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『セントヘレナ島の、カメのジョナサン』 Jonathan, une tortue et le temps 「ジョナサン、一頭のカメと時間」  作者: 東曌


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第七話 ゾウガメの、食われる命、残された命

第七話 ゾウガメの、食われる命、残された命



一八八二年。


セントヘレナ島に、四頭のリクガメが運ばれてきた。


そのうちの一頭が、のちにジョナサンと呼ばれることになる。


四頭は、同じ時代を生きていた。


だが、四頭が同じ運命をたどったという記録はない。


誰が先に餌を食べたのか。

誰が、どれほど歩いたのか。

誰が、どこで眠ったのか。


そうしたことは、ほとんど残されていない。


残されているのは、四頭が島へ渡ったという事実と、そのうちの一頭が、二百年近い歳月を生きることになったという事実だった。


人間は、長く生きたものを記録する。


珍しいものを記録する。


名前を与えられたものを記録する。


しかし、記録されなかった命にも、腹は減る。


水が必要になる。


身体を動かさなければ、食べ物にたどり着けない。


食べ物がなければ、身体は弱る。


身体が弱れば、動くことも難しくなる。


生き物の暮らしは、そうした当たり前のことからできている。


当たり前だからこそ、人間は忘れやすい。


---


野生のリクガメの暮らしは、楽園の絵葉書とは違う。


草が生えていれば、そこに食べ物がある。


だが、草が生えていることと、十分に食べられることは同じではない。


乾けば、食べられるものが減る。


ほかの動物も食べる。


小さな身体では、食べられる範囲も限られる。


生まれたばかりの個体にとって、世界は広い。広いということは、それだけ移動しなければならないということでもある。


卵から出たからといって、誰かが食事を用意してくれるわけではない。


親がいつまでもそばについて、敵を追い払い、雨の日には雨宿りをさせ、腹が減れば食べ物の場所まで連れていってくれるわけでもない。


生きるために必要なものは、最初から与えられているとは限らない。


自分で見つける。


自分で食べる。


自分の身体を、どうにかして次の日まで持たせる。


それができなければ、命はそこで途切れることがある。


自然は、努力した者に賞状をくれない。


苦労した者に、特別な食事を出してくれるわけでもない。


昨日まで生きていたものが、今日も生きているとは限らない。


それだけのことだ。


だが、その「それだけ」が、どれほど重いことか。


---


人間は、カメの甲羅を見て、頑丈だと言う。


たしかに、甲羅は身体を守るための重要な構造だ。


だが、甲羅があるからといって、何も心配はいらないわけではない。


食べなければならない。


水分も必要だ。


気温が低すぎれば、活動は鈍る。


暑すぎても、身体に負担がかかる。


病気にもなる。


傷つくこともある。


甲羅は、あらゆる不幸を防ぐ魔法の盾ではない。


身体を守る仕組みがあることと、必ず生き延びられることは、別の話なのだ。


人間の社会にも、丈夫な靴がある。


雨を防ぐ屋根がある。


病気を治す薬がある。


それでも、人間は死ぬ。


道具や仕組みは、生き延びる可能性を高めることはできても、命を永久に保証することはできない。


リクガメも同じだった。


ただし、人間にはできることがある。


食べ物を探しに行くことができる。


水を運ぶことができる。


危険な場所から離れることができる。


そして、人間の判断ひとつで、動物の暮らしは大きく変わる。


保護することもできる。


移動させることもできる。


飼育することもできる。


食料として扱うこともできる。


生き物の命は、人間の暮らしと切り離されてはいなかった。


---


リクガメは、食料にもなり得る動物だった。


人間が食べるために、動物を捕らえる。


運ぶ。


殺す。


食べる。


それは、人間が生きるために繰り返してきた行為の一つだった。


その事実を、きれいな言葉で包み隠す必要はない。


腹が減れば、人間も食べなければならない。


食べ物を得るために働く人間もいる。


遠い海を渡り、荷物を積み下ろし、船を動かし、食料を確保する人間もいる。


命をつなぐために、別の命を利用する。


その関係は、人間の歴史の中に長く存在してきた。


けれど、食べる側の記録には、食べられたものの生涯までは書かれないことが多い。


何を食べたかは書かれる。


何頭を運んだかは書かれる。


何を贈ったかは書かれる。


だが、その動物がどこで生まれ、何を食べ、どんな危険をくぐり抜けてそこまで来たのか。


そうした時間は、記録の外に置かれることがある。


一八八二年、ジョナサンとともに三頭のリクガメがセントヘレナ島へ渡った。


その三頭が、のちにどうなったのか。


少なくとも、ジョナサンと同じように長寿の記録を残したわけではない。


三頭が食料にされたと断定できる資料も、ここでは確認できない。


だから、勝手に彼らの最期を作り上げることはしない。


しかし、わからないという言葉だけで、話を終わらせることもできない。


彼らにも身体があった。


腹が減る身体があった。


歩くための脚があった。


食べ物を口に運ぶための頭があった。


生きていた時間があった。


それが、どれほど長かったのか。


どんな場所で過ごしたのか。


私たちは知らない。


知らないということは、彼らに何もなかったということではない。


記録が残らなかったということだ。


---


ジョナサンは、生き延びた。


その一言の背後には、数え切れないほどの季節がある。


食べた日がある。


食べられなかった日もあったかもしれない。


雨が降った日がある。


乾いた日がある。


身体を動かせた日があり、動きが鈍くなった日もあっただろう。


その一つひとつを、私たちは知ることができない。


ジョナサンの二百年を、二百年分の記録として再現することはできない。


だが、少なくとも、彼が生きたという事実は残っている。


生まれた。


育った。


海を渡った。


島で暮らした。


そして、何十年ものあいだ、さらに何十年ものあいだ、命をつないだ。


人間の歴史には、王がいる。


将軍がいる。


戦争がある。


領土が変わる。


国の名前が変わる。


人間は、自分たちの歴史を、そうした大きな出来事で区切ってきた。


ジョナサンの時間は、それらをまたいで続いた。


人間が新しい時代を迎えるたび、ジョナサンの身体にも一日があった。


人間が新しい道具を発明するたび、ジョナサンには食べる時間があった。


人間が過去を記念するたび、ジョナサンは、まだ生きていた。


その長さを、数字だけで表すことはできる。


百年。


百五十年。


百九十年。


だが、数字は長さを示しても、その長さを生きることの手間までは示さない。


一日を生きる。


また一日を生きる。


食べる。


休む。


身体を動かす。


環境の変化に耐える。


それを繰り返す。


生き物にとって、命をつなぐということは、そういうことなのだ。


---


二百年近く生きた。


人間は、その数字を見て驚く。


世界記録だと言う。


奇跡だと言う。


長寿の秘密を探そうとする。


もちろん、それも大切なことだ。


ジョナサンの身体に何が起きているのかを調べることには、科学的な意味がある。


だが、長寿の秘密を探すことと、生き延びることの重さを理解することは、同じではない。


どれほど優れた研究が進んでも、ジョナサンが過ごした一日一日を、私たちがそのまま経験することはできない。


彼の身体の中で何が起きたのか。


何を感じていたのか。


どの瞬間に、どれほど苦しかったのか。


わからないことは残る。


それでも、ひとつだけ、確かなことがある。


ジョナサンは、二百年近く生きた。


その事実は、単に時間が過ぎたということではない。


生き物として、食べ、休み、環境に対応し、身体を保ち、命をつないできたということだ。


生き延びる。


それだけのことが、どれほど大変か。


人間は、ときに忘れる。


生きていることを、当然のように扱う。


明日が来ることを、当然のように考える。


けれど、命は、最初から保証されているものではない。


明日まで生きること。


また次の日まで生きること。


その積み重ねの先にしか、二百年はない。


ジョナサンは、二百年近くを生きた。


それは、彼が二百年分の英雄的な行為をしたという意味ではない。


彼が、毎日、英雄だったという意味でもない。


ただ、生きた。


その身体で。


その環境の中で。


人間が作った歴史の変化を受けながら。


その長い時間を、命をつないで生きた。


それだけで、凄まじいことなのだ。


そして、同じように生きようとして、生き延びられなかった命があったとしても。


その命が短かったという理由だけで、軽く扱われてよいはずはない。


二百年を生きた一頭を讃えること。


二百年を生きられなかった命を忘れないこと。


その二つは、矛盾しない。


ジョナサンの長い生涯を見つめるとき、私たちは、長生きしたことだけでなく、生きるという営みそのものを考えなければならない。


生き延びる。


それは、記録に名前が残ることよりも、ずっと手前にある。


名前を与えられる前から、命は生きようとしている。


誰にも数えられなくても。


誰にも讃えられなくても。


そして、その営みは、今日も続いている。


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