その10、ハニーミルクティーを召し上がれ
「すみませんけど、仙波さんは黙っていてもらっていいですか?」
「乃羽くんが言うのならしょうがないな。控えよう」
一刻を争うとは言わないものの、一歩間違えればぷつりと糸が切れそうな気配だ。
慎重に慎重を重ねてとも思うけれど、根元のふわついた感覚がどうもうまくさせてくれない。
こんなことならおかわりするんじゃなかったと考えるけれど、飲んでしまったものはいまさらだ。
「仁屋さん、乃羽です。連れてはこられたんですけれど、それは仁屋さんたちを働かせるためじゃないみたいです」
「……そう言われているということですか?」
自分を間に挟めば、激辛レベルではあるけれど、対応してくれるらしいということにスケジュールを決めていた上の方の人たちは露骨に安堵していた。
けれど、そううまくはいかない。
「……そうですね。そう言われてるだけで、実際どうなるかは聞かされてないです」
「そうですか。乃羽さんは、ただ、伝言役で、呼ばれたと?」
一言一言を区切って明確に言葉の温度を下げていく仁屋さんの声の、なんと冷たいことだろう。
政府関係者の方はぱくぱくと口を開けて、凍ったように顔を青褪めさせている。
「いまのところは。でもそれだけじゃないんですよ。ちょっと待ってて下さい」
くるりと凍った人に振り向き、訪ねてみる。
「仙波さんからはそういう方向で動いてるって聞きましたけど、実際どうなんです?」
「本当だ。これからは無理をさせないようにスケジュールを開ける予定だ」
「予定っていうのではちょっと。そこは確定してもらわないと話にならないですよ」
「開ける! 確実にだ。何が何でも通す!」
「じゃあそこは信用しましょう。裏切った方が危険ってことは理解してるでしょうし」
こくこくと何度も頷くものでなんだかちょっと可哀想になってくるが、そもそも従うことを良いことに無理をして仁屋さんたちを追い詰めたのだから、同情の余地はない。
いそいそとこの場を出ていったところを見ると、連絡で念押しするつもりなのだろう。
「ということらしいです。休みは取れるってことみたいです」
「……そうですか」
険が取れた感はあるけれど、氷河期めいた温度の低さはまだ熱されていない。
さて、伝言役としてはここでもう終わりなのだけれど、それだけだと寂しい。
何を言おうかと考えて、くるくると頭のなかで思考が回る。
つるつるとアルコールの潤滑油で脳のシワがすべすべになっていく気がして。
多分、気持ちが溢れた。
「仁屋さん、一ついいですか?」
「なんでしょう」
扉を挟んだ先の声は氷のようだ。
「デートしましょう」
「……はい?」
周囲にいる人たちは、急に何を言うのかと唖然とした顔をしている。
きっと扉の向こうにいるふたりも同じじゃないだろうか。
言ってしまったという気分と、言えたという気分と。
リミッターが狂っているのはこっちもだ。
人前だからという多少の恥は、酒に混ぜて飲んでしまおう。
「だから、デートしましょう。したいんです、仁屋さんと」
「ちょ、ちょっと待って下さい。乃羽さん、こんなとこで何を言って」
「ダメですか?」
「いいとかダメとかって話じゃなくて!」
ガコンと扉の奥で音がする。
バリケードかなにかを作って『固定』していたのかもしれない。
ちょっと待っていると、中から仁屋さんが顔を出した。
メイクで隠しているけれど隈と疲労が色濃く見えた。
「なんで、こんな場所で、顔も見ずに言うんですか!」
みんなに聞かれてるじゃないですか、と続けて佐智子は顔を真赤にした。
「うん、顔を見て言うね。仁屋さん、ふたりでデートに行こうよ」
「だからもう……はい……」
手を差し出すと、戸惑いながらそっと握り返してくれた。
扉の奥からぱちぱちと拍手の音が聞こえて、アリメロさんが出てくる。
目を閉じたままの彼女は、仁屋さんのように疲れた様子こそなかったものの、どこか荒んで危険な匂いがした。
なるほど、こっちも誰かのカバーが必要ということはわかる。
「こんばんは、アリメロさん」
「こんばんは。寂しいなあ、わたしはデートに誘ってくれないんですか?」
からかうよう言っているだけなのに、色っぽさが交じるのは狐のものだろうか。
あるいは彼女が元から持っていたものが、アルコールや疲れのせいで花開いたのかもしれない。
「勘弁して下さいよ。いま、仁屋さんに必死なんですから」
「必死って……そんなに怖いですか?」
「魅力的ってことです」
「……いつの間にそんなに口が上手くなったんだろう」
「本当のことを言っただけですよ」
「くんくん、けっこう酔ってるね。根はそんな感じなんだ」
「根っていうより本音ですね」
「ふーん。好かれてるね、佐智子ちゃんって」
「な、あ。あ、ああ、もう!」
仁屋さんが爆発して、その場は無事に一旦解散となった。
翌朝。
目が覚めて、ばっちり記憶が残っていることで死にたくなった。
しかしそれはそれとして、ブレーキが壊れて本音を言っていたというのは嘘じゃない。
改めて仁屋さんにデートを申し込むつもりがあるのは本当だ。
シャワーを浴びてボディークリームを塗ってから、朝食の支度をする。
夜食を食べたせいか胃がすこし重たいから軽めにする。
食パンを一枚オーブントースターに入れて、チキンコンソメの顆粒をカップに放り込みお湯を沸かす。
塩とチューブの生姜をカップに入れ、白く固まっていたはちみつをスプーンでほじくる。
「んー……まあいいか」
徐々に香ばしいにおいを漂わせてきたオーブントースターを開けて、バターとスプーン一匙のはちみつを薄いきつね色になりかけた食パンに載せた。
もう一つカップを用意して紅茶のティーバッグを二つとはちみつをスプーンで二匙放り込み、お湯をとぽとぽ落とす。
スープカップにもお湯を注いで、醤油ちょろりと香りをつけた。
トースターが鳴って開ければ、中央ではちみつとバターが艶かしく蕩けている。
バターナイフでこれをさっと広げれば、甘じょっぱい味がじゅわりと染み込んでいく。
「野菜が足りないような気もするけど、こんなものでいいか」
ティーバッグを引き上げて牛乳を注げばハニーミルクティーの出来上がり。
はちみつを引っ張ってきたから適当に作ってみたが、ちょっと余計だったかもしれない。
「いただきます」
トーストを四つに砕いてサクサク食べながらスープを飲む。
トーストの中央部分はバターとはちみつが載っていた部分だから、そこだけ多めにはちみつとバターが特別に染み込んでいる。
スイカの先端部分のように、まずそこを齧るのがなんとなく楽しい。
スープで終えた朝食をハニーミルクティーで甘くすると、お腹の奥から熱と糖分が回ってきた。
「ごちそうさまでした」
そういえば伺うにしても、仁屋さんの家なんて知らないことを思い出す。
もしかすれば、数日間ずっといっしょだったアリメロさんなら知っているかもしれない。
起きていたら聞いてもいいだろうかと思いながら歯磨きをして、リップクリームを塗る。
秋だからか唇が乾燥する時期だ。
荷物をバッグに収めて肩に掛けて家を出る。
あれだけ疲れていそうだったアリメロさんは起きてるんだろうか、と思いながら部屋を伺おうとしたけれど、ここ最近はとても疲れていたからゆっくり休ませてあげたほうがいいと思い至る。
そして、それは仁屋さんも同じだと言うことを。
「ああ、そういやそうだった」
なにをバカなことを。
と思って今日は町でもぶらつこうかと考えていたときだ。
「あれ、乃羽さん。おはよーございます」
ジャージ姿のアリメロさんが、アパートの階段を昇ってきていた。
いつもの恰好というか、あの日肉を食べていた彼女と同一だ
「アリメロさん、おはようございます。おつかれじゃなかったんですか?」
「あー、わたしは精神的にですから。身体は折り紙付きですよ」
「へえ。タフですね。どこに行ってたんですか?」
「うふふ。特盛り玉子つきでお漬物まで頼んじゃいましたよー」
牛丼屋だった。




