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果実を切るナイフの乾いた音が、静かな部屋に心地よく響いた。
リオナは慣れた手つきで皮を剥き、淡い香りの立つ果肉を皿に並べる。皿を青司の前へ押し出し、ぶっきらぼうに言った。
「食べて。甘いから」
「……ありがとう」
差し出された一切れを口に運んだ瞬間、ひんやりとした酸味と甘みが広がる。思わず頬がゆるんだ。
「うまいな。森の果物って、こんな味するんだ」
横目で見ていたリオナが、自分もひとかけ口に放り込む。耳が小さく揺れ、どこか満足そうだった。
しばし、沈黙が落ちる。
その穏やかな間に、青司は胸の奥に引っかかっていたことを口にした。
「……なあ。君の姉さんがいるっていう街、リルトだっけ。どんなところなんだ?」
リオナは一瞬だけ耳を立て、それから肩をすくめる。
「人が多いわ。……あたしには、うるさいくらい」
「うるさい?」
「声も匂いも、視線も。全部近すぎるのよ」
言いながら、尻尾が床を軽く打った。
青司はそれを見て、なんとなく察する。
「……でも、悪い場所じゃないんだろ?」
「ええ。必要なものはだいたい手に入るし、獲物もちゃんと金になる。それに……姉さんの食堂もあるし」
「姉さん」と言った瞬間、リオナの視線がわずかに逸れた。
青司はそれ以上踏み込まず、果実をもう一切れつまむ。
「じゃあ、俺の薬も……売れたりするかな」
リオナの耳が、ぴくりと動いた。
「質がよければ、ね。街の薬屋は目が利くから」
「そっか」
青司は小さく息を吐いた。
その横顔を、リオナはちらりと盗み見る。
「……森を抜ければ、街道までは遠くないわ」
「どのくらい?」
「半日も歩けば着く」
「……歩くの、慣れてないんだけど」
青司が苦笑すると、リオナは鼻で小さく笑った。
「ここはあたしのテリトリーよ。道に迷わせたりしないわ」
そう言い切る声には、狩人としての誇りがにじんでいた。
青司はその横顔に、ふっと目を細める。
「頼もしいな」
「……当然でしょ」
少し間を置いてから、リオナは付け足す。
「あと、街に入る時は門で荷物を見られるの。それと身分。あたしは、これがあるから」
そう言って、腰の弓に留めた金属片に指先で触れた。
「それがあれば、街に入るのは困らないわ」
言い終えると、リオナは何事もなかったように、また果実に手を伸ばす。
二人の間に流れる空気は、さっきよりほんの少しだけ柔らいでいた。
場の空気がわずかに和らいだ、その隙を縫うように、青司は胸の奥に引っかかっていた言葉を吐き出した。
「なあ……あとひとつだけ聞いてもいいか。あの時、お前を襲ったのって……何だったんだ?」
リオナの手が止まる。
刃先が果実の表面に沈み込み、皮を切り裂く音だけが、やけに大きく部屋に響いた。
「……たぶん、この森の“主”よ」
ぽつりと落とされた声は低かった。
「熊。あんな熊、あたしも初めて見た。
もしかしたら魔物化してるのかもしれないけど……正直、区別がつかないくらいだったわ」
短い言葉の端々に、冷たい実感が滲んでいる。
「普通の獣じゃない。大きさも、力も、桁が違うの。
矢が刺さっても、止まらない相手なんて……初めてだった」
言い終えると同時に、リオナの尻尾が、落ち着きなく床をなぞった。
青司は無意識のうちに、拳を握り込んでいた。
「……まだ、森にいるんだよな」
「ええ。でも、同じ場所に居着くような獣じゃないわ。
縄張りも広いし、気まぐれに動き回る。……そうそう鉢合わせることはないはずよ」
そう言い切る声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
「……今は気にしなくていいわ。あたしは助かったんだし」
横顔に浮かんだ淡い笑みは、どこか作り物めいて見えた。
青司はそれ以上踏み込めず、ただ黙って頷く。
果実をもうひと切れ口に運ぶ。
ひんやりとした甘さが舌に広がるのに、胸の奥の重さは消えなかった。
部屋の中の空気は和らいだまま――
けれど、その奥底には、森のさらに深い場所で息を潜める影の気配が、確かに残っていた。
**************
それからの数日、リオナの傷が癒えるまでのあいだ、二人の暮らしはゆるやかな日課を持つようになった。
朝は並んで湖へ水を汲みに行く。
甕に水を満たすのはリオナの役目で、それを担いで家まで運ぶのは青司だった。
肩に食い込む重さに顔をしかめながらも、一歩ずつ歩く背中を、リオナは何度も目で追った。
森で一人で生きてきた自分にとって、
「誰かと並んで帰る」という行為は、思いのほか静かな安らぎを連れてきた。
帰れば、それぞれの仕事に戻る。
青司は作業場にこもり、薬草を煮出し、魔力を込めて薬を仕上げる。
湯気の向こうで黙々と手を動かす横顔は、普段の頼りなさを感じさせず、リオナは作業場の入り口に立ったまま、つい見入ってしまうことがあった。
(……街に持っていっても、通用するかもしれない)
そう思ってしまうほど、薬の出来は確かだった。
一方、リオナは弓と小剣の手入れをし、身体をほぐす。
狩りに出られない日が続くと、森を駆けたい衝動が胸の奥で疼いた。
窓の外の木立に視線を向けては、何度もそれを飲み込む。
食事の時間だけは、空気がふっと緩む。
同じ材料でも、リオナの手にかかると味が変わった。
野草の苦味は和らぎ、煮込みの湯気に肉の旨味が立つ。
「……すごいな。俺が作るのと、全然違う」
青司の率直な感想に、リオナは素知らぬ顔で匙を動かす。
耳だけが、ほんのわずかに動いた。
同じ屋根の下で過ごしていても、
青司は必要以上に踏み込んでこなかった。
視線が絡むことも、距離が近づくこともない。
(……この人、本当に何も考えてないんだ)
街では、そんな距離感を保ってくれる男のほうが珍しい。
だからこそ、その無防備な優しさが、妙に胸に残った。
もちろん、だらしないところは目につく。
寝癖を直さず、服を畳まず、道具を出しっぱなしにする。
「……みっともないわね」
そう言えば、青司は決まってバツの悪そうな顔で直す。
少しずつ、ほんの少しずつ。
真剣に薬を作る横顔。
甕を担いで歩く背中。
そして、踏み込んでこない不器用な距離。
(……全部が好きなわけじゃない。でも)
そう思う回数が、いつの間にか増えていた。
数日のあいだに生まれたのは、派手な出来事でも、特別な約束でもない。
ただ、同じ家で同じ時間を過ごしたという事実だけだった。
それでもその積み重ねは、
リオナの胸の奥に、名前のつかない安心感を残していた。
◆
夕暮れが深まり、家の中には煮込みの湯気が満ちていた。
木の卓の中央で、鍋の中の肉と野草と茸がとろりと混ざり合い、腹の奥に染み込むような匂いを漂わせている。
青司は匙を取り、遠慮もなくひと口すくった。
舌に触れた瞬間、熱と旨味がじわりと広がり、思わず目を細める。
「……やっぱり、うまいな」
そう言って、もう一口。さらにもう一口。
気づけば器の中身は目に見えて減っていた。
向かいのリオナが、そんな様子をじっと見つめ、軽く肩を竦める。
「がっつきすぎ。……誰も取りはしないわよ」
「いや、ほんとにうまくてさ。つい」
青司は苦笑しつつも匙を止めない。
リオナは呆れたように息を吐き、自分の分に視線を落とした。
しばらく、二人のあいだに鍋の煮える音だけが流れた。
その穏やかな間を破るように、リオナがぽつりと言う。
「……食材、そろそろ底よ」
青司の手が止まる。
「もうそんなに?」
「肉は狩ればどうにかなる。でも穀物と野菜は、森じゃ補えないわ」
リオナは器の縁を指先でなぞる。
焚き火の揺れが、白い指に淡い影を落とした。
「森の実だけじゃ、長くはもたない。……特に、人間はね」
青司は鍋の中を見下ろす。
滋味はある。だが、確かにこれだけで生き続けるのは無理がある。
「……街、か」
小さく漏れた言葉に、リオナが視線を上げる。
「明日、一緒にリルトへ行かない?」
青司は一瞬、言葉を失った。
街。人のいる場所。
まだ足を踏み入れていない世界。
「……リオナから言うとは思わなかった」
「……姉さんの食堂もあるし、あなたの薬も売れるか試せる。必要でしょ」
淡々とした口調の奥に、わずかなためらいが滲んでいた。
森の外へ出るのは、彼女にとっても“当たり前”ではない。
青司は腕を組み、短く息を吐く。
「……怖くないって言ったら、嘘になるな」
「でしょうね」
リオナは小さく肩をすくめる。
「でも、ずっと森に閉じこもるつもりもないのよね。……あたしも、たまには森の外の空気を吸いたいし」
その言葉に、青司は一度だけ頷いた。
「……行こう。俺も、いつかは向き合わなきゃいけない場所だ」
答えた瞬間、リオナの耳がほんのわずかに揺れた。
それは、安堵とも覚悟ともつかない、小さな反応だった。
「決まりね」
短くそう言って、彼女は再び匙を手に取る。
青司も器を抱え、残った煮込みをすくい上げた。
鍋の底が見えるころ、部屋には満ち足りた静けさが戻る。
外では、夜の森の気配が深まっていた。
声高に明日の話をすることはない。
ただ必要なことを共有して、自然に「行く」と決まった。
その静かな決断が、二人を森の外へと一歩近づけていた。




