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 森の家の戸口で、青司は肩に革のリュックを背負い直した。中には布で丁寧に包んだ薬の瓶がぎっしりと詰まっている。解熱剤、鎮痛剤、軟膏、傷薬――数日かけて作りためた成果だ。腰には小袋を結びつけてあり、歩くたびに銀貨と銅貨が軽く音を立てた。


 一方のリオナは、すっかり青司の家に馴染んだ様子で、青司から借りている服に弓と矢筒を背負い、小剣を腰に差している。髪をざっと結んだだけの姿だが、肩や腰の動きには無駄がなく、狩人らしい軽快さがあった。

「荷物、そんなに詰め込んで大丈夫?」

「瓶は割れないようにしてあるし、背負った方が安定するみたいだ。……それに、どうせ街で売るんだから」

 青司はリュックの紐を締め直し、苦笑をこぼす。


 2人は森へと足を踏み入れる。

 朝靄に濡れた草むらを抜け、苔むした岩を避けながら進むと、鳥の声が段々と賑やかになっていった。陽が昇るにつれて森の奥に光が差し込み、木漏れ日が足元に揺れる。


 リオナは慣れた様子で前を歩き、時折立ち止まっては「こっち」と手振りで青司を導く。踏み跡のような獣道を選びながら進むその姿は、まさに森に溶け込んだ狩人だった。

「ほんとに詳しいな……。俺一人だったら、すぐ迷ってただろうな」

「当然よ。前も話したけど、ここはあたしのテリトリーなのよ」

 振り返ったリオナは少し得意げに微笑む。その横顔に、青司は心の中で「頼もしいな」と呟いた。


 森の中を歩き始めて一時間もすれば、背中のリュックはずしりとした重みを主張してくるはずだった。けれど青司の足取りは乱れない。瓶の詰まった荷を背負いながらも、肩の力を抜いて自然な呼吸を保っている。

 細身に見えるその体は、前の世界では特に鍛えていたわけでも、運動に打ち込んでいたわけでもない。むしろ帰宅部で体力には自信がなかったはずだ。――けれど今は違う。

 この世界に転移したとき、青司は「しなやかで持久力のある筋力」も授かっていた。無駄に膨れ上がるような筋肉ではなく、必要な時にしっかりと働く体。まるで自然と「使える筋肉」が備わっているかのようだった。


 一方のリオナは、耳をぴんと立てて森の音に神経を尖らせながら進む。葉擦れの音や小動物の走る気配を的確に拾い、道を選んでいく姿は狩人そのものだった。ちらりと横目で青司を見やれば、予想外に余裕そうな表情で歩いているのが目に入る。

「……重くないの?」

 素直な疑問が口をついた。


 青司は肩にかけた革のベルトを軽く直し、苦笑まじりに答える。

「ん? これくらいなら平気だよ。思ったより体力があるんだ、俺」

「ふぅん……」

 リオナは短く相槌を打ったが、耳の先がわずかに揺れた。人間の男はすぐに息を上げるものと思っていたが、彼は違うらしい。


 その後も二人は黙々と歩を進めた。青司は汗をにじませながらも姿勢を崩さず、むしろ周囲の草木に目を配りながら歩く余裕すら見せる。そんな彼の後ろ姿に、リオナは心のどこかで「意外と頼れるかも」と小さく思った。


時折、薬草や食べられる実を見つけては青司に教えてくれる。

「これ、街で買うと高いのよ」

「へぇ……じゃあ摘んでいこうか」

 そんなやり取りを挟みつつ、二人は黙々と歩を重ねた。


 森を抜ける頃には、すでに陽が高く昇っていた。青司の額にはうっすらと汗がにじんでいる。だが視界の先、木々の切れ間から開けた土の道が伸びているのを見つけた瞬間、思わず足取りが軽くなった。

「ここが……街道か」

「そう。ここからは真っ直ぐ。城壁までおよそ一時間くらい」


 街道は森の獣道とは違い、踏み固められた土の道が遠くまで続いていた。ときおり荷馬車や旅人の足跡が残り、道端には背の低い草花が揺れている。森に比べて視界が広がり、青司は思わず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。


「ずっと草むらや木の間ばかり見てたから、やけに広く感じるな」

「街道は人の通り道だからね。迷うことはたいけど、油断はしないでね。獣よりタチの悪い者もいるんだから」

 リオナは軽く耳を動かしながら周囲を確かめ、再び歩き出した。


 こうして二人は、街を目指して街道を並んで歩き始めた。城壁が見えてくるまでの一時間、その道はゆっくりと彼らを人の世界へと近づけていくのだった。



**************



 森を抜け、街道を一時間ほど歩くと、視界の先に高い城壁がそびえ立った。灰色の石を積み上げたその壁は、幾世代も前から街を守ってきた堅牢な構造物で、近づくごとにその威圧感を増していく。


 やがて門前に辿り着くと、旅人や商人の列が伸びていた。荷車を引く商人が兵士に書状を差し出し、農民風の一団が背負子の中を確認されている。人と声と匂いが入り混じり、森の静けさとは正反対のざわめきに包まれていた。


「ここが……リルトの街か」

 青司は思わず呟いた。


 門を守る兵士は、槍を手に鋭い目を光らせている。鎖帷子の上に革鎧を着込み、腰には短剣を下げた姿は、ただの形式ではない実戦の雰囲気を帯びていた。


「はい、次」

 二人の番になる。


 リオナは慣れた様子で弓を肩から外し、弦に付けてある金属のピンバッジを指先で示した。弓矢を象った繊細な意匠――狩人組合の会員証だ。

 兵士はそれを一瞥し、軽く頷く。

「……ああ、また来たか。そっちはすぐに通っていい」

 それだけで手続きは終わった。


 リオナは一瞬だけ視線を伏せ、耳を小さく動かした。兵士たちに顔を覚えられているのは悪いことではないが、少し落ち着かない。それでも余計な詮索をされないのは助かる。


 次に青司の番だ。兵士は彼を見て、手を差し出す。

「身分証は?」

「……持ってない」

「なら入街税だ。銅貨十枚」


 青司は腰の小袋を開き、手のひらに銅貨を数えて渡す。ちりん、と金属の音が門前の喧噪に混じった。


 兵士は受け取ると、今度はリュックを指差す。

「中を見せてもらおう」


 青司は頷いてリュックを下ろし、中から小瓶をいくつか取り出した。陽の光を受けて、淡い色合いの液体がきらめく。

「薬だ。森で作ったんだ。街で売れないかと思って」


 兵士は瓶をひとつ手に取り、光にかざす。透き通った液体が、揺れるたびに澄んだ輝きを放った。

「……ほぉ。なら商業ギルドへ行け。そこなら鑑定も販売の手続きもしてくれる」


「商業ギルド……」青司は小さく呟き、深く頷いた。


 兵士は瓶を返し、無愛想に言葉を切った。

「次の者!」


 それだけで二人は門をくぐることを許された。


 街に一歩足を踏み入れると、空気ががらりと変わった。石畳を踏みしめる人々の足音、荷馬車の車輪が石をこする音、行商人の声と香辛料の匂い――リルトは活気に満ちていた。

 森の静けさに慣れていた青司にとって、その喧騒はまるで別世界のように映る。


 横を歩くリオナは、耳を少し伏せながらも足取りを乱さない。人混みは苦手だが、それでも街に入ることは必要なことだと分かっているからだ。


 こうして、二人はそれぞれの目的を胸に、リルトの街へと足を踏み入れた。



**************


 門を抜けて街へ足を踏み入れた瞬間、青司は思わず息をのんだ。

 石畳の道がまっすぐに延び、両脇には木と石を組み合わせた家々が立ち並ぶ。赤茶や灰色の瓦が並ぶ屋根の上には白い煙がゆらめき、二階部分がせり出した造りの建物には花を飾った窓が連なっている。屋台からは香辛料を効かせた肉の焼ける匂いが漂い、甘い菓子の匂いが漂ってくる。呼び込みの声が飛び交い、道を行き交う人々の服装もまちまちだ。革鎧を着けた冒険者風の若者や、背中に布袋を背負った商人、粗末な麻服の農夫らしき者、通りの奥では吟遊詩人らしき青年が竪琴をつまびいている――見ているだけで目が回るほどの雑多さだった。


「……すごいな。まるでゲームの中にでも迷い込んだみたいだ」

 思わずこぼれた青司の声に、リオナが振り返る。猫の耳が小さく動き、わずかにからかうような響きが混じる。

「そんなにきょろきょろしてたら、田舎者だってすぐ分かるわよ」


「いや、だって……」青司は苦笑した。

 視界に映る全てが目新しく、どこを見ても心を奪われる。中世ヨーロッパ風の街並みなど、これまで画面の中でしか触れたことがなかった。石と木が醸し出す重厚さ、行き交う人々のざわめき、通りを抜ける風に混ざる香草の香り。まるでテーマパークかファンタジーゲームの世界に入り込んだようで、心が高鳴る。


 だが、隣を歩くリオナの表情は硬い。人混みを嫌うように耳を少し伏せ、淡々と前を向いて歩いていた。

「ここはリルトでも大きい通りだから。慣れないと息苦しく感じるのよ」


 青司はその言葉にうなずきながら、内心では首を傾げていた。確かに賑わいはある。だが彼にとって、この程度の人波は大したものではない。――前の世界、駅前や繁華街の人混みに比べれば、むしろ余裕があるくらいだった。けれどそれを口にする気はなかった。リオナにとっては十分「人が多すぎる」のだと分かるからだ。


 彼女は人混みに苦手意識を持ちながらも、慣れた様子で通りを進んでいく。行き交う商人や冒険者風の男たちにちらりと視線を投げられても、気にする素振りを見せず足早に抜けていく。その背を追いながら、青司は少し笑みを浮かべた。


「ここが……商業ギルド」


 大通りの一角にそびえる、石造りの堂々とした建物を前に、青司は思わず声を漏らした。重厚な扉、掲げられた紋章、人々の出入り――まさに「冒険者や商人の世界」を体現したような場所だ。胸の奥で緊張がじわりと膨らむ。


「中に入れば、受付がいくつも並んでる。薬を売りたいって言えば案内してくれるはずよ」

 横に立つリオナが、淡々と説明してくれる。その耳は街の喧噪を拾いながらも、青司の様子を気遣うようにわずかに揺れていた。


「ありがとう、リオナ。ここまで案内してもらえて助かった」


「うん……。あたしは先に姉さんのとこ行ってる。黒猫の看板のある食堂にいるわね」


 そう言うリオナの横顔は、街の人混みを前に少しだけ固く見えた。普段の森の中の、伸び伸びとした表情とは違う。


「わかった。あとでそっちに行くよ」


「……うん」


 短くうなずいたリオナは、尻尾を揺らしながら人波の中へ歩み出す。人々の視線に落ち着かない足取りを見せつつも、見慣れた道を選んで迷わず進んでいく。


 その背を見送りながら、青司は深く息をついた。

 街並みに心を奪われ、石畳の感触や屋台から漂う香ばしい匂いに胸を躍らせる一方で――ここで、自分の薬を売る日がついに来たのだという思いが、腹の奥をきゅっと引き締める。


 ――さあ、やるしかない。


 リュックの荷物の重みを確かめ、青司は大きな扉へと歩みを進めた。



**************



リオナ視点


 街門を抜けたあと、青司と「じゃあ、あとで」という短いやり取りを交わし、商業ギルドへ向かう彼の背を見送った。細身の背中が扉の向こうへ紛れていくのを見届けてから、リオナはふう、とひとつ息を吐く。


 ――さて。あたしも行かないと。


 人通りの多い大通りは、相変わらず耳にうるさく感じられる。客引きの声、荷馬車の車輪が石畳をきしませる音、子どもたちの笑い声。森にいるときには感じなかったざわめきが、尻尾の毛を逆立てる。猫人族の耳はどうしても音に敏感だ。けれど今日は、不思議と少しだけ落ち着いていた。青司と一緒に街に来た、その安心がまだ胸の奥に残っていたからだ。


 それでも人々の視線は苦手だ。歩きながらちらりと向けられる視線に、思わず肩をすくめる。背中に弓を背負った猫人族の姿は珍しくはないはずなのに、「女の狩人」というだけで物珍しげに見られるのは、昔から慣れない。


 大通りをしばらく歩き、小さな石畳の路地へと折れる。少し曲がっただけで、喧騒はぐっと遠ざかる。見慣れた木の看板が視界に入った瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。看板の下には色とりどりの花が植えられた木箱が並び、香ばしい匂いがかすかに漂ってくる。


 ――変わってない。


 姉夫婦が営む食堂。いつも温かい光が窓から洩れていて、ここに来ると「帰ってきた」と思える場所。街に来るのは苦手でも、この店にだけは足を運びたくなる。


 リオナは扉の取っ手に手をかけ、そっと押した。


 カラン、と小さな鈴が鳴り、店内の空気が流れ込む。昼時を過ぎた店は静かで、片付けの途中らしく、テーブルの上に布巾と皿がいくつか置かれていた。木の家具はよく磨かれ、壁にかけられたランタンが温かな光を揺らめかせている。


「……リオナ?」


 奥から顔を出したのは、黒髪を後ろでまとめた女性――姉のマリサだ。濡れた手を布で拭いながら、ぱちりと瞬きをする。次の瞬間、表情がぱっと綻んだ。


「やだ、来てくれたのね! もう、いつも突然なんだから」


「……ただいま、お姉ちゃん」


 気恥ずかしさが先に立ち、リオナは小さく微笑んだ。けれど頬がほんのり熱を帯びる。マリサは小走りに近づくと、そのままリオナをぎゅっと抱きしめた。


「元気にしてた? ちゃんと食べてるの? 痩せてない?」


「ちゃんとしてるよ……ちょっと怪我はしたけど」


「もう! また無茶したんでしょ」


「……してないって」

 そんな軽口を交わし合う。姉妹だからこそ遠慮のないやり取り。姉妹の耳が小さく動き、尻尾の先がぱたぱたと揺れた。


 すると、奥の厨房から分厚い肩を揺らして大柄な人影が現れる。


「おお、リオナじゃないか」


 穏やかな声で呼びかけてきたのはベルド。人間の男で、鍛えられた体格は鎧のように分厚い。それでも笑うと子どものように柔らかな目になる。


「ベルドさん……ただいま」


「よし、ちょうどいい。腹は減ってるだろう? 何か作ってやる」


「え、でも……」


「いいからいいから。せっかく来てくれたんだ、遠慮するな」


 豪快に笑うベルドに、リオナは苦笑いを浮かべた。マリサも「ほんとにもう」と言いながら、妹が帰ってきたのが嬉しいのか止める様子はない。


 リオナは椅子に腰を下ろし、ほっと息をつく。街の喧騒で張り詰めていた体から、緊張が抜けていく。森に帰りたい気持ちもあるけれど、こうして迎えてくれる家族がいるのはやはり悪くない――そう思えた。


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