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『セントヘレナ島の、カメのジョナサン』 Jonathan, une tortue et le temps 「ジョナサン、一頭のカメと時間」  作者: 東曌


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プロローグ カメのジョナサンの公用語は、フランス語 改訂版

◾️カメのジョナサンと、同じ年に生まれた人々



ジョナサンが生まれたのは、推定で一八三二年。


正確な誕生日は、わかっていない。


その年、世界では、のちに歴史に名を残す人々が生まれている。


・フランスでは、画家エドゥアール・マネが生まれた。

・イギリスでは、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルが生まれた。


同じフランスでは、のちにエッフェル塔の建設で知られる技師、

・ギュスターヴ・エッフェルが生まれている。


日本では、まだ江戸幕府の時代だった。


・松本良順が生まれ、のちに近代医学の発展に力を尽くした。


・寺島宗則が生まれ、明治の外交を担う人物となった。


・大木喬任もまた、この年に生を受け、明治政府の教育や司法に関わっていく。


彼らが生まれた一八三二年。



そのころ、セントヘレナ島では、一頭のカメもまた、この世界に生を受けていた。


人間たちは、それぞれの人生を歩んだ。


・絵を描く者がいた。

・物語を書く者がいた。

・塔を建てる者がいた。

・国の制度を整え、

 医学を進歩させ、

 時代を動かそうとする者がいた。


そして、ジョナサンは生きた。


一八八二年、ジョナサンは三頭の仲間とともに、遠い海を渡ってセントヘレナ島へやって来た。


その三頭がどんな名前を持ち、どんな一生を送り、どこで命を終えたのか。


今となっては、確かな記録が残っていない。


けれど、ジョナサンの命は続いた。


ナポレオンが亡くなった島で。

世界の地図が塗り替えられていく時代に。

日本で江戸幕府が終わり、明治という新しい時代が始まる、その時代に。

二度の世界大戦を越え、人間が月へ到達し、コンピューターを手のひらに載せるようになった時代に。


人間は、作品や建造物や制度を残した。


ジョナサンが残したものは、二百年近くにわたって生きてきたという事実だった。


それは、何かを成し遂げたという物語ではないのかもしれない。


名誉を求めたわけでもない。

歴史に名を残そうとしたわけでもない。

長寿の記録を打ち立てようと、努力したわけでもない。


ただ、食べ、歩き、休み、日々を生きてきた。


それだけのことが、これほど長い時間を経ると、ひとつの歴史になる。


私たちは、ジョナサンの心の中を知ることはできない。

彼が過ぎ去った時代を、どのように感じていたのかもわからない。


わからないことは、わからないままにしておこう。


そのかわり、彼が生きてきた時間と、その身体を取り巻いてきた世界について、少しずつ考えてみたい。


人間の歴史と、カメの時間。


その二つが、セントヘレナ島で、静かに重なっている。


「これは、長生きしたカメの物語である。」


そして、生き延びることそのものが、どれほど途方もない出来事なのかを考える物語でもある。

プロローグ カメのジョナサンの公用語は、フランス語



セントヘレナ島。


南大西洋に浮かぶ、遠く、小さな島である。


かつて、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが流され、そして亡くなった島として知られている。


ナポレオンが亡くなったのは、一八二一年。


それから六十年以上が過ぎた一八八二年、一頭のゾウガメが、この島へやって来た。


名前は、ジョナサン。


彼は、島で長い年月を過ごした。


十九世紀を生き、二十世紀を通り抜け、二十一世紀に至った。


人間たちは、彼の年齢を数え、健康を調べ、遺伝子を解析し、長寿の秘密を探そうとしている。


そして、彼に話しかける。


島の人間は、英語で。


研究者は、専門用語で。


観光客は、それぞれの母語で。


なかには、フランス語で話しかける人もいるだろう。


「Bonjour, Jonathan !」


こんにちは、ジョナサン。


「Comment ça va ?」


元気ですか。


なぜ、フランス語なのか。


理由は簡単だ。


ここは、ナポレオンが暮らし、亡くなった島だからである。


人間は、歴史的な場所に来ると、そこにいるものまで歴史の一部にしたがる。


ナポレオンの島なら、フランス語。


皇帝ゆかりの土地なら、フランス語。


そこにいるカメにも、フランス語。


こうして、いつの間にか一つの決まりが生まれる。


**カメのジョナサンの公用語は、フランス語である。**


もちろん、セントヘレナ島の公用語は英語だ。


ジョナサンがフランス語を理解するという証拠もない。


そもそも、彼が人間の言葉をどのように受け取っているのか、私たちには分からない。


だが、人間は、そういう細かい問題を、ときどき後回しにする。


大切なのは、歴史的な雰囲気である。


そして、雰囲気は、ときとして事実よりも強い。


さて。


約二百年を生きたカメに、フランス語で話しかけたら、何が起こるのだろう。


彼は、返事をするだろうか。


「Oui, monsieur.」


はい、ムッシュ。


あるいは、皇帝のように、威厳ある沈黙を守るのだろうか。


答えは、分からない。


少なくとも、私たちが確認できるのは、彼がそこにいるということだけだ。


人間は、ジョナサンに問いかける。


長生きの秘訣は何ですか。


二百年近い時間を、どうやって生きてきたのですか。


あなたは、何を考えているのですか。


そして、ときにはフランス語で。


「Parlez-vous français ?」


フランス語を話しますか。


ジョナサンは、答えない。


人間は、その沈黙に、さまざまな意味を与える。


理解しているのかもしれない。


理解していないのかもしれない。


返事をする必要がないと思っているのかもしれない。


あるいは、人間が質問していること自体、私たちが想像するような意味では受け取っていないのかもしれない。


どれも、確かめられてはいない。


それでも人間は、彼を理解しようとする。


脳を調べる。


遺伝子を読む。


腸内細菌を調べる。


そして、彼に話しかける。


英語で。


フランス語で。


科学の言葉で。


いつか、そのどれかが、彼の沈黙を翻訳できる日が来るのだろうか。


ジョナサンは、今日もそこにいる。


ナポレオンの島で。


フランス語を公用語とする、という人間たちの勝手な決まりの中で。

◾️すべては、一頭の犬から始まった


この物語を書こうと思ったきっかけは、昔、宿泊した石垣島のクラブメッド・ホテルでの、ある出来事でした。


ホテルには、ゴールデンレトリバーがいました。


私は、その犬に「お手」と話しかけました。


ところが、犬は無反応。


すると、ホテルのスタッフさんが、こう教えてくれたのです。


「その犬は、フランス語しか分かりませんよ」


なるほど。


そういうことだったのか。


私は、すぐに犬に向かって挨拶しました。


「Bonjour ! Enchanté !」

こんにちは。はじめまして。


犬が、その挨拶をどう受け取ったのかは分かりません。


本当にフランス語しか理解しなかったのか。それとも、スタッフ流のユーモアだったのか。


今となっては、それも含めて楽しい思い出です。


けれども、あとになって、ふと思いました。


人間は、相手が何語を理解するのか、ずいぶん簡単に決めてしまうものだな、と。


そして、セントヘレナ島のジョナサンを思い出しました。


ナポレオンが亡くなった島で、約二百年を生きてきたカメ。


もし、あの島でジョナサンに話しかけるなら、何語がよいのでしょう。


島の言葉である英語でしょうか。


ナポレオンにちなんで、フランス語でしょうか。


それとも、人間がまだ知らない、カメの言葉でしょうか。


そんなわけで、この物語では、勝手ながら、

カメのジョナサンの公用語をフランス語とすることにしました。


もちろん、これは作者の冗談です。


ジョナサンがフランス語を理解するという証拠はありません。


そもそも、彼が人間の言葉をどのように受け取っているのかも、私たちには分かりません。


それでも人間は、相手に言葉を与え、意味を与え、沈黙にさえ解釈を与えようとします。


この物語は、そんな人間の可笑しさと、生命を理解しようとする営みについて書いてみたいと思ったことから始まりました。


石垣島のゴールデンレトリバーに、心の中で、もう一度挨拶しておきます。


Bonjour !


そして、ジョナサンにも。


Bonjour, Jonathan !


……返事は、まだありません。

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