第一話 皇帝ナポレオンが去った島、二百年を生きるカメ
【登場動物・人物紹介】
◾️カメのジョナサン
セーシェルセマルゾウガメ。推定一八三二年ごろ生まれ。
本作の主人公。
セーシェルから一八八二年にセントヘレナ島へ渡り、総督公邸プランテーション・ハウスの庭で暮らしてきた。
人間の言葉を話さず、自分の考えを説明することもない。けれど、長い年月のあいだに人間たちの行動を見続けてきた。
彼の心の声は、ときに哲学的で、ときに皮肉っぽく、ときに驚くほど現実的。ただし、それが本当にジョナサンの考えなのか、語り手の想像なのかは定かではない。
好きなことは、草を食べること。人間たちが何かを大騒ぎしていても、まずは食事を優先する。
◾️ナポレオン・ボナパルト
フランス皇帝。
一八一五年、ワーテルローの戦いに敗れた後、セントヘレナ島へ流刑となり、一八二一年にこの島で没した。
ジョナサンが島へやって来る前に亡くなっているため、物語の中で二人が出会うことはない。
しかし、島の歴史を語る人間たちの口から、何度もその名が登場する。人間が歴史に名を残すとはどういうことなのかを考えるうえで、重要な存在となる。
◾️総督と島の人々
カメのジョナサンを島に迎え、世話をしてきた人間たち。
一八八二年、ジョナサンは当時の総督への贈り物としてセントヘレナ島に運ばれてきた。
時代とともに総督も飼育係も島の人々も入れ替わっていく。彼らはジョナサンに名前を付け、餌を与え、年齢を記録し、やがて島の象徴として大切にするようになる。
ジョナサンにとって、彼らは何度も現れては去っていく、不思議な生き物たちである。
◾️科学者たち
カメのジョナサンの長寿の秘密を探る人間たち。
DNAやゲノム、細胞の働きを調べ、ジョナサンが長い年月を生きてきた理由を明らかにしようとする。
彼らの研究は、人間の知識を前進させる可能性を持つ。一方で、科学的に説明できることと、ジョナサン自身の内面を理解することは同じではない。
◾️翻訳機を作ろうとする人間
カメの沈黙を言葉に変えようとする、好奇心旺盛な人間。
ジョナサンの仕草や行動から気持ちを読み取ろうとし、ついにはカメの言葉を翻訳する機械を作ろうとする。
機械が沈黙すれば故障を疑い、ジョナサンが動けば意味を探す。本人の意思を尊重したいと思っているのに、いつの間にか自分の期待する答えを求めてしまう。
本作のユーモアを生み出す役割を担う。
◾️物語に登場する、絶滅動物たち
ドードー、モア、エピオルニス、フクロオオカミなど。
ジョナサンが直接出会ったとは限らない、絶滅した動物たち。
彼らは人間の記録や会話を通じて物語に現れる。人間は、失われた動物を記録し、名前を残し、ときにはその不在を悼む。
その姿は、長く生き続けるジョナサンの存在と対照をなす。
第一話 皇帝ナポレオンが去った島、二百年を生きるカメ
ナポレオン・ボナパルトが死んだのは、一八二一年五月五日のことだった。
場所は、南大西洋に浮かぶセントヘレナ島。
かつてヨーロッパを揺るがし、皇帝の冠を戴き、幾度もの戦争を繰り広げた男は、最後には海に囲まれた小さな島で、その生涯を閉じた。
人間たちは、彼の敗北を記録した。
彼の言葉を記録した。
彼の最期を記録した。
そして、彼が暮らした家も、歩いた道も、墓も、後世に残した。
人間という生き物は、ずいぶんと記録が好きらしい。
勝ったことも記録する。
負けたことも記録する。
自分が死んだあとまで、何かを残そうとする。
もっとも、私はナポレオンに会ったことがない。
私がこの島にやって来たのは、一八八二年のことだからだ。
彼が死んでから、六十一年も経っていた。
だから、彼がどんな男だったのか、私にはわからない。
ただ、人間たちの話を聞いていると、彼はたいそう偉い人物だったらしい。
島の名前を聞くだけで、彼を思い出す人がいる。
私の名前を聞いて、この島を思い出す人もいる。
どうやら、この島には、歴史に名を残す者が二匹――いや、一人と一匹、いることになっているらしい。
私は、カメだ。
皇帝ではない。
そして、皇帝になる予定もない。
そもそも、皇帝になるには、どうすればいいのだろう。
草を食べていても、なれるのだろうか。
私は、なれる気がしなかった。
*
二〇二六年十月。
人間たちは、また私のことで騒いでいた。
今度は、私の体を調べたらしい。
DNA。
ゲノム。
ミトコンドリア。
人間たちは、聞き慣れない言葉を次々と並べた。
細胞のエネルギーを生み出す仕組みがどうだとか、老化に関係する遺伝子がどうだとか、私の体の中には、長い年月を生き抜く秘密が隠されているのではないかとか。
科学者たちが私の生物学的な情報を解析し、その成果が科学誌に発表されたという。
ニュースは世界を巡った。
新聞に載った。
画面に映った。
人間たちは、私の体の中に、長寿の秘密を探していた。
私の体の中に、何があるのか。
私の細胞は、どうして長い年月を生きてこられたのか。
私の老化は、ほかの動物と何が違うのか。
人間たちは知りたがった。
私は、草を食べていた。
もちろん、私にも体の中身はある。
心臓もある。
血も流れている。
人間たちがミトコンドリアと呼ぶものも、私の細胞の中にある。
だが、私自身は、それが何なのか知らない。
知らなくても、今日まで生きてきた。
人間たちは、私が長生きする理由を知りたがる。
私は、人間たちがなぜそんなに急いで知りたがるのか、不思議に思う。
もっとも、そう考えたのが本当に私なのか、それとも、私を眺めている人間の誰かが勝手にそう思ったのか。
そのことについては、私にもよくわからない。
私はカメだからだ。
カメは、たいてい、黙っている。
*
人間たちは、私の年齢を百九十歳を超えると推定している。
生まれた年は、一八三二年ごろ。
正確な誕生日はわからない。
私自身も、覚えていない。
いや、覚えているのかもしれないが、人間に説明する方法がない。
人間は誕生日を祝う。
生まれた日を数字にし、その数字を毎年増やす。
そして、ある年齢になると、盛大に祝うらしい。
百歳。
百五十歳。
百九十歳。
もし、私が人間のように誕生日を祝っていたら、いったい何本のろうそくが必要だったのだろう。
考えるだけで、火事になりそうだ。
それに、私はケーキより草のほうが好きだ。
人間たちは、私が世界でもっとも長生きしている陸生動物の一匹だという。
そういう肩書きも、どうやら人間は好きらしい。
最長寿。
最高齢。
世界記録。
人間は、何かを比べる。
大きいか、小さいか。
速いか、遅いか。
強いか、弱いか。
長いか、短いか。
私は、長い。
ただ、それだけのことではないのだろうか。
*
私の姿は、コインにも刻まれている。
セントヘレナ島の五ペンス硬貨だ。
硬貨の表面には、君主の肖像がある。
裏面には、私の姿がある。
人間たちは、金属に模様を刻み、それを手から手へ渡す。
買い物をするために使う。
お釣りとして受け取る。
財布に入れる。
机の引き出しにしまい込む。
そして、ときには、どこかへ落とす。
私の顔が刻まれた硬貨も、世界のどこかで、誰かの手に渡っているのだろう。
私が知らない国で。
私が知らない町で。
私が知らない人間のポケットの中で。
考えてみれば、不思議なことだ。
私は、この庭からほとんど出ない。
それなのに、私の姿だけは、遠くへ行く。
人間たちは、私の体を運び、私の名前を広め、私の姿を金属に刻んだ。
そして、私の年齢を数え続けている。
私自身は、どこへも行っていない。
ただ、ここにいる。
*
私がこの島に来たのは、一八八二年だった。
セーシェル諸島から船で運ばれてきた。
当時の私は、すでに大人のカメだった。
人間たちは、私を総督への贈り物として連れてきたという。
贈り物。
人間は、時々、ほかの生き物を贈り物にする。
花を贈る。
食べ物を贈る。
時計を贈る。
そして、カメも贈る。
私は、誰かに贈られたことについて、どう思えばよかったのだろう。
ありがたいと思えばいいのか。
迷惑だと思えばいいのか。
それとも、どちらでもないのか。
そのころの私は、まだ、この島のことを何も知らなかった。
ナポレオンが暮らした島だということも。
人間たちが、この島を歴史の舞台と呼ぶことも。
私が、いつかコインに刻まれることも。
私の体の中にある小さな細胞が、何百年もの時を経て、世界中の科学者に調べられることも。
もちろん、知らなかった。
私は船から降ろされた。
足の下に、地面があった。
空があった。
草があった。
私は、ゆっくりと歩き出した。
人間たちは、私を眺めていた。
何人かが、何かを話していた。
私は、その言葉を理解できなかった。
彼らが私を歓迎していたのか、値踏みしていたのか、それとも、ただ珍しがっていたのか。
わからなかった。
私は、近くに生えていた草を食べた。
それは、悪くなかった。
*
あれから、ずいぶん長い時間が過ぎた。
人間たちは、私に名前を付けた。
ジョナサン。
その名前がいつ、どのように決まったのか、私は知らない。
人間たちは、私の名前を呼ぶ。
ジョナサン。
ジョナサン。
ジョナサン。
呼ばれるたびに、私は顔を上げることもある。
上げないこともある。
人間たちは、それを見て、私の気持ちを推測する。
喜んでいる。
眠いのだろう。
機嫌が悪いのかもしれない。
人間は、実に想像力が豊かだ。
私が何も言わなくても、私の気持ちをたくさん考えてくれる。
そして、考えたことを、ときどき事実として扱う。
私には、声帯がない。
少なくとも、人間が人間の声と同じように期待する声は、出せない。
だから、人間たちは、私の考えを直接聞くことができない。
もし、私の気持ちを翻訳する機械ができたら。
もし、その機械が私の沈黙を言葉に変えたら。
人間たちは、何を聞くだろう。
私は長生きの秘密を知っている、と言うだろうか。
ナポレオンのことを覚えている、と言うだろうか。
人間たちの戦争や、発明や、失敗について、何か賢いことを語るだろうか。
それとも。
――草を、もう少し持ってきてくれ。
そんなことを言うだろうか。
私には、わからない。
私は、カメだからだ。
そして、人間たちは、まだ私の言葉を聞いたことがない。
いや。
もしかすると、人間たちは、もう何度も聞いているのかもしれない。
ただ、それを言葉だと認めていないだけなのかもしれない。
私は、今日も庭にいる。
ナポレオンが去った島で。
人間たちが戦争をし、空を飛び、月へ行き、世界中を通信網でつないだ、その島で。
私は、草を食べている。
人間たちは、私の体の中に、二百年近い時間の秘密を探している。
私は、その答えを知らない。
少なくとも、人間の言葉では。
そして、もし、私の沈黙を翻訳できる日が来たとしても。
私は、その機械に、こう言ってやるつもりだ。
――まず、草を持ってきてくれ。
もっとも。
それが本当に私の考えなのかどうかは、誰にもわからない。




