間奏の8、ずっと好きでいてください。
ずっしりと重たい扉を開けば、そこは別世界だ。
照明は薄暗いというよりも、焚き火のような暖かさがあった。天井にはいくつものパイプが通っていて、シーリングファンがゆっくりと回っている。
入り口付近に置かれたアップライトピアノでジャズの生演奏が行われていた。店内に似合うようなテンポがこの重い扉の中をやわらかに色付けする。
カウンターの背後にはたくさんの壜とグラスが並べられていて、どれもがピカピカに磨かれていた。テーブル四つでカウンターは八席、広くないからこそどこか秘密めいている。
テーブルは半分が埋まっていて、カウンターでは三人が琥珀色の液体に氷を浮かべている。
静かというよりは寛げる、家に帰ってきた時のような雰囲気の店だ。ただしそれは常連の話であって、初めて足を運んだ乃羽と佐智子の二人にとっては、すこし背伸びしたバーに見えていた。
カウンター席に並んで座ると、ふたりはこの後行くレストランのことを思い、軽いものを頼むことにした。
「あ、ハートランドがある」
「名前は聞いたことあるけど、おいしいの?」
「はい。前に飲んだことがあるんですけれど、シンプルで香りが良くておいしいんです」
そういう佐智子の顔は、すっかり頼むつもりになっているようだった。ビールと日本酒を好むという彼女の舌に間違いはないだろうと、乃羽もハートランドを注文した。
茶色い壜を見慣れている乃羽にとって、緑色の壜はどこか海外ビールめいていて不思議に映った。注がれる黄金のビールは、立ち昇る泡とグラスから溢れる香りだけで、うまいということがわかる。
「それじゃあ、乾杯」
「乾杯です」
一気に喉に流し込むのはもったいなく、乃羽は泡を食むようにゆっくりとグラスを傾けた。なめらかな泡がとろりと口を覆った後に、香り高くキレのある液体が広がっていく。
普段は安い発泡酒か第三のビールで、オリジナルをあまり口にしない乃羽にもそれはわかった。
「ああ、これはおいしい」
「ですよねっ」
別物というよりは本物。
ごく純粋なビールの味だ。
もう一口、飲むというより噛むようにして乃羽は味わう。ビールと言えば流し込むものという認識がその一杯で変えられていく。
飲むパンと称されるほどのビールと比べればどっしりした重みはない。だからこそ、レストランに行く前に軽く飲むにはいい。
ハートランドと乾き物だけで十分に楽しめる。
「なんていうか、もったいないな。ビールって、こんなにおいしかったんだ」
「ほんとです。普段は缶ビールぐらいしか飲まないですから、こういうのがあると、色々飲みたくなっちゃいます」
「ありますよ。試してみますか?」
にっこりと笑うマスターに、乃羽と佐智子は、もう一杯だけと注文した。
「では趣向を変えて、ベルギーのフルーツビールなんていかがでしょう。ハートランドとはまったく別物だと思いますよ」
マスターが取り出したのは、赤い壜に入った深紅色のビールだ。ラベルにはさくらんぼが描かれている。背の低いチューリップ型のグラスの注ぐと、泡までもがうっすら赤い。
「なるほど、ドイツっぽい純粋感はないですね」
「ええ。だからこそ生まれる味もあります。さあ、飲んでみて下さい」
これもじっくりと味わうようにして、ふたりは口をつけた。そこから舌に染みていくのは、ビールという言葉からイメージするものとはまた違う味だ。
「甘酸っぱい。本当にビールなのかな、カクテルみたいだ」
「はい。でもシロップみたいなものじゃなくて、果実感があります」
ビールにかき氷のシロップを混ぜましたというような味ではない。ハートランドが本物なら、これは別物と言っていいだろう。
ビールという飲み物は、それほどに幅広い。
「うん、おいしい。良いもの飲ませて頂きました」
「はい。フルーツビールかあ、興味でてきちゃったな」
「それはよかったです。もうすこし飲みますか?」
「いえ、これから食べに行くので」
「そうですか。よかったら、またどうぞ。美味しいお酒を用意して待っていますので」
「ええ。今度はもうちょっと居たいと思います」
にこりと笑うマスターは、四十から五十というところだろう。掴みどころがないというよりは、柔らかいシルクのような手触りの接客をする人間だった。掴むことはできるのにするりと引っかからない。
バーの雰囲気は、この人から出ているのだろうと思いながら、ふたりは店を後にした。
「いいお店でしたね」
「そうだね。わりとリーズナブルだしまた来たいな」
こうして客が帰る場所になっていくのが、このバーなのだろうとふたりは思った。
そういう店が増えて、二人で行く機会が増えればいいと。
予約していたレストランまで来ると、佐智子の胸には懐かしさが湧いて出た。あの日からすべてが変わってしまったと言っていい。もはやその瞬間から何もかもがはるか昔のように。
このレストランがきっかけだったわけではない。あのデートが銃爪だったわけではない。けれど、二の足を踏んでしまうのはなぜだろう。すっと立ち止まったところで、乃羽が振り返る。
「どうかした?」
「なんだか怖くて」
佐智子の手をすっと乃羽が引いた。
「だいじょうぶ、そんなに怖くないよ」
「本当に?」
「君を守るとは言えないけれど、出来ることがある」
「それって、なんですか?」
戸惑うように佐智子は聞いた。にこりと微笑みを浮かべる乃羽の手はすこし汗ばんでいた。表情とは裏腹に緊張しているのだ。開く唇はわずかに震えている。
「ずっと、好きでいるよ」
「……なっ、あ、え?」
佐智子の困惑と喜びは、こんなところで言わなくても、というのが正直なところだ。
いくらなんでも場所が不適当だし急激過ぎる。
「乃羽さん、恥ずかしいっ……」
レストランの目の前で、当然、入ろうとする人たちはちらりと目をやる。カッと佐智子の顔が燃え上がったのも無理はない。このまま立ち止まっている方が嫌になるのは確かだ。
逃げ出そうにも乃羽が手を繋いでいる。蛮勇を振り絞って佐智子は半ば先導するようにレストランの方へ足を進めた。
予約していた席に座ってから落ち着くまで、ワイン半ボトルとコース料理をメインまで食べ進むほどの時間が必要だった。せっかくの料理だというのに、佐智子は心を制御することで精一杯でほとんど味わうことができなかった。
これならバーでゆっくり飲んでいたほうが良かったのかもしれない。やはりこのレストランは鬼門なのではないか、と思われたほどだ。
デザートのケーキを食べ終えて、ようやく佐智子の心に平穏が戻ってきた。二人で一本開けたワインの波に精神が揺られている。ゆりかごめいた動きに、どこか眠気すら漂うほどに。
「本当に、好きですか?」
「好きだよ、仁屋さん」
「ずっと?」
「ずっと。信じられない?」
「信じたいです。でも、信じられるほど強くありません」
軋むように顰められる眉は、こころそのものの動きだ。
「そうだよね。自分でも人に言われたら、きっとそう思う」
「そこは言い切ってくれないんですか?」
眉間に刻まれたクレバスがへにょりと伸びた。
「やっぱり、言い切れるほど強くないんだよね。だからさ、ずっと見ててよ」
「……」
「ふたりでいて、ずっと見ていて、この人自分のことを好きでいてくれてるなって、確かめて欲しい」
「それって……」
「仁屋さん。付き合って下さい」
「……名前で、呼んで下さい」
「……佐智子さん。付き合って下さい」
「っ……はい。乃羽さん」
――すべてがこのレストランから変わってしまったというのなら、変えてしまおう。
――ここからいい方に、全部。




