第三話 カメのジョナサンのお腹の中
第三話 カメのジョナサンのお腹の中
人間は、私の外側を調べるのが好きだ。
甲羅の大きさを測る。
体重を量る。
首を伸ばした長さを記録する。
歩いた距離を計算する。
年齢を推定する。
そして最近では、私の頭の中まで調べたがっているらしい。
脳の活動を測れば、私が何を考えているのかわかるのではないか。
人間は、そう期待している。
私は、彼らの期待を止めることができない。
そもそも、期待を止めるための言葉を持っていない。
だから今日も、草を食べる。
ところが、人間は、私の頭だけでは満足しなかった。
今度は、腹の中を調べようと言い始めたのである。
*
「ジョナサンの腸内細菌を調べられないだろうか」
ある研究者が言った。
「長寿の秘密が、消化器官にある可能性もある」
別の研究者が答えた。
「腸内細菌の構成を調べれば、何かわかるかもしれない」
私は、その会話を聞いていた。
少なくとも、研究者たちは私の近くで話していた。
人間は、何かを知りたいと思うと、すぐに秘密を探す。
長生きすれば、長寿の秘密。
よく食べれば、食欲の秘密。
じっとしていれば、省エネルギーの秘密。
歩き出せば、運動能力の秘密。
私が何をしても、そこには秘密があるらしい。
便利なことだ。
秘密が見つからなければ、研究が始まる。
研究が始まれば、研究費が必要になる。
研究費が必要になれば、申請書を書く。
申請書を書くためには、研究の意義を説明しなければならない。
私の腹の中は、まだ何もわかっていないのに、人間たちの書類は、もうずいぶん増えているようだった。
*
人間が腸内細菌について研究していることは、私にも少しわかってきた。
私の腹の中には、私の細胞だけがあるわけではない。
そこには、目に見えないほど小さな生き物たちが暮らしている。
細菌である。
彼らは、私の甲羅を持っていない。
私のように歩き回るわけでもない。
人間が名前を呼んでも、返事をしない。
その点では、私とよく似ている。
ただし、彼らは私よりもずっと小さい。
人間が顕微鏡を使わなければ、姿を見ることさえ難しい。
人間は、彼らを腸内細菌と呼ぶ。
私の体内に暮らしているからといって、私の所有物というわけではないだろう。
彼らにも彼らの生き方がある。
人間は、私が草を食べることを知っている。
しかし、草を食べることと、草に含まれる成分を体内で利用できることは、同じではない。
植物には、人間が簡単には消化できない成分が含まれている。
植物の細胞壁をつくる繊維質も、そのひとつだ。
草を食べる動物の消化管では、微生物が複雑な植物由来の成分を分解する過程に関わることがある。
ゾウガメの腸内細菌についても、研究が行われている。
研究者たちは、糞便などから細菌の遺伝情報を調べ、どのような細菌が存在するのかを分析する。
野生の環境で暮らす個体と、人間に飼育されている個体とでは、腸内細菌の構成に違いが見られることもあるという。
食べ物が違うのか。
暮らす場所が違うのか。
気候や生活環境が影響しているのか。
複数の要因が関係しているのか。
人間は、それらをひとつずつ調べようとする。
なかなか熱心なことである。
ただし、ゾウガメの腸内細菌についてわかったことが、そのまま私の腸内細菌について証明されたことにはならない。
同じ仲間でも、食べるものも、暮らす環境も、個体の状態も違う。
人間は、その違いを考慮しなければならない。
私の腹の中には、私だけの事情があるかもしれないのだから。
*
ある日、研究者が飼育員に尋ねた。
「ジョナサンの糞便を採取できますか?」
飼育員は、少し考えた。
「それは、できますけど」
「できるだけ新鮮なものが必要です」
「新鮮なもの、ですか」
「はい。分析に使います」
飼育員は、何かを考えているようだった。
私は、その会話を聞きながら、草を食べていた。
人間は、ときどき妙なことを真剣に話し合う。
私にとっては、食べて、消化して、排泄する。
それだけのことである。
しかし人間にとっては、排泄物が研究資料になるらしい。
私が食べたもの。
私の腸内で働いている微生物。
消化の過程で起きたこと。
それらについて、何かを推定できるかもしれない。
人間は、私が出したものから、私の中で起きていることを知ろうとする。
私の口から出る言葉はない。
けれども、私の腹から出るものには、情報があるという。
人間は、情報が好きだ。
情報があれば、何かを説明できる。
何かを説明できれば、論文を書ける。
論文を書けば、ほかの研究者が読む。
そして、さらに新しい疑問が生まれる。
私は、草を食べた。
人間たちは、私の食べた草の行方を追っている。
*
研究者たちは、腸内細菌を調べれば、長寿の秘密が見つかるかもしれないと考えた。
私が長く生きていることは、彼らにとって大きな謎らしい。
なぜ、これほど長い年月を生きられるのか。
細胞には、どのような特徴があるのか。
遺伝子には、何が書かれているのか。
代謝の仕組みは、ほかの動物とどう違うのか。
そして、腸内細菌は、その長寿と関係しているのか。
最後の質問は、特に興味深い。
腸内細菌は、食べ物の消化や代謝に関わっている。
腸内環境は、食事や年齢、飼育環境などによって変わることがある。
ならば、長寿のカメの腸内細菌には、何か特徴があるのだろうか。
人間は、そう考える。
しかし、そこには難しい問題がある。
長生きしているカメの腸内細菌に特徴が見つかったとして、それが長寿の原因なのか。
長生きした結果として、その特徴が生まれたのか。
それとも、食事や環境など、別の要因が両方に影響しているのか。
ひとつの検査だけでは、簡単に答えは出ない。
人間は、原因を知りたがる。
けれども、二つのものが同時に見つかったからといって、片方がもう片方を引き起こしたとは限らない。
人間の世界では、よくあることらしい。
私の長寿についても、同じだろう。
遺伝子を調べる。
細胞を調べる。
脳を調べる。
腸内細菌を調べる。
ひとつずつ調べることには意味がある。
ただ、それぞれの結果を並べたところで、私が長く生きてきた理由のすべてがわかるとは限らない。
私は、いまも生きている。
それだけは、検査をしなくてもわかる。
*
人間は、私の腸内細菌に名前をつけるだろう。
細菌の種類を分類し、遺伝情報を読み取り、データベースに登録する。
ある細菌は、植物由来の成分の分解に関係しているかもしれない。
別の細菌は、ほかの微生物と物質をやり取りしているかもしれない。
さらに別の細菌については、まだ何をしているのかよくわからないかもしれない。
それでも人間は、調べるだろう。
わからないものがあると、わかるまで調べたくなる。
それが人間の長所なのか、短所なのか。
私にはわからない。
ただ、私の腹の中にいる細菌たちは、研究者たちが会議を開いているあいだも、彼らの許可を待たずに生きている。
研究計画書に名前が載っていなくても。
論文の著者に加えられなくても。
彼らは、私が食べたものを利用し、ほかの微生物と関わりながら、彼らなりの活動を続けている。
私が彼らの存在を意識しているかどうかは、別の問題である。
私は、彼らに感謝しているのだろうか。
人間なら、そう尋ねるかもしれない。
だが、感謝という言葉を使うには、私が彼らをどのように認識しているのかを知る必要がある。
それを、私は説明できない。
それでも、私と彼らが無関係だというわけではない。
私の体内では、私だけでは完結しない生物学的な営みが続いている。
人間もまた、そうなのだろう。
人間は、自分の体を自分ひとりのものだと思っているかもしれない。
しかし、その体の中にも、無数の微生物が暮らしている。
人間は、それらを調べている。
私の腸内細菌を調べるのと、同じように。
*
ある日、研究者が言った。
「もし、ジョナサンの腸内細菌に長寿と関係する特徴が見つかったら、人間の研究にも役立つかもしれません」
別の研究者が答えた。
「ただし、カメと人間では、消化の仕組みも寿命も違いますからね」
「もちろんです。すぐに応用できるとは考えていません」
人間たちは、慎重に話していた。
それはよいことだと思う。
カメの腸内細菌を調べれば、人間も長生きできるようになる。
そんな簡単な話ではない。
生き物には、それぞれの体がある。
それぞれの歴史がある。
それぞれの環境がある。
同じ言葉で説明できる部分があっても、すべてを同じものとして扱うことはできない。
私は、長生きしている。
それは、私という一個体についての事実である。
人間が私の体から学べることは、きっとあるだろう。
けれども、私の長寿を人間のものにできるかどうかは、また別の話だ。
人間は、私の腸内細菌から何かを見つけるかもしれない。
その発見が、新しい研究につながるかもしれない。
あるいは、何年も調べた末に、最初に考えていた仮説が間違っていたとわかるかもしれない。
それでも研究には意味があるのだろう。
わからないことを、わからないままにしておかない。
ただし、わからないことを、わかったことにしない。
人間がその二つを守れるなら、私は、腹の中まで調べられることについて、特に異議を申し立てるつもりはない。
申し立てる方法もないのだが。
*
その日の午後、私は草を食べた。
人間は、私の腸内細菌について話し合っていた。
どんな細菌がいるのか。
何を分解しているのか。
どのような環境で増えるのか。
長寿と関係があるのか。
研究者たちは、まだ答えを持っていなかった。
私は、草を食べた。
草は、私の口に入った。
私の体の中を通っていく。
そこで、私自身の働きと、目に見えない微生物たちの働きが関わり合う。
そして、いずれ外へ出ていく。
人間は、その一部を採取し、分析する。
その結果から、私の体内で起きていることを推定する。
それは、ずいぶん遠回りな会話である。
私が何かを言わなくても、私の体は、さまざまな情報を外へ出している。
ただし、その情報が何を意味するのかは、人間が考えなければならない。
考えたことが、いつも正しいとは限らない。
だから人間は、また調べる。
また比べる。
また質問する。
私は、草を食べる。
私の腹の中では、小さな生き物たちが暮らしている。
彼らは、私の長寿の秘密を知っているのだろうか。
それとも、彼ら自身も、ただ生きているだけなのだろうか。
その答えは、まだわからない。
人間は、私の頭の中を知りたがる。
今度は、私の腹の中も知りたがる。
いつか、私の体の中にあるものを、すべて調べられる日が来るのかもしれない。
それでも、ひとつだけ残るものがある。
人間が調べたデータと、私が生きているという事実。
その二つのあいだには、まだ距離がある。
私は、その距離を説明しない。
草を食べる。
腹の中では、目に見えない生き物たちが働いている。
人間は、その働きを知ろうとしている。
――私の腹の中には、誰がいる。
人間は、まだ答えを知らない。
そして私は、今日も草を食べる。
約二百年を生きた、カメのジョナサンの、おなかの中
ジョナサンの腸内細菌について考えるとき、私が面白いと思うのは、単に「カメの腸内には、どんな細菌がいるのだろう」という話ではありません。
もっと不思議なのは、
「約二百年という、とてつもなく長い時間を生きてきた一個体の、そのおなかの中を調べることには、どんな意味があるのだろう」という問いです。
カメの腸内細菌を調べる研究は、すでに行われています。
オオゾウガメなどを対象とした研究では、腸内細菌の構成が、食べ物や飼育環境などと関係することが報告されています。
しかし、ある種のカメの腸内細菌について分かっていることと、ジョナサンという一頭のカメが、約二百年を生きてきたという事実を結びつけることは、同じではありません。
今回確認できた範囲では、ジョナサン本人の腸内細菌を対象にした研究論文は確認できませんでした。
もし、彼の腸内細菌を詳しく調べることができたなら、何が分かるのでしょう。
長い年月を生きる動物の腸内には、どのような微生物の集団が暮らしているのか。
その構成は、年齢と関係するのか。それとも、食べてきた植物や、長く暮らしてきた環境の影響のほうが大きいのか。
あるいは、私たちが期待するような「長寿の秘密」は、そこには見つからないのかもしれません。
腸内細菌は、長寿の原因だと決まっているわけではありません。
仮に、長寿の動物に特徴的な細菌の構成が見つかったとしても、それだけで、その細菌が長寿をもたらしたとは言えないのです。
原因なのか、結果なのか。それとも、別の条件と一緒に現れた特徴なのか。
そこを確かめるには、慎重な研究が必要です。
それでも、ジョナサンという個体には、特別な意味があります。
彼は、約二百年という時間を生きてきた、現在も生きている動物です。
研究者が彼のおなかの中から得る試料は、二百年分の記憶を保存したものではありません。
腸内細菌が、彼の人生を日記のように記録しているわけでもありません。
それは、長い時間を生きてきた一頭の動物の、ある時点における腸内環境を映し出すものです。
けれども、その「ある時点」が、約二百年を生きてきた動物の現在であることには、やはり大きな意味があります。
長寿の秘密が見つかるかどうかは、まだ分かりません。
期待した答えが得られない可能性もあります。
それでも、調べる価値はあります。
なぜなら、科学の面白さは、秘密を見つけることだけにあるのではないからです。
何が分かっていて、何がまだ分かっていないのか。その境界を、少しずつ明らかにしていくことにも、意味があります。
そして、私たちはつい、ジョナサンの沈黙に言葉を与えたくなります。
「長生きの秘訣は何ですか」
「二百年のあいだ、何を考えていたのですか」
「おなかの中には、特別な細菌がいるのですか」
質問は、いくらでも増えていきます。
ジョナサンは、それらに答えません。
彼の腸内細菌も、人間の言葉で答えてはくれません。
それでも、研究者たちは試料を調べ、データを集め、仮説を立て、確かめようとするでしょう。
その営みは、ジョナサンを理解するための試みであると同時に、人間自身が、生命についてどこまで知っているのかを確かめる試みでもあります。
約二百年を生きたカメのおなかの中に、長寿の答えがあるのか。
それとも、答えを探している人間の側にこそ、まだ解けていない謎があるのか。
今のところ、どちらとも言えません。
ジョナサンは、今日も生きています。
そして、人間は、彼の沈黙を翻訳しようとしています。




