1
……鳥の声?
耳の奥で、聞いたことのない鳴き声が反響していた。
まぶたを開くと、視界いっぱいに広がるのは、空を覆い隠すほどの枝葉。校庭でも公園でも見たことのない、異様に背の高い木々だった。
冷たい風が頬を撫でる。
その感触がやけに生々しくて、嫌な予感が胸の奥でざわついた。
「……夢、じゃないよな」
起き上がろうとして、身体の異変に気づく。
制服はなく、代わりに生成りの長いチュニック。腰には革のベルト。足元は、見慣れない革靴。
どれも自分のサイズにぴったり合っているのが、かえって不気味だった。
周囲は森。
人工物は何もない――そう思った瞬間、木立の向こうに“それ”が見えた。
ぽつんと建つ、小さな木造の家。
「……は?」
誰が? なんのために?
疑問が浮かぶより早く、身体が勝手に歩き出していた。
⸻
扉は、鍵がかかっていなかった。
軋む音を立てて開いた瞬間、ひんやりとした空気と、微かに残る“生活の匂い”が鼻をつく。
中は、想像以上に整っている。
テーブル、椅子、暖炉、台所。どれも使い込まれた形跡があり、埃はほとんど積もっていない。
――誰か、最近までここに住んでた?
そう思ったとき、背中に寒気が走った。
棚の上の木皿が一枚だけ、伏せられたままになっている。
暖炉の前には、踏み固められた足跡のような跡。
作業机の端には、乾ききっていない薬草の束。
「……これ、用意された家……じゃないよな?」
胸の奥で、何かがひっかかった。
まるで、自分のために整えられた“舞台”じゃなく、
“誰かが途中で消えた生活の跡”みたいだった。
台所の奥、工房のような部屋に足を踏み入れたとき、決定的なものを見つける。
机の上に、開きっぱなしのノート。
紙は黄ばんでいるのに、最後のページだけ、やけに新しいインクの跡が残っていた。
――『次に来る人へ』
その一行を読んだ瞬間、喉がひくりと鳴った。
「……次、って……なに?」
ぞっとする感覚が、背骨を這い上がる。
ここは偶然辿り着いた“安全な家”なんかじゃない。
誰かがここで何かをしていて、
そして――途中でいなくなった。
なのに、自分はその“後釜”みたいに、何事もなくここに放り込まれた。
逃げたい、と思った。
でも、扉の外は見知らぬ森しかない。
戻る場所もない。
「……冗談だろ」
そう呟いた瞬間、頭の奥がズキンと痛んだ。
剣と魔法。物作り。薬草。魔法薬。生活に必要なスキル――
知らないはずの知識が、洪水のように流れ込んでくる。
理解できてしまう自分が、いちばん怖かった。
(……俺は、誰かの“代わり”なのか?)
答えは、どこにもない。
家の中には、確かに“人の生活の痕跡”だけが残っていた。
⸻
中は、思った以上に“人が暮らしていた家”だった。
玄関を抜けると、居間らしい広めの空間がある。
大きな木のテーブルに、椅子が四脚。配置が妙に整っていて、誰かが「ここで食事をしていた」光景が自然と想像できてしまう。
壁際には暖炉。中には、すでに使いかけの薪が数本、きちんと組まれたまま残っていた。
……最近まで、使われてたんじゃないか?
嫌な考えを振り払うように、視線をずらす。
居間とひと続きになった台所には、かまどと薪。
鉄鍋、木皿、包丁、まな板――どれも無造作に置かれているようで、手を伸ばせばすぐ使える位置に収まっている。
棚には穀物と塩。保存食らしき乾物も少し。
生活に必要なものは、一通りそろっている。
……そろいすぎていて、不自然なくらいだ。
「……俺、ぜんぜん料理できないんだよな」
ぽつりとこぼす。
インスタントラーメン程度しか作ったことがないレベルだ。
ここで自炊生活とか、詰んでないか? と本気で思う。
台所の奥には、工房のような一室が続いていた。
壁には乾燥させた薬草の束。
棚には瓶詰めの粉末や液体。
研ぎ澄まされたナイフ、乳鉢、金属製の蒸留器。
机の上には、羽ペンとノート。
ひと目でわかる。
――ここは、“薬”を作るための部屋だ。
恐る恐る道具を手に取った瞬間、ぞくりとした。
指が、迷いなく乳鉢を回す。
秤の目盛りが、自然と読める。
瓶の扱いも、まるで長年使い慣れてきたみたいだった。
「……は?」
自分の手なのに、知らない動きをする。
誰かの記憶が、身体に上書きされたみたいな感覚。
「……これなら……生きていける、のか?」
不安の底に、かすかな光が灯る。
同時に、その“都合の良さ”が、妙に気味悪かった。
居間の奥の扉を開けると、寝室らしい部屋が現れた。
藁の詰まった粗い寝具。
畳まれた厚手の毛布。
壁際には、きちんと揃えられた替えの服。
サイズは――自分に、ぴったりだった。
「……いや、用意良すぎだろ」
偶然にしては出来すぎている。
まるで、“最初から俺がここで暮らすことを知っていた”みたいじゃないか。
さらに奥に、もう一つ部屋があった。
中には、何もない。
家具も、道具もない、がらんとした空間。
ただ、床だけが妙に綺麗で、最近まで掃除されていたような跡が残っている。
物置か。
それとも――誰かの部屋だったのか。
「……何に使うんだよ、この部屋」
そう呟いても、答えは返ってこない。
空っぽの部屋が、じっとこちらを見返してくるだけだった。
理由はわからない。
でもこの家は、“偶然空いていた”んじゃない。
――誰かが、ここで暮らしていて。
そして、途中で消えた。
そんな感覚だけが、胸の奥に重く残った。
⸻
家の外に出ると、裏手の斜面に薬草が群生していた。
――いや、“野生”というには、整いすぎている。
種類ごとにまとまって生え、背丈の低いものは手前、高く伸びるものは奥。
踏み固められた獣道のような小径が、薬草の間を縫うように続いている。
まるで誰かが、採取しやすいように手入れしていたかのようだ。
葉の形を見て、香りを嗅いだ瞬間、効能が頭に流れ込む。
止血、解熱、回復促進。
教科書でしか植物を見たことのないはずなのに、身体のほうが先に“正解”を知っている。
「……ここ、出来すぎじゃないか」
独り言が、森に吸い込まれていく。
風に揺れる薬草の葉が、ざわりと音を立てた。
返事をされた気がして、思わず背筋が粟立つ。
現実的な問題も、すぐに頭をもたげた。
井戸がない。
台所と工房に水甕は二つあるが、どちらも半分ほどしか残っていない。
水源を見つけなければ、数日ももたないだろう。
それに、家の維持。
掃除も片付けも苦手な俺が、この整いすぎた家を保てるのか。
……いや、それ以前に。
この家を“整えていた誰か”は、今どこにいる?
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
なのに、不思議と、逃げ出したいとは思わなかった。
「……水を探して、薬草を集めて……腹は、なんとかなる、か」
言葉にしてみると、自分でも驚くほど冷静だった。
この状況を“受け入れている”自分がいる。
剣も、魔法も、まだ何ひとつわからない。
けれど、薬を作る手応えだけは、確かにあった。
この森で、この家を拠点に――生き延びることは、できるかもしれない。
深く息を吸い込む。
湿った土と、青い葉の匂いが肺の奥まで満ちていく。
「……やるしか、ないよな」
その瞬間、背後の森で、枝が折れる音がした。
振り返る。
けれど、そこにいたのは、揺れる木立だけだった。
――こうして、高校生・穂積青司の異世界生活は、
“誰かの痕跡の残る家”から、静かに始まった
**************
腹が鳴った。
思ったよりも大きな音で、自分の腹から鳴ったそれに、青司は一瞬ぎょっとした。
森の中で、こんな間抜けな音を立てるのは不用心すぎる。
見上げると、木々の隙間から差し込む光は、すでに昼の角度に変わっていた。
家の中をひと通り確かめ、裏手の薬草を眺めているうちに、いつの間にか時間が過ぎていたらしい。
「……腹は減るんだな。こっちの世界でも」
呟いてみると、声が妙に現実的に響いた。
異世界だの転生だのと頭では理解していても、身体のほうはきっちり“昼飯の時間”を覚えているらしい。
空腹を誤魔化す気にもなれず、青司は家に戻って台所へ向かった。
棚を開けると、布袋や素焼きの壺がいくつも並んでいる。
中には見たことのない乾物や粉末、乾いた木の実のようなもの。
その中で、ひときわ“主食っぽい”雰囲気を放っているものがあった。
米とも麦ともつかない、小さく丸い穀粒。
手のひらにすくうと、さらさらと音を立てて零れ落ちる。
「……これ、食えるよな。たぶん」
根拠はない。
ただ、さっき見た薬草と同じで――
“知っている”気がした。
考えようとすると、頭の奥がわずかに重くなる。
棚の奥を見ると、木製の匙と、使い込まれた鍋が並んでいた。
鍋の縁には、煤の跡。
――ここで、誰かが何度も火を使っていた痕跡。
「……俺の前に、ここで飯食ってたやつがいるんだよな」
独り言が、静かな台所に落ちる。
返事はない。
だが、鍋の黒ずみだけが、やけに雄弁だった。
異世界での最初の食事。
それが“誰かの残り香”の上に成り立っていることを、青司はまだ深く考えないことにした。
――考えたら、喉を通らなくなりそうだったから。
⸻
鉄鍋を引きずり出し、水甕から慎重に水を汲む。
かまどの前にしゃがみ込み、薪を組んで火打石を探した。
「……こう、だよな」
カチッ。
乾いた音とともに火花が散る。
もう一度。カチッ。
だが、薪は沈黙したままだ。
「くっ……」
何度も打ち鳴らすうちに、指がじんと痛み始める。
現実だったら、ここでコンビニに走ってライターを買っているところだ。
だが、ここにはそんな逃げ道はない。
――焦るな。
なぜか、胸の奥でそんな声にも似た感覚が広がった。
次の瞬間、手のひらがじんわりと熱を帯びた。
「……え?」
思わず薪に手をかざす。
炎は出ない。
光もない。
ただ、乾いた木肌の内側から、じわじわと熱が滲み出すような感触があった。
白い煙が、すっと立ちのぼる。
遅れて、ぱちり、と小さな音。
気づけば、薪の隙間に細い火が宿っていた。
「……なに、今の」
息を止めたまま、セイジは火を見つめた。
火を“出した”感覚はない。
手応えがあったのは、“温めた”という感触だけだった。
――燃える温度まで、押し上げた?
言葉にならない推測が、頭の奥に浮かんでは消える。
理屈を組み立てる余裕より先に、背筋に薄い寒気が走った。
「……俺、今……」
何かを“いじった”。
この世界の仕組みを、ほんの少し。
怖さと、妙な納得感が入り混じったまま、セイジは火の揺らぎを見つめる。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと高鳴っている。
「……使える、ってことだよな。これ」
誰に言うでもなく呟き、慌てて鍋を火にかける。
遊んでいる場合じゃない。
腹は正直で、今にもまた鳴き出しそうだった
⸻
「……スープなら、失敗しようがないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、セイジは袋の中身を鍋にぶちまけた。
穀物が、乾いた音を立てて水面に散る。量は適当。
――いや、適当というより、考えていない。
「味付けは塩……だよな。塩は、正義だ」
塩壺を傾ける。
ぱらぱら、というより、どさり、と落ちた。
木の棒でかき混ぜると、鍋の中で粒がぶつかり合い、鈍い音を立てて沈んでいく。
湯気が立ち上る。
匂いはする。だが、それは“料理の匂い”というより、
湿った穀物をただ温めているだけの、生気のない匂いだった。
「……まあ、食えりゃいいか」
完成したそれは、色の抜けた茶色の水に、白っぽい粒が浮かんでいるだけの代物だった。
とても“飯”と呼べる見た目じゃない。
「……いただきます」
匙を口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、思考が一拍、止まった。
「……っ」
ぬるりとした汁。
中途半端に硬い穀物が、歯に当たって不快な音を立てる。
味は、しょっぱいのか薄いのかも判別できない。
口の中で、何もかもがちぐはぐだった。
反射的に、吐き出しそうになる。
「……うわ……」
喉が拒否するのを、無理やり押し込む。
嚥下した瞬間、胃のあたりがきゅっと縮こまった。
――まずい。
素直に、まずい。
だが、腹の奥は空っぽで、さっきからずっと鳴っている。
ここで捨てれば、次の飯のあてはない。
「……贅沢、言ってられねぇよな」
独り言ち、息を止めるようにして、もう一口。
味を感じないように、噛まずに飲み下す。
水で流し込み、また一口。
“食事”というより、“作業”だった。
それでも、椀の底が見えたとき、ほんのわずかに安堵した。
腹の重みは、頼りないが確かにそこにあった。
「……生きるって、めんどくせぇな」
苦笑しながら、鍋の底に残った澱のような汁を見つめる。
異世界の一食目は、まったくもって、ロマンの欠片もなかった。
⸻
椅子に背中を預けた瞬間、身体の力が一気に抜けた。
思っていた以上に、空腹と緊張で削られていたらしい。
「……生きるって、ほんと手間だな」
ぽつりと零れた言葉は、誰に向けたものでもない。
脳裏に浮かぶのは、湯気の立つ母の味噌汁と、温めればすぐ食べられたコンビニの弁当。
あの“当たり前”が、どれほど恵まれていたかを、今さら思い知らされる。
それでも、胸の奥に沈んだのは後悔じゃなかった。
「……次は、もうちょいマシなもん、作れるだろ」
根拠はない。
けれど、なぜか言い切れる気がした。
空になった椀に視線を落とす。
鍋の底にこびりついた澱と、べたついた縁。
「……洗い物は、明日でいいか」
現実逃避のような言葉を口にして、セイジは小さく笑った。
完璧じゃない。
けれど、ここで生きていくつもりだけは、もう決まっていた。
**************
食後、しばらく椅子に沈み込んだまま動けなかった。
腹が満ちると、思考まで緩む。窓から差し込む午後の光が部屋の奥まで届き、木の床に森の緑を落としている。
視線を戻すと、食卓の上は惨憺たる有様だった。
半乾きの汁が椀の縁にこびりつき、鍋の底には穀物の澱が貼りついている。
さっきまでの“食事”の名残が、もうただの後始末に変わっていた。
「……片付け? うん、後でいいか」
誰に聞かせるでもなく言い訳を投げる。
叱る母もいない。急かす時計もない。
自由というより、だらしなさが許される環境だった。
それでも、視線は自然と工房のほうへ向かってしまう。
棚に整然と並ぶ薬草の瓶。乾燥された葉と根。
乳鉢、秤、蒸留器。――“作るための道具”ばかりが揃った部屋。
なぜだか、胸の奥がむず痒くなった。
さっき触れたとき、手は迷わず道具を扱えた。
知識じゃない。感覚だ。身体が「作れる」と知っている。
「……一回くらい、試してみるか」
洗い物よりも先に、興味が勝った。
生活は後回しでも、作る衝動だけは、どうしても無視できなかった。
⸻
机の前に立った瞬間、息を呑んだ。
乾いた葉。黒ずんだ根。色を失いかけた花弁。
ただの植物の残骸のはずなのに、どれもが“材料”としてこちらを見ている気がした。
指先でひとつつまむ。
その瞬間、頭の奥に熱が走る。
――止血。
――炎症の鎮静。
――軽度の回復。
言葉にする前に、もうわかっていた。
知識じゃない。考えた覚えもない。
ただ“そうだ”と理解している。
「……なんだこれ」
戸惑いより先に、興奮が来た。
選び、砕き、混ぜる――動作が勝手に流れ出す。
乳鉢に葉と根を放り込み、乳棒を当てる。
ごり、と鈍い音。
潰れるたびに青臭い匂いが立ち上り、鼻腔の奥を刺した。
「……理科の実験、こんな匂いだったっけ」
苦笑しながらも、手は止まらない。
違う。あの頃は“答えを知らない実験”だった。
今は、完成の輪郭がぼんやりと見えている。
⸻
鍋に水を張り、かまどの前に膝をつく。
薪に手をかざした瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
意識を向けた“つもり”になっただけだった。
それでも――
ぱち、と乾いた音。
木の内側から赤が滲み、やがて自然に火が走る。
「……マジかよ」
喉が鳴った。
昨日まで火打石すら満足に扱えなかった自分が、
いまは“燃やす”という結果だけを引き寄せている。
指先に小さな火を灯しては消す。
面白くて、少しだけ怖い。
「……便利すぎだろ。これ」
調子に乗りかけたところで、薪が一気に燃え上がり、慌てて距離を取った。
胸の奥が、ぞくりとした。
⸻
鍋が温まったのを見計らい、すり潰した薬草を落とす。
水面に緑が滲み、ゆっくりと広がる。
匙で混ぜながら、青司は息を整えた。
「……ここから、だよな」
胸の奥にある“熱”を、掌へ流すイメージ。
絞り出すように意識を集中した瞬間、体の芯がきゅっと縮む。
液体が、反応した。
ぷつ、と小さく泡が弾け、色が一段深く沈む。
匂いも変わった。青臭さの奥に、わずかな甘さが混じる。
「……変わった」
確信があった。
ただ煮ただけの水じゃない。
そこに、自分の“力”が混ざっている。
背筋を、ひやりとした快感が走る。
怖いほど、心地よかった。
⸻
小瓶の中で揺れる緑の液体を見つめながら、青司は息を吐いた。
「……できた」
確かに、作れた。
この世界で“通用するもの”を、自分の手で。
その瞬間だった。
――家の外で、枝を踏み折る音がした。
びくりと肩が跳ねる。
窓の外。
森の奥、木々の隙間に、何かの影が動いた。
人影か。
獣か。
それとも――
青司は、無意識に小瓶を握り締めていた。
この家は、安全地帯じゃない。
ここは、森の中だ。
――“誰かの痕跡”が残る場所で、
自分の異世界生活は、もう始まってしまっている。




