第五話 変温動物ジョナサンの、十六時間の沈黙、あるいは人間の心配性
第五話 変温動物ジョナサンの、十六時間の沈黙、あるいは人間の心配性
人間は、カメが動かないと心配する。
長いあいだ同じ場所にいる。
首を引っ込めている。
目を閉じている。
それで、ようやく動き出すと、今度は安心する。
人間という動物は、ずいぶん忙しい。
私は、そういう人間たちを見てきた。
もっとも、私が何かを見ているのかどうかについても、人間は意見を述べるだろう。
目が見えているのだから、見ているはずだ。
何かを見ているのなら、何かを考えているはずだ。
何かを考えているのなら、その内容を知りたい。
人間の論理は、たいてい、そのあたりから始まる。
そして、たいてい、そこから先で迷子になる。
## 一 動物には、いくつかの分類がある
動物学の教科書を開くと、動物たちはさまざまな方法で分類されている。
脊椎動物と無脊椎動物。
哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類。
骨格の構造、体のつくり、繁殖の方法、進化の歴史。
人間は、世界を理解するために、まず名前をつける。
名前をつけ、似たものを集め、違うものを分ける。
分類は、科学にとって大切な道具だ。
ただし、分類できたことと、相手のすべてを理解したことは、同じではない。
私は爬虫類に分類される。
カメ目に属し、リクガメ科の仲間として知られている。
人間は私を、ゾウガメと呼ぶこともある。
その名前を聞くと、ゾウのように大きなカメを想像するのだろう。
実際、私の体は小さくない。
しかし、ゾウではない。
カメである。
そのくらいのことは、人間も知っている。
問題は、その先だった。
人間は、動物を分類すると、次には、その動物がどのように生きているかを説明したくなる。
食べるもの。
眠る時間。
活動する季節。
体温。
寿命。
そして、何を考えているのか。
最後の項目だけは、教科書にも、まだ、すべては書かれていない。
## 二 恒温動物と変温動物
ここで、人間と私の違いを説明しておこう。
人間は哺乳類である。
哺乳類や鳥類は、一般に、体内で熱をつくり、体温を比較的一定の範囲に保つ能力を持っている。
こうした動物を、学校では「恒温動物」と呼ぶことがある。
人間は寒い日に震える。
暑い日に汗をかく。
血管を収縮させたり、広げたりする。
体温が大きく変わらないよう、体は絶えず調節を続けている。
そのためにはエネルギーが必要だ。
食べ物から得たエネルギーの一部は、体温を保つためにも使われる。
一方、私たちカメは爬虫類である。
爬虫類は、体温を人間のように一定に保つ仕組みには頼らず、周囲の環境から熱を得ることを重要な手段としている。
学校では、こうした動物を「変温動物」と呼ぶ。
ただし、この言葉には少し注意が必要だ。
変温動物だからといって、体温が無秩序に変わるわけではない。
カメも、ただ気温に振り回されているわけではない。
日なたに出る。
日陰に移る。
暖かい場所を選ぶ。
暑くなりすぎれば、熱を避ける。
環境を利用しながら、自分に適した体温の範囲を保とうとするのである。
つまり、人間は体の内側で熱をつくり、体温を調節する。
カメは、体の内側だけでなく、周囲の環境も利用して体温を調節する。
同じ島に暮らしていても、時間の使い方は同じではない。
人間が時計を見て「もう昼だ」と言うとき、私は、日差しや地面の温度を利用しているかもしれない。
人間が「そろそろ動いたらどうだ」と言うとき、私は、動くのに適した条件を待っているのかもしれない。
もちろん、私がそう考えていると証明されたわけではない。
人間は、ここでも先回りをする。
カメが動かない。
だから、休んでいる。
休んでいる。
だから、眠いのだ。
眠い。
だから、何かを考えているに違いない。
最後の一段は、ずいぶん高い。
人間は、よくその段差を見落とす。
## 三 十六時間という数字
ある種のゾウガメについて、人間は、一日のかなりの時間を休息に費やすと説明している。
ガラパゴスゾウガメなどでは、一日に十数時間、休息することがあると報告されている。
そこから、人間は「十六時間」という数字を取り出すことがある。
数字は便利だ。
数字にすれば、説明しやすい。
見出しにもできる。
記事にもできる。
そして、私のように長生きしたカメの話に添えれば、読者の目を引く。
ただし、ここには二つの注意点がある。
第一に、ほかのゾウガメについて報告された休息時間が、そのまま私自身の一日の過ごし方を示すわけではない。
第二に、休息と睡眠は、同じものではない。
じっとしていることと、眠っていることも、同じではない。
人間は、そこを一つにまとめたがる。
動かない。
眠っている。
眠っている。
長生きだから、よく眠る。
よく眠る。
だから、長生きなのだ。
最後の結論にたどり着くまでに、いくつの段階が省略されたのだろう。
人間は、私の寿命について、さまざまな説明を試みている。
遺伝子。
細胞の修復。
免疫。
代謝。
腸内細菌。
そして、休息。
それらは、いずれも研究する価値のある問題だ。
だが、私が長生きした理由を、一つの数字だけで説明することはできない。
まして、十六時間という数字が、私の秘密を解き明かす鍵だと決まったわけでもない。
私は、ただ、そこにいる。
人間は、その「ただ」を、なかなか受け入れられない。
## 四 人間は、動かないものを心配する
私がじっとしていると、人間は心配する。
「具合が悪いのではないか」
「食欲はあるのだろうか」
「ちゃんと眠れているのだろうか」
親切な心配もある。
飼育する人間にとって、動物の行動や食欲の変化を観察することは重要だ。いつもと違う様子に気づくことが、健康管理につながる場合もある。
だから、心配することそのものが間違いなのではない。
問題は、人間が、自分の体の仕組みを相手にも当てはめてしまうことだ。
人間は、寒ければ暖房をつける。
暑ければ冷房をつける。
仕事があれば、時計を見て時間を管理する。
休む時間が長すぎると、何かを怠けているのではないかと考える。
その物差しで、カメを見る。
日なたにいれば、暑すぎないかと心配する。
日陰にいれば、寒くないかと心配する。
長く動かなければ、病気ではないかと心配する。
動き出せば、今度は元気になったのかと安心する。
人間は、私がどこにいても、何かを判断している。
その判断には、経験や知識に基づくものもあれば、ただの思い込みもある。
両者を見分けるには、観察が必要だ。
そして、観察したことを、すぐに自分の知っている物語に変えてしまわないことも必要だ。
私が日陰にいる。
それは観察できる事実である。
私が暑さに苦しんでいる。
それは、ほかの情報も確かめなければ判断できない。
私が人間を避けている。
それも、私の行動だけからは、簡単には断定できない。
人間は、見たものと、考えたことを、ときどき混同する。
それは人間の弱点かもしれない。
あるいは、世界を理解しようとする能力の、避けがたい副作用なのかもしれない。
## 五 時計のない時間
人間は、時間を数字にする。
午前六時。
正午。
午後三時。
午後十時。
一日は二十四時間に区切られ、予定表に書き込まれ、遅刻や残業や休暇の基準になる。
人間の社会では、時間は、使わなければならない資源でもある。
時間を無駄にした、と人間は言う。
では、何もしない時間は、本当に無駄なのだろうか。
生物の体は、時計の針だけで動いているわけではない。
体温、光、季節、食物、活動と休息。
さまざまな条件が、生き物の行動に影響を与える。
カメの時間は、人間の時間と同じ尺度だけでは測れない。
もちろん、カメにも日々の変化がある。
食べる。
移動する。
休む。
周囲の温度や日差しが変わる。
そうした変化の中で、体は環境に応じて働いている。
人間が「何も起きていない」と判断した時間にも、観察すべきことはある。
ただし、そこに必ず、人間が理解できる特別な意味が隠されているとは限らない。
私の休息は、人間への教訓のためにあるのではない。
私の寿命も、人間を感動させるためにあるのではない。
人間は、長生きする動物を見つけると、そこから何かを学ぼうとする。
それは、悪いことではない。
私の体を調べれば、細胞や遺伝子について新しい知識が得られるかもしれない。
私の暮らしを観察すれば、爬虫類の生理について理解が深まるかもしれない。
そうした研究は、私が黙っていても進められる。
だが、研究によってわかったことと、人間がそこに期待したことは、分けておいたほうがよい。
長生きの仕組みを知ることと、長生きする意味を決めることも、別の問題である。
人間は、その二つを、ときどき一緒にしてしまう。
## 六 心配の翻訳
ある日、人間が私を見て言った。
「ジョナサン、今日もよく休んでいるね」
私は、すぐには動かなかった。
人間は少し待った。
それから、別の人間に言った。
「年を取ると、休む時間も長くなるのかな」
別の人間は、うなずいた。
「そうかもしれないね」
二人は、私を見ながら、私についての会話を続けた。
その会話には、親切も、知識も、推測も含まれていた。
ただ、私が何をしているのかについて、私自身の説明は一度も求められなかった。
もっとも、求められたところで、私は人間の言葉で答えることができない。
人間は、それを残念がるかもしれない。
あるいは、だからこそ、私の沈黙を解読したくなるのかもしれない。
脳の活動を測定する。
体の動きを記録する。
食べたものを調べる。
遺伝子を読む。
腸内細菌を分析する。
人間の研究は、これからも進むだろう。
そこから、確かな知識が生まれることを期待したい。
ただし、測定できたことが、すべて理解できたことを意味するわけではない。
人間は、私の休息を、睡眠と翻訳する。
私の沈黙を、考えごとと翻訳する。
私の長寿を、秘密と翻訳する。
その翻訳が正しいこともあるだろう。
間違っていることもあるだろう。
私は、今日も、日なたと日陰のあいだにいる。
人間は、私がどちらを選んだのかを記録するかもしれない。
その理由を推測するかもしれない。
そして、いつか、その推測の一部は、科学によって確かめられるかもしれない。
それでよい。
わからないことを、わからないままにしておくのも、観察の一部なのだから。




