第23話 ただいま、おかえり
帰りに近所のスーパーに寄る予定だったが、両手いっぱいの荷物を持った状態での買い物はさすがに厳しかったので、素通りしてそのまま家に帰ることにした。
夕食について考える余裕もなかった。いまから階段を上らなければならない、五階まで。マンションを下から見上げた時は、まだ一人でも何とかなると思っていたが、所詮は机上の空論にすぎなかった。
二階を越えたあたりで足が鉛のように重たくなり、一段上がるだけでも呼吸が荒くなる。
疲労困憊な俺を見て真白は、荷物を半分持とうとしたが「ケーキを死守せよ」という魔法の言葉で封殺しておいた。ただのエゴ、余計に心配させるだけかもしれない。しかし男して、夫としてこれだけは譲れない。
終電を逃した時は一時間近く歩き、この階段も毎日往復しているのに今日はすぐに体力が尽きそうになる。仕事による疲れとはまた違う、この異様なしんどさに息も絶え絶えになりながら我が家に到着した。
「じゃ頼む……」
「おーけー、任せて」
真白は人差し指と親指を引っ付けて、了承サインを行うとポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込む。あとは手首を返すだけで解錠されるのだが、一向に次の動作を行おうとしない。時が止まったかのように動かない。
「あの早く開けてもらえると……すごく助かるんだけど?」
「もう少しだけ待って……いま噛みしめているところだから……」
「嚙みしめる? なにを?」
「…………」
返事はなかった。
しばらく待ってみたが一向に扉を開ける気配がない。左側に回り込み顔を覗いてみる。
「ふむ、どんな状況……?」
鍵穴を食い入るように見つめている。試しに眼前で手を振ってみたが反応はない。まばたきもせず、猫のように目を見開いたまま微動だにしない。等身大の西洋人形なのかと思えるほど高クオリティーな静止。暗殺者としての技量を、パントマイムに生かすとこうなるらしい。
様子を窺っていると鍵を持つ手がゆっくりと右に回り始め、ガチャリと待ちに待った瞬間が訪れた。
「……ここからが大事」
何やら決意めいた言葉を口にしながら真白は扉を開ける。
早速、部屋に入ろうとしたところ、すっと白い手が伸びてきた。
「なぜに止める?」
「博希はここで待機」
「えっいやなんで?」
「待つったら待つの!」
「あーはい、承知しました」
勢いに気圧された博希は、つい真白の願いを聞き入れてしまった。両腕両膝がぷるぷると震えるなかで、何とかここまでたどり着いた。これでやっと戦利品を降ろせる、心置きなく休めると思ったら、まさかの延長戦。
いったい何がしたいのか首をひねり待っていると、真白は靴を脱ぎ捨て玄関ホールに上がる。視線を落とすと例のごとく靴は踵を合わせて綺麗に並んでいる。そこまでは昨夜と同じで特に変化はみられない。
そのまま居間に向かうのかと思ったら、その場で急に反転し「おかえりなさい」と照れくさそうに微笑みかけてきた。
呆気にとられつつも博希は「……た、ただいま」と対の言葉を返すのであった。
真白が我先にと部屋に入った理由。それは博希を迎えるためだった。
一人で暮らすようになってから言うことも聞くこともなくなった言葉。
久しぶりにこうやって挨拶を交わしてみたけど、やっぱ言い合える相手が居るっていいな。しかも、それが自宅で好きな人からだと尚更だ。彼女の笑顔とこの言葉さえあれば、エナドリの手を借りずとも生きていけそうだ……たぶん。
「はあぁぁぁぁあ生きてて良かったああぁぁぁぁぁぁああ……ふぅ……じゃ次は逆」
目を細め口元は綻び、頬は紅潮させてかと思えば、今度は悟りでも開いたかのような冷静な表情に切り替わる。なぜだろうか不思議なことに凄く既視感を覚える。
キリリとした眼差しで真白は、部屋に上がるよう博希を手招きをする。片や《《もう一人の彼女》》は、ほくほく顔でケーキを冷蔵庫に仕舞おうとしていた。
博希は何度も目をこすり確認してみるが、幻覚でも見間違いでもない。そこに確かにいる。まばたきをしたら、今度は三人に増殖していた。
「……えっあれ? 荷物……?」
手を顔の位置にまで持ってこれる時点で気づくべきだった。三人目の手には戦利品があった。
そして、そのまま居間へと通じる扉を開けると奥へ消えていった。
暗殺者なんだし分身ぐらい出来て当たり前。
納得できないけど、そう理解することにした。
「博希早く、次は私の番」
「……えっああ分かった」
頷き一瞬視線が逸れた次には二人目の姿も消えていた。
「は~や~くぅ~!」
いつの間にか背後に回っていた真白に促され部屋に入り迎える準備をする。
飛び跳ねて今か今かと待ち望んでいる彼女の顔を見据えて「おかえり」と声をかける。
「た・だ・い・まぁ~!」
歓喜の声を上げ真白は両手を広げて飛びついてきた。
「ぐはっ!?」
こうなることを予見していた博希は抱き留める。銃弾のような衝撃は回転して殺しておいた。そうしなければ、今ごろベランダの窓を突き破っていたことだろう。
それでも衝撃を完全に殺すことはできず、肺から空気が強制的に排出される。
これが毎日続くのか――最高じゃないか。
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