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夜更け。
森の奥に沈む木の家で、わずかな衣擦れの音が闇を揺らした。
獣人の少女は、その音に引かれるように、閉じた瞼をわずかに震わせる。
まぶたを押し上げると、見慣れない木目の天井が、にじんだ輪郭のまま浮かんだ。
――……ここは……どこ……。
声にしようとして、喉が焼けつく。
息を吸うたび、胸元を締めつける布がきしみ、肺の奥まで空気が届かない。
頭の奥で、鈍い痛みが脈打つ。
腹部には重石を置かれたような圧迫感。
けれど、あの“焼けるような痛み”は消えていた。代わりに残るのは、身体を縛る布の感触――生きている証のように、いやに生々しい。
反射的に、耳が立つ。
獣人族にとって、目覚めの瞬間に頼れるのは音だけだ。闇の中で生き延びるための、原始的な習性。
……すぐ近くで、規則正しい呼吸。
心臓が、ひくりと跳ねた。
首だけをわずかに動かす。
木の机に身を預け、少年が眠り込んでいた。
⸻
知らない匂い。
知らない家。
知らない人間。――しかも、男。
猫人族にとって、無防備な状態で他者のそばに身を置くことは、ほとんど“自分の命を預ける”に等しい。
それが人間相手であれば、なおさらだ。
それなのに――
自分の身体は、裂かれた衣の代わりに、厚手の織物に包まれているだけ。
肌に触れる外気が、異様に冷たい。
頬に熱が集まり、羞恥と困惑が混じった感情が、胸の奥を締めつけた。
(……どうして、私は……)
記憶をたどる。
狩りの帰り、獲物を背負って森を歩いていた。
背後の気配。
闇に溶ける影。
腹を貫いた、焼けるような衝撃――
そこで、意識が途切れる。
⸻
浅い呼吸を繰り返しながら、少女は少年を見つめた。
幼さの残る顔。乱れた黒髪。
着替えたらしいシャツの袖口に、乾いた血の色が滲んでいる。
――……あれは、わたしの血。
眠りは深く、身じろぎひとつない。
獣人の耳には、心臓の鼓動が静かに届く。
敵意のリズムではない。だが、それでも――信用できる音ではない。
少女は、ブランケットを胸元まで引き寄せ、身体を小さく丸めた。
耳と尾が、落ち着きなく揺れる。
逃げたい。
だが、まだ脚に力が入らない。
視線だけは逸らさず、眠る少年を見据えたまま、やがて意識は再び浅い闇に沈んでいった。
**************
静まり返った森の家。
机の上には、血に染まった布切れと、空になった薬瓶。
床板には、拭いきれなかった赤黒い痕が斑に残り、鉄の匂いと薬草の苦味が混じり合って漂っている。
その中心で、青司は机に突っ伏し、深い眠りに落ちていた。
無防備な背中が、暗闇にさらされている。
――……運んだのは、こいつ。
――服を裂いて、傷に触れたのも……こいつ。
少女は、ブランケットの中で静かに息を整えた。
助けられた事実と、踏み越えられた一線。
その二つが、胸の奥でせめぎ合う。
猫人族にとって、身体を晒されることは“生き様を汚される”に等しい。
理由がどうあれ、問いたださずに終われる話ではなかった。
「……起きなさい」
低く、喉の奥で絞り出すように呟く。
少女は音を殺して歩み寄り、少年の肩を強く押した。
⸻
視界が反転する。
次の瞬間、青司の胸に衝撃が落ちた。
喉元に、冷たい爪の感触。
息が詰まる。
「……動いたら、殺す」
震えた声。
怒りだけではない。恐怖と羞恥を、必死に噛み殺した音。
青司は、反射的に両手を上げる。
喉が締め上げられ、視界が暗く滲む。
――また、守れなかったら……。
胸の奥に、言葉にならない記憶がよぎる。
だから、かすれる声で叫んだ。
「ち、違う……っ! 傷の、治療だ……!」
「……治療?」
「腹に……深い傷があった。このままじゃ……死んでた……!」
必死の声に、作為はない。
鼓動の乱れは恐怖だけを語っていた。
少女の爪が、わずかに緩む。
⸻
「……それだけ?」
「それだけだ……。誓う……」
沈黙。
耳に届く鼓動が、嘘を否定していた。
少女は、ゆっくりと手を離す。
青司は喉を押さえ、咳き込みながら息を取り戻した。
ブランケットを胸元まで引き寄せ、少女は床に膝をつく。
「……助けた命に、借りは作らない主義なの」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに青司を射抜く。
「だから、生かした理由は……聞くわ。
……あんた、どうして“わたし”を助けたの?」
⸻
しばし、沈黙が落ちた。
夜明け前の森の家には、まだ薄暗い気配が残っている。
青司は視線を落とし、答えを探すように指先を握った。
「……理由なんて、ちゃんとしたものじゃない」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「目の前で血を流して倒れてるのを見て……放っておけなかった。それだけだ」
リオナの耳が、わずかに揺れた。
獣人の感覚で聞いても、そこに作り物の響きはない。
「……それだけ?」
「それだけだよ。助けられるかも、って思ったんだ。……だから、やった」
短い言葉。
英雄的でもなく、格好もつかない。
けれど、その率直さが、逆に嘘の居場所を消していた。
リオナは視線を外し、床に残る血痕と散らばった薬瓶に目を走らせる。
――血の匂い。薬草の匂い。
ここで、必死に命を繋ぎ止めようとした痕跡。
「……じゃあ、教えて」
膝をついたまま、彼を見据える。
「あんたは誰。ここはどこなの」
声は低いが、そこに滲む幼さを、彼女自身も消しきれずにいた。
青司は一瞬だけ言葉に詰まり、やがて小さく息を吐く。
「俺は青司。……セイジでいい。
ここは……森の中の、誰もいない家みたいな場所だ。俺も、たまたま辿り着いただけで……」
曖昧な答え。
“根を持たない者”の匂いが、リオナの感覚に引っかかる。
「……この森の者じゃない、って顔ね」
青司は苦笑し、肩をすくめた。
「正直に言うと……俺、こっちの世界の人間じゃないんだ」
耳が、ぴんと立つ。
「……なに、それ」
「気づいたら、この森にいた。
前にいた場所から、理由も分からず放り出されたみたいなもんだ」
荒唐無稽な話。
だが、リオナの視線は机の上の薬瓶へ、床の血痕へと移る。
――即席とは思えない処置。
――命を繋いだ痕跡。
「……信じろ、とは言わない」
青司は視線を逸らし、ぽつりと言った。
「でも……ここに来てから、俺にできたのは、薬を作ることくらいだった」
沈黙ののち、リオナは小さく息を吐いた。
「……あなたの“来た世界”のことは分からない」
だが、視線はまっすぐだった。
「でも、薬師としての腕が本物なのは分かる。
――わたしが、まだ生きてるから」
その言葉に、青司の肩から力が抜けた。
「それと……」
リオナは一拍置いて、目を細める。
「さっきのこと。服を裂いた件。
本当に……治療だけ?」
「それだけだ! 誓ってる!」
思わず声を張り上げる青司に、リオナは鼻で小さく笑った。
「……ずいぶん必死ね」
耳が赤い。
その不器用さに、敵意の匂いはない。
「……わたしはリオナ。猫人族の狩人よ」
名乗りに、狩人としての誇りと、命を救われた者としての最低限の礼が込められていた。
「リオナ……」
青司はその名を反芻するように呟く。
朝の光が、散らかった作業場に差し込み、
血と薬の匂いの中で、二人の間にわずかな“距離の変化”を落としていった。
作業場に満ちる血と薬草の匂いが、まだ空気に重く残っていた。
張りつくような気配に、リオナは小さく息を吐く。
「……ここ、匂いがきつい」
正直な感想だった。
生き延びた証でもあるが、同時に、死に近づいた場所の匂いでもある。
青司ははっとして周囲を見回し、慌てて布切れで机を拭き始める。
「悪い。片付ける余裕なくて……」
言い訳がましく言いながら、血の跡を消そうとするその背中は、どこか落ち着きがない。
命を救った後の疲労と、ようやく訪れた“現実”に戸惑っているようだった。
そのとき、不意に――
ぐぅ。
小さく、しかしはっきりとした音が、静かな作業場に落ちた。
リオナの耳がぴくりと跳ね、次の瞬間、頬がかっと熱を帯びる。
「……っ」
無言で視線を逸らすが、誤魔化しきれない。
青司は一拍遅れて状況を理解し、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……腹、減ってるよな」
否定できない。
あれだけの重傷を負い、夜を越えたのだ。身体は正直だった。
「……少しだけ」
悔しそうに呟く声に、狩人の矜持と、年相応の弱さが同時に滲む。
青司は頷き、戸棚から昨夜の残りのスープを取り出した。
「正直、味は……期待しないでくれ」
器に注がれたスープは、色も香りも薄い。
“生き延びるための食事”であって、もてなすための料理ではなかった。
リオナはそれでも受け取り、そっと口をつける。
……薄い。
塩気も足りず、旨味も乏しい。
だが――
胃の奥に、じんわりと温かさが落ちていく。
それだけで、体の緊張が少しほどけるのが分かった。
「……まずくは、ないわ」
精一杯の譲歩に、青司は苦笑する。
「だろ。俺もそう思う」
二人で同じ評価を下す、その些細な一致が、奇妙な安心感を生んだ。
食べ終えたリオナは、器を膝の上で抱えたまま、もじもじと視線を泳がせる。
「……それで……」
ブランケットを胸元まで引き寄せ、小さく声を落とす。
「……服、借りられる?」
青司は一瞬、何の話か分からず固まり――
次の瞬間、事態を理解して一気に顔を赤くした。
「ご、ごめん! すぐ持ってくる!」
慌てて寝室へ駆け込み、棚の奥からリネンのシャツと簡素なズボンを引っ張り出す。
「……これくらいしかないけど」
差し出された服は、明らかに彼のサイズだ。
だが、今のリオナにとっては、それでも“安心できる布”だった。
「……外、向いてて」
「わ、分かった!」
青司は壁の方を向き、ぎこちなく目を閉じる。
背後で、布が擦れる音。
ブランケットが落ちる気配。
それだけで心臓の音がやけに大きくなる。
――見ない。
――見たら、いろいろ終わる。
自分に言い聞かせるように、青司は拳を握った。
やがて、小さな声がかかる。
「……もう、いいわ」
振り返ると、ぶかぶかの服に身を包んだリオナが立っていた。
袖を折り、裾を掴み上げながらも、その姿はどこか不格好で――それでも“人としての形”を取り戻したように見えた。
「……どう?」
不安と照れが入り混じった問いに、青司は目を逸らしつつ答える。
「……似合ってる、と思う」
リオナはふいっと顔を背けた。
次の瞬間、彼女は無意識に腹部へ手を伸ばしていた。
――あの時、確かに裂けた場所。
恐る恐る服の裾をめくる。
そこにあったのは、かすかに赤みを残すだけの、塞がった皮膚だった。
「……」
言葉が、出ない。
狩人として、傷の治りが早いことは知っている。
だが、あの深さの裂傷が、一晩でここまで癒えるなど――常識の外だ。
「……本当に、治ってる……」
呟きは、安堵と困惑の混じった声になった。
青司はその様子を見て、小さく息を吐く。
「……効いたみたいだな」
“助かった”とは言わなかった。
ただ、効いた。
その控えめな言い方が、彼の立ち位置を物語っていた。
リオナはしばらく自分の腹部を見つめ、やがて顔を上げる。
「……あんた、ただの迷い人じゃないわね」
青司は困ったように笑った。
「俺も、自分が何者なのか、よく分かってない」
それでも――
血の匂いが残るこの家で、
二人の間には、確かに“生き延びた者同士の静かな連帯”が生まれていた。




