第9話
地下貯蔵庫の鉄扉の向こうで、足音が止まった。
カチリ、とライターのフリントが擦れる音が聞こえ、安タバコの甘ったるい匂いが格子越しに漂ってくる。見張りの男が煙草を吸い終え、巡回へと戻ってきた。いつの間にか見張りは一人だけになっていた。絶好のチャンスだ・・・。
「おい、大人しく・・・。」
見張りの男が鉄格子の覗き窓から覗き込んだ瞬間、俺は解錠された両腕を滑り込ませた。
隙間から突き出した俺の左手が、男の襟首を鷲掴みにする。そのまま逃がさず、鉄格子に男の顔面を叩きつけた。
鈍い音と共に、鉄格子の隙間から鼻骨が砕ける感触が手に伝わる。
男が悲鳴を上げる暇すら与えず、右手の指先を鍵状に曲げ、喉仏の横にある頸動脈へ強く突き立てた。急激な血圧低下を起こし、男の白目が剥かれる。脱力した身体が鉄扉に崩れ落ちた。
「・・・見事な手際ですね。」
水無瀬が忍び足で近づき、腰の鍵束と、男が肩から下げていたロシア製の短機関銃を引き抜いた。
「鍵、開けます。」
カチャリと金属音が響き、重い鉄扉が静かに開く。
俺は気絶した見張りから予備の弾倉と特殊警棒を奪うと、短機関銃のボルトを引き、薬室に弾薬を装填した。ガチャリという冷たい金属音が、地下の闇に低く響く。
「水無瀬、集中制御室の場所は?」
「はい。精製所のメインシステムへ繋がる構内LANのバックボーンを追いました。この通路をまっすぐ進み、二つ目の角を左です。そこに施設全体の換気や薬品タンクを管理するメインの部屋があると考えられます。」
水無瀬が暗闇の中でプロトタイプ端末の画面を掲げる。
画面には、先ほど彼女がハッキングして抜き取った精製所の配管図と配線図が、青い3Dホログラムのように表示されていた。
「熊谷たちの狙いは、ここでの合成麻薬の生産維持です。ですが・・・この施設は『ある弱点』を抱えています」
水無瀬の眼光が、冷ややかに光る。
「高純度の合成麻薬を精製するため、危険度の高い有機溶剤・・・ジエチルエーテルと濃硫酸、そして無水酢酸が大量に保管されています。どれも極めて揮発性が高く、可燃性の高い劇物です。いわば、熊谷たちはここで、ガソリンの何倍も燃えやすい危険な抽出薬品を大量に使っています。」
「ああ・・・なるほどな。相変わらず、えげつないことを考えるね。」
俺の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「集中制御室の排気バルブを遮断し、内圧を上げた状態で点火すれば・・・この巨大な毒の巣窟は、跡形もなく吹っ飛ぶわけだ。」
「はい。ですが・・・熊谷たちは地上へと続く唯一の搬出口を固めています。武装した幹部集団、約十数名。逃げ道を塞がれた状態で爆破を行えば、私たちも巻き込まれます。」
「逃げ道を確保してから爆破するんじゃない。」
俺は短機関銃の安全装置を解除した。
「爆破の混乱に乗じて、突破するんだ。・・・あいつらが築き上げた最高級の集金システムごと、地獄へ叩き落としてやる。」
地下通路は、薬品の刺すような臭気で満ちていた。
足音を殺し、薄暗い作業灯の影に身を潜めながら進む。配管が張り巡らされた廊下の随所に、作業服を着た男たちが自動小銃を構えて立っていた。
(見張りが三人……距離は十五メートル)
俺は水無瀬に手で「待て」と合図を送り、腰から特殊警棒を引き抜いた。
壁の陰から石ころをひとつ拾い、反対側の通路の奥へ向かって放り投げる。
カン、と小さな金属音が響いた。
「あ? なんだ?」
男たちの視線が一瞬、音がした方へと逸れる。
その一瞬で十分だった。
俺は影から飛び出すと、低姿勢のまま床を滑るように間合いを詰めた。
手前の男の膝裏に特殊警棒を叩き込み、体勢を崩したところへ顎下への掌打。二人目の男が銃口をこちらに向けようとした瞬間、俺はすでにその懐に入り込んでいた。男の手首を捻り上げ、銃口を天井へ向けさせると同時に、その喉元へ短機関銃の砲身を突き立てる。
「ぐはっ・・・!」
三人目の男が引き金を引こうとしたが、俺は倒れ込む二人目の男の身体を盾にした。
ババババッ! と激しい銃声が地下通路に炸裂し、壁のコンクリートが跳ね飛ぶ。
俺は盾にした男の腰からハンドガンを引き抜き、肉壁の肩越しに三人目の男の右膝と右肩を正確に撃ち抜いた。
「あがぁぁぁっ・・・」
三人とも一滴の無駄もなく無力化。所要時間は五秒。
銃声が地下全体に響き渡り、遠くでアラームのけたたましいサイレンが鳴り響き始めた。
「社長! 警報が鳴りました! 各フロアの武装勢力が集中制御室へと向かってきます!」
「予定通りだ。来させて集めた方が、一度に片がつく。」
俺たちは走り出した。
曲がり角を抜けると、重厚な防爆扉が見えてきた。集中制御室だ。
水無瀬が迅速に端末を制御パネルのポートに接続する。指先が目にも留まらぬ速さで画面を叩き、暗号コードを書き換えていく。
「プロテクト解錠まで、あと四十秒・・・! 社長、後ろから誰か来ます!」
通路の奥から、十数人の怒号と足音が近づいてくる。
「いたぞ! ネズミどもだ! 殺せ! 村長の命令だ、生かして返すな!」
「水無瀬、作業を続けろ」
俺は短機関銃を構え、壁の陰に身を寄せた。
「便利屋として、一歩もここを通さん。」
襲い来る男たちが角を曲がってきた瞬間、俺は掃射を開始した。
バババババババッ———
狭い通路で短機関銃の連射音が跳ね返り、鼓膜を激しく揺らす。突進してきた前衛の二人が血飛沫を上げて倒れ込み、後続の男たちが慌てて壁の陰へ飛び退いた。
自動小銃の掃射が壁を削り、火花と激しい跳弾が俺の頬をかすめる。だが、俺の心は恐ろしいほど冷たく澄み渡っていた。
公安時代、机上の空論で指示を出す上層部に反吐を吐きながら、現場で泥をすすり、死線を潜り抜けてきた感覚が、完全に肉体を取り戻していた。
「・・・解錠成功!制御システム、ハッキング完了しました!」
水無瀬の叫び声が響く。防爆扉がプシューッとエアを吐き出し、重々しく開いた。
「入れ!」
俺は弾倉を叩き込み直し、室内へ飛び込むと同時に内部から防爆扉をロックした。
外側から狂ったように扉を叩く音と、銃撃の衝撃が伝わってくるが、厚さ十センチの特殊鋼板はびくともしない。
集中制御室の内部は、巨大な液晶モニターと無数のバルブ、そして大型のサーバーラックが整然と並ぶ、不気味なほど無機質な空間だった。
この部屋ひとつで、地下プラント全体の薬品調合、圧力管理、そして換気システムが一括制御されているのだ。
水無瀬はすぐさまメインコンソールに駆け寄り、端末を接続した。
「薬品調合タンクの自動撹拌プログラムを暴走させます。・・・ジエチルエーテルと濃硫酸の供給バルブを全開。同時に、施設全体の給排気ダクトを完全遮断!」
グラグラと、足元の床が微かに振動し始めた。
モニターに表示された配管の圧力ゲージが、緑から黄色、そして急速に鮮烈な赤へと変化していく。
『警告。Cブロック調合タンクの内圧が制限値を超え直しています。直ちに排気バルブを開放してください。』
機械的な合成音声のアナウンスが虚しく室内に響き渡る。
「内圧上昇まであと三分。これで気化したエーテルが施設全体に充満します。」
水無瀬が壁の赤いレバーを指差した。
「あのレバーを引けば、非常用バッテリーから電気回路へ過電流が流れ、配管の中で『火花』が飛びます。それがガスに引火して、一瞬で大爆発を起こします。 つまり、点火すれば、この地下プラントは爆発を起こし、跡形もなく崩壊します。」
水無瀬が言った。その瞳には、かつて見せた怯えはもうなかった。
「分かりやすいな。」
「ですが社長・・・地上へのエレベーターも搬出口も、熊谷たちが固めています。どうやって脱出しますか?」
俺は室内の壁に掲げられた、古びた構造図面を指差した。
「『鎮魂奉納祭』の伝統……覚えてるか?」
「え……?」
「神隠しの伝承だ。村の若者は、古くから儀式の拝殿から消えるとされていた。・・・昔の人間がどうやってこの地下に気づいたのか。山の上にある天然の鍾乳洞と、この地下プラントの換気孔がどこかで繋がっているはずじゃないか?」
水無瀬がハッとして画面を操作する。
「ありました・・・! 第二排気ダクトの奥、旧鉱山の坑道跡が、山背の洞窟へと続いています。現在は封鎖されていますが、爆風の圧力を利用して旧坑道の壁を破れば、地上へ脱出できます!」
「よし。決まりだな。」
俺は壁の赤いレバーに手を置いた。
その時——ドカン!! という凄まじい衝撃音が防爆扉を揺らした。
扉のヒンジが歪み、隙間からプラズマカッターの青白い火花が飛び散る。熊谷たちが工業用の切断機を持ち出し、強行突破を図っているのだ。
「九条!! 出てこい!!」
歪んだ扉の隙間から、熊谷の狂気じみた怒号が漏れ聞こえてくる。
「わかっておるのか! ここを壊せば、政財界の重鎮たちが黙っておらんぞ! お前たちの家族も、知り合いも、この国のあらゆる権力を使って焼き尽くされる! もう降参しろ! 命だけは助けてやるぞ!!」
俺は防爆扉に向かって、冷ややかに吐き捨てた。
「熊谷。お前が庇護を求めている『権力』とやらに、伝えておけ。」
俺は迷いなく非常用バッテリーの作動レバーを引き下した。
「白石ひよりの命のツケは、高くつくぞとな。」
カチリ、と重い金属音が響いた直後、壁の奥の配管内でバチバチッ!と青白い火花が跳ねた。充満したガスがその火花を飲み込み、一気に爆発的な熱を生み出していく。
「走れっ!!!」
俺と水無瀬は、部屋の奥にある排気ダクトの点検口へと一気に飛び込んだ。
狭く暗いダクト内を、俺たちは死に物狂いで這い進んだ。
背後から、薬品の甘く刺すような刺激臭や恐ろしいほどの熱気が追いかけてくる。
「社長! 前方、旧坑道の封鎖壁です。」
ダクトの突き当たりに、古びた木枠とコンクリートで塞がれた壁が立ちはだかっていた。
俺は持っていた短機関銃の残弾をすべてその壁の接続部に叩き込み、限界まで亀裂を入れた。
次の瞬間——世界が揺れた。
地下深くから、地鳴りのような爆発音が轟いた。
集中制御室で飛んだ火花が、工場全体に満ちていたガスに引火。巨大な熱圧波となって地下全体を駆け抜ける。
薬品タンクが次々と連鎖爆発を起こし、膨れ上がった爆風がダクト内を猛スピードで押し寄せてきた。
「伏せろっ!!」
俺は水無瀬の身体を抱きすくめ、背中で衝撃波を受け止めた。
凄まじい風圧が背中を叩き、その勢いのまま、俺たちの身体は亀裂の入っていた封鎖壁ごと吹き飛ばされた。
「がはっ・・・!?」
ガラガラと崩れ落ちる土砂と岩石。
俺たちは斜面を転がり落ち、冷たい夜気の中へと放り出された。
「ハッ・・・ガハッ・・・! 水無瀬、無事か!?」
「はい・・・っ、なんとか・・・。」
頭から土をかぶりながら立ち上がると、そこは山背の深い森の中だった。月光が暗い樹海を照らしている。
振り向くと、山腹の一部が大きく陥没し、そこから漆黒の煙と凄まじい火柱が空高く吹き上がっていた。
地下で起きた大爆破により、プラントは完全に落盤を起こし、崩落した土砂の中に永久に埋もれようとしていた。
政財界の重鎮たちの膨大なデータ、合成麻薬の精製設備、そして・・・逃げ惑う熊谷たち武装集団もろとも、数千トンの岩盤の下へと消えていく。
『神隠し』の村を長年支配してきた腐敗のシステムは、文字通り跡形もなく消滅したのだ。
夜空に舞い上がる炎と黒煙を見上げながら、俺と水無瀬は呆然と立ち尽くしていた。
頬を撫でる夜風が、生温かい薬品の匂いを吹き消していく。
「・・・終わったんですね」
水無瀬が、ぽつりと呟いた。その目から、ボロボロと大きな涙が溢れ出していた。
「ひよりちゃん・・・これで、よかったのかな・・・。」
俺は何も答えず、ポケットから電子煙草を取り出した。
潰れた箱から一本を引き抜き、カートリッジに差し込み電源をつける。煙が夜空へとしずかに昇っていく。
胸の奥の仕留めきれない痛みが、消えるわけではない。
白石ひよりは帰ってこない。彼女が奪われた未来も、十四年前に奪われた彼女の両親の無念も、この火で帳消しになるわけではないのだ。
だが——。
「ああ。だが・・・まだ全てが終わったわけじゃない。」
俺は煙草をくわえたまま、遠く東京の方角・・・この地獄のシステムを裏で操っていた『本当の巨悪』が眠る闇を見据えた。
「俺たちの仕事は、まだ残っている。」
「水無瀬、今までの記録を全て、リークするんだ。」




