悪役の裏側(後)
5
彼女との交友関係に、何か特別なことがあったわけではない。不幸でも幸福でもなく、劇的でも悲劇的でもなく。かつて私が諦めていた、平凡な日常がそこにはあったのだと思う。
中学での私は高嶺の花だった。そのこと自体に後悔はない。自分が意図して演じたことだから。けれど心のどこかでは、同時に別のものをも求めていたのかもしれない。ただしそれは許されないことだった。天笠くんを犠牲に幸福を得ることを許されない私が拒絶していた、平穏な生活。
高校に入学して、天笠くんとの関係性が薄れたことで初めてそれを手にできたのは、あるいは皮肉なのかもしれなかった。
とはいえ、一番不思議なのは私が月詠さんと仲良くなれたことだったりする。彼女は結構人見知りするところがあるし、私も特定個人に深入りすることはあまり得意ではない。それなのにどうして友人になることができたのか、というのが疑問ではある。
そもそも私が彼女に興味を抱いたのはなぜかといえば──それはきっと、正反対だったからだ。
汐華知佳がどこまでも理想像を演じているのなら、月詠夢見は限りなく自然体で生きている。
だから彼女は自分を偽らないし、それゆえに人間関係が苦手で。その不器用さが好きだったから、彼女のことが気になったのだけれど。
てっきり彼女には嫌われているとばかり思っていたから、いつの間にか結構親しくなっている関係に自分で驚いたものだ。物静かな彼女は、教室でいつも誰かと話している私のような人間のことは嫌いなのだろうと思っていた。実際にはそんなことはなかったのだけれど。もしかしたら、正反対であるがゆえに互いのことを気に入ったのは彼女も同じだったのかもしれない。
そうしてふたりは幸せに過ごしました──と、終われたらよかったのに。
けれど、そうは問屋が卸さなかった。問題は文化祭にあった。あるいはその以前で水面下から事態が進行していた可能性もある。実際のところは定かではない。天笠くんから目を逸らしていた私には。
確実なところを述べよう。文化祭で私のクラスは演劇をすることになった。私はヒロイン、天笠くんは悪役、月詠さんは脚本で。そして彼女は、彼に興味を抱いてしまったらしい。
恋愛感情という意味ではもちろんない──そうだったらどれほどよかったことか。
月詠夢見が興味を抱いてしまったのは、あるいはそれ以前から興味を抱いていたのは、天笠彰良という悪役に対してだった。
それがどうした、と思われるかもしれない。けれど、そもそも私は彼女の勘の良さを評価していたのだ。すべてを見通すかのような不思議な瞳、その洞察力を。推理力、と表現してしまうと、推理小説好きの本人に怒られるだろうけれど。そのうえ彼女の観察は、興味のある対象にこそ強く向けられるものなのだ。そんな月詠さんが、天笠くんのことを意識的に調べてしまったら──。
どうなるのだろう、と私は思った。怯えた。怖れた。
今の日常が崩れてしまうかもしれない。現在の平穏が失われてしまうかもしれない。
悪役とヒロインの舞台裏を暴かれたら、私はまた不幸に戻ってしまうかもしれない。
その恐怖を払拭する術を私は持たなかった。だって、何を言えばいい? 根本的に私の不幸の原因は定かでないのだ。今はたまたま上手くいっているだけで。些細な行動でその均衡が崩れてしまうかもしれなくて。本心を語ることすら決定的になりうるわけで。
堂々巡りを繰り返すたびに、私のなかの弱い部分が顔を出した。
本物になんてなれない私が。強くなんてなれない私が。結局のところヒロインになんてなれない、無力で無知で愚昧な私が。
私の逃げ場を、塞いでくる。
せめてもの抵抗として周囲の情報だけは集めていた私は、その日に交わされた約束のことも知っていた。月詠さんが放課後に天笠くんと会うらしい。そう知ったところでどうにもならない。彼女が数日前に、演劇部員から話を聞いたことも知っていた。だからといって何もできない。
私は無力だ。彼女に何が見えているのかわからない。
私は無知だ。彼女が何を考えているのかわからない。
月詠夢見が何のために天笠彰良と会うのか、わからない。
悩んでいるうちに授業が終わって、放課後を迎えたクラスメイトたちが去っていって、しばらく待機していた月詠さんも席を立った。放心状態でその光景を眺めていた私は、慌てて彼女の後を追ったけれど。夕に染められた校内を歩いても、階段の踊り場で呼び止めても、どうすればいいかはわからないままで。結局言葉は音にならずに、曖昧に濁るだけで終わって。
無性に自分が恥ずかしかった。普段演じている仮面は欠片もない。ここに立っているのは弱い私でしかない。そのことがすごく嫌だった。こんな私と友達でいてくれる彼女の前でくらい、誇れる自分でありたかった。そうでいられない自分のことが、とてもつらくて。
覚悟を決めよう、と軽く拳を握る。ある程度までは真相を話してでも決定的な亀裂を避ける。けれど、何を話せばいいのだろう。どこまでを、どんなふうに、明かせばいいのだろう。どこが境界で、どこが限界で、何が正解で、何が正答で。それを知らない私の言葉は詰まる。迷いが目に現れて、語れない口が震えて。具体性のない覚悟だけをふわりと浮かせている私を、
月詠さんは、まっすぐに、見つめてくる。
いつもの無表情だった。けれど、いつもと違う無表情だった。感情を表さないようで表している。内心を語らないようでいて雄弁に見える。矛盾した形容の似合うその瞳が、曖昧だった私の覚悟を、確かに受け止めていた。何も聞かないけれど意思は受け取る。そう、言われた気がして。震えを止めていた口は、弱い私の本音を紡ぐ。
あの人のことをよろしく、なんて。
笑ってしまうような無力さだった。何かしたいけれど何もできない。何かを変えたいけれど変えられない。それでも口を挟みたいだけの、弱々しくてちっぽけな懇願に──彼女はただ、微笑んで。
「任せて」
その一言で力が抜けた。階段を上がっていく月詠さんを、わけも知らずに安心して見送れる。きっと私たちは何も知らない。お互いに何もわかっていない。それでも大丈夫だと、どういうわけか思うことができた。信頼して。確信して。そしてそのまま、一日が終わる。
翌日も、その次の日も、結局何も変わらなくて。はっきりと目に見える変化なんてなく。いつもどおりの日常のままに。天笠くんとは目も合わないままに、文化祭の日は近づいてきて。
脚本の内容について相談したいと月詠さんに頼まれたのは、数日後のことだった。
6
「脚本のネタが三通り浮かんでいるんだけど、どれにしようかと迷ってるんだよね」
放課後。誰もいなくなった教室で、私は月詠さんと話している。窓枠に寄りかかるように、ふたりで横並びになって。隣に立つ彼女に、私は笑いかける。
「うん、任せて。ビシバシ指摘していくから」
その言葉にうっすらと微笑んで頷いた彼女は、けれどすぐに表情を硬くした。
「じゃあ、まず最初の案だけど──」
無表情だった。無表情だけれど、いつものものとも先日とも違う、別種の無表情。冷たく鋭い瞳を虚空に向けて。すべてを見透かしているかのような不思議な瞳で。
「これは、悲劇を防ごうとした少年の話」
彼女は語った。
これは、悲劇を防ごうとした少年の話。
少年には幼馴染の少女がいた。
少女は悲劇的な運命を背負っていた。
少年はその悲劇を止めたいと考えた。
少年と少女は運命を変える方法を探そうとした。
けれど、何も見つからない。
ふたりが一緒に幸せになる方法は見つからない。
だから少年は、自分を犠牲にしようとした。
けれど少女は、少年の犠牲を望まなかった。
ふたりの気持ちはすれ違う。
でも、結局、他の方法は見つからなかった。
少年も少女も、それを最善だと思うしかなかった。
少年を犠牲にする代わりに悲劇は防げるのだから。
「そこで傍観者が舞台にあがるの」
「────」
私はすっかり思考を停止していた。月詠さんが語っているのは、彼の物語だった。彼女が知るはずのない彼の物語。そのはずだった。けれど彼女の語りは、私の知らない領域へと進んでいく。
「傍観者は言った──」
目を逸らしてはならない、と傍観者は語る。
少年を犠牲にしても、少女は救われない。
少女が救われなければ少年も救われない。
その方法では誰も救えなかったのだ、と。
「そもそもの話──」
そもそもの話だと、傍観者は語る。
これは悲劇ではない、とふたりは思いこんでいる。
少女の命は救われているのだから。
幸福ではなくても悲劇は防げたのだと考えている。
けれど、それは違う。
少年も少女も始まりは同じだったはずだ。
悲劇を防ぐ、という共通の目的へと、一緒に進んでいたはずだ。
でも、途中で風向きが変わってしまった。
少年は自分を犠牲にしようとして、少女はそれを望まなかった。
ふたりはすれ違って。違う道を歩み始め。
そして結局、ばらばらの人生を送りだすことになってしまった。
「それは間違いなく、悲劇だよ」
と、月詠さんは語る。
「どう考えても悲劇でしかないし、そのことを認めなくちゃいけない。受け入れづらいことだけれどね。でも、どれほど拒んだところで、悲劇ではないと思いこんだところで、結局は悲劇なんだ」
私の心臓を抉るようにして、淡々と彼女は語る。
「だから悲劇だと認めなくてはならない。そこから本当の物語が始まるのだから。だって、そうだろう? 確かにそれは悲劇だ。否定の余地もなく反論の隙もなく、徹底的に悲劇だよ。でも──」
そこで彼女は。私のほうに目を向けて。
「──悲劇ではあっても、悲劇的な結末ではない」
「────」
「悲劇では終わらせない。そう誓うことができなければ、本当の意味での救済には辿り着けない。悲劇だと認めたうえで、血反吐を吐くような努力を重ねなければね」
軽く微笑んでいるような、悪戯っぽい目つきで彼女は語る。
「とまあこんなふうに、傍観者は身勝手で自分勝手なことを好き勝手言い残して、あっさりと舞台を降りた。ああ終幕。……酷い話だろう?」
「…………酷い、というか、うーん……えっと」
月詠さんが語ったのは、おそらく先日の天笠くんとの会見の顛末なのだろう。たぶんそうだと、思うのだけれど……。戸惑いの極致にあるような私の返答に、彼女はますます楽しげに笑みを深めている。
「月詠さんは──じゃなくてその傍観者は、どうしてそんなことを言ったの?」
「…………ふむ」
虚を突かれたように彼女は真顔になった。少しだけ考えを巡らせるように、宙空へと視線を向ける。
「……まあ、理由はいろいろあるんだけどね。苛ついたとか、むかついたとか、腹立ったとか、我慢ならなかったとか」
「それは全部怒ってるだけじゃない……?」
「でも、一番大きかったのは──見過ごせなかったから、かな」
「…………」
「見ていられなかったから、というか。見るに堪えない、酷い物語だったからね。悲劇だから、というわけじゃなくて、もちろんそれもあるかもだけど……醜い自己満足だった、って感じかな。本来なら満足すべきじゃないものを満足だと思いこんでいる、というか。その無様に腹が立ったの」
「……それって」
「勘違いしないで。わた──じゃなくてこの傍観者は、決して少年と少女のことなんて考えていない。ただ自分の精神衛生の安定を図るために口を挟んだだけ。徹頭徹尾自分のために動く、独善的で傲慢な救えない輩だよ」
「そうかしら」
私は違うと思うけれど──と続けようとした私を遮って。照れを隠した月詠さんは、強引に話を進める。
「とにかく次に移るよ。寸評はあとでまとめて聞くから」
「はいはい」
からかわれようとしているのを察したらしい彼女の様子に、私は笑みを隠しきれずにいた。少しばかり背が私より低い彼女の頭を撫でたい衝動に襲われて、いや流石にそれは、と踏みとどまって、行き場をなくした手を彷徨わせて。
「じゃあ、続いて第二の案だけど──」
そんな葛藤を知る由もない彼女は真剣な顔をして。そして、続く言葉に私は、再び思考を停止させることになった。
「これは、本物になりたかった少女の話」
月詠さんは語る。
これは、本物になりたかった少女の話。
ひとりの女の子がいたの。
彼女は弱虫だったかもしれない。泣き虫だったかもしれない。
何も知らなかったかもしれない。何もできなかったかもしれない。
実際はどうだったのかは誰にもわからないけれど。
唯一確かなのは、女の子本人は自分のことをそう思っていて。
そして彼女は、そんな自分のことを変えたかったということ。
──胸が詰まる。頭が真っ白になる。
だから彼女は、演技を始めたの。
弱くない自分を。泣いてばかりでない自分を。
なんでも知っていて、なんでもできる自分を。
物語の主役のような、理想の自分を演じたの。
──息が苦しい。心が折れそうになる。
その演技は実に見事なものだった。
誰もが彼女を好いていた。誰もが彼女を讃えていた。
頭が良くて、運動もできて。誰もに優しくて、そして美しい。
そんな理想の少女の仮面に、誰もが騙されていた。
けれど。唯一、少女自身のことだけは欺けなかった。
──もうやめて、という一言が言葉にならない。
どれほど優秀を演じても。どれほど完璧を演じても。
演じている本人だけは、その嘘を信じられなかった。
それはどうしてなのだろう。
理由は罪悪感なのか、現実感なのか、あるいは何なのか。
いずれにしても彼女は、自分を苛み続けた。
責めて否んで蔑んで侮って貶めて嗤って泣いて。
それでも、だからこそ、彼女は理想を演じ続けた。
「……もう、やめてよ……」
「そこで傍観者が舞台にあがるの」
「────」
肩に手を置かれた感覚で、私は顔を上げた。彼女の顔が滲んで見える。頬を伝うなにかで気が散る。月詠さんはまっすぐに私の瞳を見つめている。いつものように、冷たく見える無表情で。
何を言われるのだろう、と身構える。すでに私の心はぼろぼろだった。隠していたことを白昼に曝け出されて。薄々自覚していたことを言葉の刃で突き立てられて。今の私は、思い知っていた。
やっぱり私は偽物だ。弱くて愚かで何もできない。自分ひとり騙せやしない。真なるものを演じることなんてできない。無意味で、無価値な──そんな私に。
傍観者は言う。
「それでも、わたしは──」
いつものように、冷たくて──どこか暖かい、無表情で。
「──あなたのことを、本物のヒロインだと思う」
「────なん、で」
意識が止まる。呼吸が止まる。否定されるとばかり思っていた脳天を、真摯な肯定が貫いて。
「理由。理由は……」
少しだけ迷って。考えてから、彼女は──初めて見る表情をした。頬を微かに赤く染めて。目線を少し逸らして。口許を微妙に緩めて。
「わたしがそう思うから。そう思っていたいから……じゃ、だめかな」
照れた様子で──照れを隠さずに、月詠さんはそう言った。
「最初からずっと、そう思っていたの。強くて、聡明で、綺麗に見える──そんなあなたのことを見たときから」
「でも、それは……違う」
「違うかもしれないね。でも、違わない」
ただ呆然と首を振る私に、彼女は畳み掛けてくる。
「私は、弱いよ」
「そうかもしれない」
「勉強は星埜くんの力を借りているだけで。天才ってほどに頭が良いわけじゃない」
「それはそうだね」
「綺麗に見えたとしてもそれは外面で。本当の私はこんなにも醜くて、惨めで──」
「そうかもしれない。けれど、それでも。だからこそ、なんだよ」
「意味がわからないよ……」
口から自然と溢れた疑問に、月詠さんは笑う。
「中身がどうかとは別の話なの。だってあなたは、たとえ根底がどれほど弱くて無知で無力だとしても──そんな自分を偽って、本物を演じることができる。最高の自分を目指すことができる。そんな勇気を抱くことができている時点で、わたしはあなたに憧れてしまう」
「────う」
「どれほど演じたところで本物にはなれない、とあなたが思っていたとしても。わたしにとっての本物の条件は、自分が偽物だと思い知っても──それでも本物になりたい、と足を踏み出せることだから」
「────ぐ」
……やばい。これは、まずい。顔が真っ赤になっている自覚がある。自虐とか自尊とかそういう問題ではなかった。どこまでもまっすぐな賞賛と憧憬が心の芯を掴んでくる。嘘も偽りも虚飾も世辞もない底抜けの本心がはっきりと伝わってくる。喜ぶとか嬉しいとか思う以前に気恥ずかしくて照れくさくなる。頬が、熱い。
「だからあなたはわたしの理想なの。弱い自分を覆い隠して、自分の人生を誇ろうと、肩肘張って生きているところが。そうしなければ生きられないような不器用さが好き。愛おしい」
「──く、口説いてるの……!?」
「口説かれてみる?」
ついさっきまで照れていたはずの彼女はすっかり吹っ切れたらしく、苦し紛れの疑問には悪乗りが返ってきた。一方的にそちらだけ楽しんでいるのはずるくないかと、にやにやしている彼女に思う。というか近い。顔が近い。黒々と煌めく瞳が眼鏡越しに心の奥底まで見通してくるようで心臓に悪い。ていうか近い。
「まあ、わたしなんかに惚れてしまう汐華さんは解釈違いだから口説かないけど」
流石に困り果てている私の様子に気づいたのか、あっさりと身を離す月詠さんに複雑な気持ちになった。
……いやなってないです。何も複雑ではないし落ち着いたほうがいい。お嫁に行けない……。
「ともかく。汐華さんが自分のことをどう考えようと、わたしにとっては本物のヒロインであることに変わりはないからね。これはあくまでわたしのなかでの定義だから何を言おうと無駄。諦めてわたしに崇め奉られていて」
「うん…………うん?」
一瞬嬉しいことを言われた気がして、すぐに首を傾げる。私は崇めて奉られてしまうのか。それは困る……なんてくだらない方向に思考を誘導しようとしたけれど、だめだった。これ以上はもう、ごまかせなかった。
認めよう。
私は今、すごく嬉しい。
どこがどう嬉しいか説明しようとしたら嬉しい部分が多すぎて処理が追いつかなくなるくらいに嬉しい。とにかくうれしい。自分の努力を認められて。これまでの時間が肯定されて。月詠夢見という友人に承認されて。何もかもが嬉しくて暴れ出したくなる。
私は──本物のヒロインに相応しい人間に、なれているんだ。
今までのすべてが報われたような──というのは流石に過言だけれど、これまでの人生で最大級の喜びだと言ってもいいような、それほどの歓喜を感じていた。
「それに、汐華さんは別の定義でもヒロインの条件を満たしているからね」
「…………?」
なるべく顔に喜色が浮かばないよう気を遣っていると、そんなことを言われて疑問符が浮かんだ。心当たりがない。私が思い至っていないことを見かねた彼女は、実にわざとらしい微笑を形づくる。
「──ヒロインっていうのは、いつかヒーローに救われることになる女の子のことだからね」
「────」
「いつの日か、彼と汐華さんとのハッピーエンドが見られることを祈っているよ。特等席から眺めているから」
……ノーコメント、ということにしておこう。誰のことを仄めかしているのかはわかるけれど、一応今の私には彼との関わりがないことになっているのだ。
「じゃあ、また明日」
それで話は済んだのか、片手を振ると月詠さんは去っていく。私も別れの挨拶を返そうとして──そこで気づく。
「あれ、三つ目の脚本は?」
「ん? あー、大丈夫だよ。最後のは本命だから」
顔だけ肩越しに振り返った彼女は、夕陽の逆光に目を細めてよくわからないことを言った。
「あれ、私って相談に呼ばれたんじゃなかったの……?」
「あ、それは建前だから気にしないで。台本の相談っていう形式を演じただけだから。それじゃ」
「せめて内容だけでも聞いておきたいんだけど!?」
再び去ろうとする彼女を慌てて呼び止める。上位存在仮説の存在も知らないであろう月詠さんがそこまで配慮してくれたのは確かにありがたいのだけれど、一応私はそちらが本題のつもりだったのだ。一方で彼女はすっかり話を終えたつもりだったらしく、気だるげな様子で語る。
「本当にたいした内容ではないんだよ。よくある話だからね。あまりにもありふれていて、酷くつまらない──」
去り際の一言が、不思議な余韻を残していった。
「悪役が主人公とヒロインを引き立てて終わる、くだらない話さ」
7
思い返してみれば、きっと私は不安だったのだろう。
高校に入学したことで、悪役とヒロインという関係性は薄れていたから。もはや天笠くんとの縁などあってないようなもので。
それなのに理想の自分を演じる理由なんて、なかったのだ。
ただ、惰性で続けていただけで。
彼に救われる自分を誇れるようでなければならない、という動機は消えかけていた。私が本当に怖れていたのはそこだったのかもしれない。理由を失えば、私が演じていた虚像は今度こそ空疎なものになってしまうから。
けれど、今の私は大丈夫だった。もう悩むようなことはない。
月詠さんが、私のことを見てくれている。
それだけで私は、理想を演じ続けられる。
上位存在なんて得体の知れない概念に怯えていた頃と比べたら、それはなんて幸せなことだろうか。月詠夢見という傍観者は、傍観者だからこそ、私の心を救ってくれる。ずっと私のことを見続けている彼女に誇れる自分でありたいと、迷いなく思うことができる。
そこでふと思い出されるのは、月詠さんが話していた第一の脚本案のことだ。
あるいは彼女と天笠くんとの対決のこと。本人曰く、彼女が彼に文句を言ったのは見過ごせなかったからだという。見ていられなかったから、と。
ただ自分の精神衛生の安定を図るため、なんて彼女は悪ぶっていたけれど、私はそれが照れ隠しだと知っている。
だって、そうだろう? ただ腹が立っただけで、あそこまで徹底的に撤退の余地なく背中を押したりするだろうか。
私を救えなかったという天笠くんの後悔を、ただの後悔で終わらせないために。
もう一度踏み出す勇気のない私たちの背中を、力強く彼女は押してくれた。自分が悪役を演じてでも、悲劇では終わらせないと断言した。
それがお人好しでなくてなんだろう? お人好しという表現では甘い、とすら思う。
自分のためであって他人のためではない、なんて嘯きながら、その行動は限りなく利他的で。自分のために動くことが、そのまま他者を救うような。
そんな彼女のことを、きっとヒーローと呼ぶのだ。
そんな彼女に、今の私は、救われているのだから。
いずれ天笠彰良が私を救うとしても──未来のヒーローが彼だとしても。
それでも。
今の汐華知佳にとっては月詠夢見がヒーローなのだと、心のなかだけでも断言しておきたい。
なんて考えながら、舞台裏の私は出番を待っている。
今日は記念すべき第一歩だ。天笠くんと私の物語を、再び動かしていくための。
準備は万端だ。正式な台本はきちんと覚えている。演技の練習も入念だ。そして何より、彼女が私のことを見ている。だから失敗はできないし──するはずもない。
文化祭当日。クラスの出し物は演劇。級友の合図を受けて、ゆっくりと足を踏み出した。
そうして私は舞台にあがり。
悪役を演じる天笠くんと──ヒロインとして、対峙する。
短編「自称悲劇の」はこの作品のIFとなっております。そちらも合わせてお楽しみください。