第52話 気まぐれな後輩
「こういう体験は初めてでしたけど、豊満な方の抱擁というのは心地よいものですね。なるほど、非常に勉強になりました。未来さんありがとうございました」
髪を整えながら伊咲はなぜか未来に感謝の言葉を述べている。
「……あっはい、どういたしまして?」
きょとんとした顔をしながら未来は返答すると小走りで近寄ってきた。耳に噛みつく勢いで接近してきたかと思えば、左手で壁を作りヒソヒソと話し出した。
「うちが言うのもあれやけど、この子変わっとるな」
「昔はこうじゃなかったんだけど、ここ最近ちょいちょい様子がおかしい時があってな。まあ今回のはまた違う感じだけども……」
「ふむふむなるほど、んでやな。それ、一か月前とかから始まってたりせぇへん?」
「ああ確かに言われてみれば、そうかもしれん」
「なるほどなるほど、思わぬところに伏兵がいたもんやな。しかもあれはうちのより凶器や……」
未来の推察どおり思い当たるのは長期休暇をとったあたり、伊咲が家に見舞いに来てくれたときだ。あの日を境に、色んな表情を見せるようになった。それだけ心を開いてくれたのかと思っていたが、未来の言い回し方からして他にも何かありそうな気がする。
「なんの話だ……?」
「博希は気にせんでええよ」
未来はその言葉を最後に耳打ちをやめると伊咲に向かって微笑んだ。
「じゃまたな~。博希、璃奈ちゃん♪」
なにやら満足したらしく踵を返して、その場を後にしようとする。
「またなーじゃねぇっての。肝心の用件は何だったんだよ?」
「ああそれな? もうええわ。知りたいことは知れたしな」
「……はあ? どういう意味だ?」
「博希には関係ない話やってこと。これは……うちも……うかうかしてられんわ……」
あの陽気な未来とは思えないほど、暗いトーンでポツリと呟き、夜の街へと消えていった。その背中を見送ったのち、ふと伊咲に視線を移す。
そこには、敬意とも失意とも違う、今まで見たことのない表情をした彼女がいた。口元はわずかに緩み微笑しているが、人形のように生気のない瞳を未来に向けていた。
背筋に冷たいものを感じる。
彼女は本当に俺の知っている伊咲璃奈なのか。
殺気や嫌な気配は感じないのに、震えが止まらない。
「……先輩、倉持先輩……どうしたんですか?」
彼女の声がけにもすぐに反応できない程度には畏怖していた。
真白とはまた異なる威圧感、伊咲もそちら側の人間なのか。
「……いや大丈夫だ……まだ二キロぐらいか? 残り三キロちゃんと送り届けてやるからな!」
「そのことでしたら、ここまでで大丈夫です。先輩、今日はどうもありがとうございました。では月曜日」
会釈した伊咲の顔は、付き物でも取れたかのようにすっきりとしていた。
「えっ……もういいの。分からん、あいつらが何を考えてんのか、マジでさっぱり分からん……」
コツコツと遠のいていくパンプスの音を聞きながら、博希は夜空を見上げるのであった。
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