Episode 94: 小さな苗の未来
玄関の引き戸を開けると、すぐにぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「おかえり!」
顔を出したクロが、俺たちの腕の中を覗き込む。
両手に抱えているのは苗のポットと、長い支柱、それから土の袋やらネットやらで、正直かなりの量だ。
「買ってきたぞ。ほら、これゴーヤ」
ポットを少し持ち上げて見せると、クロは目を丸くした。
濃い緑色の葉っぱが、まだ小さい手のひらみたいに広がっている。
「これ、ゴーヤ?」
「そうそう」
クロはしばらく苗をじっと見ていた。
それから、少しだけ顔をしかめる。
「……にがい?」
思わず笑ってしまう。
「はは、まだ実はならないから安心しろって」
そう言いながら玄関に荷物を下ろすと、修二がすぐに周囲を見回した。
靴箱の横、壁際、それから玄関の段差。
作業ができそうなスペースを頭の中で測っているようだった。
「ここでやるのか?」
「クロは外に出られないしな。玄関先で植えてしまおう」
俺がそう言うと、クロはぱっと顔を上げた。
「うえるの?」
「そう。ここで植えて、あとで外に持っていく」
クロは少しだけ考えるような顔をして、それから小さく頷いた。
「ぼく、てつだう!やくそく!」
その言い方が妙に真剣で、思わず「頼むわ」と返してしまう。
俺は荷物の中から折りたたんだビニールシートを取り出して、玄関の床に広げた。
靴をいくつか脇に寄せ、プランターを並べる。
ビニールが床の上でぱりぱりと音を立て、外の光が斜めに差し込んで土の袋を少しだけ照らしていた。
袋を開けると、ふわっと湿った土の匂いが広がる。
春の土の匂いというのは、妙に落ち着く。
畑をやっていたわけでもないのに、なんとなく懐かしい感じがするのが不思議だ。
「これ、いれるの?」
クロが土袋を覗き込んでいる。
「そう。まず土入れて、そこに苗植える」
「うめる?」
「埋めるっていうか……まあ、そんな感じ?」
説明が雑なのは自覚しているが、まあ伝わればいいだろう。
そこへ、部屋の奥から声がした。
「……何やってんの?」
振り向くと、敦史が廊下の角から顔を出していた。
パソコンの画面を長時間見ていたのか、少しだけ目を細めている。
「苗植える準備」
「玄関で?」
「クロ外出られないからな」
敦史は少しだけ考えたあと、ため息をついた。
「なるほど、そうだな」
そう言って靴下のまま玄関の段差に腰を下ろす。
パソコンの前から離れるつもりはなかったはずなのに、結局こうして様子を見に来てしまうあたり、あいつらしい。
「根、崩しすぎない方がいいぞ」
唐突にそう言う。
「え?」
「ポットから出す時。
根が固まってるから、軽くほぐすくらいでいいらしい」
俺は手に持っていた苗を見た。
小さなポットの底から、白い根が少しだけ見えている。
「さすが詳しいな」
「ネットで見ただけ」
敦史は肩をすくめた。
その横でクロが、そっと苗を手に取る。
「これ、もつ?」
「落とすなよ」
「おとさない」
両手で大事そうに持つ様子は、なんだか本当に小さな生き物を扱っているみたいだった。
クロの指先は細くて、少しだけ透けるような色をしている。
その指が、緑の葉を壊さないようにそっと支えているのが妙に印象に残った。
俺はプランターに土を入れていく。
ざらざらとした音がビニールの上に広がり、土がふわりと盛り上がる。
修二はその横で支柱の束をほどいていた。
長い棒を一本ずつ取り出して、床に並べている。
「ネットはこれだな」
ビニール袋からグリーンカーテン用のネットを取り出すと、細かい網目が広がった。
思ったより大きい。
「これ、窓まで届くのか?」
「届くだろう。高さは足りてる」
修二はそう言いながら支柱を組み始める。
動きは相変わらず無駄がない。
長さを確認し、角度を見て、静かに差し込んでいく。
まるで最初から手順が頭に入っているみたいだ。
その間に、クロが苗を持ったまま俺の方を見る。
「これ、うめる?」
「おう。ここにな!」
土に小さな穴を作ると、クロはそっと苗を下ろした。葉っぱが揺れて、土の上で少しだけ影を作る。
「やさしくな」
「うん」
クロは土を両手で少しずつ寄せた。ぱらぱらとした土が苗の根元に集まっていく。
「これでいい?」
「いいぞ」
隣で敦史が覗き込む。
「深すぎない?」
「え」
「いや、まあ大丈夫か?」
適当すぎる会話だが、なんとなく形にはなっていく。
二株、三株と植えていくうちに、プランターの中に小さな緑が並び始めた。
まだ頼りないくらいの大きさなのに、並ぶとそれなりに畑っぽく見えるのが不思議だ。
クロがしゃがみ込んで苗を見ている。
「これ、そだつ?」
「育つ育つ」
「ながくなる?」
「なる。めちゃくちゃ伸びるぞ」
クロは少し考えてから聞いた。
「ぼくより?」
思わず笑う。
「たぶんな」
敦史も小さく笑った。
修二は支柱を組み終え、ネットを広げながら言う。
「窓くらいまでは伸びるだろうな」
クロはその言葉を聞いて、玄関の外を見た。
引き戸の向こうには、アパートの前の小さな空きスペースが見える。
まだ春の風が吹いていて、午後の光が地面に落ちている。
「そと、どこ?」
「窓の下」
「みえる?」
「あとで見せる」
クロは静かに頷いた。
最後に水をやると、土の色が少し濃くなる。
小さな葉っぱが揺れて、まだ慣れない場所で息をしているみたいに見えた。
「よし」
俺は手を叩いた。
「これ外に持っていくか」
プランターを持ち上げると、思ったより重い。
土がぎっしり詰まっている。
「修二、そっち頼む」
「分かった」
修二がもう一つを持ち上げる。
二人で玄関を出ると、外の空気が少しひんやりしていた。
アパートの壁の下、窓の前にプランターを並べる。
まだ苗は小さい。
正直、これが窓一面のカーテンになるとは少し信じがたい。
でも夏になれば、きっと伸びるんだろう。
玄関の方を見ると、クロが引き戸の隙間からこちらを見ていた。
小さな顔が、少しだけ外に向いている。
「見えるか?」
そう声をかけると、クロは静かに頷いた。
小さな苗が、風に揺れていた。




