その12、乃羽さんは戦わない。
雲一つない空といっても冬も夕暮れになれば寒いもので、橙に燃える空の灯が、闇に吹き消されようとしている中を自転車で風切れば、手足も冷たく冷えていく。駐輪場に留めて鍵を掛けていそいそとスーパーの店内に入ったところで、生鮮食品のためにそれほど温かいということもない。デパートや電車の過剰な暖房に比べればいいけれど、こういうときばかりは免許をとろうかなと思う。
「あ、グローブとブーツでもいいのか」
どっちのほうがいいかな、なんて軽く考えながら野菜売り場を見る。
「うわー、やっぱり野菜が高いなぁ」
秋から比べれば多少は値段が落ち着いたものの、例年と比べればまだまだ高い。自転車で冷えたから今日はお鍋にしようかな、なんて気持ちで白菜を見ても、丸ごとだとちょっと腰が引けてしまうお値段だ。その分をお肉にすると栄養バランスがどうだろうなんてことも考えてしまう。
じゃあ野菜を買わないのって話になるとそうは行かない。どうしたって必要なものだけれど、お安く買えるもやしばかりだと栄養バランスも偏る。サプリメントで補充すれば問題ないと言ったって、食べるってこと自体が重要なんだからそうも言っていられない。だって、お腹が膨れない。
「決めた。今日は奮発して丸ごと買っちゃおう」
カット野菜は便利だけど、どうしても鮮度が気になるからいっそのこと丸ごとだ。ごろんと白菜を買い物かごに入れて大根、もやし、ネギとショウガとニンニクも買い物かごに。ニンジンは常備しているのが残っていたはずだから、今日は買わなくてもいい。
「そうだ。しめじ、しめじ」
お鍋にはきのこがあったほうがいい。しいたけもいいけれど、今日はしめじ。ついでに豆腐と油揚げも買い物かごに。どっさりと腕に掛かる負担は美味しい重みだ。忘れちゃいけないシメのうどんも二玉ほど追加する。
「今日はお肉もちょっといいの買っちゃおうかな」
といってもお鍋だから、牛肉じゃなくて鶏肉だけれど。
鶏もも肉の良さそうなのと、お団子用にひき肉なんかもかごへ。塩味のお鍋にする予定だから豚肉もいいけれど、メインはお野菜だから鶏肉の方がいい。
寒さだけじゃなくて、荷物が重いとやっぱり自動車のほうがいいかなって気もするけれど、今日は頑張ろう。
調味料は足りていたはずだから、お菓子のコーナーも素通り、お惣菜のコーナーも目を避けて、お酒のコーナーでちょっとだけ立ち止まる。お鍋だと熱いからビールを補充しておこうかと考えたけれど、すでに買い物かごがずっしりなのでまた今度にする。
お会計を済ませて店内を出るとすっかり暗くなってしまった。ポケットからスマートフォンを見れば、まだ五時をすこし過ぎたくらいなのに。
「本当に日が短くなったなぁ」
自転車のバックキャリアに荷物を収めてライトを点けて暗闇を切り裂く――というほど、道は暗くもない。このご時世だから眩しく輝く看板に住宅地から漏れる照明、足元を照らす街灯と、本当の暗闇は人の暮らす場所にはまずない。
すっかり重くなった自転車を漕いでいる内に暑くなってきて、家に帰る頃には羽織ったコートを脱いでしまいたいぐらいだった。
「ただいまぁ」
「おかえりなさいー」
ドアを開けると、とてとてと娘の智花がやってきた。くるくるとした目と栗毛色の髪は母親譲りだ。将来は美人になってほしいけれど、こればかりは神のみぞ知る。
「ごはんなにー?」
「今日はお鍋だよ」
「おなべー!」
きゃっきゃと騒ぎながら居間の方へ走っていく。ああしてはしゃいでる姿は愛おしい。我ながら親ばかだと思うけれど、かわいいんだから仕方がない。
コートを脱いでから手洗いうがいを済ませ、エプロンを羽織って荷物を運んでキッチンへ。
野菜を洗ってからザクザクと刻みつつ、背中で智花の「あのねー、きょうねー」と日々の出来事を聞く。たったそれだけのことが、じんわりと幸せだ。
みじん切りにしたネギとすりおろしたショウガを入れた鶏団子を鍋で煮ると、ネギとショウガの香りがふんわりとスープに移ってまたおいしい。直接スープに入れるより穏やかだから、鶏団子を作る時はいつもそうしてしまう。
ニンニクは智花には刺激が強いからほんの少し、隠れる程度にスープへ。足りなければ大人は小皿にとってから溶けば問題ない。
「ニンジン! ニンジン! やるー!」
「はいはい。それじゃあ智花ちゃん、型もってきてー」
「あい!」
輪切りにしたニンジンを智花が型で抜いていった。星型のと、丸に星が抜かれたのができあがった。
「よくできましたー。えらいねー、智花ちゃん」
「えへへー。智花えらい?」
「えらいよー。お手伝いしてくれてありがとうね」
「んー!」
不思議な踊りをしてぱたぱたはしゃぎ終わると、バネ仕掛けみたいに勢い良くソファーに座ってテレビでやっている教育番組に夢中になってしまう。見ていると面白いけれど、その時々の興味が刹那的すぎて、小さい頃は自分もあんなだったのかなぁと首をひねる。
下ごしらえが終わって、危なくないようにIHクッキングヒーターと対応の土鍋をリビングテーブルに置けば準備万端、いつでも晩ご飯が始められる。
冷蔵庫を見て缶ビールが六本冷えているのをしっかりチェックする。辛口の日本酒もまだ半分ぐらい残っているし、お鍋用には十分だ。
「ねー、火ーつけるの智花がやるー!」
「はーい、今行くからちょっと待っててねぇ」
子供はなんでもやりたがりだ。そうして興味を持っていくのだから、何もやりたくないというよりはよっぽどいい。
具材がぐらぐら煮えて、鶏団子からネギとショウガの香りがスープに溶けて、ふわりといい匂いが漂ってきた頃合いになると、玄関ドアががちゃりと開いた。
「ただいまー。今日は早く帰れたよ」
「おかえりなさーいー!」
ぱたぱたと智花が玄関まで走っていった。
「こーらー。智花、走っちゃだめでしょ」
「あーい」
しゅるりとネクタイを緩めながら、智花といっしょに入ってくる。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、佐智子さん。いい匂いがすると思ったら、今日は塩ちゃんこか、いいね」
「でしょ。外が冷えてたから、お鍋にしたの」
「助かるよ。最近は寒くて寒くて」
そう言って着替えに部屋へ入っていき、手洗いとうがいを済ませて出てきた頃には白菜の芯がくったりしてちょうど食べ頃だった。シャキシャキの方がいいという人も居るけれど、くったりして味をたっぷり吸い込んだほうがおいしいと思う。
「せーの、いただきます」
「いただきまーす!」
「はい、いただきます」
「おだんご食べたい―」
「お野菜は?」
「お星さまのニンジンとー、きのこ」
「白菜は?」
「ちょっと」
「はーい」
まだ白菜の美味しさがわからないのか、智花はやっぱりお肉やお魚といったものの方が好きみたいだ。ニンジンは好きみたいだけれど。
「あー、おいしい。スープ飲んじゃうなあこれ」
「おかわりはあるけれど、最後にうどんも入れるから全部飲まないでね」
「うん。それは楽しみだ」
プシっと缶ビールを開けてグラスに注いで、一杯目をおいしそうに飲み干す。思わず喉が鳴って、わたしもお鍋の前にまずビールを流し込んだ。自転車で帰ってきてから何も飲んでいなかったから、乾いた身体にじんじんと染み込んでいくのがわかる。
「はあ、おいし」
「いいなー、智花ものみたいー」
「智花はだーめ。大人になったらね」
「んうー……なんでー?」
「いまの智花が飲んでも、おいしくないからだよ。これは、大人にならないとおいしく飲めないものなんだ」
嗅いでみる? と、グラスを智花の鼻元まで持っていくと、
「くちゃーい」
鼻を押さえて眉を潜めたものだ。
だから言ったでしょ、と笑って、鶏団子を頬張る。
これがいまのわたしの日常だ。
日本全土から異界を廃絶して、ようやく手に入れたわたしたちの幸せだ。
乃羽佐智子は、もう戦わない。
了
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