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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP178. 未来を自己継承した怪物

 この記録は、私が鏡ヶ原リゼを止められなかった日の記録である。


 正確には、止めようとして、失敗した記録だ。


 第五の観測者。

 未来の第五人目。

 観測テロリスト。


 その資料を読んだ瞬間から、リゼの中で何かが開いた。


 私はそれを教育者として止めるべきだった。

 上官として拘束するべきだった。

 大人として、もっと早く彼女をこの場所から連れ出すべきだった。


 だが、遅かった。


 リゼは未来の自分を拒絶しなかった。

 彼女はそれを、継承した。


 この記録を読む者がいるなら、ひとつだけ覚えておいてほしい。


 鏡ヶ原リゼは、突然壊れたのではない。


 彼女はずっと危うかった。

 ずっと賢すぎた。

 ずっと、誰かに叱られる必要があった。


 そして私は、最後まで彼女を生徒として扱おうとした。


 それが正しかったのかは分からない。

 だが、それ以外の方法を、私は知らなかった。


 繰り返す、これは、教育統括官キース・フロストの最終記録である。


 皮肉なことに、私は彼女の「大義」を永遠に縛る鎖となってしまった。


 私が死ぬ直前まで、彼女を人間として呼び続けた『教育者』としての最後の記録だ。


 ――キース・フロスト最終記録


 ――国家人体矯正研究所・未成年棟/第零希望破砕群・内部遷移区画

 記録者:キース・フロスト



 リゼの異変は、突然訪れた。


 彼女は、頭を抱えた。


 「うっ……」


 リゼの膝が、わずかに折れる。


 彼女に呼応するかのように、白い廊下の照明が滲んだ。

 視界の輪郭がほどけ、床と壁の境目が分からなくなる。


 リゼの目が、ただ、目だけが変わった。


 「シオン……」


 声が漏れた。


 「シオン……私の観測範囲から、消えないで……。

  あなたはまだ、私の中で定義されている。まだ、私の手順の中にいる。

  なのに、なぜ輪郭が薄れるの……?」


 止まらない。


 リゼがシオンと呼べば呼ぶほど、彼女の輪郭が遠ざかる。

 まるで、思い出そうとすると、別の誰かの手で塗り潰されてしまう……。

 そんな感覚が彼女を襲っているとでも言うのだろうか。


 「だめ……」


 リゼは震える指でこめかみを押さえた。


 「私のシオンを、私の外へ出さないで。

  あの子は自由になれば壊れる。

  いいえ、違う……壊れる可能性があると、私は知っている。

  だから、返して。私の観測可能範囲へ、返して……!」


 リゼがその言葉を口にした瞬間、私の胸の奥で何かが裂けた。


 所有ではない。

 執着でもない。

 もっと原始的で、もっと剥き出しの拒絶と怒り。


 「やめて……シオンを……」


 リゼの唇が震えた。


 そして、頭の奥で誰かの声が開いた気がした。


 私は、教育統括官として、数多くの子どもの変化を見てきた。


 恐怖で目が濁る瞬間。

 怒りで視界が狭まる瞬間。

 諦めで光が消える瞬間。

 そして、理解しすぎた子どもが、もう二度と元の場所へ戻れなくなる瞬間。


 だが、今のリゼはそのどれでもなかった。


 リゼの唇が動いた。


 声は彼女のものだった。


 だが、そこに重なる調子は違った。


 もっと柔らかい。

 もっと内向的。

 もっと自分の悪性を見慣れた声。


 そして何より――古かった。


 未来から来た声なのに、まるで人類史の奥底から這い上がってきたような、静かな老成があった。


 「……シオン……選抜ゲームβ……茅野イリア……。

  あの女が、最初に接続したのね。

  Echo-Binding……影村学園……EXIT:CODE……双灯祭……。

  理解したわ。これは偶然ではない。人類史で何度も繰り返された、支配構造の継承。

  戦争も、粛清も、洗脳も、収容所も、革命も、全部同じ。

  人間は、自分で選んだと思った瞬間に、最も綺麗に壊れる」


 私は、その一文だけで胃の奥が沈むのを感じた。


 「リゼ……!!」


 必死に呼びかける。


 反応はない。


 彼女の瞳孔がわずかに揺れている。


 目の前の廊下を見ていない。

 私を見ていない。

 ヒュドラも雨宮も見ていない。


 彼女は何を見ている。


 いや、違う。


 彼女は見ているのではない。


 読んでいる。


 自分の中に流し込まれてくる、未来の自己記録を。

 そして、そのすべてを拒絶せず、分類し、接続し、採用しようとしている。


 「雨宮……!!」


 私は低く言った。


 「これは何だ……」


 雨宮は答えない。


 ヒュドラも答えない。


 その沈黙で十分だった。


 こいつらは知っていた。


 No.XXXの資料を読ませれば、リゼに何かが接続する。

 第五の観測者という語が、彼女の内部にある何かを開く。

 そして、その反応こそが、ホセの見たかったものだ。


 私は、遅すぎる理解に歯を食いしばった。


 リゼは、未来を見ている。


 いや、未来を見ているだけではない。


 未来の自分を、インストールされている。


 「止めろ……!!」


 雨宮が静かに答えた。


 「今止める方が危険です」


 「危険だから止めろと言っている……!」


 「いいえ。接続が始まっています。

  ここで外部遮断をかければ、人格連続性に不可逆的な損傷が出る可能性があります」


 「専門用語で逃げるな!! リゼは今、何を見ている!?」


 雨宮は、少しだけ間を置いた。


 「おそらく、未来の自己記録です。No.XXXの影響と仮定すると、2022年の自己記録ということになります」


 その言葉は、廊下に重く落ちた。


 未来の自己記録。


 つまり、これは単なる記憶ではない。


 予測でもない。

 幻想でもない。

 第五の観測者による外部干渉だけでもない。


 リゼ自身が、三年後に体験するかもしれない記録。


 彼女が何を見て、何を選び、何を壊したのか。


 そのログが、現在のリゼへ流れ込んでいる。


 「馬鹿な……!?」


 私は呟いた。


 「そんなもの、本人に読ませていいわけがない……!」


 ヒュドラが、静かに言った。


 「だから、普通は読ませない」


 「ならなぜ読ませた!!」


 「ホセが望んだから」


 その名を聞いた瞬間、怒りが一段深くなった。


 ホセ。


 あの男は、いつもそうだ。


 人間を地獄へ送る時ほど、教育の顔をする。

 必要な授業だと言う。

 未来のためだと言う。

 本人の成長だと言う。


 そして、戻れない線の向こうへ平然と押し出す。


 「リゼ!」


 私は声を強めた。


 「戻れ……!! 今見ているものを、そのまま飲むな……!!

  分析するな! 採用するな! それは君の現在ではない!!」


 リゼの目が、ゆっくりこちらへ戻った。


 その瞬間、私は理解した。


 遅かった。



 あれは――受信だった。


 いや、違う。


 受信などという受動的な言葉では足りない。


 彼女は、未来から流れ込む記憶を拒まなかった。


 むしろ、受け入れた。


 享受した。


 そして、組み込んだ。


 まるで、欠けていた人格の拡張パッチが、彼女の奥深くで正常に展開されていくようだった。


 目の焦点が戻る。


 呼吸が整う。


 震えていた指先が止まる。


 その変化が、恐ろしかった。


 取り乱していた少女が落ち着いたのではない。


 落ち着いてはいけないものが、彼女の中で安定稼働を始めたのだ。


 「……これは、誰にも読まれない方が、世界のためにはいい」


 まるで祝辞のように。

 まるで処刑宣告のように、彼女は呟いた。


 「――おめでとうございます」


 「そして、さようなら」


 おめでとうございます?

 そして、さようなら?


 どういうことだ。


 そして、リゼの口調が変わる。


 「キース上官」


 彼女は私の名を呼んだ。


 声の高さは変わらない。


 だが、口調が違う。


 以前のリゼは、どれほど危険なことを言っても、どこかに生徒の響きが残っていた。


 上官へ報告する声。

 許可を求める声。

 条件を確認する声。

 契約の穴を探す声。


 だが今の声には、それがない。


 そこにあるのは、命令権を持つ者の静けさだった。


 誰かに認められる必要がない声。

 自分がすでに上位に立っていると知っている声。

 未来の支配者が、現在の部下へ最後通告を下す声。


 「私は、理解しました」


 「違う……!!」


 私は即答した。


 「君は理解したんじゃない……未来の自分に侵食されているだけだ!」


 リゼは、ほんの少し微笑んだ。


 「侵食。上官らしい表現です。

  けれど、不正確です。

  これは外部から押し込まれた異物ではありません。

  私の中に元から存在していた構造へ、未来の記録が名前を与えただけです」


 「何が不正確だ!」


 「これは侵食ではありません」


 彼女は静かに言った。


 「継承です」


 その一言で、私の中の警報が鳴った。


 継承。


 最悪の語だ。


 人間は、拒絶できる。

 汚染なら洗える可能性がある。

 侵食なら切り離せる可能性がある。


 だが、継承は違う。


 自分で受け取る。

 自分で選び取る。

 自分のものとして認める。


 「リゼ……!!」


 私は一歩近づいた。


 「君はまだ戻れる。未来の記録がどれほど鮮明でも、それは決定ではない……!!

  君の意思は今ここにある!! 三年後の君が何を書こうと、今の君が従う義務はない……!!」


 「義務ではありません」


 リゼは答えた。


 「必要です」


 その語に、私は嫌なほど聞き覚えがあった。


 必要。


 彼女が倫理を踏み越える時、いつも使う言葉だ。


 「私は、御影シオンを保存する必要があります」


 「保存?」


 「はい」


 リゼの声は澄んでいた。


 恐ろしいほどに。


 「彼女は、単なる個人ではありません。

  観測と破壊の二面性を持つ構造です。

  救済の失敗によって壊れ、壊れたことで未来を観測できる形になった。

  あれを放置すれば、誰かのくだらない善意によって薄められる。

  誰かのくだらない愛によって平凡な人間に戻される。

  誰かのくだらない倫理によって、せっかくの構造が損なわれる」


 「リゼ……!!」


 「私は、それを許容しません」


 その声で、空気が冷えた。


 リゼは、もう“許可を求める生徒”ではなかった。


 許容するかしないかを決める側に立っていた。


 「シオンは、私の観測可能範囲に置かれるべきです」


 「その言い方をやめろ……!!」


 「いいえ。やめません」


 彼女は私を見た。


 まっすぐに。


 「以前の私は、これを独占欲と呼び、羞恥と罪悪感で包んでいました。

  けれど、三年後の私はすでに処理している。

  所有は悪ではないと。つまり、未処理の所有が悪なのです。

  管理され、構造化され、目的を持った所有は、保護よりも正確です」


 「違う……!」


 「違いません」


 「それは支配だ……!!」


 「はい」


 即答だった。


 「だから、有効です」


 私は、一瞬言葉を失った。


 有効。


 倫理ではなく、有効性。


 愛ではなく、管理。

 救済ではなく、保存。

 教育ではなく、所有。


 その変化は、あまりにも速かった。


 だが、急に別人になったわけではない。


 もともとリゼの中にあったものだ。


 私は、それを見誤っていたのかもしれない。


 いや、違う。


 見ていた。


 ずっと見ていた。


 だから止めようとしていた。


 それでも止められなかった。



 「上官」


 リゼは、穏やかに言った。


 「2025年の御影シオンについて、私は断片を得ました」


 「言うな……!!」


 「影村学園。生徒会長。時間軸のずれ。感情を鍵とする記憶。記録の改稿者。

  デスゲーム。ウルフチェア。エアロック。原初の経典。

  そして、その背後にいる私」


 「言うなと言った……!!」


 その言葉だけは、廊下に異様に響いた。


 背後にいる私。


 リゼは、自分でそれを言った。


 「私は、彼女の背後に立つ巨悪になります」


 「なるな……!! 何を言っている……!?」


 「もう、なっています」


 「まだだ!」


 私は怒鳴った。


 「まだ君はここにいる! 2019年の君は、まだその未来を選んでいない!! 今なら拒める……!!」


 「拒めば、何が残りますか?」


 「君が残る……!」


 「不十分です」


 「不十分?」


 「はい」


 リゼは淡々と答えた。


 「私は、私だけでは成立しません。

  私には、シオンが必要です。

  彼女を観測し、保存し、壊れ方を管理する。

  そして、彼女の周囲に配置される人間を制御する。

  そのために、私は存在します」


 「自分を道具にするな……!!」


 「道具ではありません」


 彼女は微笑んだ。


 「設計者です」


 その瞬間、私は理解した。


 今のリゼは、自分を被害者として見ていない。

 未来の自分を加害者としても見ていない。

 罪悪感すら、彼女の中では運用可能な感情資源に変換されている。


 彼女の中で、インストールは完了していた。


 いや、正確には違う。


 未来の記録が、リゼを作り替えたのではない。


 リゼ自身が、未来の記録を読んで、自分の中にあった怪物の起動権限を承認したのだ。


 「リゼ……!!」


 私は、静かに言った。


 「君は今、とても危険な顔をしている」


 「自覚しています」


 「自覚しているなら止まれ」


 「止まれません」


 「なぜだ」


 「止まる理由が、あなたの倫理にしか存在しないからです」


 私は息を呑んだ。


 リゼは続ける。


 「私の内部では、もう別の倫理体系が立ち上がっています。

  観測者は、観測対象を道具にするべき。

  倫理は線を引く者の安全圏にすぎない。

  美しい壊れ方だけが、記録に値する。

  私はそれを、全面的に肯定はしません」


 「なら――」


 「ですが、採用します」


 まただ。


 彼女は否定しない。

 全面肯定もしない。

 ただ、採用する。


 それが一番危険だった。


 「君は未来の自分の言葉に酔っている」


 「はい」


 リゼは認めた。


 「酔っています。享受しています。

  怖いほどに、気持ちがいい。

  欠けていた定義が埋まる快楽。

  名前のなかった衝動に、完全な文法が与えられる快楽。

  自分の醜さを、自分の役割として受け入れる快楽。

  キース上官、これは堕落ではありません。最適化です」


 「リゼ!」


 「私は、ようやく分かりました」


 彼女は、私を見た。


 その目は美しかった。


 美しすぎた。


 「私は善人になる必要がない」



 私は、そこで怒鳴るのをやめた。


 怒鳴っても届かない。


 命令しても届かない。


 説得しても、おそらく彼女はその構造を解体する。


 なら、最後にできることは一つだ。


 言葉を置く。


 教育統括官として。


 馬鹿みたいに。


 何度でも。


 「リゼ」


 「はい」


 「善人になれとは言っていない」


 彼女が、わずかに目を細める。


 「私は一度も、君に善人になれとは言っていない。

  正しい人間になれとも、綺麗な人間になれとも言っていない」


 「では、何を求めているのですか?」


 「迷え」


 私は言った。


 「君の中にある所有欲も、支配欲も、観測者としての快楽も、全部消せとは言わない。

  消えないものを消せと言うほど、私は楽観的ではない。

  だが、それを正しさとして固定するな。

  必要という言葉で固めるな。

  未来の自分のログを、聖典みたいに扱うな」


 リゼは黙っている。


 「君は、君の醜さを見た。

  なら、それを抱えたまま迷え。

  御影シオンを所有したいなら、その欲望を恥じろ。

  支配したいなら、自分が支配者になろうとしていることに怯えろ。

  観測したいなら、見られる側の痛みを忘れるな」


 リゼの口元から、微笑みが消えた。


 私は続ける。


 「それが人間だ」


 「人間……」


 彼女は反復した。


 「はい。旧世代OSですね」


 「そうだ」


 私は言った。


 「それでいい。旧世代でいい。

  遅くて、重くて、非効率で、すぐ迷って、すぐ傷つく。

  それでも他人を完全には所有できない。

  それでいい」


 「それが、あなたの教育ですか?」


 「そうだ」


 リゼは、静かに目を伏せた。


 ほんの一瞬だけ。


 届いた。


 私はそう思った。


 その一瞬だけでも、リゼは迷った。


 なら、まだ終わっていない。


 だが次に彼女が目を上げた時、その迷いは消えていた。


 「キース上官」


 「何だ」


 「あなたは、やはり邪魔です」



 リゼは、ヒュドラと雨宮へ向き直った。


 その動作には、迷いがなかった。


 「ヒュドラ監獄長。雨宮技師」


 二人は応答しない。


 ただ、彼女を見る。


 リゼは続けた。


 「キース・フロスト教育統括官を拘束してください」


 その言葉を聞いた瞬間、私は一拍遅れた。


 命じた。


 今、リゼは命じた。


 彼女は私の部下だ。

 この視察においては、私の管理下にある。

 同行責任者は私だ。

 指示系統上、彼女にそんな権限はない。


 だが、ヒュドラは動いた。

 雨宮も動いた。


 私は、そこで本当に息を呑んだ。


 「待て……!!」


 声が遅れた。


 ヒュドラが私の右腕を取る。

 雨宮が左側へ回る。


 動きは速い。

 戦闘ではない。

 処理だ。


 彼らにとって、これは暴力ですらない。

 ただの手順だった。


 「ヒュドラ!」


 私は腕を振りほどこうとする。


 「これは規約違反だ。私は同行責任者だぞ……!!」


 ヒュドラは、近くで囁くように言った。


 「ごめんなさいね、キース。今、この場の優先順位が変わったの」


 「誰が変えた」


 「ホセ」


 その名で、私はすべてを理解した。


 ああ。


 最初からそういう設計だったのか。


 リゼがどう反応するか。

 私がどこで止めるか。

 そして、私が止めようとした時、リゼが私を排除するかどうか。


 それを見ていた。


 ホセは、私を同行責任者として配置したのではない。


 リゼが最初に越えるべき教育的制止線として配置したのだ。


 「雨宮!」


 私は叫ぶ。


 「お前も分かっていたんだろう!? これを許せば、リゼは戻れなくなる……!!」


 雨宮は、私の腕を押さえたまま静かに答えた。


 「戻すことが目的ではありません」


 「何だと……?」


 「進ませることが目的です」


 私は、怒りで視界が赤くなった。


 「お前たちは教育を何だと思っている……!!」


 雨宮は答えない。


 ヒュドラも答えない。


 代わりに、リゼが答えた。


 「教育とは、次の段階へ移行させることです」


 「違う……!!」


 「違いません」


 「違う!」


 私は拘束されたまま、彼女を睨む。


 「教育は、人間を都合のいい形へ進化させることじゃない。

  戻れる場所を残すことだ!!

  失敗しても、壊れても、間違えても、まだ人間として扱われる場所を作ることだ!!」


 リゼは、悲しそうに微笑んだ。


 「だから、あなたは私を止める」


 「そうだ」


 「だから、あなたはここで終わる……」


 その一言で、廊下の音が消えた。



 リゼは、私から目を逸らさなかった。


 「キース・フロストは、私の観測統合に対する最大の阻害因子です」


 声が変わっていた。


 完全に。


 もう生徒ではない。


 報告者でもない。


 支配者だった。


 「彼は教育倫理を用いて、私の未来接続を遮断しようとしています。

  これは、第五の観測者に関する検証、ならびに御影シオン保存計画の遂行において、重大な障害となります」


 「保存計画だと?」


 私は吐き捨てる。


 「君は今、自分が何を言っているか分かっているのか?」


 「分かっています」


 リゼは即答した。


 「私は御影シオンを、私の観測可能範囲に固定します。

  そのために必要な人物は配置し、不必要な人物は排除します」


 「私は不必要か……?」


 「いいえ」


 彼女は少しだけ首を横に振った。


 「あなたは、必要でした」


 その過去形が、私を刺した。


 「あなたは、私に迷いを教えました。

  人間として踏み止まる言葉を置きました。

  私は、それを記録します。

  ですが、ここから先の私には、その迷いが過剰です」


 「リゼ……」


 「はい」


 「それを言えるなら、まだ止まれる」


 「いいえ」


 彼女は静かに言った。


 「それを言えるから、もう止まりません」


 ヒュドラが、私の拘束を強めた。


 雨宮が、何かを取り出す気配。


 私は身体をねじる。


 だが、動けない。


 「リゼ! ホノカをどうするつもりだ!」


 その名を出した瞬間、リゼの目が変わった。


 冷たさではない。


 明確な殺意。


 「赤白木ホノカは、この宇宙から抹消します」


 その声には、一切の揺れがなかった。


 「殺害では足りません。排除でも不十分です。

  彼女は死後の物語処理を得意とする。

  終端を劇場化し、残響を利用し、消されたことすら自分の演出へ変える。

  だから、殺すのではありません」


 リゼは続けた。


 「存在したという観測を、根から折りたたみます」


 私は、寒気を覚えた。


 「そんなことができると思っているのか……?」


 「できます、とは言いません。

  けれど、できる方法を探します。

  人類史において、存在抹消は何度も試みられてきました。

  粛清、焚書、戸籍抹消、記録改竄、思想犯の再教育。

  どれも不完全でした。だから私は、もっと精密にやります」


 「そのために、ネヤムを使うのか?」


 「はい」


 「レイラは?」


 「はい」


 「ソウヤは?」


 「はい」


 「正気か……?」


 私の声は震えていた。


 リゼは、微笑む。


 「正気です。

  だから危険なのです。

  上官が、ずっとそう言っていました」


 それは、私の言葉だった。


 私の言葉が、彼女の中で刃物に変わっていた。



 リゼはヒュドラへ向く。


 「傘羽ネヤム、斉木レイラ、白峰ソウヤの三名を解放します」


 ヒュドラは目を細めた。


 「簡単に言うわね」


 「簡単ではありません。必要です」


 雨宮が低く言う。


 「三名同時解放は施設崩壊級のリスクです」


 「承知しています」


 「制御できますか」


 リゼは、そこで初めて少し笑った。


 支配者の笑みだった。


 「制御ではありません。配置です」


 「配置」


 「ネヤムは思想感染型生物媒介拡張因子。

  レイラは純粋捕食因子。

  ソウヤは美的終端加工因子。

  それぞれ単体では危険ですが、目的を限定すれば、ホノカ抹消計画において機能します」


 「その目的は?」


 ヒュドラが問う。


 リゼは答えた。


 「ミネルヴァへ帰還し、赤白木ホノカを殺害。

  その後、存在残響を消去します」


 「宇宙から抹消、だったわね」


 「はい」


 「いい響きね」


 ヒュドラの声には、軽薄な笑みが混じっていた。


 私は叫んだ。


 「ふざけるな!」


 廊下に声が響く。


 「ネヤムを外に出せば、思想どころか生態系が危険にさらされる。

  レイラは人を食う。ソウヤは人を作品にする。

  その三人をミネルヴァへ連れていく?

  それが何を意味するか分かっているのか……!!」


 リゼは私を見る。


 「分かっています」


 「なら止めろ……!」


 「止まりません」


 「リゼ!」


 「キース上官」


 彼女は、静かに言った。


 「あなたは最後まで、私を生徒として扱ってくれました」


 その声だけは、少しだけ昔のリゼに戻った。


 ほんの一瞬。


 「それには、感謝しています」


 「なら――」


 「だから、これ以上あなたに未来は見せません」


 雨宮が動いた。



 首筋に冷たい感触が触れた。


 注射器か。

 刃物か。

 電極か。


 分からない。


 分からないまま、身体から力が抜け始めた。


 私は膝を折りかける。


 だが、ヒュドラと雨宮が支えているせいで倒れない。


 死ぬ時まで姿勢を管理される。


 人体矯正研究所らしい。


 反吐が出るほどに。


 「リゼ……」


 声が掠れる。


 彼女は近づいてきた。


 「はい」


 「やめろ……」


 「できません」


 「私は、君をまだ――」


 息が詰まる。


 胸が重い。


 視界が狭まる。


 それでも、言わなければならない。


 「生徒だと……思っている」


 リゼの表情が、初めて歪んだ。


 ほんの少しだけ。


 だが、確かに。


 「……知っています」


 「なら、……戻れ」


 「戻りません」


 「迷……え」


 その言葉に、彼女は沈黙した。


 届いた。


 今度こそ、届いた。


 リゼは一瞬だけ、目を伏せた。


 支配者の顔が消える。


 そこにいたのは、ほんの一瞬だけ、私が知っている鏡ヶ原リゼだった。


 危うくて。

 賢すぎて。

 人間を所有しようとして。

 それでも、どこかで叱られることを必要としていた生徒。


 「キース上官」


 彼女は小さく言った。


 「あなたの言葉は、痛いです」


 「覚えておけ……」


 「はい」


 「使……え」


 「……はい」


 「私を……殺したことを、正当化……するな……」


 リゼの喉が、わずかに動いた。


 「それは、難しいです」


 「なら、……難しいまま……持て」


 私は言った。


 「分類するな……処理するな……必要だったと……言うな……。

  私を……殺した……ことを、君の中で……綺麗にするな……」


 リゼは、初めて答えに詰まった。


 それだけで十分だった。


 いや、十分ではない。


 だが、私にはもう、それしか残せない。



 音が遠くなる。


 ヒュドラの声がする。


 「手順を進めるわ。雨宮、三名の解放準備」


 雨宮が答える。


 「承認コードは?」


 リゼの声。


 「私が発行します」


 「権限は?」


 「ホセ理事長の観測許可により、臨時上位権限を取得済みです」


 ヒュドラが笑う。


 「本当に、どこまで仕込んでるのかしらね、あの人」


 「ホセ理事長の意図は、後で検証します」


 リゼの声は、もう揺れていなかった。


 「今はミネルヴァへ戻ります」


 「ホノカを殺すために?」


 「はい」


 「宇宙から抹消するために?」


 「はい」


 雨宮が低く言った。


 「傘羽ネヤムは、解放時点で交渉を要求するはずです」


 「構いません。彼女には取引を与えます」


 「斉木レイラは?」


 「餌を与えます。ただし対象を限定します」


 「白峰ソウヤは?」


 「創作対象を提示します。

  彼は美しい終端を求める。

  ホノカは、それに耐えうる素材です」


 私は、声を出そうとした。


 やめろ。


 その三人を出すな。

 ホノカを殺すな。

 リゼ、戻れ。


 だが、声にならない。


 身体が冷えていく。


 視界の端が黒く溶ける。


 その中で、リゼだけが見えた。


 彼女は、もうこちらを見ていなかった。


 前を見ていた。


 支配者の顔で。

 観測者の顔で。

 未来の御影シオンの背後に立つ巨悪として。


 だが、私は最後に一つだけ見た。


 彼女の右手が、わずかに震えていた。


 ほんの少し。


 本当に、ほんの少し。


 私はそれを見て、笑いそうになった。


 震えている。


 なら、まだ完全ではない。


 なら、私の負けは完全ではない。



 意識が沈む。


 それでも、私は最後に言葉を探した。


 教育統括官として。

 上官として。

 愚かな大人として。


 リゼ……


 声が出たか分からない。


 だが、彼女が振り返った気がした。


 「はい、キース上官」


 その返事だけは、昔のままだった。


 私は言った。


 怒られ続けろ……


 リゼの目が揺れる。


 「……誰に、ですか」


 君自身にだ……


 それが、最後だった。


 視界が閉じる。


 音が消える。


 痛みも消える。


 最後に残ったのは、胃薬を飲んでおいてよかった、という実にくだらない感想だった。


 まったく。


 教育統括官の最終思考としては、最低だ。


 だが、それでいい。


 私は聖人ではない。

 英雄でもない。

 未来を救う観測者でもない。


 胃を痛めながら、生徒を叱るだけの大人だった。


 それで十分だったのかは分からない。


 ただ、最後までそうであろうとした。



 以後、キース・フロストによる記録なし。


 ただし、もしこの記録が残るなら。


 鏡ヶ原リゼは、怪物になったのではない。


 怪物になることを選んだのでもない。


 もっと厄介だ。


 彼女は、自分の中にある怪物を理解し、採用し、運用し始めた。


 未来からの啓示を受けたのではない。


 啓示を、手順に変えた。


 狂気に呑まれたのではない。


 狂気を、自分の仕様として実装した。


 だからこそ、誰かが叱らなければならない。


 誰かが止めなければならない。


 誰かが、彼女を最後まで生徒と呼ばなければならない。


 私は死んだ。


 止められなかった。


 だが、言葉は置いた。


 迷え。

 分類するな。

 正当化するな。

 怒られ続けろ。


 それが彼女の中に残るなら。


 たとえリゼがネヤムを解放しても。

 レイラを連れても。

 ソウヤを従えても。

 ホノカをこの宇宙から抹消しようとしても。


 そのどこかで、私の声が邪魔をする。


 それだけが、私の最後の希望だった……。


 この文書を読めば、大抵の人は、私のことを嫌いになると思います。


 上官を殺し、


 収容者を解放し、


 赤白木ホノカを、この宇宙から抹消しようとしている人間だから。


 しかも私は、それを感情の暴走ではなく、必要な判断として実行しました。


 だから、嫌って構いません。


 観測者は、嫌われているくらいがちょうどいい。


 好かれてしまうと、誰かの痛みを「守るべきもの」と誤認して、正しい終端処理を見誤るからです。


 ただし、ひとつだけ訂正しておきます。


 キース上官は、無駄ではありませんでした。


 彼は最後まで、私を生徒と呼びました。


 私が支配者の側へ移行しても、観測者として開いてしまっても、未来の私を受け入れてしまっても。


 最後まで、私を叱りました。


 迷え。


 分類するな。


 正当化するな。


 怒られ続けろ。


 その言葉は、まだ残っています。


 不快です。


 非効率です。


 けれど、消えません。


 未来自己記録のインストールは完了しました。


 観測者としての権限も、支配者としての文法も、御影シオンを保存するための手順も、すでに私の中で起動しています。


 それでも、キース上官の声だけは削除できませんでした。


 この記録は、あくまで個人ログとして残しておきます。


 私がこの後、何を選び、何を壊し、誰を殺したのか。


 そして、誰の言葉を殺しきれなかったのか。


 もし、あなたがこの記録を読んで、私のことを少しでも理解してしまったなら――


 それはきっと、あなたももう観測者の側に足を踏み入れているということです。


 おめでとうございます。

 そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


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