第73話 おかえり、ただいま
「……せっかくだしコーヒーでも買って帰るかな。あの時は、結局買えなかったしな」
手をついて立ち上がるとコーヒーを求めて寄り道ルートに足を踏み入れる。
一歩進むたびに、まるで昨日のようにあの光景がまぶたに広がる。途中で財布から五十円を取り出して準備も万端。期待に胸を膨らませて突き進む。右へ左と角を曲がり直進、少し進んではまた曲がり、自販機が設置されている路地裏を目指す。
そして――最後の角を曲がる。
博希の手から五十円が滑り落ち、静寂にチャリンと金属音が響き渡る。
「……マジか」
自販機は確かにそこにあった。ただ博希が思い描いていたものではなかった。薄汚れてチカチカと点滅する、あの自販機は撤去されていた。
一時、絶望した博希だったが売っている商品を見て目に光が宿る。自販機は取り替えられていたが、商品は変わっていなかった。それどころかまさかの値段も据え置きという意味の分からない仕様までも維持していた。
「……ははは、マジかマジかマジか!?」
落とした五十円を早急に拾い、焦る気持ちを抑えつつ投入口に入れる。
「はしゃいで変なの。それそんなに飲みたかったの?」
「そりゃそうだろ。前は横やりが入って買えなかったからな!」
「へぇ~そんな風に思ってたんだ。てっきり、《《鬼ごっこ》》のことでも考えているんだと思ってた」
「なんで鬼ごっこ……?」
「鬼ごっこ好きじゃないの?」
「いい年したおっさんが鬼ごっこが好きとか正気か……って、え?」
テンション爆上がりで普通に会話をしていたけど、俺はいったい誰と話してんだ。だけどこの声、この足音を消して忍び寄るくせ。間違えるはずがない。なんでここにいる、これもまた幻聴、幻覚か。きっとそうだ、そうに違いない。彼女が、ここにいるわけがない。
背後から聞こえる声を無視して“ほっとボタン”を押す。屈んで戦利品を回収し軽く振ってからプルタブを起こして口をつける。
(……いざ参る)
缶を傾けると特有の目覚めるような砂糖の甘さと牛乳の風味、ほのかなコーヒーの香りが口内に広がる。食後に飲むコーヒーというよりも、銭湯で腰に手を当てて一気に流し込むコーヒー牛乳を彷彿とさせる。このあと絶対に喉が渇くのは確実だが、それがいい。甘ったるいコーヒーはそうじゃないと意味がない。
「随分と、美味しそうに飲むのね……?」
「…………」
「あーそう、無視するのね、この私を。いい度胸じゃないの、博希ぃ!」
背中に衝撃が伝わる。縄がまとわりつくように、純白の袖が背後から伸びて抱き着いてくる。袖先からは白い指先が顔を覗かせている。暖かさも感じるし、実際に触れられているような感覚まである。
いつの間にか雪まで降っている。しかも、あの時みたいなサラサラとした粉雪だ。それも相まってか、余計に彼女が帰ってきたんだという誤認してしまう。
「俺はどこまで病んでるんだ? 真白がいるわけないのに……」
「だ~か~ら~、ここにいるっつうの!」
ミシミシと骨が軋む音が聞こえると同時に、激しい痛みが襲いかかってくる。
(幻痛までもが……だいぶ重症だな……)
しかしその痛みは治まるどころか加速度的に増していく。現実だと受け止めろとばかりに、白縄に絞めつけられている肋骨が、痛烈な叫び声をあげている。
「痛たたたた、ギブギブギブ!! 嘘じゃないのか? 本当にそこにいるのか!?」
「まだ信じていないってこと? しかたない、もっと強く締めあげる……!」
「冗談、冗談ですって……で、交渉は無事に済んだか?」
「完璧。無期限の休暇を取得してきた」
「マジかよ!?」
「当たり前でしょ、私を誰だと思ってんの。最強の暗殺者で、あなたの奥さん。それがこの私、倉持真白」
胸を張って誇らしげにしているのが容易に想像できる。二年の空白が一気に埋まっていく。本当に真白が帰ってきたのだと、いまになってようやく実感した。だからこそ、言わないといけない言葉がある。
「おかえり、真白」
「ただいま、博希」
また飽きることのない騒がしいけど楽しい日々が始まる。
そのことを思うだけで自然と口角があがり心が躍ってくる。
「……クンクン……ねぇ博希? 一個だけ聞いてもいい?」
「おぅなんだ?」
「さっきまで誰と一緒だったの? 香水といいお酒の匂いといい、色々と聞かせてほしいなぁ……」
本当に毎日を飽きずに送れそうだ。
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