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作業場にはまだ血と薬の匂いが残っている。けれど、ブカブカの服をまとったリオナが椅子に腰かけているだけで、さっきまで漂っていた緊張がいくらか薄れていた。
青司は、赤みの残る頬を指先で掻きながら、ふと思い立つように口を開いた。
「……そういえば、リオナは……狩人なんだよな?」
問いかけに、リオナの耳がぴんと立つ。尻尾も軽く揺れた。
「……ええ。森で獲物を狩って、肉や皮を街で売って生活してるの」
言葉は短いが、どこか誇りを感じさせる口調だった。
「森って言っても、いろんな獣がいるのよ。鹿みたいな大きな獣とか、小さなウサギみたいなのとか……。夜は目の光だけでわかる捕食者もいる。そういうのに見つからないように焚き火を抑えて、木の枝の上で眠ったり……。大抵は野宿ね」
青司は目を丸くした。
「野宿……ひとりで? 危なくないのか?」
「まぁ、危険はあるわね。でも、もう慣れてるわよ。足音や匂いで気づけるし、危険な気配が近づけば木の上に移ればいい」
そう言って、リオナはわずかに口元を上げた。狩人としての自負が見える。
「……それに、獲物を仕留めた時は達成感があるわ。矢が正確に心臓を射抜いたときの手応えとか……その重みを背負って街に降りていくと、ああ、自分はちゃんと生きてるんだなって思えるの」
彼女の瞳は森の奥を見ているように輝いていた。
青司は、家にこもって薬を作っている自分と比べて、まるで別世界の話のように感じながら聞き入っていた。
「街っていうと……?」
「ああ……そうリルトの街ね。人がたくさん暮らしてるのよ」
リオナは少し言葉を切り、それから何気ない調子を装って続けた。
「……街にはね、姉さんがいるの。旦那さんと一緒に食堂をやって暮らしてるの」
言った瞬間、自分の口から出た言葉に気づいて、耳がかすかに後ろへ倒れる。猫人族にとって、身内の話は簡単にするものじゃない。それは親しい間柄でなければ触れない領域だった。
だが、青司はそんなことを知らない。ただ、驚いたように目を輝かせる。
「えっ、食堂! じゃあ、美味しい料理を出すんだろうな」
「……ええ。なんでも美味しいく作ってくれるわよ。あたしが狩った獲物も、よく姉さんのところに持ち込むわ。保存の利く燻製肉にすることもあるけど、獲れたてをそのまま料理してもらうと……やっぱり全然違うのよ」
リオナの声は少し柔らかくなっていた。
青司は頷きながら、羨望の混じった表情で言った。
「すごいな……俺なんかスープひとつまともに作れないのに」
その言葉に、リオナはつい小さく笑ってしまった。
「……姉さんに教わったから、私も簡単な料理くらいはできるわよ」
しかし、笑った直後に自分の言葉を反芻して、はっとする。
――あたし、こんなに身内のことを……。
耳が再び赤く染まり、尻尾がそわそわと落ち着かなく動く。
「……な、なんでこんなこと話してるんだろ……」
呟きは小さかったが、青司の耳にも届いた。
「え、いいじゃないか。聞けて嬉しいよ」
素直にそう返す少年の顔はまっすぐで、からかう気配は微塵もない。
リオナは視線を逸らし、口元を噛んで、ほんの少しだけ笑った。
「……変な人ね」
血と薬の匂いがまだ残る作業場で、森の狩人と異邦の少年は、互いの暮らしを少しずつ語り合い始めていた。
**************
「……あたし、料理くらいはできるのよ」
つい口を滑らせたリオナの言葉に、青司の目がぱっと輝いた。
「ほんとに? じゃあ……」
彼は思わず身を乗り出した。
「体を動かせるなら、昼飯……作ってもらえないかな」
その頼みはあまりに率直で、リオナは一瞬、耳を赤くした。まだ腹の奥に鈍い痛みは残っている。けれど、青司の期待に満ちた眼差しを前にして、思わず口をつぐんだ。
そんな彼女の様子を見て、青司は慌てたように「あ、もちろん無理はしなくていいんだ!」と付け加える。
それから立ち上がり、棚からいくつかの瓶を取り出した。
「……とりあえず、これを飲んでくれ。昨日使った薬と同じだけど、増血の魔法薬。それと、こっちは体力を戻す薬草茶」
小瓶の中身は濃い赤紫色で、光に透かすと鈍い輝きを放つ。青司は指先に魔力を込めて瓶の栓を外し、リオナの前に差し出した。
リオナは眉を寄せつつも、恐る恐る受け取る。――喉に落とすと、金属を思わせる鉄の味が広がり、すぐに体の奥がじんわりと温まるのを感じた。
続いて湯気の立つ木杯を口に含む。こちらは苦味のある薬草の香りが鼻を抜ける。飲み下した瞬間、肺の奥まで澄んでいくようで、血の巡りが早くなる感覚があった。
「……不思議ね」
リオナは腹を押さえながら呟いた。確かに痛みは残っているのに、重さが薄れ、体に力が戻ってくる。
「……まあ、簡単なものなら」
ようやくそう答えると、青司は子どものように顔を綻ばせた。
「ありがとう!」
二人は作業場を出て、台所へと向かう。
廊下を出てすぐ、リオナは足を止めた。
視線の先には、床に投げ出された血塗れの布――昨夜、青司が着ていた服がそのまま転がっていたのだ。乾きかけた血が黒くこびりつき、匂いまで漂ってくる。
「……これは……」
耳がぴくりと動く。呆れを通り越して、呟きに苦味がにじんだ。
そして台所に入った瞬間、さらに眉をひそめる。
卓の上には、昨夜と今朝に使った木皿や木椀が積み上がり、乾いたスープの跡がこびりついている。匙は転がり落ち、床には穀粒が散らばっていた。水差しも中身が空で放り出され、流し桶には油膜の浮いた汁がぬるりと張りついている。
「……ひどい有様ね」
リオナは両手を腰に当て、呆れ果てた声を洩らした。尻尾が左右にばしばしと揺れている。
後ろに立っていた青司は、苦笑いを浮かべて後頭部を掻いた。
「え、えっと……片付けは……あんまり得意じゃなくて」
リオナはじとっとした目を向ける。
「“あんまり”じゃなくて、全然できてないでしょ」
だが、その表情の裏で――彼女はどこか諦めにも似たため息をつき、視線を料理道具の方へ向け直した。
「……仕方ないわね。まずはここから、よ」
その声音はまだ呆れを含みつつも、どこか狩場で獲物を前にした時のような張りがあった。
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リオナは腕まくりをし、棚の上から水差しを取り上げた。中身は空っぽ。代わりに甕から木の桶へ水を移し、台所の流し桶へ注ぎ込む。冷たい水が音を立てて溜まっていくと、こびりついていた汚れが少しずつ浮かび上がった。
「全然洗ってないじゃない」
そう呟きながら木椀を一つ掴み、ざぶりと水に沈める。指先で擦ると、乾ききった穀物の粒がぽろぽろと剥がれ落ちていった。
尻尾を軽く揺らしながら、手際は早い。洗った食器を並べ、布巾でざっと拭いてから棚へ戻す。匙や小皿も同じように処理し、あっという間に山積みだった食器が片付いていった。
その背後で青司は所在なげに立ち尽くしていた。
「……なんか、ごめん。俺、こういうの苦手で」
リオナは振り返り、少し呆れた目を向ける。
「見れば分かるわ。片付けっていうより、ただ置きっぱなしでしょ」
青司は肩をすくめ、情けなく笑った。
リオナは溜息をひとつ吐き、しかしすぐに声色を切り替える。
「……台所はあたしがやるから。あんたは作業場を片付けてきなさい。あのままじゃ薬草も道具も使えないでしょ」
「え? 俺が?」
「当たり前でしょ。あそこを散らかしたのはあんたなんだから」
青司は頭を掻きながら「う……まぁ、そうだな」と答えるしかなかった。
するとリオナはふと思い出したように、廊下の方へちらと視線を向けた。
「それと……外に血塗れの服、転がってたわよね」
「ああ……」青司は顔をしかめた。「あれ、どうしようかと思ってて」
リオナは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り、それから小さく耳を伏せた。
「……あれ、あたしの血で汚れたんでしょ。放っておくのは……さすがに、悪い気がするわ」
少しだけ視線を逸らしながら続ける。
「あとで湖に行きましょう。一緒に洗えばいい。水はきれいだったし、血の匂いも落とせるはず」
青司は驚いたように目を丸くする。
「……気にしなくてもいいのに」
「気にするわよ。自分のせいで汚したんだから」
リオナは短くそう返し、尻尾を揺らした。
青司は言葉に詰まり、結局「……ありがとう」とだけ答えた。
やがてリオナは、きれいになった食器を並べ終えると、棚に残っていた穀物や干し肉を取り出し、手際よく卓に並べた。
「さて……昼食を作るわよ。せめて食べられるものにしてあげる」
尻尾をぴんと立て、軽く胸を張ったリオナの横顔は、狩人というより台所に立つ姉の姿を思わせた。
青司はその背を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
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リオナは棚から穀物の袋を取り出すと、指先で中の粒を確かめる。
「ふむ……まぁ、このくらいなら使えるわね」
穀物を一握り取り、手のひらの上で転がしながらそう呟く。その動きは狩人のものというより、台所を仕切る主婦のそれに近かった。
青司は隅で所在なげに座り、彼女の手元を見つめていた。
「俺が作ると……あれだよ、ただのしょっぱいスープにしかならなかったけど」
自嘲気味に言うと、リオナは肩越しに振り返り、口元に小さな笑みを浮かべる。
「塩だけで煮ても、美味しくなるはずがないでしょ」
彼女は干し肉を少し切り分け、水に浸けて戻しながら火にかけた。鍋からはじんわりと肉の出汁が広がっていく。その香りだけで、青司の鼻はくすぐられ、腹が鳴りそうになった。
次にリオナは薬草の束から香りの強い葉を数枚ちぎり、指先で軽く揉んで香りを立たせてから鍋に落とした。
「こうすると香りが出て、肉の臭みを消してくれるの」
「へぇ……そういう使い方、あるんだ」
青司の目は真剣そのもの。だがリオナにしてみれば、ごく当たり前の所作だった。狩りの獲物を食べやすくするために、姉から教わった知恵。森で生きるには必要不可欠な工夫に過ぎない。
穀物を入れた鍋を静かにかき混ぜ、煮立つ泡をすくいながらリオナは手早く動く。尻尾がリズムを取るように左右へ揺れていた。
しばらくすると、香ばしくも滋味深い匂いが台所いっぱいに広がった。青司は思わず鼻をひくつかせ、喉を鳴らす。
「……なんか、全然違う匂いがする」
木椀に注がれたスープは、見た目こそ大きな違いはない。けれど表面に漂う油の膜は澄んでおり、香草の緑が彩りを添えている。
青司は匙を手に取り、恐る恐る口に含んだ。
「……っ!? うまっ!」
思わず声が裏返る。干し肉から染み出した旨みと香草の爽やかな香りが舌に広がり、穀物はほくほくとした食感を残していた。昨日まで食べていた、ただ塩辛いだけの粥とはまるで別物だった。
リオナは少しだけ口角を上げ、肩をすくめる。
「これが普通よ。料理って、ちょっとしたことで味が変わるの」
「……俺の“ちょっとしたこと”は、全部失敗にしかならないけど」
青司は赤面しながら匙を動かし続けた。
木椀の中身はあっという間になくなり、気づけば二人とも黙々と匙を運んでいた。
食べ終えたあと、青司は感嘆のため息をもらす。
「……同じ材料なのに、こんなに違うんだな」
リオナはほんのわずかに照れくさそうに目を逸らし、耳の先が赤く染まっていた。
「……姉さんに教わっただけよ。あんたが驚くほどのことじゃない」
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の尻尾はどこか誇らしげに揺れていた。
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昼食後、約束通り2人は湖畔に着ていた。青司はため込んでいた洗濯物をどさっと地面に置き、しゃがみ込んでため息をついた。血にまみれた自分の服、薄汚れた布、ほとんど雑巾のようになった手ぬぐい。見ているだけで気が遠くなりそうだった。
「……最初から、ちゃんと洗っておけばよかった」
思わず漏らした呟きに、リオナはじとっとした目を向ける。
「それが普通よ。やって当然のことを、今まで放ったらかしにしてたなんて……呆れるわ」
言葉は厳しいが、リオナの視線はふと血で黒く染まった部分にとまる。そこが自分の傷から流れたものだと分かると、耳がわずかに揺れて、表情に影が差した。
「……でも、これ、私の血も混ざってるのよね。悪いことをしたわ」
青司は首を振って笑った。
「悪いのは獣だろ。リオナは謝る必要なんかないさ」
青司は湖畔に腰を下ろし、周囲を見渡すと、葦の根元に群れて生えている数種類のハーブ草に目を留めた。細長い葉のもの、丸い葉を持つもの、紫がかった小さな花を咲かせているもの――どれも鼻を近づければ清涼な香りが立つ。
「……これなら使える」
彼は指先で数本を摘み取り、掌に載せると、深く息を吸い込んだ。そして静かに目を閉じる。
その瞬間、摘み取った草がふわりと宙に浮かび上がる。まるで見えない糸に吊るされたかのようにゆっくりと回転し、青司の手のひらの上、半径二十センチほどの球状の透明な結界が形を取った。
「……錬金術」
小声で呟き、両手を軽くかざす。次の瞬間、結界内で草が渦を巻くように回転し始めた。青司の魔力が触媒となり、空気が圧縮される。透明な壁が内部をぎゅっと押しつぶすように縮み、草の茎や葉から鮮やかな緑の液体がじわじわと滲み出した。
「ぐっ……よし、もっと……」
青司はさらに魔力を注ぎ込む。緑色の雫が結界の中を舞い、やがて細い流れとなって滴り落ちていく。だがそれはただの汁ではなく、魔力と混じり合っているせいか、淡く光を帯びていた。
結界の中で草が完全に潰れ、最後の一滴まで抽出されると、残った繊維は灰のように散り、風に溶けるように消えた。
「……できた」
青司は右手をひらりと振り、結界を開く。すると緑色に透き通った液体がすっと宙を流れ、待ち構えていたガラス瓶に収まっていく。瓶の中で光が瞬き、液面が静かに落ち着いた。
リオナは、ほんの数歩離れた場所でその光景を凝視していた。耳がぴんと立ち、尻尾が無意識に揺れる。
「……なに、それ。まるで道具を使ってないじゃない」
青司は額に浮いた汗をぬぐい、瓶を掲げて見せる。
「洗剤。ハーブのエキスに魔力を重ねて抽出したんだ。これなら血でも泥でも綺麗に落ちる」
緑に透き通った液体は、ただの草の汁とは思えないほど清浄で、美しく光を反射していた。湖のきらめきと相まって、それはまるで一瞬の魔法そのものだった。
半信半疑のリオナを横目に、青司は自分の服を湖に沈め、その液体を垂らした。すると、こびりついた血の跡がみるみるうちに水に溶け出していく。
「……!」
リオナは耳を立てて驚きの声を漏らした。
「ほらな? これなら汚れも匂いも完全に落ちる」
青司は嬉しそうに、服を水中で揉み、泥と血の跡を洗い落としていった。
「……すごい……セイジってこんなものまで作れちゃうなんて」
リオナは驚きの声を漏らしながらも、リオナの瞳には安堵の色も混じっていた。
彼女も自分の服を取り出し、湖の水に沈める。裂け目や爪痕こそ残っているが、泥や血の汚れは確かに洗剤で落ちていく。布地は清らかに戻り、傷跡だけが痛々しく残った。
濡れた服を両手に広げて眺めながら、リオナは深く息を吐いた。
「……綺麗にはなったけど、裂けてしまったものはどうにもならなそうね」
その声には、少しの寂しさと、仕方ないと割り切る諦めが入り混じっていた。
「……ごめん。あの時は……」
青司が口を開きかけると、リオナは小さく首を振る。
「いいのよ。仕方がなかったんだから……ただ、もうこれは着られないってだけ」
そう言ってリオナは裂けた布を膝の上に置き、湖面を見つめた。水面は陽光を反射してきらめき、二人の間に静かな時間が流れる。洗濯したばかりの布が風に揺れ、汚れを落とした証のように清らかに乾いていった。




