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 湖畔から戻り、軒先に洗濯物を干し終えた頃だった。

 水を含んだ布が、重たそうに軒下で揺れている。


 青司は指先で雫を払ってから、何度も口を開きかけては閉じた。

やがて、意を決したようにリオナへ向き直る。


「……体調が戻るまで、ここで休んでいったらどうだ」


 その一言で、空気が変わった。

 リオナの耳がぴんと立ち、瞳が鋭く細まる。


「……どういうつもり?」


 低く、刺すような声だった。

 青司は一瞬だけ息を詰め、それでも目を逸らさなかった。


「治りきらないまま森に戻るのは、危ないだろ」


 言い訳はしない。

 ただ、事実だけを口にする。


 しばしの沈黙。

 リオナは彼の顔をじっと見つめ、やがて小さく鼻を鳴らした。


「……あなた、不器用ね」


 耳がわずかに揺れる。

 警戒は解けきっていないが、刃は引っ込めた。


「確かに、まだ動くには重いわ」


 視線が、家の中へ流れる。

 散らかった作業場。洗われていない器。


「……でも、この家にじっとしてるのは、正直落ち着かない」


「それは……その、すまん」


 青司が頭を掻くと、リオナは小さく息をついた。


「いいわ。数日だけ休ませてもらう。その代わり――」


 彼女は指を立てる。


「料理は私がやる。あんたは片付け担当」


「え、俺が……?」


「当然でしょ。私が動けない間に、家がさらに荒れたら困るもの」


 青司は反論できず、苦笑する。


「……それなら、助かる」


 リオナは視線を逸らし、ぽつりと呟いた。


「……あなたの料理、あんまり美味しくなさそうだし」


「否定はできないな」


 その返答に、彼女はほんの一瞬だけ口元を緩めた。



「……夜の寝床も決めておかないとな。寝室、使っていいよ」


 青司がそう言った瞬間、リオナの動きが止まった。


「……あなたの、寝室?」


 その声には、はっきりとした戸惑いが混じっていた。


「いや、その……布団があるから、その方が楽だろうと思って」


 言い終える前に、リオナは首を振る。


「だめ」


 短く、きっぱりと。


「匂いも……落ち着かないし」


 視線が、開け放たれた寝室の奥へ向く。

 無造作に脱ぎ捨てられた服や布切れ。生活の気配が濃く残る空間。


「……それに、あそこは、あなたの場所でしょ」


 青司は一瞬、言葉を失った。

 無意識に踏み込みかけていた距離に、遅れて気づく。


「……ごめん。考えが足りなかった」


 しばしの沈黙のあと、彼は思い出したように言った。


「奥に空き部屋がある。藁布団だけだけど……」


 案内された部屋は、窓から差す光が床に細い帯を落としているだけの、ほとんど何もない空間だった。

 リオナは藁布団にそっと触れ、確かめるように押す。


「……これで、十分よ」


 森での夜を思えば、雨風を遮る壁があるだけで、十分すぎるほどだった。


 青司が差し出したブランケットを、彼女は一瞬だけ躊躇ってから受け取る。


「……ありがとう」


 小さな声だった。

 それは甘さではなく、かすかな安堵の色を帯びていた。




**************



「……じゃあ、片付け、始めて」


 空き部屋に藁布団と厚手の織物を広げ終えたリオナが、腰に手を当てて青司を見上げた。


「うっ……やっぱり来るか」


 後頭部を掻きながら視線を落とす。

 板張りの床に残る赤黒い染み――昨夜の血と薬草の痕跡が、まだはっきりと残っていた。


「……洗濯に使った洗剤があったな。あれなら床の汚れにも効くかもしれない」


 そう言うと、リオナは小さく首を傾げる。


「つまり、また湖に行くの?」


「ハーブを摘めば、すぐ作れる」


 青司の言葉に、リオナは迷いなく頷いた。


「なら、私も行く。弓と小剣を置いてきたままだもの」


「……無理はするなよ」


「しないわ。狩人だもの」


 短い言葉に、彼女の矜持が滲む。

 青司は苦笑し、並んで森へ足を踏み入れた。



 湖畔にはハーブが群生していた。

 青司は黙々とそれを摘み、リオナは草むらの奥から自分の武器を見つけ出す。


「よかった……これがないと、森じゃ生きられないから」


 弓の弦を確かめる指先に、安堵がにじむ。

 帰り道、二人の籠には赤い実や木の実が自然と増えていた。


「森は、恵みも多いのよ」


「……同じくらい、危険も多いけどな」


 言葉を交わしながら歩く距離が、少しだけ縮まっていた。



 家に戻ると、青司は作業場で即席の洗剤を調合する。

 鍋の中で溶け合うハーブが、清い香りを放った。


 床に洗剤を垂らすと、赤黒い痕がじわりとほどけていく。


 ――血の跡が、消える。


 雑巾を動かす手が、一瞬だけ止まった。

 昨夜、自分の腕の中で失われかけた命の重みが、胸に残っている。


「……跡って、こんなに簡単に消えるんだな」


 ぽつりとこぼれた呟きに、リオナが顔を上げた。


「消えるのは“床の汚れ”だけよ」


 静かな声だった。


「生き延びた命は、消えない」


 青司は頷き、もう一度雑巾に力を込める。

 床は元の色を取り戻し、家の中に新しい空気が流れ込んだ。


「……これなら、人が暮らす場所だな」


「ええ。ちゃんと、“生きてる家”よ」


 リオナはそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。



「……座って」


 リオナが差し出した木皿には、切り分けられた果物が並んでいた。

 林檎は薄く開かれ、赤い実の上には小さな葉が添えられている。


「……これ、全部リオナが?」


「切っただけよ。料理ってほどでもないわ」


 青司は半信半疑で林檎を口に運んだ。

 ひんやりとした甘酸っぱさが広がり、思わず目を瞬かせる。


「……同じ果物なのに、別物みたいだ」


「切り方ひとつで、舌に触れる感じが変わるの」


 リオナはそう言って、青司の手元をちらりと見る。


「……あんた、今まで丸かじりしてたでしょ」


「……否定できない」


 乾いた笑いが漏れる。

 ここに来てから、青司はずっと“生き延びるための食事”しかしてこなかった。

 誰かに手をかけてもらう食事は――思い出せないほど久しぶりだ。


「ちゃんと片付けたんだから。ご褒美」


 そう言って差し出された皿が、妙に重く感じた。


「……ご褒美なんかじゃないよ」


 言いかけて、言葉を飲み込む。

 喉の奥に残ったのは、甘さとは別の、じんとした温かさだった。


「……ありがとな」


 リオナは視線を逸らし、尻尾の先だけを揺らす。


「別に。世話を焼くのは、嫌いじゃないだけ」


 その言葉の軽さに反して、室内の空気はどこか柔らかくなっていた。


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