11:やっててよかったすらすらすら
ハロルドさんと再開したのは、この世界に来てから丁度一週間が経った日だった。昼食後、日課の翻訳作業をしていると、聞き覚えのあるような無いような声がしたのだ。
「あっ、ハロルドさん」
『元気そうで何より』
『マリナ様、これ巷で話題のお菓子ですよ』
目をキラキラさせながらハロルドさんの手にある箱を見つめるユリアさん。
『休憩時にでも食べるといいでしょう』
箱がハロルドさんから私に渡された。ユリアさんの視線も私の手元に移った。
「ハロルドさん、《ありがとうございます》」
ピンクでやけに可愛らしい箱だ。これをハロルドさんが自分で買い求めていたとしたら……ちょっと笑ってしまうな。
視線が気になるので、よっぽどすごいものなのだろうと推測。
「ユリアさん、《これはなんですか》?」
『クッキーですよ』
「へえ」
そう、なんと一週間で会話が少しできるようになったのだ! これは大いなる進歩だ。
ふむ、クッキーか。よく食べるので分かる。
とはいえこの世界、クッキーとビスケット、ビスコッティの違いは無いくせに、木の実の分類がやたらと細かい。なんとかという木の実のクッキー(意訳)という呼び方が普通のようだ。シフォンケーキもパウンドケーキみたいなのとまとめて、焼き菓子(意訳)というくくりで終わり。クッキーとケーキの区別はあるみたいで幸い。
まだ見たことがないけれど、フィナンシェとマドレーヌも同じものとして扱われてしまいそうだ。
言葉が不自由なく通じるようになったら、バウムクーヘン作ってみたさがある。バウムクーヘンもやっぱり焼き菓子にくくられるのかな?
『丁度おやつの時間ですし、これをいただきましょうか。サー・ヒドメタソンもいかがです?』
『……ではお言葉に甘えて』
アルトさんやカルザさん同様、ユリアさんに負けてソファに腰を据えるハロルドさん。私はそそくさと翻訳セットを片付ける。
『殿下のほうが身分が高いのですから、様はやめて下さい』
『マリナ様の前では、ただの使用人でありたいのですけれど』
『ただの使用人が陛下の前で堂々と発言できるわけがないでしょう。異世界人の世話を任せられたのは、王族で、かつ侯爵という身分を得たからだと伺いましたが』
『さあどうでしたか』
ハロルドさんが持ってきてくれたのは、ジャムサンドクッキーだった。花形のクッキーに赤いジャム。アプリコットかすももかいちごかは知らないけれど、まあバラ科には変わりないだろう。それにスライスアーモンドが飾られていて、かわいい。
この国のお菓子は全部素朴な感じで大好きだ。ただし味に言及してはいけない。
紅茶の準備をしながら、ユリアさんがハロルドさんに話しかける。
『ラッキーでしたのね。当日分は数がほとんどありませんもの』
『いわゆる献上品ですよ、それ』
『献上品?』
ユリアさん、声が怖いです。
『先日陛下に謁見した際に、同伴していたらしい近衛騎士から頼まれました』
『それは……一体どうして』
『子どもには菓子だろうということだそうですが、彼女は大人しくしているとのことですから必要ないとは思うのですけどね』
『確かに童顔かもしれませんけれど、マリナ様は立派なレディーですのよ、まったく』
『レディーなのはいいとして、いくつなんですか』
『分かりませんわ。……女性に年齢を訊ねるものではありませんのよ』
『陛下の伴侶に推していると伺いましたから。年齢は重要でしょう』
ハロルドさんは、すっとカップに口をつけた。アルトさんもカルザさんも、少しためらっていたのに。
『言葉の勉強をしているとは聞きましたが、数字程度ならもう分かるのですか』
『ええ。ジュッシンホーで同じなのだそうで、すぐに理解されていました』
ハロルドさんが紙とペンを求めたので、近くにおいていたのを取って渡した。
『ハロルド、二十六歳』
ハロルドさんはなにかさらさらと記入すると、私の方に紙を向けた。活字体で書いてあるのは優しさだよな。ユリアさんとは違って角ばった文字だ。
さっきの台詞からすると、まず名前が書いてある。そして何か文字に挟まれた数字。数字は二十六だった。
もしかして……年齢?
『お貸しくださいまし』
ユリアさんも名前と数字を記入。この人二十三歳だったのか。
果たしてこれは、年齢を教えろと言うことか。練習して書けるようになった自分の名前を書く。二人の文章を見比べて、数字以外同じであることを確認。数字だけ十九に置き換えれば……。日本語訳すると私は十九歳ですという文ができたはずだ。
私の手元を見ていた二人の顔は、驚愕に満ち溢れていた。
『私てっきり……せいぜいデビューしたてかと思っておりましたのに』
『詐欺だな……』
少しきまずくなってしまって、器に盛られていたクッキーをつまんだ。酸味のあるジャムに甘いクッキーが合う。ハロルドさん、以外とセンスいいな。
『それにしても殿下が家庭教師の真似事をなさっているとは驚きです。字がとても良く似ています』
『そうでしょうか。気づきませんでしたけれど、他人の目を通すと同じに見えてしまうのですね』
『……十九歳だそうで』
『そろそろ行き遅れと呼ばれてしまいます……ですがマリナ様の世界では、一年の長さが違うかもしれません。そのあたりの確認が取れない限りはなんとも言えませんわ』
ハロルドさんが、私の手からペンを取った。次に紙に書かれたのは、二十六と二十七。それからそのあいだにひらがなの「く」の鏡文字のようなものだった。ハロルドさんの年齢を書いた文の下だ。「く」の下には三二○と書いてある。数字の間にあるのは「大なり」かと思ったけど、どう考えても数式ではない。二十六が二十七より大きいのはありえない。間違っている。
首をひねって唸っていると、ハロルドさんは、二十六の前に二十五と書いた。そしてまた大なりもどき。結果的に二十五>二十六>二十七で、それぞれ>の下に三二○と書かれた図ができあがった。
このタイミングで聞いてくるということは、年齢に関係しているということか。この大なりもどきは矢印を表しているのかも! 棒をつけたら矢印だからね。つまりこれは、二十五歳から二十六歳に三二○……日かかるということか!
意気揚々とペンを取り、十八>十九> 二十と書いてその下に三六五と書き加える。うるう年は説明が面倒だし、まあいいだろう。
ついでに筆算で十九掛ける三六五割る三二○を計算すると、どうやら私はこの国では二十一、六七歳……小数点以下は四捨五入とは言わず、切り捨ててしまおうか。うん、二十一歳のようだ。
十九> 二十 > 二十一の下に三二○と書いた図も添えておく。またまた驚愕しているお二人。
『マリナ様、計算早くないですか? 一体どんな高等教育をお受けに……』
『異世界では女性にも学問の門戸が開かれているということか』
『いえ、この国でもここまで計算の早い文官はいなかったと思いますわよ? 乗算と除算はあまりにも難しいですから、基本的に加算減算を使っていますもの』
『このような、縦に書く計算方法は初めて見たな』
『もしかしてマリナ様に国家予算の計算をし直していただいたら、不正がたくさん浮かび上がってきたりして……』
『それよりもこの顔で二十一歳というのもなかなか……』
『詐欺ですわね……』
この世界ではあまり数学が発展していないのかな。古代には既にルート、言い換えると平方根が発見されていたらしいけれど、それが後世に伝わるかは別問題だ。時とともに人々の興味が、すぐには生活の利便性に繋がりにくい数学より、薬学や医学に向いても不思議はない。
それに日本の江戸時代のように、寺子屋のおかげで庶民の識字率も計算能力も高かった、というのは珍しい事例なのかもしれない。
二人して熱心に数式を眺めているので、そろばんを作ったら喜ばれるかな? なんて思ったけれど、今はできないのでとりあえず九九表をささっと書いてみた。
めちゃくちゃ食いつかれた。
つまり公文です。




