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出発したのは夜10時を回ってからだった。少し用心しすぎる気もしたが、相手が相手だ。ハーピアが俺を殺さなかったことはすでに知られているだろうし、フェリシティはナイトクラウド家が動いている可能性が高いと俺に警告していた。それを踏まると当然の備えだろう。
夜のジョージ・ワシントン・ブリッジは物静かだった。照明で辺りの様子はわかるが、遠くに広がる暗闇と独特なコントラストを織りなしていた。灯りがある場所は鮮明なのに、奥は見えない。当たり前の光景だけど、世界が得体のしれない力で区分けされているような気がした。
道すがら俺は思い出した記憶と友人達の証言をフェリシティに話した。フェリシティは簡単な相槌を打ちながら全部を聞き届けた。特に感想は言わなかった。
俺の中に出てきた仮説は口にしなかった。確証があるわけではない。それにまだ抵抗感があった。口にしてしまうと仮説が事実になってしまうような気がした。事実と認めるには、まだショックが尾を引いていた。
だけど、恐らくフェリシティは俺の話で同じ仮説を立てているだろう。俺なんかが悟ったんだ、フェリシティからしたらもっと簡単に答えに辿り着くはずだ。
「あなたに確認しておきたいことがあるのだけど」
不意に、運転席のフェリシティが口を開いた。目はまっすぐ前を見ている。
「記憶が完全に戻った時、あなたがそれまでの自分に戻れると思っている?」
俺は答えに迷った。迷っている間に、フェリシティはさらに続ける。
「記憶はその人自身だけじゃない、その人が生きる環境や周囲との関係にも影響するものよ。ほんの少し前でも、記憶が変わっただけで何もかも塗り替わることがある。これには抵抗できないわ。塗り変わりは唐突に、そして強制的に行われる。気づいた時には手遅れになるかもしれない。既に変わっているかもしれない」
フェリシティが横目で俺を見た。
「もし以前の自分の感情や捉え方が気に入らなかったら受け入れるのもいいわ。でもそうではなかったら。記憶がなかった時の感情や捉え方に未練があるのなら…あなたはどうするの?」
「…俺は、俺ですよ」
「それで片付く程度のイージーモードだったらいいわね。でも現実はいつだってハードモードよ。ポーズもリセットもできない。あなたがいくら嫌でも状況は着実に進展して、あなたは嫌でも巻き込まれる。そして変えたくないものも変わる。大事なのはあなたが結論に納得できるかどうか、そして眼前の現実をどう捉え直せるかよ」
俺は記憶を失ったことで色んなことが変わった。そして記憶が戻ることでまた色んなことが変わろうとしている。
記憶を失った後の状況を俺は1ヶ月近くかけてようやく受け入れていた。その過程でうれしいことも、喜ばしいことも、楽しいもあった。それは忘れていた記憶をあの時信じていた内容で信じていたからだ。それから進んだ関係もあったし、感じたこともあった。
だけど記憶を思い出すことで、過去の自分の間違いと誤解を俺は知ることになる。新しい、揺るがしようのない真実を受け入れざるを得なくなる。
「正直…まだわかりません」
現地の友人達と電話した後の自己問答で結論は出ていなかった。ただ自分に問いかけることしかできなかった。
「でも…もう事態は変わらない。引き返すことも、やり直すことも、止まることもできない。だったら…やるだけです」
「目隠しして走っているようなものだわ。周りがどうなっているかもわからず、何が起こっているかも理解できていない。思考停止もいいところね」
否定できない。俺は何も返せなかった。
フェリシティは俺が沈黙したのを見て、呆れたようにため息をついた。
「向こう見ずなわりに一度悩むととことんドツボにハマるのがあなたの悪い癖よ。それだけ律儀で真剣だってことだし、年相応といえば年相応なんだろうけど…。私とバディを組むには少しばかり不足だわ」
「…すいません」
「まぁ、年長者が追い詰めてばかりいるのもダメか…」
「え?」
「老婆心ってものよ」
フェリシティがタバコを口にくわえた。車に内蔵されたシガーライターで火を点ける。
「結論が出てから行動するのはやめなさい。時間がかかるし、余計な迷いも出てくる。いちいち物事と真正面から向き合う必要なんてないのよ。あえて見ないように、考えないようにすることも時には必要よ」
「でもそれは…」
目隠しをして走るのと一緒だ。それこそ、フェリシティが言ったことだ。
「心構えが違うわ。あえて見ない、考えないのは目を背けることとは違う。答えの出ない、煮詰まった脳みそじゃ考えても意味がないわ。時間も労力もムダに使うだけだし、そもそも冷静さを失っている状態で出した結論は信じるに足らないわ。それこそ、その場しのぎのありあわせの答えかもしれない。そんな状態にこだわっているくらいなら、一度止めてしまえばいい。結論を出すべき時はまた自ずとやってくる。その時までにエビデンスを集めて、その時に冷静な頭で考えればいい。今この瞬間しか答えが出ないわけじゃないんだから」
「でも、それって…」
体のいい先送りじゃないか、といいそうになったが、それより先にフェリシティが口を開いた。
「先送りとか開き直りとか、野暮な台詞を使ったらいけないわ。もう少しセンスをこらしなさいな」
「例えば?」
「未来の自分を信じる―――とか?」
未来の自分を信じる。
物は言いようだ。でも、しっくりくるものがあった。
フェリシティの言う通り、煮詰まって、収拾がつかない頭で無理矢理結論を出そうとしても時間がかかるし、答え自体が出ないかもしれない。
だったら一度考えを止めておく。そしてそれから起こることを見て、聴いて、感じて、ちゃんと記憶にとどめて、然るべき時に結論を出せるようにしておけばいい。
しっかり見て、聴いて、感じて、ちゃんと記憶にとどめていられたのなら、自ずと結論は出せるようになっている。その状態で出せる結論なら、意味がある。
今までの俺もそうだった。自分一人で結論を出せず、煮詰まっていても他の人の言葉や行動をきっかけに、俺は前に進むことができた。
その時の自分はダメでも、その先の自分は違うかもしれない。いや、きっと違っている。
答えを出せる自分が今はいなくても、ほんの少し先の自分は出せるようになっている。
その考え自体に根拠はなくて、思い込みで、ただの先送りで開き直りかもしれない。
だけど未来の自分を信じないと、それこそやっていけない。
「ありがとう、フェリシティさん」
フェリシティは何も返さなかったけど、頷いてくれたと感じた。
俺もまっすぐ前を見すえた。ジョージ・ワシントン・ブリッジはすでに過ぎて、クイーンズの夜の街に入ろうとしている。俺は何もかもを見逃さないように、見ていた。
「あぁ、一応なんだけど」
アパートがあった更地に到着した時、車から出ようとする俺を呼び止めて、フェリシティはまた例のサプリケースを取り出した。
「深夜だからね。眠気に襲われたらいけないわ」
「そんなの大丈夫ですよ」
「念の為よ。何事も万全を期して損はないでしょう?」




