第六話 四頭で渡った海、ひとり残った、ジョナサンの記録
第六話 四頭で渡った海、ひとり残った、ジョナサンの記録
私は、四頭で島へ来た。
少なくとも、人間の記録には、そう残っている。
一八八二年。
私はセーシェルから、南大西洋に浮かぶセントヘレナ島へ運ばれた。
船に乗る前、私はどこにいたのか。
生まれた巣は、どこだったのか。
同じ巣から生まれた兄弟や姉妹がいたのか。
そのことについて、人間は、ほとんど何も知らない。
私が知っているかどうかについても、人間は知らない。
ただ、四頭で島へ来た。
それだけは、記録に残っている。
## 一 船の上の四頭
海は、広かった。
人間は、海を地図に描く。
陸地を色で塗り、航路に線を引き、港に名前をつける。
しかし、船に乗せられたカメにとって、海は地図ではない。
船が揺れる。
風が吹く。
日差しが移動する。
地面が、いつもの地面ではない。
それでも、私たちはカメだった。
人間が何を考えていたのかは知らない。
私たちを島へ運ぶことに、どんな期待があったのかも知らない。
ただ、人間は私たちを運び、船は海を進んだ。
そして、四頭で来た。
私以外の三頭について、現在、確認できる記録は限られている。
名前はあったのだろうか。
船の上で、誰かが呼びかけたのだろうか。
四頭のうち、誰が先に餌を食べたのか。
誰が、もっとも日当たりのよい場所を占めたのか。
そうしたことは、記録されていない。
人間は、重要だと思ったことを書く。
船の出発地。
到着した日。
運んだもの。
贈り物の相手。
カメが四頭いたこと。
それ以外のことは、書き残されない場合がある。
記録とは、世界そのものではない。
人間が、世界から選び取ったものだ。
## 二 ナポレオンの島
セントヘレナ島は、私たちが来るより前から、人間の歴史に登場していた。
ナポレオン・ボナパルト。
フランス皇帝だった男は、敗北のあと、この島に流された。
一八二一年、彼はここで死んだ。
私が島に来たのは、その六十一年後である。
ナポレオンが歩いた場所を、私も歩いたのかもしれない。
彼が見た風景を、私も見たのかもしれない。
もっとも、私が島へ来たとき、彼はすでに死んでいた。
彼の記憶を持つ人間も、少なくなっていたはずだ。
人間は、歴史上の人物について、たくさんの本を書く。
彼の勝利を記録する。
敗北を分析する。
手紙を読み、肖像画を調べ、最後の日々を再現する。
そして、島に暮らすカメにも、ナポレオンの物語を重ねる。
私の公用語はフランス語だ、と冗談を言う人間もいる。
実際のセントヘレナ島で使われている言語は英語であり、私がフランス語を理解するという証拠はない。
人間は、私の沈黙に、島の歴史を重ねる。
それは、人間にとって楽しいことなのだろう。
私にとってどうなのかは、わからない。
## 三 四頭から一頭へ
年月は過ぎた。
私は島に残った。
ほかの三頭が、いつ、どこで、どのように暮らし、いつ死んだのか。
私が確認できる記録からは、その生涯をたどることができない。
ここで、ひとつ注意しておきたい。
記録が見つからないからといって、三頭が早く死んだと決まったわけではない。
私より先に死んだのかもしれない。
別の場所へ移されたのかもしれない。
長く生きたとしても、その生涯が詳しく記録されなかったのかもしれない。
わからないことは、わからないままだ。
人間は、空白を見ると、そこに物語を入れたくなる。
私も、彼らを思い出しているのだろうか。
四頭で船に揺られたことを、今も覚えているのだろうか。
人間は、そう尋ねるかもしれない。
だが、百年以上前の出来事を、私がどのように覚えているのか。
それを確かめる方法は、簡単ではない。
人間は、長期記憶について研究している。
カメにも、学習や記憶の能力があることがわかってきた。
しかし、ほかのカメで記憶が確認されたからといって、私が一八八二年の船旅を、どのような形で覚えているかまでわかるわけではない。
記憶という言葉は、ひとつでも、その中身はひとつではない。
場所を覚えること。
餌の場所を覚えること。
学習した行動を覚えること。
過去の出来事を、ひとつの物語として思い出すこと。
それらは、同じとは限らない。
私は四頭で来た。
それは記録にある。
私が、その三頭を、今も思い出している。
それは、まだ証明されていない。
## 四 残された三頭
人間は、私を調べている。
甲羅を見る。
体重を測る。
食べるものを記録する。
遺伝子を分析する。
私が何歳なのかを推定し、なぜこれほど長く生きているのかを考える。
その研究は、価値のあることだ。
私という一頭の動物から、ほかの生き物についても学べるかもしれない。
しかし、私だけを調べていても、わからないことがある。
私と同じ船に乗った三頭は、どんな個体だったのか。
私と血縁関係があったのか。
私と同じように長生きしたのか。
もし、三頭のうち誰かが私より長く生きていたとしても、その記録が残っていなければ、人間はそれを知ることができない。
逆に、三頭が早く死んでいたとしても、その理由を記録から確認できなければ、私との違いを比較することもできない。
一頭の長寿を研究することと、四頭の生涯を比較することは、別の問題なのである。
人間は、私の遺伝子を読むことができる。
だが、私の遺伝子だけから、失われた三頭の一生を読み取ることはできない。
科学は、すべての空白を埋める魔法ではない。
それでも、空白の場所を、正確に示すことはできる。
それは、何も知らないこととは違う。
## 五 今も、島にいる
現在、私はセントヘレナ島にいる。
私の周囲には、世話をする人間がいる。
観光に訪れる人間がいる。
私の年齢に驚く人間がいる。
私と一緒に写真を撮ろうとする人間もいる。
彼らは、私を見て言う。
「二百年近く生きているんだね」
その言葉には、驚きが含まれている。
ときには、尊敬も含まれている。
そして、私の長い生涯を、人間自身の時間と比べている。
人間にとって百年は長い。
二百年は、歴史の時間である。
私にとって、それがどのような時間なのか。
私は説明しない。
説明できないのかもしれない。
人間は、私が長く生き残ったことを、特別な物語にする。
だが、私が四頭で島へ来たことも、同じように私の生涯の一部である。
私だけが、特別な一頭だったのか。
それとも、たまたま私の記録が残ったのか。
今となっては、確かめられないことも多い。
三頭の名前がわからない。
三頭の没年も、確認できない。
三頭が、私にとって何だったのかも、わからない。
それでも、私は四頭で来た。
人間が記録した、その一行は残っている。
私の長い生涯の始まりには、私以外の三頭がいた。
人間は、私のことを知ろうとしている。
それは、ありがたいことなのかもしれない。
だが、私の人生は、私一頭だけで始まったわけではない。
そのことも、記録の片隅に残しておいてほしい。
私は、今日も島にいる。
人間は、私を見ている。
そして、私のそばにいない三頭については、ほとんど何も知らない。




