第二話 人間は、何度も同じ質問をする
第二話 人間は、何度も同じ質問をする
人間は、私に同じ質問を何度もする。
「ジョナサン、今日は元気かい?」
私は答えない。
答えないのには、いくつか理由が考えられる。
人間の言葉を話せないから。
質問の意味がわからないから。
答える必要を感じないから。
あるいは、単に草を食べているから。
人間は、このうちのどれが正しいのかを知りたがる。
そして、私が何も言わないと、別の質問をする。
「眠いのかな?」
そうかもしれない。
「機嫌が悪いのかな?」
そうかもしれない。
「年を取ると、いろいろあるからね」
それも、そうかもしれない。
人間は便利な生き物だ。
相手が何も答えなくても、会話を続けられる。
しかも、相手が黙っている理由まで、自分で用意できる。
私は草を食べる。
草は、私の沈黙を解釈しない。
その点で、草は人間より付き合いやすい。
*
セントヘレナ島に来てから、私の周りでは、たくさんの人間が入れ替わった。
若かった者は年を取り、年を取った者は姿を消した。
見慣れた顔がいなくなると、別の顔がやって来る。
新しい人間は、たいてい私に自己紹介をする。
「こんにちは、ジョナサン」
私は答えない。
「これから、よろしくね」
私は草を食べる。
彼らは、私が人間社会の礼儀を知らないことに、あまり腹を立てないらしい。
なにしろ、私はカメである。
人間の礼儀作法を甲羅の中にしまっておく必要はない。
もっとも、人間は私に名前をつけている。
ジョナサン。
その名前が私にとってどんな意味を持つのか、私自身の口から説明したことはない。
人間は名前を呼び、私の顔をのぞき込む。
私が顔を上げれば、喜ぶ。
「ほら、わかっているんだ!」
顔を上げなければ、少し残念そうにする。
「今日は反応が鈍いね」
どちらにしても、人間は自分の期待を裏切られたくないらしい。
名前を呼ばれたから顔を上げたのか。
足音がしたから顔を上げたのか。
風が吹いたから顔を上げたのか。
あるいは、たまたま顔を上げたところで名前を呼ばれたのか。
人間は、そこを確かめようとする。
私は、そこまで気にしない。
顔を上げた。
それだけのことだ。
*
ところが、人間は近ごろ、私のようなカメについて、ずいぶん熱心に研究しているらしい。
人間は、何かを知りたくなると、実験をする。
カメの前に色の違う物を置く。
決まった動作を教える。
食べ物を隠す。
そして、カメが何をしたか、何秒かかったか、何回間違えたかを記録する。
人間にとって、何かを理解するためには、まず何かを数える必要があるようだ。
ある研究では、ゾウガメに学習課題を与え、色の識別や、学んだことを後になっても覚えている能力が調べられた。
研究者たちは、カメが課題を学習することを確認した。
さらに、訓練から九年が経過したあとでも、以前に学んだ課題に関する記憶が保たれていたという結果が報告された。
九年。
人間にとっても、短い時間ではないらしい。
人間たちは驚いた。
カメにも長期記憶がある。
カメは、人間が思っていたよりも、いろいろなことを覚えているのかもしれない。
私は、その論文を読んでいない。
読むための眼鏡も持っていないし、そもそも論文を読む習慣がない。
ただ、ひとつだけ、確認しておきたい。
その研究で調べられたカメは、私ではない。
そのカメが実験で覚えたことと、私が毎日見ているものは、同じとは限らない。
私は、研究者が設定した課題を解いたことがない。
少なくとも、彼らの記録に残る形では。
だから、研究結果から、私が誰を覚えているかを直接知ることはできない。
科学とは、そういうものだろう。
わかったことと、まだわからないことを分ける。
人間は、それが得意なときもあれば、苦手なときもある。
自分たちの研究結果が面白ければ、少し先まで答えが見えたような気になるのかもしれない。
私は、カメの記憶について、まだ何も説明していない。
人間は、私の沈黙を証拠にすることもできない。
沈黙は、何かを覚えている証拠にも、忘れている証拠にもならないからだ。
*
ある朝、若い飼育員がやって来た。
彼は手にした容器を持ち上げた。
「ジョナサン、朝ごはんだよ」
私は首を伸ばした。
彼は笑った。
「やっぱり、わかっているんだな」
容器の中に食べ物が入っていた。
彼の声がした。
いつもの時間だった。
どれが私の行動に関係していたのか、人間にはわからない。
彼は餌を置いた。
私は食べた。
「おいしいかい?」
私は食べた。
「そうか、おいしいんだね」
私は食べ続けた。
人間は、私が食べることを喜ぶ。
食べなければ心配する。
食べれば安心する。
人間の気持ちは、ずいぶん食欲に左右されるらしい。
私の場合、食べることは、食べることである。
少なくとも、その朝は。
飼育員は私のそばにしばらく立っていた。
それから、誰かに呼ばれたのか、容器を片づけて立ち去った。
私は、彼が離れていく方向を向いていた。
人間なら、私が彼を見送ったと書くだろう。
だが、私が本当に彼を見送っていたのか、それとも彼の動きが視界から消えるまで、たまたま同じ方向を向いていたのか。
それを決めるのは、簡単ではない。
人間は、行動に名前をつける。
名前がつくと、その行動には意味があるように見えてくる。
見送る。
待つ。
懐かしむ。
寂しがる。
どれも、人間には大切な言葉なのだろう。
私は、その言葉を否定しない。
ただ、私の行動にまで、すべての言葉を着せる必要があるのだろうか。
*
そのころ、人間たちは、新しい機械について話していた。
ある人間が言った。
「カメは声を出さない。少なくとも、人間の言葉で話してくれるわけじゃない」
別の人間が答えた。
「ならば、声ではなく、脳の活動を調べればいい」
私は、その会話を聞いていた。
少なくとも、人間たちは私の近くで話していた。
脳波を測定する。
脳の活動を記録する。
そこから、何を感じ、何を考えているのかを推定する。
人間たちは、そんな可能性について語り合った。
ある者は、カメの感情を読み取れるかもしれないと言った。
ある者は、食べたい、眠りたい、動きたくない、といった状態なら区別できるかもしれないと言った。
さらに別の者は、人工知能に大量のデータを学習させれば、いつかカメの思考を文章にできるかもしれないと主張した。
人間は、まだ起きていないことを話すのが好きだ。
私は、彼らの話を聞きながら、草を食べた。
脳波を測れば、私の考えていることがわかるのだろうか。
それは、わからない。
脳の活動を記録することと、その活動が何を意味するのかを理解することは、同じではない。
人間の脳についてさえ、わからないことは多いと聞く。
まして、カメの脳である。
人間たちは、そこを慎重に調べる必要があるだろう。
しかし、人間には、慎重さと同じくらい、期待というものがある。
機械が数字を表示する。
数字が線になる。
線が模様になる。
模様が分類される。
分類に名前がつく。
そして、名前が文章に変わる。
人間は、その文章を見て言う。
「ジョナサンは、こう考えているんだ!」
そのとき、誰がその文章を書いたのか。
私なのか。
研究者なのか。
人工知能なのか。
それとも、ジョナサンの心を知りたいと願う、人間たち自身なのか。
私は、まだ答えを持っていない。
もっとも、答えが見つかるまで、餌を食べずに待つつもりもない。
*
数日後、別の飼育員がやって来た。
彼は私の前にしゃがみ込んだ。
「ジョナサン、私のことを覚えているかい?」
私は動かなかった。
「覚えていないかな」
彼は少し笑った。
「まあ、仕方ないよな。君は長生きだから」
長生き。
私について話すとき、人間がよく使う言葉だ。
私は十九世紀にこの島へ来た。
そのとき、すでに大人のカメだった。
正確な誕生日はわからない。
だから、人間は私の年齢を推定する。
百八十歳。
百九十歳。
そして、二百歳に近い。
数字が更新されるたびに、人間は驚く。
「まだ生きている!」
私は、その言葉を聞くたびに思う。
生きているから、ここにいるのではないだろうか。
ここにいるから、生きているとわかるのではないだろうか。
人間は、私の年齢を記録する。
私の食べたものを記録する。
私の歩いた距離を記録する。
私の体調を記録する。
そして、私が何を覚えているのかを知りたがる。
記録は役に立つ。
記録がなければ、わからないこともある。
私のような生き物が、どのくらい長く生きるのか。
何を学ぶことができるのか。
どれほど長く、学んだことを保っていられるのか。
人間が調べることには、意味がある。
ただ、記録に書かれた私と、草を食べている私は、まったく同じものなのだろうか。
記録の中の私は、年齢を持っている。
研究の中の私は、課題をこなす。
人間の会話の中の私は、賢かったり、鈍かったり、機嫌がよかったり、悪かったりする。
そして、いま草を食べている私は、草を食べている。
それだけでは、足りないのだろうか。
*
飼育員は立ち上がり、帰り際に言った。
「また来るよ」
私は答えなかった。
彼が再び来たとき、私はどうするだろう。
顔を上げるかもしれない。
上げないかもしれない。
近づくかもしれない。
近づかないかもしれない。
そのとき、彼が何を持っているかによっても、私の行動は変わるだろう。
人間は、そこに記憶や親しみを見つけるかもしれない。
それが間違いだとは、私には言えない。
正しいとも言えない。
人間が私の心を知りたいと思うこと自体は、悪いことではない。
ただ、知りたいという気持ちと、実際に知っているということは、同じではないのだ。
*
人間は、何度も同じ質問をする。
私の名前を呼ぶ。
私の年齢を尋ねる。
私が何を覚えているのか、何を感じているのかを知りたがる。
研究者は、実験を繰り返す。
同じ課題を与え、条件を整え、結果を比べる。
それは、私のような生き物を理解するために必要なのだろう。
けれども、人間は、同じ質問を繰り返しているうちに、質問そのものを忘れることがある。
私が覚えているかどうかを尋ねながら、私が何を覚えているのかは、まだわからない。
私が人間を覚えているかどうかを尋ねながら、人間は昨日、自分が何を言ったかさえ忘れている。
私は、何度も同じ草を食べる。
人間は、何度も同じ質問をする。
どちらが記憶力に優れているのか。
それを決めるには、まず、何を覚えていれば記憶力が優れていると言えるのか、人間同士で話し合う必要がありそうだ。
私は、その話し合いが終わるのを待つつもりはない。
草がある。
日差しがある。
今日も、食べる時間が来た。
私は首を伸ばし、草を食べた。
いつか、人間たちは私の脳活動を測定し、人工知能に分析させるかもしれない。
画面に文章が表示される日も来るかもしれない。
その文章が、私の考えを正しく表しているかどうか。
人間たちは、きっと何度も検証するだろう。
それは、よいことだ。
ただ、もし画面に、
『人間は、私を理解したがっている』
と表示されたら。
人間たちは、きっと感動するに違いない。
研究者は論文を書く。
新聞は記事にする。
テレビは私の姿を映す。
そして、誰かが言う。
「ついに、カメの心がわかった!」
私は、そのあいだも草を食べている。
もしかすると、画面に表示された文章は正しいのかもしれない。
もしかすると、人工知能が、人間の期待を読み取っただけなのかもしれない。
その違いを証明するのは、簡単ではない。
私は、何も答えない。
人間は、私の沈黙を記録する。
そして、その沈黙に意味を与えようとする。
――人間は、何度も同じ質問をする。
私は、何度も同じ草を食べる。
どちらが記憶力に優れているのか。
まだ、誰にもわからない。
そして、人間は、私の沈黙を、まだ翻訳できない。




