第36話 甘い物と苦い物
真白がケーキを三個、胃に収めてから二時間後。風呂上がりの博希は部屋着でくつろいでいた。眼前のテーブルには、先端の欠けたティラミスが鎮座している。真白が風呂に入っている間に、一個だけでも片付けておこうと思い、手を出したのが迂闊だった。
甘さ控えめな大人向けのビターなティラミス。香り豊かなエスプレッソにココアのほろ苦さ、濃厚なマスカルポーネが奏でるハーモニー。つまるところ目を見開くほど美味しい。心の中でガッツポーズするぐらいマジで旨い。
消化も進んで、いまなら余裕で完食できると踏んでいたが体は正直なようだ。たったの一口食しただけで、スプーンを持つ手が止まった。
一時はこのままラップをかけて冷蔵庫に返却しようかとさえ思ったが、まだカットケーキが五種類とホールケーキ半分が残っている。こんなところで膝を屈するわけにはいかない。是が非でも最後の一欠けらまで美味しく食してやる。
甘い物の相棒といえばそう苦い物だ。この相反する存在と組み合わせることで、飽きることなく永久に食べられる。甘い物にしょっぱい物、それも分かるが今回は苦い物の筆頭格ブラックコーヒー、キミニキメタ。
いったい何と戦っているのだろうと思いつつ、ひと際濃い目に淹れたコーヒーを口に含むと、あら不思議――今度はティラミスが食べたくて仕方が無くなるのだ。
口内に広がる痛烈な苦味で体が震えてくる。そこにティラミスを一口。苦味が中和されたのち、少しずつ甘味が広がっていく。するとまた自然とコーヒーに手が伸びている。
(これが、これこそが俺が編み出した秘術、その名を苦甘無限ループという……)
アホなことを思いつつ最高の組み合わせに舌鼓を打つ。
ティラミスを堪能し終わると食器を片付けにキッチンへ向かう。
「さてと、用意しますかな……」
洗い物も済ませて居間に戻りハンガーラック下に置いてある鞄に手を突っ込む。
前もってこの日のためにある物を購入している。正直な話、これをクリスマスに渡すべきかいまだに悩んでいる。だけどいまこのタイミングで渡さなければ、来年に持ち越しになるかもしれない。
(心の中で思ったのなら、行動しないと……な)
そもそもの話、今日がクリスマスだというのを忘れていた人間が、来年は覚えているという保障はどこにもない。ならばこそ、今日この時に渡しておくべきだろう。
当日まで真白にバレないようにと、彼女が触れない箇所、つまり仕事用鞄に隠すことにした。なぜかそのことまでもいまのいままで忘れていた。
博希は無意識のうちに自分自身に暗示をかけていた。真白にバレてはいけないという、その一心が自己暗示となり暴発し記憶に蓋をしてしまった。時が来れば自然と解けていたかもしれないが、伊咲璃奈が追いかけてこなければ、プレゼントを渡すどころかケーキすらも受け取らず、手ぶらで帰宅していた可能性が大いにあった。この真実を彼は一生知ることはない。
「……喜ぶのは確実なんだけど、調子のってるって思われねぇかな……やべぇ緊張してきた……」
例の物を握り締めて座して待つ。
この二人での生活にも慣れてきたはずなのに、今まで重ねてきたものが全て無に帰した。そう感じるほど異常なまでに気が張り詰める。心臓の音が耳の奥で激しいリズムを刻む。抑えようと思えば思うほど、さらに激しさを増していく。
誕生日プレゼントを渡した時だって、ここまで緊張しなかった。
それだけ俺自身も事の重大さを理解してしまっているということか。
不意にティラミスを食べようと思ったのも、甘い物でも食べて少しでも心を落ち着かせたかったからかもしれない。思い返してみれば確かにそうだ。ティラミスとコーヒーに夢中で、緊張のきの字すらもなかった。
「……ならば……かくなるうえは!」
「かくなるうえって、なにが……?」
謎に一人問答を繰り返していた間に、真白は風呂からあがっていたようだ。
「うん……なんでもない」
「そぉ? で、博希テレビもつけないで、なにしてたの?」
「ああそれはだな……」
振り返って真白の姿が視界に入るや否や、博希は言葉を失った。
「どうかな博希、似合ってるかな?」
「……寝る前までは、シャツを着る約束だろ……?」
「うん、わかってる。だけど今日だけは許してほしい。それでどうかな?」
「どうかなって……何が?」
「だ・か・ら、この服どうかな?」
頬を赤らめながら真白は尋ねてきた。
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