表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/135

3

 夜更け。

 森の奥に沈む木の家で、わずかな衣擦れの音が闇を揺らした。


 獣人の少女は、その音に引かれるように、閉じた瞼をわずかに震わせる。

 まぶたを押し上げると、見慣れない木目の天井が、にじんだ輪郭のまま浮かんだ。


 ――……ここは……どこ……。


 声にしようとして、喉が焼けつく。

 息を吸うたび、胸元を締めつける布がきしみ、肺の奥まで空気が届かない。


 頭の奥で、鈍い痛みが脈打つ。

 腹部には重石を置かれたような圧迫感。

 けれど、あの“焼けるような痛み”は消えていた。代わりに残るのは、身体を縛る布の感触――生きている証のように、いやに生々しい。


 反射的に、耳が立つ。

 獣人族にとって、目覚めの瞬間に頼れるのは音だけだ。闇の中で生き延びるための、原始的な習性。


 ……すぐ近くで、規則正しい呼吸。


 心臓が、ひくりと跳ねた。

 首だけをわずかに動かす。


 木の机に身を預け、少年が眠り込んでいた。



 知らない匂い。

 知らない家。

 知らない人間。――しかも、男。


 猫人族にとって、無防備な状態で他者のそばに身を置くことは、ほとんど“自分の命を預ける”に等しい。

 それが人間相手であれば、なおさらだ。


 それなのに――

 自分の身体は、裂かれた衣の代わりに、厚手の織物に包まれているだけ。

 肌に触れる外気が、異様に冷たい。


 頬に熱が集まり、羞恥と困惑が混じった感情が、胸の奥を締めつけた。


 (……どうして、私は……)


 記憶をたどる。

 狩りの帰り、獲物を背負って森を歩いていた。

 背後の気配。

 闇に溶ける影。

 腹を貫いた、焼けるような衝撃――


 そこで、意識が途切れる。



 浅い呼吸を繰り返しながら、少女は少年を見つめた。

 幼さの残る顔。乱れた黒髪。

 着替えたらしいシャツの袖口に、乾いた血の色が滲んでいる。


 ――……あれは、わたしの血。


 眠りは深く、身じろぎひとつない。

 獣人の耳には、心臓の鼓動が静かに届く。

 敵意のリズムではない。だが、それでも――信用できる音ではない。


 少女は、ブランケットを胸元まで引き寄せ、身体を小さく丸めた。

 耳と尾が、落ち着きなく揺れる。


 逃げたい。

 だが、まだ脚に力が入らない。


 視線だけは逸らさず、眠る少年を見据えたまま、やがて意識は再び浅い闇に沈んでいった。


**************


 静まり返った森の家。

 机の上には、血に染まった布切れと、空になった薬瓶。

 床板には、拭いきれなかった赤黒い痕が斑に残り、鉄の匂いと薬草の苦味が混じり合って漂っている。


 その中心で、青司は机に突っ伏し、深い眠りに落ちていた。

 無防備な背中が、暗闇にさらされている。


 ――……運んだのは、こいつ。

 ――服を裂いて、傷に触れたのも……こいつ。


 少女は、ブランケットの中で静かに息を整えた。

 助けられた事実と、踏み越えられた一線。

 その二つが、胸の奥でせめぎ合う。


 猫人族にとって、身体を晒されることは“生き様を汚される”に等しい。

 理由がどうあれ、問いたださずに終われる話ではなかった。


 「……起きなさい」


 低く、喉の奥で絞り出すように呟く。


 少女は音を殺して歩み寄り、少年の肩を強く押した。



 視界が反転する。


 次の瞬間、青司の胸に衝撃が落ちた。

 喉元に、冷たい爪の感触。


 息が詰まる。


 「……動いたら、殺す」


 震えた声。

 怒りだけではない。恐怖と羞恥を、必死に噛み殺した音。


 青司は、反射的に両手を上げる。

 喉が締め上げられ、視界が暗く滲む。


 ――また、守れなかったら……。


 胸の奥に、言葉にならない記憶がよぎる。

 だから、かすれる声で叫んだ。


 「ち、違う……っ! 傷の、治療だ……!」


 「……治療?」


 「腹に……深い傷があった。このままじゃ……死んでた……!」


 必死の声に、作為はない。

 鼓動の乱れは恐怖だけを語っていた。


 少女の爪が、わずかに緩む。



 「……それだけ?」


 「それだけだ……。誓う……」


 沈黙。

 耳に届く鼓動が、嘘を否定していた。


 少女は、ゆっくりと手を離す。

 青司は喉を押さえ、咳き込みながら息を取り戻した。


 ブランケットを胸元まで引き寄せ、少女は床に膝をつく。


 「……助けた命に、借りは作らない主義なの」


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐに青司を射抜く。


 「だから、生かした理由は……聞くわ。

 ……あんた、どうして“わたし”を助けたの?」



 しばし、沈黙が落ちた。

 夜明け前の森の家には、まだ薄暗い気配が残っている。


 青司は視線を落とし、答えを探すように指先を握った。


 「……理由なんて、ちゃんとしたものじゃない」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


 「目の前で血を流して倒れてるのを見て……放っておけなかった。それだけだ」


 リオナの耳が、わずかに揺れた。

 獣人の感覚で聞いても、そこに作り物の響きはない。


 「……それだけ?」


 「それだけだよ。助けられるかも、って思ったんだ。……だから、やった」


 短い言葉。

 英雄的でもなく、格好もつかない。

 けれど、その率直さが、逆に嘘の居場所を消していた。


 リオナは視線を外し、床に残る血痕と散らばった薬瓶に目を走らせる。

 ――血の匂い。薬草の匂い。

 ここで、必死に命を繋ぎ止めようとした痕跡。


 「……じゃあ、教えて」


 膝をついたまま、彼を見据える。


 「あんたは誰。ここはどこなの」


 声は低いが、そこに滲む幼さを、彼女自身も消しきれずにいた。


 青司は一瞬だけ言葉に詰まり、やがて小さく息を吐く。


 「俺は青司。……セイジでいい。

 ここは……森の中の、誰もいない家みたいな場所だ。俺も、たまたま辿り着いただけで……」


 曖昧な答え。

 “根を持たない者”の匂いが、リオナの感覚に引っかかる。


 「……この森の者じゃない、って顔ね」


 青司は苦笑し、肩をすくめた。


 「正直に言うと……俺、こっちの世界の人間じゃないんだ」


 耳が、ぴんと立つ。


 「……なに、それ」


 「気づいたら、この森にいた。

 前にいた場所から、理由も分からず放り出されたみたいなもんだ」


 荒唐無稽な話。

 だが、リオナの視線は机の上の薬瓶へ、床の血痕へと移る。


 ――即席とは思えない処置。

 ――命を繋いだ痕跡。


 「……信じろ、とは言わない」


 青司は視線を逸らし、ぽつりと言った。


 「でも……ここに来てから、俺にできたのは、薬を作ることくらいだった」


 沈黙ののち、リオナは小さく息を吐いた。


 「……あなたの“来た世界”のことは分からない」


 だが、視線はまっすぐだった。


 「でも、薬師としての腕が本物なのは分かる。

 ――わたしが、まだ生きてるから」


 その言葉に、青司の肩から力が抜けた。


 「それと……」


 リオナは一拍置いて、目を細める。


 「さっきのこと。服を裂いた件。

 本当に……治療だけ?」


 「それだけだ! 誓ってる!」


 思わず声を張り上げる青司に、リオナは鼻で小さく笑った。


 「……ずいぶん必死ね」


 耳が赤い。

 その不器用さに、敵意の匂いはない。


 「……わたしはリオナ。猫人族の狩人よ」


 名乗りに、狩人としての誇りと、命を救われた者としての最低限の礼が込められていた。


 「リオナ……」


 青司はその名を反芻するように呟く。


 朝の光が、散らかった作業場に差し込み、

 血と薬の匂いの中で、二人の間にわずかな“距離の変化”を落としていった。


 作業場に満ちる血と薬草の匂いが、まだ空気に重く残っていた。

 張りつくような気配に、リオナは小さく息を吐く。


 「……ここ、匂いがきつい」


 正直な感想だった。

 生き延びた証でもあるが、同時に、死に近づいた場所の匂いでもある。


 青司ははっとして周囲を見回し、慌てて布切れで机を拭き始める。


 「悪い。片付ける余裕なくて……」


 言い訳がましく言いながら、血の跡を消そうとするその背中は、どこか落ち着きがない。

 命を救った後の疲労と、ようやく訪れた“現実”に戸惑っているようだった。


 そのとき、不意に――


 ぐぅ。


 小さく、しかしはっきりとした音が、静かな作業場に落ちた。


 リオナの耳がぴくりと跳ね、次の瞬間、頬がかっと熱を帯びる。


 「……っ」


 無言で視線を逸らすが、誤魔化しきれない。


 青司は一拍遅れて状況を理解し、ばつが悪そうに頭を掻いた。


 「……腹、減ってるよな」


 否定できない。

 あれだけの重傷を負い、夜を越えたのだ。身体は正直だった。


 「……少しだけ」


 悔しそうに呟く声に、狩人の矜持と、年相応の弱さが同時に滲む。


 青司は頷き、戸棚から昨夜の残りのスープを取り出した。


 「正直、味は……期待しないでくれ」


 器に注がれたスープは、色も香りも薄い。

 “生き延びるための食事”であって、もてなすための料理ではなかった。


 リオナはそれでも受け取り、そっと口をつける。


 ……薄い。

 塩気も足りず、旨味も乏しい。


 だが――


 胃の奥に、じんわりと温かさが落ちていく。

 それだけで、体の緊張が少しほどけるのが分かった。


 「……まずくは、ないわ」


 精一杯の譲歩に、青司は苦笑する。


 「だろ。俺もそう思う」


 二人で同じ評価を下す、その些細な一致が、奇妙な安心感を生んだ。


 食べ終えたリオナは、器を膝の上で抱えたまま、もじもじと視線を泳がせる。


 「……それで……」


 ブランケットを胸元まで引き寄せ、小さく声を落とす。


 「……服、借りられる?」


 青司は一瞬、何の話か分からず固まり――

 次の瞬間、事態を理解して一気に顔を赤くした。


 「ご、ごめん! すぐ持ってくる!」


 慌てて寝室へ駆け込み、棚の奥からリネンのシャツと簡素なズボンを引っ張り出す。


 「……これくらいしかないけど」


 差し出された服は、明らかに彼のサイズだ。

 だが、今のリオナにとっては、それでも“安心できる布”だった。


 「……外、向いてて」


 「わ、分かった!」


 青司は壁の方を向き、ぎこちなく目を閉じる。


 背後で、布が擦れる音。

 ブランケットが落ちる気配。

 それだけで心臓の音がやけに大きくなる。


 ――見ない。

 ――見たら、いろいろ終わる。


 自分に言い聞かせるように、青司は拳を握った。


 やがて、小さな声がかかる。


 「……もう、いいわ」


 振り返ると、ぶかぶかの服に身を包んだリオナが立っていた。

 袖を折り、裾を掴み上げながらも、その姿はどこか不格好で――それでも“人としての形”を取り戻したように見えた。


 「……どう?」


 不安と照れが入り混じった問いに、青司は目を逸らしつつ答える。


 「……似合ってる、と思う」


 リオナはふいっと顔を背けた。


 次の瞬間、彼女は無意識に腹部へ手を伸ばしていた。


 ――あの時、確かに裂けた場所。


 恐る恐る服の裾をめくる。

 そこにあったのは、かすかに赤みを残すだけの、塞がった皮膚だった。


 「……」


 言葉が、出ない。


 狩人として、傷の治りが早いことは知っている。

 だが、あの深さの裂傷が、一晩でここまで癒えるなど――常識の外だ。


 「……本当に、治ってる……」


 呟きは、安堵と困惑の混じった声になった。


 青司はその様子を見て、小さく息を吐く。


 「……効いたみたいだな」


 “助かった”とは言わなかった。

 ただ、効いた。

 その控えめな言い方が、彼の立ち位置を物語っていた。


 リオナはしばらく自分の腹部を見つめ、やがて顔を上げる。


 「……あんた、ただの迷い人じゃないわね」


 青司は困ったように笑った。


 「俺も、自分が何者なのか、よく分かってない」


 それでも――

 血の匂いが残るこの家で、

 二人の間には、確かに“生き延びた者同士の静かな連帯”が生まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ