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第8話

 静寂は、時として刃物よりも鋭く肉体を苛む。

 地下貯蔵庫の冷たいコンクリートの床に座り込み、俺は暗闇の中でじっと自分の両手を見つめていた。

 手枷代わりに太いポリプロピレン製結束バンドで手首を固く縛られている。皮膚に食い込むプラスチックの冷たさなど、今の俺には痛みにすら感じられなかった。


 手にこびりついた感覚が、消えない。

 白石ひよりの、あの急速に熱を失っていった身体の感触。胸元から溢れ出し、俺の指先を濡らした生温かい血の匂い。


 『ごめ……んな……さ……』


 最期に彼女が遺したかすかな掠れ声が、耳奥で鼓膜を叩き続けている。助けを求め、俺たちを信じて縋った、これから先の長い人生が約束されていた若者。彼女が抱えていた絶望の深さを思うと、胸の奥が焼きちぎられるような灼熱に支配された。


 「・・・社長?」


 隣で膝を抱えていた水無瀬が、かすれた声で呟いた。

 彼女の肩は微かに震えている。目元には涙の痕が白く浮き出ていたが、その瞳の奥には、絶望に押し潰されまいとする必死の知性が灯っていた。

 「見張りの足音・・・去りました。巡回の間隔は約三分。地下通路の突き当たり、通気口の近くで足を止め、ライターを点ける音が聞こえます。タバコを吸っている間、約二分はここへの視線が完全に切れます。」


 「ああ。」

 俺は短く答えた。

 水無瀬は惨劇の渦中にありながらも、その明晰な頭脳を止めまいとしていた。パニックを起こしそうな自分を、観察とデータ収集という作業によって必死に繋ぎ止めているのだ。


 「社長・・・あの村長は、最初から知っていたのだと思います。」

 水無瀬が暗闇の中で言葉を紡ぐ。

 「私たちが制圧されたとき、あの男は迷いなく言いました。『今は便利屋をやっているらしいが、お前、元公安らしいな。どうりで嗅ぎ回るのがうまいわけだ。さすが元、国の犬だ。』と。・・・おかしいと思いませんか? 社長が警視庁を辞めて便利屋を始めてから、もう何年も経っている。公的なデータベースから個人の過去の職歴、それも公安警察時代の経歴を引っ張り出すなんて、地方のしがない一村長にできるはずがありません。」


「……ああ。そうだな」

俺の脳裏に、熊谷の歪んだ笑みが浮かぶ。

奴は俺たちを捕らえた際、まるで手元の資料でも読み上げるかのように、何の疑いもなく俺の経歴を口にした。


「熊谷が個人の力で調べ上げたわけじゃない。奴には、問い合わせれば『警視庁のデータベース』を即座に照会し、元公安の個人情報を即、開示してくれるような人間がバックについている。・・・つまり、警察庁あるいは警視庁の現役幹部クラスのパイプだ。」

 水無瀬の息を呑む音が聞こえた。

 熊谷が九条の素性を即座に把握していたこと。それ自体が、この村を覆う巨大なネットワーク——警察組織の深部にまで根を張る、腐敗の証明なのかもしれない。



 「・・・これを使ってください。」

 水無瀬が、スカートの腰裏に仕込まれていた小さな隠しポケットから、極小のデバイスを取り出した。

 一見するとただの厚手のカードのように見えるが、基板が露出した端末だ。水無瀬が独自にカスタマイズした、暗号解析と局所通信に特化した携帯端末だった。


 「身体検査をされた際、金属探知に引っかからないよう樹脂加工されたプロトタイプです。社長、覚えていますか? 私たちがこの村に入る前、そしてこの、精製所の地下へ侵入する前に、私が解析していた村の金融口座のデータを。」


 俺は記憶を手繰り寄せた。

 水無瀬は探偵業務の初期段階で、過疎化が進むこの村に流れる不自然な資金の動きを指摘していた。村の規模にそぐわない、数億円単位の匿名口座間での資金移動。当時は「公共事業の不透明な流用か、あるいは地方の小さな詐欺グループの洗金ルートか」程度に思っていた。だが——。


 「あの時は、資金の『出口』しか見えていませんでした。ですが、さっき精製所の管理PCから制圧される直前にBluetoothで抜いた製造・出荷ログ・・・これと、事前に調べていた口座データを突き合わせたんです。」


 水無瀬が端末の微小な画面を操作する。青白い液晶の光が、彼女の顔を不気味に浮かび上がらせた。画面には、複雑なマトリクス表と口座番号のリスト、そして膨大な送達履歴がスクロールされていた。


「・・・何なのこれは? 何が起きてるの?」

水無瀬の声が、物理的な恐怖によって震えていた。

 「この地下プラントで作られていた合成麻薬・・・その純度と量は、地方の暴走族や小規模なブローカーが扱うレベルじゃありません。年間数十億円規模の最高級カクテルです。そして、その出荷先と資金の還流先・・・。」


 彼女が画面の数行を強調表示させた。


 「広域暴力団『黒曜会』のフロント企業。それだけじゃない。政治団体『黎明クラブ』の迂回口座、そして・・・警察庁長官官房に名を連ねる複数の幹部個人名義のペーパーカンパニー。」


 暗闇の中で、その名前が放つ毒素が、じわじわと空間を侵食していく。


 「黒曜会が全国の流通網を仕切り、政財界の重鎮たちがその利益を貪り、警察のトップがその見返りとして捜査の網を完全に遮断する。・・・『鎮魂奉納祭』なんていう不気味な風習は、村人を恐怖で支配し、外部の目を背けるためのただの張りぼて。本当の正体は、国家権力の頂点と裏社会が共謀して作り上げた、絶対不可侵の『巨大麻薬製造プラント』だったんです。」


 なぜ、二十年近くも若者の失踪が『神隠し』として処理され、事件化しなかったのか。

 なぜ、管轄の地方警察が一度もまともなガサ入れを行わなかったのか。

 現場の警察官が無能だったからではない。捜査をしようとした人間は、上層部から圧力をかけられて潰され、それでも突っ込もうとした者は左遷されるか、消されていたのではないか・・・。


 「熊谷が、村長が言っていた『システム』の意味が、ようやく分かりました。」

 水無瀬が絶望に打ちひしがれたように頭を垂れる。

 「生贄として捧げられた若者たちは、神のためなんかじゃない。国家の暗部を肥え太らせるための、使い捨ての精製労働力・・・。ひよりちゃんは、多かれ少なかれその仕組みに気づき、外の世界に助けを求めようとしたから・・・『不良品』として処分されたんだ・・・。」



 『不良品』。

 その言葉が、俺の脳の奥底に眠っていた古い傷口を激しく抉った。

 言葉が出ない。視界がかすみ、遠い日の景色がフラッシュバックする。

 冷たい雨が降る夜。警視庁本部ビルの一室で、俺に書類を投げつけてきた上官の顔。


——————————————————————————————————————


 『九条、この捜査は打ち切りだ。忘れろ。』

 『ですが課長! このルートを辿れば、民進党の重鎮と広域暴力団の資金ラインが完全に繋がるんです! 犠牲になった協力者だって——。』

 『黙れ!!』

 上官の怒号が部屋に響き渡った。

 『一個人の正義感で動いていい領域を超えているんだよ! これ以上踏み込めば、お前だけじゃない、お前の家族も、周囲の人間も全員社会的に殺されるぞ。警察という組織を守るためだ。諦めろ。』


 あの時、俺が追っていたのも、政界と暴力団を繋ぐ謎の資金源だった。

 核心に迫りかけた矢先、圧力によって捜査本部は即座に解体された。俺に情報を提供してくれていた一般人の協力者達は、その数日後、不自然な交通事故で命を落とした。

 警察組織はそれを「ただの不幸な事故」として処理し、事件の存在そのものを歴史の闇に葬り去った。


 正義を掲げるはずの警察組織が、巨大な悪の保身のために、罪もない人間の命を「コスト」として切り捨てたのだ。

 俺は己の無力さに絶望し、組織の腐敗に反吐が吐きそうになり、警察手帳を叩きつけて去った。公安というエリートの肩書を捨て、ドブさらいのような便利屋に身を落としたのは、組織の犬として正義を偽ることに耐えられなくなったからだ。


 ——俺は、逃げたのだ。

 あの時、巨大な権力という怪物に恐れをなし、何も変えられない自分に絶望して、戦うことを放棄した。


——————————————————————————————————————


 「・・・社長?」

水無瀬が不安そうに俺の顔を覗き込む。


 俺は深く、重い息を吐き出した。

 胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。

 公安時代に追っていたあの闇と、この不気味な過疎村で起いている惨劇。すべては地続きだったのだ。熊谷という男は、俺が昔踏みにじられ、逃げ出したあの腐敗した権力構造の、末端の醜悪な顔に過ぎない。


 熊谷が俺の経歴を即座に調べ上げられた理由。

 それは、俺を潰したあの腐った警察上層部と、この村が同じ一本の黒い糸で繋がっているからだ。


 「・・・そうか。」

 俺の口から、低く掠れた声が漏れた。

 「そういうことだったのか。」


 「社長? 大丈夫ですか?」

 「水無瀬。俺がなぜ公安を辞めたか、話したことはなかったな」

 「え・・・?」

 「俺も昔、同じように見捨てたんだ。俺を信じて情報をくれた人間を・・・組織の圧力に屈して、守れなかった。・・・だから警察を辞めた。」


 俺は両手首を縛る結束バンドに、じわりと力を込めた。プラスチックが皮膚に食い込み、鈍い痛みが走る。だが、その痛みが俺の冷え切った意識を、研ぎ澄まされた刃物のように鋭く研ぎ澄ましていく。


 「あの時、俺は逃げた。巨大な組織には勝てない、法も警察も腐っている、一人の人間にできることなんて何もない・・・そう自分に言い訳をして、背を向けたんだ。」

 ひよりの最後の瞳が浮かんでは消える。

 彼女は、俺が昔守れなかった協力者の姿と、あまりにも残酷に重なっていた。


 「だが・・・今回は違う。」



 「勝てるわけがありません……!」

 水無瀬が絞り出すような声で言った。端末を握る手が、小刻みに震えている。

 「相手は村の連中だけじゃないんです。政界の重鎮、暴力団、そして警察のトップ・・・! このデータを外部に告発したって、ネットに流したって、公表される前に揉み消されて、私たちはどこへ逃げても消されるだけです! 組織の規模が違いすぎます・・・!」


 水無瀬の言うことは、ロジックとして100%正しい。

 法治国家のルールで戦うならば、相手は国家権力そのものだ。告発状を出せば握りつぶされ、証拠は隠滅され、俺たちは不審死として処理される。サスペンスの結末としては、絶望的な詰みの状態だった。


 「ああ。法や警察のルールで戦えば、100%負ける。」

 俺は冷ややかに言い放った。

 「だから、警察のやり方で戦うつもりはない。」


 「え・・・?」


 「俺はもう公安の捜査官じゃない。正義の味方でも、法を執行する警察官でもない。ただの地域の依頼人のために頑張るだけの便利屋だ。」


 俺は静かに立ち上がった。

 結束バンドで固く縛られた両手を、自分の膝の間に通す。身体を極限まで折り曲げ、関節が悲鳴を上げるのを無視して、縛られた手を背中側から身体の前側へと潜り抜けさせた。

 グキリ、と肩の関節が異音を立てたが、表情ひとつ変えずに腕を前に戻す。


 「便利屋の仕事は一つだけだ。依頼人から受けた依頼を、最後まで遂行すること。」

 「依頼って・・・、ひよりちゃんはもう!」

 「白石ひよりの依頼は何だった?」

 俺は水無瀬を見下ろし、静かに問いかけた。

「『この村で起きている神隠しの真相を突き止め、助けてほしい』・・・そうだろ?」

 水無瀬が息を詰まらせる。

 「真相は分かった。なら、あとは助け出すだけだ。ひよりの魂を、この腐りきった地下からな。」


 俺は壁の角に手首の結束バンドを押し当てた。摩擦を利用し、突起部分にバンドのロック爪を引っかけ、強い力でねじ込む。

 バチッ!! と甲高い音を立てて、分厚いプラスチックの帯が弾け飛んだ。

 解放された両手を固く握り締め、指の関節を鳴らす。


 「国家の闇だろうが、政界の重鎮だろうが、知ったことか。俺たちの目の前で依頼人を殺した。・・・それだけで、あいつらをぶち殺す理由は十分だ」


 水無瀬の瞳から、怯えの色が消えていく。彼女はゴクリと唾を飲み込み、端末の画面を力強くタップした。

 「分かりました。脱出ルート、およびこのプラントの心臓部・・・制御室のセキュリティ回路を割り出します。社長、タバコを吸っている見張りが戻ってくるまで、あと四十秒です。」

 「十分だ。」


 俺は鉄格子の隙間から、暗い通路の先を静かに睨み据えた。

 かつて組織の圧力に屈して逃げ出した元公安の男は、もうここにはいない。

 腹の底で燃え盛る怒りは、完全に冷徹な「殺意」へと昇華していた。


 「水無瀬。あいつらに教えてやるぞ。」

 俺は低く、地鳴りのような声で囁いた。


 「神の祟りよりも恐ろしい、便利屋の意地ってやつをな。」

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