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 翌朝

 目を覚ますと、窓から差し込む光がやけに眩しい。

 昨日の薬作りで夜更かししたせいか、少し体が重いけど、今日やることは決まっている――水を探すことだ。


 顔を洗う場所もないし、口をゆすぐ水も限られている。

 甕の中の水はまだあるけど、このままじゃ数日で空になる。

 「さて……行くか」

 腰に小袋を下げ、小さなナイフをベルトに差し、家の扉を開けた。



 外に出ると、澄んだ朝の空気が肺にしみ込む。

 森の匂いは土と草、それに朝露の冷たい湿気が混じっていて、吸い込むたびに体がしゃきっとする。


 不思議なのは、家の周りだ。

 おおよそ半径二十メートルほど、地面には薬草しか生えていない。

 しかも、昨日作業場で見たのと同じ種類ばかり。

 セージに似た銀葉、紫の小花を咲かせる鎮痛草、黄色い蕾の回復草……見渡す限り薬草だらけだ。


 「これ、偶然じゃないよな……」

 まるで家を中心に薬草の庭が広がっているみたいだ。



 その外側は、一気に茂みと大木が生い茂る森になる。

 幹回りが三人で抱えられそうな大樹が何本も立ち、枝には濃い緑の葉が朝日に透けている。

 地面は落ち葉でふかふかしていて、歩くたびに「しゃくっ、しゃくっ」と音がする。


 森の中を進むと、赤い小さな実をつけた低木があった。

 摘んでみると、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。どうやらベリー系らしい。

 さらに、苔むした切り株のそばでは、硬い殻をかぶったナッツがいくつも落ちていた。

 足元には白い花の咲く草や、茎を折るとレモンみたいな香りがするハーブも混ざっている。


 「食えるもん、多いな……これ、採集だけでも生きていけそう」

 思わず口元が緩む。



 ふいに、茂みの向こうでカサカサと音がした。

 そっと覗くと、小さな茶色い耳を立てた動物がいた。

 丸い体にふわふわの尻尾――たぶん、リスだ。

 こちらに気づくと、びくっとして、あっという間に木の上に駆け上がっていった。


 その後も、小鳥が枝から枝へ飛び移ったり、足元を灰色のウサギみたいな動物が横切ったりする。

 この森、思ったより生き物の気配が濃い。

 家の周りの静かな薬草地帯とは、まるで別世界だ。



 歩きながら耳を澄ますと、かすかな水音が混じってきた。

 草をかき分けると、小さな流れが現れた。

 幅は一メートルもないけど、水は澄み切っていて、底の砂利まで見える。

 手を伸ばしてすくうと、ひんやり冷たくて、指先が痺れるようだ。


 この小川をたどっていくと、水音はだんだん大きくなっていく。

 十五分ほど歩いた頃――木々の間から視界がぱっと開けた。



 そこには湖があった。

 朝日を受けて水面が銀色に輝き、岸辺では小川が静かに流れ込んでいる。

 湖の中央あたり、水底から気泡がぷくぷくと上がっているのが見える。

 ――湧水だ。


 「……これ、最高じゃん!」

 思わず声が出た。

 水は透き通り、岸近くには魚の影がゆらゆら泳いでいる。

 これなら飲み水にも困らないし、釣りだってできるかもしれない。


 湖のほとりに腰を下ろし、両手ですくって水を飲んだ。

 冷たくて、喉を通るときの感覚がやけに鮮烈だ。

 こんな美味い水、生まれて初めて飲んだかもしれない。



 森は静かで、風が木々を揺らす音と、湖の水面を撫でる波の音だけが響いている。

 ここが俺の新しい世界の一部なんだと、ようやく実感が湧いた。


 ここから水を運ぶ方法を考えないといけない。

 でも今は、この景色と水の味を覚えておこう。

 きっと、この先も何度も来る場所になるだろうから。



 湖の水で喉を潤し、景色をひとしきり目に焼き付けたあと、そろそろ帰るかと立ち上がった。

 朝よりも陽が高くなり、森の匂いは少し濃くなっている。帰り道も来たときと同じ小川沿い――そう思って歩き出したそのときだった。


 ――ザザッ。


 耳の奥をくすぐるような、小さな茂みの揺れる音。

 森では風や小動物で草木が揺れるのは珍しくない。けど、これは違う。重い。湿っている。

 直感的に、俺は足を止めた。



 音のする方を見ると、濃い緑の茂みの奥に黒い影が沈んでいる。

 近づくべきか迷ったが、胸の奥に奇妙なざわつきが走る。

 ゆっくりと踏み込むと、乾いた葉を踏む音がやけに大きく響いた。


 そして――見えた。


 草むらに、獣耳と尻尾を持った女が倒れていた。

 革の胸当ては真っ二つに裂け、腹部からは深い傷口がのぞいている。乾きかけた血が服と地面を黒く染め、甘い鉄の匂いが漂っていた。

 顔色は灰色に近く、唇はかすかに震えている。

 「……生きてる」



 膝をついて耳を澄ますと、かすかな呼吸が聞こえた。

腹の裂傷は深く広い。普通の包帯や消毒じゃ追いつかない。頭の中で、警戒音のように焦りが鳴り響く。

昨日作った回復薬のことが脳裏に浮かぶ。

……けれど、ここで使うよりも、家に連れ帰ってきちんと処置した方がいい――そう判断した。


「よし……運ぶぞ」


腕を彼女の背と膝裏に回すと、思ったよりも軽い。だが体温は驚くほど冷たい。

森の空気が急に重くのしかかるように感じた。

鳥のさえずりは途絶え、代わりに、遠くで低く唸る声がかすかに響いた気がする。


 つい先ほどまで「薬草や木の実が多くてのどかな森」だと思っていた場所が、急に牙をむいたみたいだった。

 足早に歩きながらも、視線は左右の茂みや木の間を何度も行き来する。

 木漏れ日が揺れるたび、何かが潜んでいるような錯覚に襲われた。

 獣人の彼女をこんな傷にした何かが、まだ近くにいるかもしれない――そう思うと背中に冷や汗が流れた。



 家の薬草地帯が見えたとき、心底ほっとした。

 薬草だけが生えるあの妙な円形の空間が、まるで結界みたいに見える。

 扉を蹴るように開け、彼女をベッドに横たえる。


 呼吸は浅いが、まだある。

 俺は急いで作業場に走り、回復薬と包帯を掴んだ。

 ここからは時間との勝負だ。


**************


 家に駆け戻った青司は、玄関を蹴り開けるようにして飛び込み、作業部屋の台に女を横たえた。血で濡れた衣服が床に滴り、鉄臭さが室内に広がっていく。

 「くそ……こんなの、どうしたら……!」


 だが足は自然に棚へ向かっていた。そこには昨日から試しに作っていた数本の魔法薬と、手に馴染む器具たちがある。助けるなら、ここでしかできない。



 服を裂いて傷口を露わにすると、青司は思わず息を呑んだ。腹部を大きく切り裂かれ、皮膚はめくれ、赤黒い肉が覗いている。

 見たこともない女性の裸が目に入るが、そんなことを考えている余裕はない。顔が熱くなるのを無理やり押し殺し、手を伸ばす。


 まずは止血だ。布を押し当てても血は止まらず、掌を赤に染めるばかりだった。

 「駄目だ……普通の処置じゃ追いつかない……!」


 青司は震える手で小瓶を掴む。中身は血止めと治癒促進の魔法薬。栓を歯で抜き、傷口へ垂らした。

 瞬間、薬液が光を放ちながら肉に染み込み、血管の破れ目が塞がり、筋肉がもりもりと盛り上がるように再生していく。

 「……すげぇ……!」

 驚きに息を呑みながらも、完全には治らないことに気づく。まだ皮膚が覆いきれていない。



 次は鎮痛剤。小瓶を開け、女の口元に持っていく。液体を垂らし込むと、喉がかすかに動いて嚥下した。苦しげだった表情が、ほんの少し緩む。

 「……効いてくれ……」


 さらに解熱剤を与え、熱を抑える。女の額に手を当てると、先ほどよりも火照りが和らいでいる。

 続けて抗菌薬を調合した小瓶を開き、ペースト状にして布へ塗り込み、傷口に被せる。血の臭いに吐き気が込み上げるが、歯を食いしばって押さえ込む。



 仕上げに再び回復薬を傷口へ注ぐ。

 薬液がしみ込むたびに、断ち切られた筋肉の繊維が再び繋がり、赤黒い断面が淡い光に包まれて真皮が形成されていく。

 じわじわと皮膚が盛り上がり、薄い膜のような新しい肌が覆っていく様子は、恐ろしくも神秘的だった。

 「……本当に治っていく……」


 呼吸が少しずつ落ち着いてきた。出血も止まり、胸の上下が規則正しさを取り戻していく。



 全身汗まみれでへたり込みながら、青司は血で濡れた自分の手を見つめた。

 「……助かった、よな……」

 安堵に膝が震える。


 作業台の上で眠る女の肌はまだ青ざめているが、生気が戻りつつあるのがわかる。裸身が視界に入り、改めて顔が熱くなる。だが今は、ただ命を繋げたことに胸を撫で下ろすばかりだった。

 「……大丈夫だ。絶対助けるから」

 誰にともなく呟き、青司はふらふらと背を壁に預けた。


**************


 手当が終わったあと、青司はただ呆然と立ち尽くしていた。

 作業場の床は赤黒く濡れ、散らばった薬瓶や布切れは無惨に汚れている。鉄臭い血の匂いと、薬草を煮詰めたようなえぐみのある匂いが、鼻の奥にまとわりついて離れなかった。


 「……やばいな、これ」


 料理も片付けもまともにやったことのない青司でも、さすがに放っておけない惨状だと理解できた。薬の調合で散らかったときは、次の実験に夢中になって結局そのままにしていたが、今回はそうはいかない。

 血の染み込んだ布や破片を放置すれば、臭いもするし、不衛生だ。何より――怪我人をこの環境のまま寝かせておくわけにはいかない。


 青司は慣れない手つきで、血でぐっしょり濡れた布切れや、使い終えた瓶を一か所にまとめ始めた。床板にこびりついた血を拭こうとするが、布を押し当てると逆に赤がにじんで広がるだけで、余計に惨めな跡になってしまう。

 「うわ……これ、どうしたらいいんだよ……」

 思わず呻いたが、それでも手を止めることはできなかった。拙いながらも、少しずつ赤い跡を薄めていく。



 ふと視線を横に向けると、毛皮の耳と尻尾を持つ獣人の女が横たわっている。呼吸は浅いが、確かに胸が上下している。

 しかし、その姿は――治療のために服を裂いてしまったせいで、ほとんど裸のままだった。

 「……うわ……えっと……」


 高校生の自分には強烈すぎる光景だった。頬が熱くなる。けれど今は、そんな感情をどうにか誤魔化すしかない。青司は慌てて寝室へ走り、そこに積まれていた寝具の山から厚めの毛布を一枚引き抜いた。


 作業場に戻り、彼女の体を覆う。

 「ごめん……こんなのしかないけど」

 布を胸から腰にかけて広げると、ようやく目のやり場に困らなくなり、ほっと息をついた。



 次に気になったのは、自分の格好だった。

 両腕や胸元に、黒ずんだ血がべったりとこびりついている。布地は乾き始めて硬くなり、触れるとざらりと嫌な感触が伝わった。

 「これも、どうにかしないと……」


 青司は寝室に戻り、棚から清潔そうな替えの服を取り出した。リネンのシャツと素朴なズボン。見慣れない形に手間取りつつ、血まみれの衣服を脱ぎ捨て、新しい布を身に通す。

 肌に触れる布がまだ柔らかく、ほんのりと木の香りが残っていて、心が落ち着いた。



 だが、自分だけ清潔になってベッドで眠る気にはなれなかった。

 見知らぬ異世界の森で、見知らぬ獣人の女が死にかけている。今ここで自分が油断したら――目を覚ましたときに取り返しがつかなくなるかもしれない。


 「……ここでいいや」


 青司は作業場の隅にある木椅子を引き寄せ、作業台の近くに腰を下ろした。時折、女の胸が上下するのを確認しては安堵し、また深く息をついた。


 しかし、疲労はもう限界だった。

 血の匂い、薬の匂い、そして緊張で張りつめていた神経が、一気にゆるんでいく。瞼が粘つくように重くなり、椅子に座ったまま体が前に傾く。


 「……っすぅ……」


 机に腕を投げ出し、そのまま浅い寝息を立て始める。

 毛布に包まれた女を見守るようにして――青司は作業場で、静かに眠りに落ちていった。


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