしいほどに。
「彼女は、単なる個人ではありません。
観測と破壊の二面性を持つ構造です。
救済の失敗によって壊れ、壊れたことで未来を観測できる形になった。
あれを放置すれば、誰かのくだらない善意によって薄められる。
誰かのくだらない愛によって平凡な人間に戻される。
誰かのくだらない倫理によって、せっかくの構造が損なわれる」
「リゼ……!!」
「私は、それを許容しません」
その声で、空気が冷えた。
リゼは、もう“許可を求める生徒”ではなかった。
許容するかしないかを決める側に立っていた。
「シオンは、私の観測可能範囲に置かれるべきです」
「その言い方をやめろ……!!」
「いいえ。やめません」
彼女は私を見た。
まっすぐに。
「以前の私は、これを独占欲と呼び、羞恥と罪悪感で包んでいました。
けれど、三年後の私はすでに処理している。
所有は悪ではないと。つまり、未処理の所有が悪なのです。
管理され、構造化され、目的を持った所有は、保護よりも正確です」
「違う……!」
「違いません」
「それは支配だ……!!」
「はい」
即答だった。
「だから、有効です」
私は、一瞬言葉を失った。
有効。
倫理ではなく、有効性。
愛ではなく、管理。
救済ではなく、保存。
教育ではなく、所有。
その変化は、あまりにも速かった。
だが、急に別人になったわけではない。
もともとリゼの中にあったものだ。
私は、それを見誤っていたのかもしれない。
いや、違う。
見ていた。
ずっと見ていた。
だから止めようとしていた。
それでも止められなかった。
⸻
「上官」
リゼは、穏やかに言った。
「2025年の御影シオンについて、私は断片を得ました」
「言うな……!!」
「影村学園。生徒会長。時間軸のずれ。感情を鍵とする記憶。記録の改稿者。
デスゲーム。ウルフチェア。エアロック。原初の経典。
そして、その背後にいる私」
「言うなと言った……!!」
その言葉だけは、廊下に異様に響いた。
背後にいる私。
リゼは、自分でそれを言った。
「私は、彼女の背後に立つ巨悪になります」
「なるな……!! 何を言っている……!?」
「もう、なっています」
「まだだ!」
私は怒鳴った。
「まだ君はここにいる! 2019年の君は、まだその未来を選んでいない!! 今なら拒める……!!」
「拒めば、何が残りますか?」
「君が残る……!」
「不十分です」
「不十分?」
「はい」
リゼは淡々と答えた。
「私は、私だけでは成立しません。
私には、シオンが必要です。
彼女を観測し、保存し、壊れ方を管理する。
そして、彼女の周囲に配置される人間を制御する。
そのために、私は存在します」
「自分を道具にするな……!!」
「道具ではありません」
彼女は微笑んだ。
「設計者です」
その瞬間、私は理解した。
今のリゼは、自分を被害者として見ていない。
未来の自分を加害者としても見ていない。
罪悪感すら、彼女の中では運用可能な感情資源に変換されている。
彼女の中で、インストールは完了していた。
いや、正確には違う。
未来の記録が、リゼを作り替えたのではない。
リゼ自身が、未来の記録を読んで、自分の中にあった怪物の起動権限を承認したのだ。
「リゼ……!!」
私は、静かに言った。
「君は今、とても危険な顔をしている」
「自覚しています」
「自覚しているなら止まれ」
「止まれません」
「なぜだ」
「止まる理由が、あなたの倫理にしか存在しないからです」
私は息を呑んだ。
リゼは続ける。
「私の内部では、もう別の倫理体系が立ち上がっています。
観測者は、観測対象を道具にするべき。
倫理は線を引く者の安全圏にすぎない。
美しい壊れ方だけが、記録に値する。
私はそれを、全面的に肯定はしません」
「なら――」
「ですが、採用します」
まただ。
彼女は否定しない。
全面肯定もしない。
ただ、採用する。
それが一番危険だった。
「君は未来の自分の言葉に酔っている」
「はい」
リゼは認めた。
「酔っています。享受しています。
怖いほどに、気持ちがいい。
欠けていた定義が埋まる快楽。
名前のなかった衝動に、完全な文法が与えられる快楽。
自分の醜さを、自分の役割として受け入れる快楽。
キース上官、これは堕落ではありません。最適化です」
「リゼ!」
「私は、ようやく分かりました」
彼女は、私を見た。
その目は美しかった。
美しすぎた。
「私は善人になる必要がない」
⸻
私は、そこで怒鳴るのをやめた。
怒鳴っても届かない。
命令しても届かない。
説得しても、おそらく彼女はその構造を解体する。
なら、最後にできることは一つだ。
言葉を置く。
教育統括官として。
馬鹿みたいに。
何度でも。
「リゼ」
「はい」
「善人になれとは言っていない」
彼女が、わずかに目を細める。
「私は一度も、君に善人になれとは言っていない。
正しい人間になれとも、綺麗な人間になれとも言っていない」
「では、何を求めているのですか?」
「迷え」
私は言った。
「君の中にある所有欲も、支配欲も、観測者としての快楽も、全部消せとは言わない。
消えないものを消せと言うほど、私は楽観的ではない。
だが、それを正しさとして固定するな。
必要という言葉で固めるな。
未来の自分のログを、聖典みたいに扱うな」
リゼは黙っている。
「君は、君の醜さを見た。
なら、それを抱えたまま迷え。
御影シオンを所有したいなら、その欲望を恥じろ。
支配したいなら、自分が支配者になろうとしていることに怯えろ。
観測したいなら、見られる側の痛みを忘れるな」
リゼの口元から、微笑みが消えた。
私は続ける。
「それが人間だ」
「人間……」
彼女は反復した。
「はい。旧世代OSですね」
「そうだ」
私は言った。
「それでいい。旧世代でいい。
遅くて、重くて、非効率で、すぐ迷って、すぐ傷つく。
それでも他人を完全には所有できない。
それでいい」
「それが、あなたの教育ですか?」
「そうだ」
リゼは、静かに目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
届いた。
私はそう思った。
その一瞬だけでも、リゼは迷った。
なら、まだ終わっていない。
だが次に彼女が目を上げた時、その迷いは消えていた。
「キース上官」
「何だ」
「あなたは、やはり邪魔です」
⸻
リゼは、ヒュドラと雨宮へ向き直った。
その動作には、迷いがなかった。
「ヒュドラ監獄長。雨宮技師」
二人は応答しない。
ただ、彼女を見る。
リゼは続けた。
「キース・フロスト教育統括官を拘束してください」
その言葉を聞いた瞬間、私は一拍遅れた。
命じた。
今、リゼは命じた。
彼女は私の部下だ。
この視察においては、私の管理下にある。
同行責任者は私だ。
指示系統上、彼女にそんな権限はない。
だが、ヒュドラは動いた。
雨宮も動いた。
私は、そこで本当に息を呑んだ。
「待て……!!」
声が遅れた。
ヒュドラが私の右腕を取る。
雨宮が左側へ回る。
動きは速い。
戦闘ではない。
処理だ。
彼らにとって、これは暴力ですらない。
ただの手順だった。
「ヒュドラ!」
私は腕を振りほどこうとする。
「これは規約違反だ。私は同行責任者だぞ……!!」
ヒュドラは、近くで囁くように言った。
「ごめんなさいね、キース。今、この場の優先順位が変わったの」
「誰が変えた」
「ホセ」
その名で、私はすべてを理解した。
ああ。
最初からそういう設計だったのか。
リゼがどう反応するか。
私がどこで止めるか。
そして、私が止めようとした時、リゼが私を排除するかどうか。
それを見ていた。
ホセは、私を同行責任者として配置したのではない。
リゼが最初に越えるべき教育的制止線として配置したのだ。
「雨宮!」
私は叫ぶ。
「お前も分かっていたんだろう!? これを許せば、リゼは戻れなくなる……!!」
雨宮は、私の腕を押さえたまま静かに答えた。
「戻すことが目的ではありません」
「何だと……?」
「進ませることが目的です」
私は、怒りで視界が赤くなった。
「お前たちは教育を何だと思っている……!!」
雨宮は答えない。
ヒュドラも答えない。
代わりに、リゼが答えた。
「教育とは、次の段階へ移行させることです」
「違う……!!」
「違いません」
「違う!」
私は拘束されたまま、彼女を睨む。
「教育は、人間を都合のいい形へ進化させることじゃない。
戻れる場所を残すことだ!!
失敗しても、壊れても、間違えても、まだ人間として扱われる場所を作ることだ!!」
リゼは、悲しそうに微笑んだ。
「だから、あなたは私を止める」
「そうだ」
「だから、あなたはここで終わる……」
その一言で、廊下の音が消えた。
⸻
リゼは、私から目を逸らさなかった。
「キース・フロストは、私の観測統合に対する最大の阻害因子です」
声が変わっていた。
完全に。
もう生徒ではない。
報告者でもない。
支配者だった。
「彼は教育倫理を用いて、私の未来接続を遮断しようとしています。
これは、第五の観測者に関する検証、ならびに御影シオン保存計画の遂行において、重大な障害となります」
「保存計画だと?」
私は吐き捨てる。
「君は今、自分が何を言っているか分かっているのか?」
「分かっています」
リゼは即答した。
「私は御影シオンを、私の観測可能範囲に固定します。
そのために必要な人物は配置し、不必要な人物は排除します」
「私は不必要か……?」
「いいえ」
彼女は少しだけ首を横に振った。
「あなたは、必要でした」
その過去形が、私を刺した。
「あなたは、私に迷いを教えました。
人間として踏み止まる言葉を置きました。
私は、それを記録します。
ですが、ここから先の私には、その迷いが過剰です」
「リゼ……」
「はい」
「それを言えるなら、まだ止まれる」
「いいえ」
彼女は静かに言った。
「それを言えるから、もう止まりません」
ヒュドラが、私の拘束を強めた。
雨宮が、何かを取り出す気配。
私は身体をねじる。
だが、動けない。
「リゼ! ホノカをどうするつもりだ!」
その名を出した瞬間、リゼの目が変わった。
冷たさではない。
明確な殺意。
「赤白木ホノカは、この宇宙から抹消します」
その声には、一切の揺れがなかった。
「殺害では足りません。排除でも不十分です。
彼女は死後の物語処理を得意とする。
終端を劇場化し、残響を利用し、消されたことすら自分の演出へ変える。
だから、殺すのではありません」
リゼは続けた。
「存在したという観測を、根から折りたたみます」
私は、寒気を覚えた。
「そんなことができると思っているのか……?」
「できます、とは言いません。
けれど、できる方法を探します。
人類史において、存在抹消は何度も試みられてきました。
粛清、焚書、戸籍抹消、記録改竄、思想犯の再教育。
どれも不完全でした。だから私は、もっと精密にやります」
「そのために、ネヤムを使うのか?」
「はい」
「レイラは?」
「はい」
「ソウヤは?」
「はい」
「正気か……?」
私の声は震えていた。
リゼは、微笑む。
「正気です。
だから危険なのです。
上官が、ずっとそう言っていました」
それは、私の言葉だった。
私の言葉が、彼女の中で刃物に変わっていた。
⸻
リゼはヒュドラへ向く。
「傘羽ネヤム、斉木レイラ、白峰ソウヤの三名を解放します」
ヒュドラは目を細めた。
「簡単に言うわね」
「簡単ではありません。必要です」
雨宮が低く言う。
「三名同時解放は施設崩壊級のリスクです」
「承知しています」
「制御できますか」
リゼは、そこで初めて少し笑った。
支配者の笑みだった。
「制御ではありません。配置です」
「配置」
「ネヤムは思想感染型生物媒介拡張因子。
レイラは純粋捕食因子。
ソウヤは美的終端加工因子。
それぞれ単体では危険ですが、目的を限定すれば、ホノカ抹消計画において機能します」
「その目的は?」
ヒュドラが問う。
リゼは答えた。
「ミネルヴァへ帰還し、赤白木ホノカを殺害。
その後、存在残響を消去します」
「宇宙から抹消、だったわね」
「はい」
「いい響きね」
ヒュドラの声には、軽薄な笑みが混じっていた。
私は叫んだ。
「ふざけるな!」
廊下に声が響く。
「ネヤムを外に出せば、思想どころか生態系が危険にさらされる。
レイラは人を食う。ソウヤは人を作品にする。
その三人をミネルヴァへ連れていく?
それが何を意味するか分かっているのか……!!」
リゼは私を見る。
「分かっています」
「なら止めろ……!」
「止まりません」
「リゼ!」
「キース上官」
彼女は、静かに言った。
「あなたは最後まで、私を生徒として扱ってくれました」
その声だけは、少しだけ昔のリゼに戻った。
ほんの一瞬。
「それには、感謝しています」
「なら――」
「だから、これ以上あなたに未来は見せません」
雨宮が動いた。
⸻
首筋に冷たい感触が触れた。
注射器か。
刃物か。
電極か。
分からない。
分からないまま、身体から力が抜け始めた。
私は膝を折りかける。
だが、ヒュドラと雨宮が支えているせいで倒れない。
死ぬ時まで姿勢を管理される。
人体矯正研究所らしい。
反吐が出るほどに。
「リゼ……」
声が掠れる。
彼女は近づいてきた。
「はい」
「やめろ……」
「できません」
「私は、君をまだ――」
息が詰まる。
胸が重い。
視界が狭まる。
それでも、言わなければならない。
「生徒だと……思っている」
リゼの表情が、初めて歪んだ。
ほんの少しだけ。
だが、確かに。
「……知っています」
「なら、……戻れ」
「戻りません」
「迷……え」
その言葉に、彼女は沈黙した。
届いた。
今度こそ、届いた。
リゼは一瞬だけ、目を伏せた。
支配者の顔が消える。
そこにいたのは、ほんの一瞬だけ、私が知っている鏡ヶ原リゼだった。
危うくて。
賢すぎて。
人間を所有しようとして。
それでも、どこかで叱られることを必要としていた生徒。
「キース上官」
彼女は小さく言った。
「あなたの言葉は、痛いです」
「覚えておけ……」
「はい」
「使……え」
「……はい」
「私を……殺したことを、正当化……するな……」
リゼの喉が、わずかに動いた。
「それは、難しいです」
「なら、……難しいまま……持て」
私は言った。
「分類するな……処理するな……必要だったと……言うな……。
私を……殺した……ことを、君の中で……綺麗にするな……」
リゼは、初めて答えに詰まった。
それだけで十分だった。
いや、十分ではない。
だが、私にはもう、それしか残せない。
⸻
音が遠くなる。
ヒュドラの声がする。
「手順を進めるわ。雨宮、三名の解放準備」
雨宮が答える。
「承認コードは?」
リゼの声。
「私が発行します」
「権限は?」
「ホセ理事長の観測許可により、臨時上位権限を取得済みです」
ヒュドラが笑う。
「本当に、どこまで仕込んでるのかしらね、あの人」
「ホセ理事長の意図は、後で検証します」
リゼの声は、もう揺れていなかった。
「今はミネルヴァへ戻ります」
「ホノカを殺すために?」
「はい」
「宇宙から抹消するために?」
「はい」
雨宮が低く言った。
「傘羽ネヤムは、解放時点で交渉を要求するはずです」
「構いません。彼女には取引を与えます」
「斉木レイラは?」
「餌を与えます。ただし対象を限定します」
「白峰ソウヤは?」
「創作対象を提示します。
彼は美しい終端を求める。
ホノカは、それに耐えうる素材です」
私は、声を出そうとした。
やめろ。
その三人を出すな。
ホノカを殺すな。
リゼ、戻れ。
だが、声にならない。
身体が冷えていく。
視界の端が黒く溶ける。
その中で、リゼだけが見えた。
彼女は、もうこちらを見ていなかった。
前を見ていた。
支配者の顔で。
観測者の顔で。
未来の御影シオンの背後に立つ巨悪として。
だが、私は最後に一つだけ見た。
彼女の右手が、わずかに震えていた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少し。
私はそれを見て、笑いそうになった。
震えている。
なら、まだ完全ではない。
なら、私の負けは完全ではない。
⸻
意識が沈む。
それでも、私は最後に言葉を探した。
教育統括官として。
上官として。
愚かな大人として。
リゼ……
声が出たか分からない。
だが、彼女が振り返った気がした。
「はい、キース上官」
その返事だけは、昔のままだった。
私は言った。
怒られ続けろ……
リゼの目が揺れる。
「……誰に、ですか」
君自身にだ……
それが、最後だった。
視界が閉じる。
音が消える。
痛みも消える。
最後に残ったのは、胃薬を飲んでおいてよかった、という実にくだらない感想だった。
まったく。
教育統括官の最終思考としては、最低だ。
だが、それでいい。
私は聖人ではない。
英雄でもない。
未来を救う観測者でもない。
胃を痛めながら、生徒を叱るだけの大人だった。
それで十分だったのかは分からない。
ただ、最後までそうであろうとした。
⸻
以後、キース・フロストによる記録なし。
ただし、もしこの記録が残るなら。
鏡ヶ原リゼは、怪物になったのではない。
怪物になることを選んだのでもない。
もっと厄介だ。
彼女は、自分の中にある怪物を理解し、採用し、運用し始めた。
未来からの啓示を受けたのではない。
啓示を、手順に変えた。
狂気に呑まれたのではない。
狂気を、自分の仕様として実装した。
だからこそ、誰かが叱らなければならない。
誰かが止めなければならない。
誰かが、彼女を最後まで生徒と呼ばなければならない。
私は死んだ。
止められなかった。
だが、言葉は置いた。
迷え。
分類するな。
正当化するな。
怒られ続けろ。
それが彼女の中に残るなら。
たとえリゼがネヤムを解放しても。
レイラを連れても。
ソウヤを従えても。
ホノカをこの宇宙から抹消しようとしても。
そのどこかで、私の声が邪魔をする。
それだけが、私の最後の希望だった……。
この文書を読めば、大抵の人は、私のことを嫌いになると思います。
上官を殺し、
収容者を解放し、
赤白木ホノカを、この宇宙から抹消しようとしている人間だから。
しかも私は、それを感情の暴走ではなく、必要な判断として実行しました。
だから、嫌って構いません。
観測者は、嫌われているくらいがちょうどいい。
好かれてしまうと、誰かの痛みを「守るべきもの」と誤認して、正しい終端処理を見誤るからです。
ただし、ひとつだけ訂正しておきます。
キース上官は、無駄ではありませんでした。
彼は最後まで、私を生徒と呼びました。
私が支配者の側へ移行しても、観測者として開いてしまっても、未来の私を受け入れてしまっても。
最後まで、私を叱りました。
迷え。
分類するな。
正当化するな。
怒られ続けろ。
その言葉は、まだ残っています。
不快です。
非効率です。
けれど、消えません。
未来自己記録のインストールは完了しました。
観測者としての権限も、支配者としての文法も、御影シオンを保存するための手順も、すでに私の中で起動しています。
それでも、キース上官の声だけは削除できませんでした。
この記録は、あくまで個人ログとして残しておきます。
私がこの後、何を選び、何を壊し、誰を殺したのか。
そして、誰の言葉を殺しきれなかったのか。
もし、あなたがこの記録を読んで、私のことを少しでも理解してしまったなら――
それはきっと、あなたももう観測者の側に足を踏み入れているということです。
おめでとうございます。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




