第66話 それから
出社すると早々に伊咲が「おはようございます、倉持先輩。今日もいい天気ですね」と定型文のような朝の挨拶をしてきた。その挨拶に続けとばかりに、こっちが挨拶するよりも早く同僚も声をかけてきた。
伊咲との関係性はほとんど変わっていない。強いていうなら、頼れる同僚から頼れる上司になったことだろうか。卓越した技量とその手腕で、瞬く間に前上司を他所へと飛ばし、その席を奪い取った。実力だけでのし上がった伊咲璃奈部長。その下剋上っぷりから社員が選ぶ上司ランキングで一位に輝いている。
部長と平社員という立場にはなったけど、伊咲は以前として先輩後輩の立場を維持していた。そのため社内において博希は影の実力者、真に部署を管理しているのは伊咲ではなく、彼だと噂されることとなった。それぐらい仲がいいと冗談まじりで言っているだけなのだが、当の本人としてはたまったもんじゃない。
また伊咲の部下になりたいと異動願いを出す社員が大量続出している。その九割強が男性社員ときたもんだ。だがそれらの異動願いが通ったことは一度もない。伊咲に害するようなことは上層部が許さない。それほどまでに会社にとって伊咲は無くてはならない存在となっていた。
男顔負けな仕事っぷりに、目を奪うような美貌さらに成長した凶器。二年前ですら圧倒的だったというのに、いまはどうやって仕舞い込んでいるのか、疑問を抱いてしまうほどだ。
そんな女性とお近づきになりたいというのも分からなくもないが、考えがあまりにも浅はか。本人がまず恋愛よりも仕事を優先しているし、彼らに幸運が訪れるのはもうしばらく後になりそうだ。
「おはようございます、伊咲部長」
「……その他人行儀な挨拶やめてもらっていいですか?」
「はあ……いや無理だろ。おまえは上司で俺は部下なの。いい加減諦めて受け入れろよ」
「先輩こそ、諦めて受け入れてください。あれなら命令しましょうか?」
「またこの展開か……」
「はい、またこの展開です」
「おはよう伊咲」
「はい先輩!」
博希が自席に座ると、隣接した真横の席に伊咲は腰を下ろす。
そうなのだ、部長に昇進したのに伊咲は席を変えていない。部下を見渡せるように席を移すのが普通なのに、二年前と同じ席で仕事をしている。前上司が使用していた仰々しいデスクは手つかずで放置されている。
ただ無駄にしているというわけではない。前の席にもちゃんと役目があるのだ。無駄にだだっ広い板面を利用したお菓子置き場。駄菓子からチョコやラムネ、ご当地物と、みんなでお金を出し合って作った憩いの場だ。疲労した脳に糖分補給、どうせなら大がかりなものにしようということで、興がのった結果、縁日のような感じになってしまった。
仕事中に遊ぶなと思われそうだが、このリフレッシュ空間があることで、仕事効率は二割増しとなった。このアイデアは他の部署でも取り入れられるようになり、今では部署間で物々交換が行われるほど、大反響を呼んでいる。
休憩ついでに伊咲の仕事の様子を見てみると即座に反応し「なんですか、先輩」と彼女は微笑み声をかけてくる。ピアノでも弾いてるってぐらいに、凄まじい速度でブラインドタッチを行い、一字一句間違えることなく、先方宛のメールまでも打ち込んでいる。
そこからはこっちが目を逸らさない限り、ずっと視線が交わり続ける。本文が終わるとその勢いのまま送信まで済ましてしまうありさまだ。冗談抜きで第三の目が隠されているんじゃないかと思う。
午前の終わりを告げるチャイムが鳴る。
同僚たちが昼食をとりに会社を出て行くなかで、伊咲は自前の弁当を取り出すとイスに座ったまま博希のデスクへと進軍を開始する。肩が擦れ合うほどミッチミチな狭い空間で、二人っきりで弁当を食べる。
この異様な昼食は瑞希が弁当を作ってくれるようになった日から、一日も絶えることなく続いている。そして問答無用でおかずを取り替えてくる。瑞希の料理を口にしては不敵に笑い、自分が作った料理を食べるように勧めてくる。この二年間で儀式、様式美となってしまった。
昼休みも終わり仕事を再開する。その際、名残惜しそうにイスを引きずり戻る伊咲の姿があった。これもまた普段どおり、いつもの流れだ。
その後、特に何事もなく定時を迎えた。
打刻を済ませてパソコンの電源を落とす。
コートを羽織り鞄を拾い上げて退社準備は完了。
隣のお偉いさんはというと、予鈴が鳴るとソワソワし始めて本鈴が鳴った刹那、部下に即帰宅するように指示するとパソコンの電源を落とし更衣室へと直行する。その迷いなき後姿を博希はここ半年眺めている。
上司が率先して退社することで、部下もまた気兼ねなく退社することができる。と、同僚以外の社員はそう思っている。彼らは知っている、彼女がただ博希と一緒に帰りたいだけなのを。
一緒に会社を出ないと伊咲は駄々をこねる。
ブルンブルンと縦横無尽に揺れ動かして拗ねる。
ある人物から悪い影響を受けているのは火を見るよりも明らか。時と場所を選んで使用してくるあたり、もしかしたら悪友よりもタチが悪いかもしれない。
そのことを身をもって体験している博希は、彼女が着替え終わるのを大人しく待つしかなかった。
瑞希の時も思ったけど、伊咲にも先輩離れの練習させないとだな。
そうこうしていると伊咲が「先輩お待たせしました」と息を切らして戻ってきた。
首元や顔が少しばかり赤らんでいる。呼吸も忘れて急いで着替えたのが秒で分かった。
「お疲れさん。つうか、何度も言ってんだろ。そんなに焦って着替えなくてもいいって……」
「そ、そういうわけ、にはいきません。せ、先輩を待たせるなんて後輩として、あってはならないことです……はぁはぁ……」
「そうか……なら、昔みたいに出勤もスーツにするってのはどうだ? それなら着替える手間も減るし、伊咲も焦らなくて済むし」
「それは絶対にしません。仕事以外でスーツは着ません。特に先輩の前では、絶対にスーツなんかで出歩いてやるもんか!」
「ああそうなの? 俺は結構あのスーツ姿好きだったんだけどな、キリっとして出来る女って感じがしてさ」
「…………その提案、検討だけはしてみます。ええ検討だけ、検討だけですからね。さっ先輩、帰りましょう」
なぜか上機嫌になった伊咲に手を引かれて会社をあとにした。
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