第四話 宛名が違う
封を切る前から、中身は分かっていた。
〈灰鉄〉商会の封蝋は、三年前から角が一つ欠けている。潰れたまま直していない。届いた封筒を見れば、それだけで差出人が分かる。
中は一枚だった。
——三の月十日、貴支部宛の支払、銀貨百四十枚。期日を過ぎて入金なし。発注書の署名は貴殿。よって貴殿へ請求する。十日以内に返答なき場合、〈銀羽〉との取引を停止する。
俺は紙を机に置いた。
置いてから、しばらく動かなかった。
三の月の十日。支部長室で、俺が指を折って数えた最初の日付だ。
◆
「ヨナさん」
セリが戸口に立っていた。台帳を抱えている。数えるのを手伝うと言った日から、彼女は毎朝ここへ来る。
「読んでもいいですか」
俺は紙を裏返さなかった。
彼女は読んだ。二度読んだ。それから顔を上げた。
「ヨナさん、もう王都の人じゃないですよね」
「違います」
「じゃあ、関係ないじゃないですか」
「関係ありません」
「じゃあ捨てれば」
「捨てると、ここが止まります」
セリが黙った。
「〈灰鉄〉が取引を止めるのは、王都支部とではありません。〈銀羽〉とです」俺は言った。「契約は組合の名前で結んであります。王都が払わないと、辺境の出張所も同じ扱いになる。ここには薬も、矢も、塩も入らなくなります」
「塩」
「三樽しかないと、あなたが数えました」
彼女は台帳を開いた。開いて、閉じた。
「あの、じゃあ、角は」
いい質問だった。
「王都に売る予定でした」俺は言った。「〈銀羽〉の名前で買い取ってもらうつもりでした。組合の信用が落ちると、買い叩かれます。半値になることもあります」
「証が」
「そうです」
証は、王都が裏付けているわけではない。角と皮が裏付けている。だが角を売る先は王都だった。
その先が、今、詰まりかけている。
◆
返事は、その日の夜に書いた。
「払います」とは書かなかった。
俺に支払義務はない。〈銀羽〉の内規では、発注の権限は支部長にある。俺は署名しただけだ。十二年、支部長が三人代わって、そのあいだずっと俺が署名していた。誰も気にしなかった。書類が回ればよかったからだ。
だから商会は、俺の名前しか知らない。
そう書いた。
それから、続きを書いた。
——貴商会への支払原資は、王都支部の運転勘定にはありません。三の月分の消耗品代は、前年度の素材買取益から繰り入れる取り決めで、繰入は毎年二の月末に行います。今年の繰入は、私の在職中に完了しています。したがって金は、支部の第二勘定にあります。第二勘定は、帳簿では〈二〉と略記されています。
書きながら、手が止まった。
〈二〉。
三十二枚の引継ぎ書に、注釈は四十七個つけた。〈灰〉と〈消/三〉は書いた。〈二〉は、書いただろうか。
思い出せなかった。
思い出せないということは、書いていない可能性が高い。書いたなら覚えている。
「じゃあ、いま書けばいいじゃないですか」
セリが言った。まだ帰っていなかった。
「王都の引継ぎ書には足せません。もう俺の手元にありません」
「ここに書けば」
「ここに書いても、王都では読めません」
「でも」彼女は言った。「ヨナさんが覚えてるうちに書かないと、誰も読めなくなりますよ」
俺は筆を置いた。
置いてから、白紙を一枚取った。
◆
三時間かけて、俺は自分の略記を書き出した。
〈灰〉は〈灰鉄〉商会。〈消〉は消耗品。〈二〉は第二勘定。円の中に点は、原資が別の勘定から来ている印。三角は、期日が月をまたぐ印。線を二本引くのは、支部長の承認がまだ要る印。
四十一個まで出た。
そこで止まった。
四十七個つけたはずだった。残りの六個が出てこない。
紙の端に、書けない記号を六つ書いた。形は覚えている。意味だけが出てこない。
「六個、思い出せません」
「三日で書いたんですよね」
「三日で書きました」
「それを、いま思い出せというほうが無理です」
セリはそう言ったが、無理ではなかったはずだ、と俺は思った。
俺が使っていた記号だ。俺が作った。誰にも見せないつもりで、十二年かけて短くしていった。
短くするたびに、俺以外の誰も読めなくなった。最後には、俺自身も三月で読めなくなるところまで来ていた。
それを、この三年、便利だと思っていた。
◆
つまり、王都支部には金があるのに、誰もそれがどこにあるか読めない。
俺は、そこも書いた。
——請求先は支部長カルロ・ヴェイン。第二勘定の所在は本書に記載のとおり。当該勘定の残高は、三の月十日時点で銀貨二百十枚前後と見込まれます。貴商会への支払に不足はありません。
最後に一行足した。
——なお、四の月十四日に次期消耗品の発注締日があります。これも支部長宛です。
封をした。
自分の仕事ではない。
書き終えてから、そう思った。書く前には思わなかった。
◆
手紙は隣村までの行商に託した。銅貨三枚。俺の準備金からではなく、村長のハウルが出した。
「出張所の金には手をつけるな」
そう言われた。
「証を出した以上、あの四十枚は村の金だ。あんたの金じゃない」
俺は礼を言った。
言ってから、村長が正しいことに気づいた。俺は、あの四十枚を自分の金だと思って机に置いた。置いた時点で、あれは村の金になっていた。
◆
六日後、宿のトビが出張所に来た。
朝だった。まだ暗い。
「ヨナさん」
「はい」
「王都のギルドが払いを止めたって、隣村の行商が言っとった」
俺は顔を上げた。
「どこまで」
「冒険者の遺族に金が出とらんそうだ。死んだ男の家に、誰も来んと」
クレイグだ。
北の第三区。俺の机の左の抽斗。
「それから」トビは言った。「掲示板が空だそうだ。依頼が一枚も貼っとらんと」
俺は立ち上がった。
立ち上がってから、行く場所がないことに気づいた。ここは王都から馬車で六日だ。
「トビさん」
「ああ」
「何をしに来たんですか」
トビは、上着の内側から紙を出した。
〈銀羽〉の刻印が押してある。真ん中に、一と書いてある。
「これ、まだ銅貨に換えられるのか」
外がすこし明るくなった。
戸の向こうに、人の影が見えた。一人ではなかった。




