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作業場にはまだ血と薬草の匂いが薄く残っていた。
けれど、ぶかぶかの服に身を包んだリオナが椅子に腰かけているだけで、そこが“処置場”ではなく、“人のいる場所”に変わった気がした。
青司は、喉の奥に残る乾いた緊張を誤魔化すように指で頬を掻く。
「……そういえばさ。リオナって、狩人なんだよな」
名を呼ばれた瞬間、リオナの耳がぴんと立つ。
それは警戒ではなく、“呼ばれ慣れていない”者の反応だった。
「ええ。森で獲物を仕留めて、街で売って暮らしてるわ」
短い言葉。だが、そこに迷いはない。
「森って言っても……優しい場所ばかりじゃないの。
鹿みたいな大きな獣もいるし、夜になると、音も立てずに背後を取る連中もいる」
リオナは無意識に、腹のあたりへ指を滑らせた。
つい数時間前まで、そこに致命傷があった場所。
「一度ね、気づくのが半拍遅れて……
木の上に逃げる前に、爪が掠ったことがあるわ」
淡々とした声だった。
だが、語られない“その先”が、青司の胸をわずかに締めた。
「……それでも、森を離れないのか」
問いは、彼自身への問いでもあった。
この家に“閉じこもっている自分”との違いを、無意識に比べている。
リオナは小さく肩をすくめる。
「森しか、わたしの居場所がないもの」
その言葉は、誇りというより――覚悟に近かった。
「……街にはね、姉さんがいるの。リルトの街で、食堂をやってる」
ふと零れた言葉に、リオナ自身がはっとする。
身内の話は、猫人族にとって“弱さ”を晒すことに近い。
一瞬だけ、耳が後ろへ伏せられた。
「食堂……」
青司の声が、少しだけ明るくなる。
「じゃあ、リオナが持っていった獲物、全部ちゃんと料理になるんだ」
リオナは目を伏せたまま、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……ええ。燻製にしたり、煮込んだり。
あたしが仕留めた鹿肉で作るシチューは……姉さんの得意料理よ」
言ってから気づく。
自分が“誰かと食卓を囲む光景”を、思い出していることに。
青司はその様子を見て、ぽつりと零す。
「……いいな」
「え?」
「誰かが待ってる場所があるって」
作業場の空気が、ほんの一瞬だけ静まる。
リオナは、初めて真正面から青司を見た。
「……あんたには、ないの?」
問いは軽い。
だが、返事を待つ間に、尻尾の先が小さく揺れた。
青司は視線を逸らし、苦笑する。
「……前の世界には、あったよ。たぶん」
“たぶん”という言葉が、すべてを物語っていた。
それ以上は踏み込まない。
リオナも、狩人として“踏み込んではいけない沈黙”を知っている。
「……変な人ね、あんた」
そう言いながら、声はどこか柔らかい。
「よく言われる」
二人は、ほんの一瞬だけ目を合わせた。
血と薬の匂いが残る作業場で。
命の貸し借りから始まった関係が、
ゆっくりと“互いの世界を知る段階”へと進み始めていた。
**************
「……あたし、料理くらいはできるのよ」
つい零れたその一言に、青司の目がぱっと明るくなる。
まるで、暗い部屋に灯りが点いたみたいに。
「ほんとに? じゃあ……」
身を乗り出しかけて、彼ははっと我に返る。
「いや、無理ならいいんだ。傷も……」
言いかけて、青司は棚へ向かった。
小瓶を二つ取り出し、栓に指先を当てる。魔力が微かに脈打ち、封が解けた。
「……これ、増血の魔法薬。昨日と同じ。
こっちは体力を戻す薬草茶だ」
差し出された小瓶の中身は、濃い赤紫。
光に透かすと、まるで“まだ生きている血”みたいに鈍く光った。
リオナは一瞬だけ眉を寄せたが、覚悟を決めて喉に流し込む。
――鉄の味。
舌の奥に残る、獣の血を思わせる生臭さ。
だが、次の瞬間、腹の奥で“熱”がほどけた。
傷の周囲にまとわりついていた重だるさが、少しずつ引いていく。
続いて木杯の薬草茶を口に含む。
苦い。だが、その苦味が肺の奥まで染み渡り、呼吸が深くなる。
「……変な感じ」
腹に手を当てながら、リオナは小さく呟く。
痛みは消えていない。それでも、“動けない重さ”が剥がれ落ちた。
「……簡単なものなら、作れるわ」
そう言うと、青司の顔がぱっと緩んだ。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉が、妙にまっすぐで。
リオナは視線を逸らし、耳を軽く伏せた。
⸻
二人で作業場を出る。
廊下に出た瞬間、リオナの足が止まった。
床に放り出された、血塗れの布。
乾きかけた血が黒くこびりつき、鼻をつく匂いが漂っている。
「……あんた、これ……」
言葉の続きが見つからず、尻尾の先がぴくりと揺れた。
「ご、ごめん……片付ける余裕がなくて」
青司は気まずそうに視線を逸らす。
“命を救った代償”の痕跡が、そのまま床に転がっていた。
⸻
さらに台所へ足を踏み入れた瞬間、リオナの眉がはっきりと寄った。
木皿には乾いたスープの跡。
木椀は重なったまま、底に脂が白く固まっている。
床には潰れた穀粒。
流し桶の水面には、冷えた油膜が薄く張りついていた。
狩場でなら、
これだけ血や脂を放置することは“腐敗の合図”だ。
「……ここで獣を解体したら、すぐに虫が湧くわよ」
低い声。
怒りというより、“生き延びる者の感覚”から出た警告だった。
青司は後頭部を掻き、苦笑する。
「……生活、得意じゃなくてさ」
リオナはじっと彼を見た。
この男は、獲物を仕留めることも、森で生きることも知らない。
けれど、昨日――命を“繋ぐ”ことだけは、誰よりも必死だった。
「……仕方ないわね」
小さく息を吐き、視線を調理台へ向ける。
「まずは、洗い物からよ。
“生き延びる場所”は、ちゃんと整えないと」
その声音には、狩人が獲物に向ける張りと、
同時に――“ここを居場所にしてやろう”という決意が混じっていた。
**************
リオナは腕まくりをし、棚の上から水差しを取り上げた。中身は空っぽ。代わりに甕から木の桶へ水を移し、台所の流し桶へ注ぎ込む。冷たい水が音を立てて溜まっていくと、こびりついていた汚れが少しずつ浮かび上がった。
「全然洗ってないじゃない」
そう呟きながら木椀を一つ掴み、ざぶりと水に沈める。指先で擦ると、乾ききった穀物の粒がぽろぽろと剥がれ落ちていった。
尻尾を軽く揺らしながら、手際は早い。洗った食器を並べ、布巾でざっと拭いてから棚へ戻す。匙や小皿も同じように処理し、あっという間に山積みだった食器が片付いていった。
その背後で青司は所在なげに立ち尽くしていた。
「……なんか、ごめん。俺、こういうの苦手で」
リオナは振り返り、少し呆れた目を向ける。
「見れば分かるわ。片付けっていうより、ただ置きっぱなしでしょ」
青司は肩をすくめ、情けなく笑った。
リオナは溜息をひとつ吐き、しかしすぐに声色を切り替える。
「……台所はあたしがやるから。あんたは作業場を片付けてきなさい。あのままじゃ薬草も道具も使えないでしょ」
「え? 俺が?」
「当たり前でしょ。あそこを散らかしたのはあんたなんだから」
青司は頭を掻きながら「う……まぁ、そうだな」と答えるしかなかった。
するとリオナはふと思い出したように、廊下の方へちらと視線を向けた。
「それと……外に血塗れの服、転がってたわよね」
「ああ……」青司は顔をしかめた。「あれ、どうしようかと思ってて」
リオナは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り、それから小さく耳を伏せた。
「……あれ、あたしの血で汚れたんでしょ。放っておくのは……さすがに、悪い気がするわ」
少しだけ視線を逸らしながら続ける。
「あとで湖に行きましょう。一緒に洗えばいい。水はきれいだったし、血の匂いも落とせるはず」
青司は驚いたように目を丸くする。
「……気にしなくてもいいのに」
「気にするわよ。自分のせいで汚したんだから」
リオナは短くそう返し、尻尾を揺らした。
青司は言葉に詰まり、結局「……ありがとう」とだけ答えた。
やがてリオナは、きれいになった食器を並べ終えると、棚に残っていた穀物や干し肉を取り出し、手際よく卓に並べた。
「さて……昼食を作るわよ。せめて食べられるものにしてあげる」
尻尾をぴんと立て、軽く胸を張ったリオナの横顔は、狩人というより台所に立つ姉の姿を思わせた。
青司はその背を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
*******
リオナは棚から穀物の袋を取り出すと、指先で中の粒を確かめる。
「ふむ……まぁ、このくらいなら使えるわね」
穀物を一握り取り、手のひらの上で転がしながらそう呟く。その動きは狩人のものというより、台所を仕切る主婦のそれに近かった。
青司は隅で所在なげに座り、彼女の手元を見つめていた。
「俺が作ると……あれだよ、ただのしょっぱいスープにしかならなかったけど」
自嘲気味に言うと、リオナは肩越しに振り返り、口元に小さな笑みを浮かべる。
「塩だけで煮ても、美味しくなるはずがないでしょ」
彼女は干し肉を少し切り分け、水に浸けて戻しながら火にかけた。鍋からはじんわりと肉の出汁が広がっていく。その香りだけで、青司の鼻はくすぐられ、腹が鳴りそうになった。
次にリオナは薬草の束から香りの強い葉を数枚ちぎり、指先で軽く揉んで香りを立たせてから鍋に落とした。
「こうすると香りが出て、肉の臭みを消してくれるの」
「へぇ……そういう使い方、あるんだ」
青司の目は真剣そのもの。だがリオナにしてみれば、ごく当たり前の所作だった。狩りの獲物を食べやすくするために、姉から教わった知恵。森で生きるには必要不可欠な工夫に過ぎない。
穀物を入れた鍋を静かにかき混ぜ、煮立つ泡をすくいながらリオナは手早く動く。尻尾がリズムを取るように左右へ揺れていた。
しばらくすると、香ばしくも滋味深い匂いが台所いっぱいに広がった。青司は思わず鼻をひくつかせ、喉を鳴らす。
「……なんか、全然違う匂いがする」
木椀に注がれたスープは、見た目こそ大きな違いはない。けれど表面に漂う油の膜は澄んでおり、香草の緑が彩りを添えている。
青司は匙を手に取り、恐る恐る口に含んだ。
「……っ!? うまっ!」
思わず声が裏返る。干し肉から染み出した旨みと香草の爽やかな香りが舌に広がり、穀物はほくほくとした食感を残していた。昨日まで食べていた、ただ塩辛いだけの粥とはまるで別物だった。
リオナは少しだけ口角を上げ、肩をすくめる。
「これが普通よ。料理って、ちょっとしたことで味が変わるの」
「……俺の“ちょっとしたこと”は、全部失敗にしかならないけど」
青司は赤面しながら匙を動かし続けた。
木椀の中身はあっという間になくなり、気づけば二人とも黙々と匙を運んでいた。
食べ終えたあと、青司は感嘆のため息をもらす。
「……同じ材料なのに、こんなに違うんだな」
リオナはほんのわずかに照れくさそうに目を逸らし、耳の先が赤く染まっていた。
「……姉さんに教わっただけよ。あんたが驚くほどのことじゃない」
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の尻尾はどこか誇らしげに揺れていた。
********
リオナは腕まくりをすると、水差しを手に取った。軽い。中身は空だ。
無言で甕から桶へ水を汲み、流し桶へ注ぎ込む。冷たい水音が台所に響き、乾ききった汚れがゆっくりと浮き上がった。
「……全然、洗ってないじゃない」
呆れを含んだ声とともに、木椀を一つ掴み、ざぶりと沈める。
指で擦ると、乾いた穀粒がぽろぽろと剥がれ落ち、水面に散った。
狩場で獲物を捌く手つきと同じだ。
無駄がなく、速い。
洗っては並べ、布巾で拭いて棚へ戻す。その一連の動きに迷いはなかった。
背後で青司は、所在なく立ち尽くしている。
「……ごめん。俺、こういうの……ほんと苦手で」
振り返ったリオナは、ちらりと散らかったままの床と流しを見比べた。
「“苦手”じゃなくて、“やってこなかった”だけでしょ」
青司は苦笑して肩をすくめる。
言い返せなかった。
リオナは小さく息を吐くと、声色を切り替えた。
「……台所はあたしが片付ける。
あんたは作業場を整理してきなさい。あの状態じゃ、次に薬を作る時に困るでしょ」
「え、俺が?」
「当たり前でしょ。散らかしたのはあんたなんだから」
その正論に、青司は頭を掻くしかなかった。
ふと、リオナが廊下の方へ視線を向ける。
「……それと、外に血塗れの服が転がってたわ」
「ああ……」
青司の喉が詰まる。
リオナは一瞬だけ黙り、耳を伏せた。
「……あれ、あたしの血で汚れたんでしょ。
放っておくのは……気分が良くない」
視線を逸らしながら、短く付け加える。
「あとで湖に行きましょ。洗えば匂いも落ちる」
「……気にしなくていいのに」
「気にするわよ。
“生き残った側”の責任でしょ」
その言葉に、青司は何も返せなかった。
⸻
昼食を終えた後、二人は湖畔に並んで腰を下ろした。
血に染まった布切れや服を水に沈めると、湖面に薄く赤い筋が滲んだ。
「……最初から洗っておけばよかったな」
ぽつりと漏らす青司に、リオナはじっとした視線を向ける。
「それが“普通”よ」
責めるというより、事実を告げる声だった。
だが次の瞬間、その視線が血の染みに留まり、わずかに揺れる。
「……あたしの血も混ざってるのよね」
青司は首を振る。
「悪いのは獣だ。
リオナは、生きてる。それでいい」
短い言葉だったが、彼自身に言い聞かせるようでもあった。
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青司は湖畔に生えた香草に目を留め、数本を摘み取った。
掌に載せ、静かに目を閉じる。
次の瞬間、草がふわりと宙に浮いた。
見えない球状の結界が形を取り、その内側で葉がゆっくりと回転を始める。
「……錬金術」
結界が収縮し、草の繊維から鮮やかな緑の雫が滲み出す。
それは魔力と混じり合い、淡く光を帯びながら瓶の中へと収まっていった。
リオナは息を呑む。
「……道具も火も使わないのね」
「簡易だけどな。
洗浄用のエキスだ。血の匂いも落ちる」
半信半疑のまま、リオナが見つめる前で、青司はその液体を服に垂らす。
すると、こびりついていた血がみるみる水に溶けていった。
「……すごい」
その呟きには、純粋な驚きと――
“これなら痕跡を消せる”という安堵が混じっていた。
だが、裂けた布地は元には戻らない。
リオナは濡れた服を広げ、そこに残った傷跡を見つめる。
「……綺麗にはなるけど、壊れたものは戻らないのね」
その声は、服だけの話ではなかった。
青司は一瞬、何かを言いかけ――口を噤んだ。
湖面が陽光を跳ね返し、洗い終えた布が風に揺れる。
血の匂いは消えても、
“命の痕跡”だけが、確かに二人の間に残っていた。




