7
森の家の戸口で、青司は革のリュックを背負い直した。
布に包んだ薬の瓶が中でかすかに鳴る。解熱剤、鎮痛剤、軟膏、傷薬――数日かけて作りためた成果だ。腰の小袋が歩みに合わせて、銀貨と銅貨を鳴らした。
向かいでは、リオナが弓と矢筒を背負い、小剣を腰に差している。借りた服を着こなす姿はすっかり板につき、無駄のない身のこなしが狩人らしい。
「荷物、多くない?」
「割れないようにしてあるし、背負った方が楽みたいだ。……どうせ売るしな」
短く言葉を交わし、二人は森へ踏み入れた。
朝靄に濡れた草を分け、苔むした岩を避けて進む。
鳥の声が近づき、木々の隙間から射す光が、足元に揺れた。
リオナは迷いなく前を歩き、時折、指先で進路を示す。獣道を縫うその背は、森に溶け込んでいた。
「……ほんと、詳しいな」
「ここはあたしのテリトリーよ」
振り返った横顔に、かすかな誇りが滲む。
青司はその背を追いながら、内心で「頼もしい」と呟いた。
しばらく歩いても、背中の荷は思ったほど重く感じない。
息は乱れず、歩調も保てている。
自分でも意外で、青司は肩の力を抜いた。
その様子を、リオナが横目で窺う。
「……重くないの?」
「これくらいなら、平気みたいだ」
短い答えに、リオナは「ふぅん」とだけ返す。
耳の先が、わずかに揺れた。
歩みを止めることなく、二人は森を進む。
青司の背を見ながら、リオナは胸の内で小さく思う。
――人間にしては、案外しぶとい。
道すがら、彼女は時折、薬草や食べられる実を示した。
「それ、街だと高いわよ」
「じゃあ、見つけたら覚えとく」
他愛ないやり取りを挟みながら、二人は黙々と歩を重ねていった。
森を抜けるころには、陽はすでに高く昇っていた。
青司の額には薄く汗がにじんでいる。だが、木々の切れ間にのぞいた土の道を見つけた瞬間、胸の奥に溜まっていた息がふっと抜けた。
「……ここが、街道か」
踏み固められた地面が、森の柔らかな土とははっきり違う。
人の足で削られ、人の重みで均された道。
その“人の痕跡”が、青司には少しだけ眩しく見えた。
「そう。ここからは真っ直ぐ。城壁まで一時間くらい」
視界がひらけ、風の匂いが変わる。
木立に囲まれていた世界から、開けた空の下へ――
ほんの数歩で、空気の密度まで違って感じられた。
「ずっと森の中ばかりだったから……広いな」
「人の通り道よ。安心していい……とは言えないけど」
リオナは周囲に視線を走らせ、耳をわずかに動かす。
「獣より厄介なのは、人のほうだったりするから」
その言葉に、青司はリュックの肩紐を無意識に握り直した。
背中の重みは、薬だけじゃない。
――ここから先で“人に売る”という現実が、確かにのしかかってくる。
二人は並んで歩き出す。
森の境を背に、街へ続く道へ。
この一時間の先に待つのは、
安全でも、安息でもない。
森とは違う、“人の世界”だ。
土の道はまっすぐに伸び、
ゆっくりと、しかし確実に、二人を街へと導いていた。
**************
森を抜け、街道を一時間ほど歩いた先に、灰色の城壁が姿を現した。
積み上げられた石は年月に削られながらも崩れず、まるで“ここから先は別の世界だ”と告げる境界のようにそびえている。
近づくにつれ、その高さが現実味を帯びて迫ってくる。
森の中で見上げていた木々とは、まるで質の違う威圧感だった。
門前にはすでに列ができていた。
荷車を引く商人、農具を背負った一団、旅装の男たち。
人の声と獣の鳴き声、汗と土と油の匂いが入り混じり、森の静けさは遠い記憶のように薄れていく。
「……ここが、リルト」
青司は思わず呟いた。
“街”という言葉で想像していた風景より、ずっと現実的で、ずっと重たい。
門を守る兵士たちは、形式だけの衛兵ではない。
鎖帷子の擦れた跡、槍の柄についた細かな傷。
この場所が、何度も“通すか拒むか”の判断をしてきた境目であることを物語っていた。
「次」
短い声が飛ぶ。
リオナは一歩前に出ると、弓を肩から外し、弦元についた小さな金属の標を指で弾いた。
弓矢を象った意匠――狩人組合の標だ。
兵士はそれをちらりと見て、頷く。
「……ああ。通れ」
それだけで話は終わった。
肩書きではなく、“通行の信用”として通じる符号。
青司は、そのあっさりしたやり取りに、ほんのわずかな羨ましさを覚えた。
次は自分の番だ。
「身分証は?」
青司は一瞬、言葉に詰まる。
「……持っていない」
「なら入街税だ。銅貨十枚」
腰の袋から銅貨を数えて差し出す。
軽い音が鳴るたび、ここが“無料で踏み込める場所ではない”ことを突きつけられるようだった。
「荷物を見せろ」
リュックを下ろし、瓶を取り出す。
陽を受けて淡く色づいた液体が揺れる。
「薬です。森で作った……売れるなら売りたいと思って」
兵士は一本を手に取り、目の高さで傾けた。
「……ほう。なら、商業ギルドだな。勝手売りは面倒になるぞ」
“勝手売りは面倒になる”
その言葉が、街の規律を端的に物語っていた。
「……分かりました」
瓶を受け取り、リュックに戻す。
この瞬間、青司の中で何かがはっきりと切り替わった。
――ここから先は、森の延長じゃない。
――人の決まりの中で、生きていく場所だ。
「通れ」
門をくぐる。
石畳の感触が足裏に伝わった瞬間、空気が変わった。
人の声、荷車の軋む音、香辛料の匂い。
森では聞こえなかった音に包まれ、世界が一段、騒がしくなる。
リオナは耳をわずかに伏せながら歩く。
人混みは得意ではない。だが、それでも立ち止まらない。
青司は、その横顔を一瞬だけ見てから、前を向いた。
ここから先は、
森に守られる場所ではない。
だが――だからこそ、自分の“薬”が試される場所でもある。
二人は並んで、街の中へと歩みを進めた。
**************
門をくぐり、街へ足を踏み入れた瞬間、青司は思わず息をのんだ。
石畳の大通りがまっすぐに延び、両脇には木と石を組み合わせた家々が肩を寄せ合うように並んでいる。二階部分がせり出した家の窓には花が飾られ、屋台からは香辛料を効かせた肉の匂いと、焼き菓子の甘い香りが流れてきた。
呼び込みの声、荷車の軋む音、行き交う人々の話し声。
革鎧の冒険者、商人、農夫、吟遊詩人。
視界の端から端まで、人の営みで埋め尽くされている。
――生きている街だ。
「……すごいな。本当に、別の世界に来たみたいだ」
漏れた言葉に、リオナが肩越しに振り返る。
猫の耳がぴくりと動き、からかうように言った。
「そんな顔してたら、田舎者丸出しよ」
「否定できないな」
青司は苦笑しつつ、胸の奥で高鳴る鼓動を押さえた。
前の世界では、街並みなど見慣れていたはずだ。
だが、ここには“画面越しではない現実”の重さがある。
触れられる石、匂いのする風、ぶつかりそうになる人の肩。
その一つひとつが、ここが紛れもなく“生きる場所”なのだと訴えてくる。
一方で、リオナは耳をわずかに伏せ、視線を前に固定したまま歩いている。
人混みの中では、森にいるときの伸びやかさが影を潜めていた。
「ここはリルトでも人の多い通りよ。慣れてないと、疲れるから」
「……そっか」
青司は頷いた。
彼にとっては余裕のある人波でも、彼女にとっては息苦しい。
同じ風景を見ていても、感じ方は違うのだと、改めて思う。
やがて、通りの一角に堂々とした石造りの建物が現れた。
掲げられた紋章、行き交う人々の出入り。
ひと目で“ここが街の中枢の一つだ”と分かる威圧感がある。
「ここが……商業ギルドか」
喉の奥が、かすかに鳴った。
森で薬を作っていた日々は、静かで、閉じた時間だった。
だが、この扉の向こうは、値段と信用と評価が行き交う場所だ。
「中に入れば、受付があるわ。薬を売りたいって言えば案内されるはず」
リオナは淡々と言うが、その声の端に、ほんのわずかな気遣いが滲んでいた。
「ありがとう。ここまで助かった」
「……うん。あたしは先に姉さんの店に行くから。黒猫の看板の食堂」
そう言って、人波の中へと溶けていく背中は、森にいるときより少しだけ小さく見えた。
青司はその背を見送り、ひとりで建物を見上げる。
街の喧噪は相変わらず賑やかだ。
だが、胸の内だけは、ひどく静かだった。
――売れるかどうかは分からない。
――騙されるかもしれない。
――無価値だと切り捨てられるかもしれない。
それでも。
森の家で積み上げた小さな瓶の重みが、背中越しに伝わってくる。
それは、この世界で“何者でもない自分”が持っている、唯一の武器だった。
「……やるしかないよな」
青司は小さく呟き、扉へと歩み出した。
**************
街門を抜けたあと、青司と「じゃあ、あとで」という短いやり取りを交わし、商業ギルドへ向かう彼の背を見送った。
細身の背中が人の流れに紛れ、やがて石造りの建物の影へと消えていく。
――ちゃんと、やれるかな。
胸の奥に浮かんだその思いを、リオナは小さく振り払った。
彼は弱そうに見えて、案外しぶとい。
それでも、街という場所は森とは違う。
矢も刃も通じない“別の危うさ”が、ここにはある。
ふう、とひとつ息を吐く。
人通りの多い大通りは、相変わらず耳にうるさかった。
客引きの声、荷馬車の軋む音、子どもたちの笑い声。
森では感じなかったざわめきが、耳の奥をきりきりと刺激する。
猫人族の耳は、どうしても音に敏感だ。
それでも今日は、少しだけ平気だった。
青司と並んで歩いた余韻が、まだ胸の内に残っている。
だが、人々の視線は相変わらず苦手だ。
背に弓を負った女――
珍しくはないはずの姿なのに、猫人族に向けられる目にはいつも“好奇”か“警戒”が混じる。
無意識に肩が強ばり、尻尾の先がわずかに揺れた。
大通りを外れ、石畳の細い路地へ入る。
ほんの数歩で、喧騒は背後に押しやられた。
見慣れた木の看板が視界に入った瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――変わってない。
姉夫婦の食堂。
街に来るのは苦手でも、ここにだけは“帰ってきた”と思える。
扉を押すと、カラン、と小さな鈴が鳴った。
昼の喧騒が引いた店内には、片付け途中の皿と、木の匂いが残っている。
「……リオナ?」
奥から顔を出した姉のマリサは、一瞬きょとんとし、それからぱっと笑顔になった。
「やだ、来てくれたのね! 相変わらず突然なんだから」
「……ただいま、お姉ちゃん」
照れ隠しのように視線を逸らすと、次の瞬間、ぎゅっと抱きしめられる。
「元気にしてた? ちゃんと食べてる? 痩せてない?」
「ちゃんとしてるよ……ちょっと怪我はしたけど」
「もう! また無茶したんでしょ」
「……してないって」
姉妹のやり取りに、厨房の奥からベルドが顔を出した。
「おお、リオナじゃないか。腹は減ってるだろ。何か作ってやる」
豪快な笑顔に、胸の奥が少し緩む。
椅子に腰を下ろすと、街で張り詰めていた神経が、ようやくほどけていくのが分かった。
――ここは、安心できる場所だ。
けれど、ふと脳裏に浮かぶ。
石の建物に吸い込まれていった、あの細身の背中。
(……無事に、話はつくかな)
森では守れる。
けれど街では、守れないものも多い。
リオナは知らず、胸元の革紐をきゅっと握っていた。




