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Episode 96: 違和感(前編)

居間のテーブルは、元はこたつだった。


布団はもうしまってあって、今はただの低い机として使っている。

角は少し丸くなっていて、表面には細かい傷が増えていた。

湯気の跡や、水滴の輪っかがうっすら残っていて、拭けば消えるはずなのに、なぜかそのままになっている。


昼前の空気は、どこか中途半端だった。


窓は少しだけ開けてあって、風が入ってくるたびにカーテンが揺れる。

涼しいのか、もう暑いのか、判断がつかない。

じっとしていれば平気だけど、動くとすぐ汗ばむ、そんな感じの温度。


テーブルの上には、朝の名残がそのまま置かれている。


火を止めたままの味噌汁の鍋。

皿の上には、食べかけの卵焼きと、骨だけになった焼き魚。

洗い物はまだ誰も手をつけていない。


やる気がない、というより、急ぐ理由がない。

なんとなくだらけた空気の中、視線は天井に向いたまま、特に何も考えていない。


何も考えていない、はずなのに完全に空っぽになることもなくて何かが浮かんでは消えていく。

名前も形もはっきりしないまま、ただ時間だけが過ぎていく感じだ。


視界の端で、クロが動いている。


敦史の隣に座って、スマホを覗き込んでいるらしい。

指の動きを真似して、少しずれて、戻して、またずれて。そんなことを何度か繰り返している。


ぎこちない、というより、まだ馴染んでいない動き。


「クロ、それ、勝手に触んなよ」

「みてるだけ」

「見てるだけじゃ勝手に再生しないんだよ、それ(動画)は。

もぅ……。」


やり取りは軽い。止める気はなさそうで、でも完全に任せているわけでもない。

少し体をずらして、画面が見やすい位置に来るようにしているあたり、あれはあれでクロに気を使っているんだろう。


紙の擦れる音がする。


修二が何か読んでいる。仕事の資料か、本か、そんなところだろう。

ページをめくる音だけが、やけに規則的に混ざる。


「う~ん、今日、なんか暑くね?」


口から出た言葉に、特に意味はない。


「まだマシだろ。来月入ったら終わりだな」

「やだなぁ……」


それで会話は終わる。続ける必要もない。


こういう時間は、たぶん嫌いじゃない。

何も起きていないはずなのに、ちゃんと誰かがいる感じがする。


その中で、クロの動きだけが少し変わる。


「ね、これ」


指が止まる。


「広告だろ」

「押していい?」

「コラ!もう押してるだろ」


音が変わる。少しだけ大きくなる。

軽い音楽。明るい色。走る子供。笑顔。


「なんか、すごい」


そのまま、くるりと体を回して、スマホをこちらに向けてくる。


「これなに?」


差し出されるまま、受け取る。

断る理由もないし、わざわざ避けるほどのものでもない。ただ、手持ち無沙汰の延長で視線を落とす。

画面の中には、整えられた街並みが映っていた。無駄にきれいで、無駄に明るい。そこを、子供たちが走っている。


『未来を守るのは、君だ!』


やけに張った声が、耳に残る。


ああ、こういうやつか、と思う。

ポスターは以前からあった。しかし動画広告も最近よく見る気がする。

ヒーローだとか、育成だとか。言葉だけは立派で、中身はよく分からないやつ。

政府がかなりお金を使って派手に広告をしているんだろう。


『次世代ヒーロー候補、大募集!』


やたらと色が強い。いい言い方をすればPOPなのだが、やたらしつこく視界に残る。


『十四歳以下の君の応募を待つ!』


そこで、指が止まる。

……いや、止めたつもりはなかった。

ただ、画面を持っている手に、ほんの少しだけ力が入っていた。


十四。


中学生くらいか、というどうでもいい認識が先に来る。

それで終わるはずなのに、その数字だけが妙に残る。

残る、というより、沈まない。


『全国各地に専用育成支部を設立!』

『才能ある子供たちを、我々が全力でサポートします!』


画面の中では、子供たちが走って、転んで、また立ち上がる。そのたびに、周りの大人が頷いている。

ちゃんと見ている、という顔で。


「たのしそう」


横から声が入る。

軽い声だった。引っかかりも疑いもない、そのままの感想。


「……そう見えるか?」


少し遅れて、自分の声が出る。

思っていたよりも、引っかかっている音だった。


「うん、みんな笑ってる。

いいこと」


いいこと。

その言葉を、頭の中で一度なぞる。

いいこと、ね。


「合理的ではあるな」


別の方向から声が入る。


「まあ、結局は人材不足の埋め合わせだろ。

既存のヒーローは総帥の攻撃でほぼ壊滅状態って話だし……だったら若いうちから育てた方が効率がいいって考えたのかもな。

適応も早いし、思想も固定しやすい」


「……思想って」

「組織に都合のいい価値観ってやつだよ。

正義とか、使命感とか。国家がやるならなおさらだな」


淡々としている。いつも通りの温度。


その現実的な言い方と、画面の中の明るさが、妙に噛み合っていない。


『将来の夢は?』

『ヒーローになることです!』


子供が、まっすぐカメラを見る。

迷いがない。疑いもない。ただ、それを信じている顔。


……ああいう顔。


どこかで見たことがある、と思う。

同じじゃない。場所も、状況も違う。

でも、ああいう顔をしている時って、だいたい――


「……十四ってさ」


気づけば、口に出ている。


「自分で決める年齢か、それ」

「応募の建前上はな。

でもそれはどの進路でも同じだろ」


特別じゃない、という言い方。

特別じゃない。


……本当に、そうか。


「クロもできるかな」


軽い声。

深く考えていないというより、まだ考える必要がない、って感じの声。

そのまま伸びていけば、そのまま受け入れてしまいそうな、そんな素直さ。


それで、はっきりする。

さっきから引っかかっていたものが、形になる。


「……やめとけ!」


思ったより、強く出る。


「え?」

「……あれは、遊びじゃねぇから」


言いながら、自分でも分かる。

違う。言いたいのはそこじゃない。


「あれは……楽しいとか、そういうんじゃねぇよ」

「流星、クロは別に遊びだとは言ってないだろ。

ヒーロー訓練施設なんだ。厳しいに決まっ……」

「違う!そういう話じゃなくて!」


一度、言葉を切る。


画面の中では、まだ笑っている。

ずっと同じ調子で、明るくて、前向きで、何も疑っていない顔。


無理してる感じはない。

ちゃんと馴染んでいる顔だ。


だから余計に――


「流星?」

「……ああいうのさ」


ゆっくりと押し出す。


「逃げれなくなるんだよ」


一瞬、空気が止まる。


「何が」

「正義だとか、夢だとか、そういう正論で囲われるとさ」


言葉を選ぶ余裕なんてないのに、変なところで引っかかる。


でも、そのまま続ける。


「やめる理由、なくなるだろ」

『頑張ります!』


画面の声が、少しだけ遠くなる。


「年端もいかない子供なんかに危険なヒーロー業やらせるなよ、

表面だけきれいな洗脳みたいなもんじゃねえか……!」


今度は、はっきり出た。


クロの手が止まる気配がする。

どう受け取ればいいのか分からない、そんな沈黙。


何も返ってこない。

否定も、肯定もない。

ただ、見られている、という感覚だけが残る。

それが少しだけ鬱陶しくて、視線を画面から外す。


もういい。

それ以上、見ていられない。


軽く押し返すと、スマホはクロの手に戻る。

さっきと同じ部屋のはずなのに、空気だけが少し重い。


窓の外で風が鳴る。


さっきより、少しだけ強く。

誰も、すぐには何も言わなかった。

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