第72話 人は忘却する生物
未来が博希のためにと行った邪を払う呪い。
ホラーに対抗して最も効力が高いとされるもの、それはエロだ。
シャツの隙間からブラジャーが顔を覗かせていた。派手な真紅のレースブラジャー。見せブラというものなのだろう。博希が驚愕したのは、そのブラジャーが見えたことでも、柔肌が見えたことでもない。彼女が着ていたホワイトシャツの方だった。
ネクタイで隠されていて見えなかったが、本来あるはずのボタンがなかった。ボタンが箇所が見事に抉り取られていたのだ。胸元というか胸部が見えるように、楕円状に切り取られているといった方が正しいかもしれない。端が綺麗に縫われていることから、こういうデザインであることは一目瞭然。
二年前に発表したチラリズムの進化系。
今回も広告塔を兼ねていたのかもしれないけど、あのチラリは少しばかり刺激が強すぎる。また良からぬ者が生まれる可能性も視野にいれなければならない。が、こんなことだから辰爾に過保護だと言われてしまうのだ。ここは彼女の親衛隊に任せるとしよう。彼女たちになら、たとえ誕生したとしても即時、鎮圧してくれる。
あの時は割かし平常心を装ったけど、内心はバクバクだった。久しぶりにアルコールを摂取したこともあってか、感情の起伏が激しくなっているようだ。でもまあそのおかげで、何一つ恐怖を抱くこともなく難なく裏通りを抜けることができた。
(ほんと未来様様ですわ……)
表通りに出たらもう勝ち確。あとは歩き慣れた道を進むだけでいい。目を閉じても意識せずとも、自然と自宅へと足が連れて行ってくれる。
西へと進むにつれて太陽が沈むようにあたりは暗くなっていく。先の裏通りとは真逆だ。日中を思わせる多量の人工光で街中を照らす不夜城な東側と異なり、西側は時間になったら眠る静夜だ。
「やっぱこっちが俺にはあってるな。なんつうか馴染むわ……うん馴染む……」
博希は変わり映えしない街並みを眺めながらぽつりと呟く。
見慣れた風景のはずなのに、なぜか無性に心が締め付けられる。
故郷であるはずなのに、望郷の思いに駆られている。
その理由はすぐに分かった。このいま自分が歩いている場所が、あの路地裏へと続く街路だったからだ。あの日コーヒーが飲みたいと思わなければ、目に留まることもなかった。博希にとって旧道ともいえる場所。
無意識に博希は腕時計に目を向けていた。時針は二時を指し示していた。あの時よりも一時間ほど早いが、肌を撫でた夜風はよく似ている。が、もちろん違う箇所も多い。特に違うのは、あの日は満月だったけど今夜は新月だ。
「ああだから、余計に辛いのか……」
寄り添うように夜空を浮かんでいた月が今夜は影一つ見えない状態だ。無意識に、その月を彼女に見立てていたのかもしれない。あの銀色に輝く月と彼女の銀髪を重ねていたのだろう。
普段から考えないように、想いを馳せないようにしていた。だからずっと胸の内に沈めて自覚しないように心がけていた。みんなも思い出させないようにと気を使ってくれていたのも知っている。だからこっちも気にしていないように振舞っていた。だけど、いずれ破綻するのは目に見えていた。心に沿わない行動をしているのだから当たり前だ。
二か月にも満たないわずかな期間だったのに、これほど自分の中心に深く根ずくとは思いもしなかった。この心にぽっかりと空いた穴は彼女じゃないと埋まりそうにない。
人は忘却する生物だというけど、時が経てば経つほど、会いたいという気持ちが強くなる。
「……弱いな、俺は……二年程度しかもたないとは、本当に情けないほど弱い……」
その場で座り込み夜空を見上げる。周辺には街灯が点在してるのみで、他の明かりはゼロに近い。その上月もないため、星々がより鮮やかに輝いて見える。
しばらくの間、何をするわけでもなくただただ星屑を視界に収める。花見、月見ならぬ星見である。食べ物も飲み物も手持ちにないので、本当にただ星を眺めるだけ。たったそれだけの行為なのに平穏が戻ってくる。幾分か、心が晴れたような気がした。
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