第5話
「・・・社長、顔色が悪いわよ。コーヒーは?」
事務所のドアを激しく叩いて飛び込んできた俺を見て、水無瀬は不審そうに全身へと視線を走らせた。キーボードを叩いていた指を止め、じっと俺の様子を窺っている。俺は何も言えず、荒い息を吐きながら、固く握りしめていた右手をゆっくりと開いた。掌の中で汗に濡れ、くしゃくしゃに丸まっていた1枚の古びた和紙。そこには、太い筆に黒墨を擦りつけたような、狂気じみた乱れた文字が踊っていた。
「・・・これ見て。」
息を整えながらそう吐き出し、和紙をデスクの上へ置いた。水無瀬は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに引き出しからピンセットと透明なビニール袋を取り出し、手慣れた手つきで和紙の端をつまみ上げて広げた。
「相変わらず手慣れた手つきだな。特に気にすることなく素手で触っちゃったよ。すまん。」
「まあ、数年だけ科捜研で働いてたからね。今でも染み付いているみたい。」
水無瀬は大学卒業後、警視庁の附属機関である科学捜査研究所で働いていた。訳あって今はこの小さな便利屋で働いてくれているが、水無瀬の科学的な知識には今まで幾度となく助けられてきた。今回もきっと・・・。
水無瀬は文面を目にした瞬間、涼やかな眉間に深い皺が刻まれた。
『余計な客を連れてくるな。山は、外の男の肉など求めておらぬ。邪魔をするならば、共に神の喰み物と成す』
「・・・外の男?」
仮眠室のドアがそっと開き、様子を窺っていた白石が顔を出した。和紙の文字を視界に捉えると、彼女は少しだけ息をのみ、固い表情で文面を見つめた。
「九条さん達が一緒に行くこと、私は誰にも話していません。マンションの大家さんにも、大学の友人にも、誰にも・・・」
取り乱すことなく、しかし強い緊張を滲ませて白石が言う。
「大丈夫、ひよりちゃん。」
水無瀬はピンセットで和紙を持ち上げ、蛍光灯の光にかざして細部を観察した。
「紙質は市販の和紙じゃないわね。楮の繊維が粗く残っている。自家製の和紙か、古書から破り取ったような古い紙。あとこの墨、完全には乾き切ってないね。気温的に考えてほんの2、30分前、近くで書かれたものが持ち込まれたんじゃないかしら。」
「この付近に、村の人間がいるってことか?」
俺が尋ねると、水無瀬は小さく頷いた。
「ただの推測だけど、白石ひよりという標的が、どこで暮らし、誰と接触し、どんな行動を起こそうとしているのか、監視役が街に潜んでいる証拠だと思うわ。ひよりちゃんがうちの事務所を訪れたことも、私達が3人で行動していることも、全て見られていたと考えた方が自然ね。」
部屋の中に、重苦しい沈黙が訪れる。外の蝉時雨すら、どこか遠くの出来事のように感じた。神喰村から遥かに離れたこの川崎の地で、俺達の足元には既に、何者かの影がべったりと貼り付いていたのだ。敵は遠い山奥だけにいるわけではない。この街の中に紛れ込み、俺達の動向をじっと観察しているのだ。
「九条さん。」
白石が俺と水無瀬の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私を助けるために、お二人まで危険に晒してしまうのは本意ではありません。やっぱり、村に帰るのは辞めてこのまま無視しているのが一番いいのではないでしょうか。」
怖がりながらも、俺達に迷惑をかけたくないという気持ちが白石の瞳から観察できる。
「ここで引き下がったら、ライフアシストジャパンの看板にかかわる。」
俺はデスクの上の和紙を指差した。
「この手紙を見たことで確信したことがあるんだ。もしこれが本物の山の神の祟りや神隠しなら、わざわざ事前にこんな人間くさい脅迫文をポストに投げ込んでくるかな?動いているのは血の通った人間だよ。ひよりちゃんを狙い、都合の悪い外部の人間を遠ざけようとしている『犯人』が必ずいるはずだよ。」
「社長の言う通りね。」
水無瀬が引き出しからパソコンのハードディスクを取り出し、鞄へ詰め込みながら言った。
「敵が警告してきたということは、逆を言えば私達が同行すると都合が悪い。と認めたようなもの。私達の潜入は、確実に奴らの計画を狂わせるはずよ。」
白石は深く、確かに頷いた。
「決まりだな。」
水無瀬は腕時計に目をやった。
「出発を繰り上げましょう。今夜の未明、午前2時に出るわ。監視役がこちらの動きを完全に把握しきれる前に、高速に乗る。社長、機材の搬入を手伝って。」
「了解。」
「あと、社長。これ見て。」
水無瀬は俺に小さな携帯型端末を手渡してきた。画面には数字が羅列されていた。
「なんだこれ? なにかの暗号か?」
「神喰村の財務諸表よ。村役場のネットワークのバッグドアを突きとめて侵入してみたの。さすが過疎化している村ね。ネットワークのセキュリティはそこまで強くなかったわ。」
「おい! それ犯罪だろ・・・?」
「大丈夫、侵入したログは分からないようにしてるわ。それより、ここ見て。送金先は分からないけど、数億円を定期的にどこかに振り込んでいるわ。それとは別に、収入のところ見て。同じ規模の金額が何度も振り込まれてる。こんなの都心の区役所でもありえないわ。」
「資金が潤沢な過疎村なんて、普通存在しないよな。予算があるんなら都市開発とか付近の町村を吸収合併したりするもんだよな。」
「いずれにしても、この村怪しすぎるわ。絶対何かあるわよ。社長、油断しないでね。」
『鎮魂奉納祭』まで、あと2週間。俺達は予定を少し早め、静かな開戦の準備を開始した。
午前2時前。
川崎の街並みを背に、俺達の社用車であるシルバーのワンボックスカーは、滑るように高速道路へと流入した。街灯の光が車内を一定の間隔でオレンジ色に照らし、すぐに通り過ぎていく。運転席には俺、助手席にはノートパソコンと無線のレシーバーを膝の上に広げている水無瀬、後部座席にはシートに深く身を沈めた白石が乗っていた。深夜の高速から関越自動車道へ、山梨県の県境を越えて長野県に入った。山道を走るにつれて、周囲の交通量は完全に途絶えていった。
「・・・消えたわ。」
水無瀬が静かに言った。
「何が?」
「カーナビの地図データよ。」
水無瀬がカーナビの画面を指差した。それまで緑色の山林と一本の細い道路を示していたナビの画面が、徐々にノイズのようなグレーの表示に変わり、『測位不能』の文字がカーナビの画面に点いたり消えたりを繰り返している。手元のスマートフォンも完全に圏外を示していた。
「携帯の電波が死んだのは予想通りだけど、GPSまでジャミングされているか、あるいはこの山域全体の地形が最新のデジタル地図から意図的に除外されているわね。」
ワンボックスカーのヘッドライトが照らし出すのは、鬱蒼と生い茂る樹海と、険しい崖道だけだった。真夏の深夜だというのに、フロントガラスの外側には濃い川霧が立ち込め始めている。
「ひよりちゃん、村までの道順分かるかな? ナビは使えそうにないや。」
「村に帰るのは数年振りなので、あまり自信はありませんが、この先の『二股の赤松』を左に曲がって、旧道を下っていけば、村の入り口にある『一の鳥居』が見えてくるはずです。」
「『一の鳥居』? なにそれ?」
「社長、神喰村の観光ホームページ見てないの?神喰村には全部で7つの鳥居があって、村の入り口から御岳神社に向かって等間隔に設置されているのよ。」
「へー。なんかゲームのチェックポイントみたいで面白いね。」
車のライトが切り裂く濃霧の向こう側に、黒ずんだ巨大な木製の鳥居がぽっかりと浮かび上がってきた。
午前5時過ぎ。
俺達はゆっくりと一の鳥居をくぐった。
鳥居の柱に張り巡らされた巨大な注連縄は、通常の神社とは左右が完全に逆に張られており、下がっている紙垂も黒く染められた不気味な紙だった。
「逆さ注連縄に黒紙垂か。外界からの災いを遮断するか、あるいは中の者を外に出さないための結界の意匠かしら。さすが村一番のイベント前だけあって、凝った真似するのね。」
水無瀬が冷静に分析する。
鳥居を抜け、村の中央の広場に出ると、巨大な楠の影から10人近い村の男達がゆらりと姿を現した。白い装束に身を包み、手に竹箒などを持ったまま無言でこちらを見つめている。
俺達が車を降りると、先頭に立つ小柄な老人が歩み出てきた。
「おはようございます。朝早くからうるさくして申し訳ありません。」
「熊谷おじ様。・・・お久しぶりです。」
俺が挨拶すると、白石が緊張した様子で小柄な老人に声をかけた。
「・・・ひよりか? ほお・・・、お前が戻るのは、2週間後の祭の直前だと思っていたが、随分と早いお帰りだな。」
「あ・・・はい。皆んなが・・・夏休みにじっくり田舎で過ごしたいって言ってくれたので。それに今年はお祭りもあるので・・・。」
「そうか、そうか。」
老人は俺と水無瀬に視線を向け、黄色く染まった歯を見せた。
「『外の男』も・・・おるわけだな。まあよい。わしは、この村で村長をやっておる熊谷 源三と申します。2週間もあれば、山の空気にもじっくりと馴染めよう。今年は10年に1度の鎮魂奉納祭がある。祭りの規則で男衆は白装束を着ておるんじゃよ。驚かせてしまったかな? ぜひ祭りも含めて楽しんでいくとよい。・・・皆の者、ひよりが帰ったぞ。ご友人をひよりの家まで案内して差し上げろ。」
男達が無言で左右に分かれ、道を開けた。
俺たちの神喰村での14日間が始まった。
ひよりの実家である古い屋敷に荷物を下ろした俺たちは、祭りの日まで2週間、村に滞在しながら表面上は長めの夏休みを楽しむ客として過ごすことになった。
滞在初日の昼下がり、俺達は最初の異変に遭遇した。敷地の境目にある古い竹垣の向こうから、一人の女性がじっとこちらを覗き込んでいた。頭に古びた手拭いを巻き、日に焼けた浅黒い肌をした50代半ばほどの女性だった。手に持った竹籠には、採れたての夏野菜が転がっている。
女性は、白石の顔を見つめた瞬間、息をのんで竹籠を落としそうになっていた。
「・・・カヨさん・」
白石が女性に気がつき歩み寄る。
「ひよりちゃん・・・帰ってきたのかい。・・・あんな手紙が届いたのに、逃げずに・・・戻ってきたのかい・・・」
「手紙!? カヨさん、何か知ってるの?」
白石が問い詰めようとしたが、カヨと呼ばれた女性は顔を強張らせ、周囲の竹林を恐怖に満ちた目で見回した。
「今すぐ・・・逃げな。その『外の男』の車に乗って、村を出なさい。10年前のあの子と同じように、お前も喰われてしまうよ・・・!」
それだけ言い捨てると、カヨは逃げるように去って行った。
「あの人は?」
俺が尋ねると、白石は固い表情で静かに教えてくれた。
「隣の家に住んでいる『上条 カヨ』さんです。10年前、カヨさんの娘さんが、鎮魂奉納祭の夜に突然姿を消しました。村では『神隠し』と処理されましたが・・・カヨさんはそれ以来、精神を病んで村から孤立しているんです。」
「なるほどね。彼女こそが、10年前に娘を奪われた当事者になるんだね。彼女の動向を観察すれば、村の隠された真相に辿り着ける可能性があるわけか。」
「ところで、ひよりちゃんのご両親は? 挨拶をしようと思っているんだけど。」
「両親は十数年前に事故で亡くなっています。祖父と祖母も私が高校生の時に亡くなっているので、親族はいません。この村に残っているのは、この自宅だけです。」
「それは失礼なことを聞いてしまって申し訳なかった。」
「いいえ。気にされないでください。村に滞在中は、この自宅を自由に使ってくださいね。」
日が経つにつれて、村の異様さと不気味な違和感が、じわじわと真綿で首を絞めるように俺達の周囲を満たしていった。
滞在3日目
村での生活が始まって最初の数日、村人達は恐ろしいほど「親切」であった。朝になれば近所のおばあさんが採れたての野菜を届けに来てくれ、昼になれば男衆が「こまったことはないか。」と声をかけてくる。
「社長、気づいてる?」
縁側で缶チューハイを飲んでいた俺に、水無瀬が小さな声で声をかけてきた。
「ああ。俺達が屋敷の外に一歩でも出ると、必ず数十メートル後ろを誰かが散歩のフリをしてついてくる。川へ釣りに進もうとすれば、『そっちの川筋は危ないから。』と回り道を促され、山道に入ろうとすれば『熊が出るから』と引き戻される。」
「そう。過剰に親切を装った、完全な行動制限よ。」
水無瀬はノートパソコンの画面を見せた。屋敷の敷地周辺に設置した極小カメラの映像には、昼夜を問わず、交代で俺達の屋敷を見張る村人達の姿がくっきりと写し出されていた。
「まるで、祭りの日まで、安全に飼育されているみたいね。」
滞在7日目
一週間が経過した頃、俺は村の広場で遊ぶ子ども達の姿を目にした。過疎化が進んでいるとはいえ、村には数人の小学生くらいの子どもがいた。彼らは広場で鬼ごっこのような遊びをしていたのだが、その掛け声を聞いた時、奇妙な感覚を覚えた。
『一ふた、二ふた、三ふた・・・神様が喰うたら、骨ばかり・・・』
童謡とは思えない奇妙な歌詞を、子ども達は笑顔で歌いながらくるくると踊っている。俺が声をかけようと近づくと、子ども達は一斉に動きを止め、無表情で俺を見つめ返した。その目には、幼児特有の無邪気さは一切感じず、大人と同じような冷ややかで濁った光が宿っていた。さらに、不気味な現象は夜にも起きた。
夜の2時を過ぎる頃になると、村のあちこちから『カン・・・カン・・・』と、木と木を打ち合わせるような甲高い音が響いてくるのだ。窓の隙間から覗くと、白い装束を着た村人達が、提灯を手に持って無言で村の小道を練り歩いている。
「あれは、『払いの儀式』と呼ばれるものなの。」
白石が静かに言った。
「子どもの頃、夜中に外をみてはいけないとおばあちゃんに叱られました。祭りの前の数日間、村人は毎夜、山の神に『供物の存在』を知らせるために歩き回るんだそうです。」
「供物? 山の山菜とか、獣肉とか、そういうこと?」
「ええ。・・・そうだといいんですけどね。」
滞在10日目
山あいの集落に、叩きつけるような強烈な豪雨が襲ったのは、滞在10日目の夜だった。濁流となった雨水が敷地を飲み込み、激しい雨音と風の咆哮が、村のあらゆる音をかき消していく。昼間、俺達の背中に不気味にまとわりついていた村人達の視線が、この豪雨によって物理的に遮断された瞬間でもあった。
「行くなら、今がチャンスだ。」
俺は雨具のフードを深くかぶり、水無瀬達に声をかけた。
俺達3人は、足音を殺して泥水を踏みしめ、隣家にある上条カヨの古い民家へと向かった。家の玄関を静かに開けると、雨漏りの音が絶え間なく叩く暗がりの中、カヨが提灯の小さな灯火の中、畳の上で膝を抱えて座っていた。
忍び込んできた俺達を確認した時、カヨは肩を跳ね上がらせて驚いたが、濡れた白石の顔を見ると、落ち窪んだ目からポロポロと涙をこぼした。
「・・・逃げなかったのかい、ひよりちゃん。2週間もあったのに、どうして帰らなかった・・・。」
「カヨさん。」
白石がカヨを手繰り寄せて言う。
「教えてください。10年前、カヨさんの娘さんの身に何があったんですか? 私は・・・本当は何のために村に呼び戻されたのでしょうか?」
カヨは震える手で膝を擦り、雨音に消されそうな低い声で語り始めた。
「あの夜もひどい雨だった。サエは23歳になったお祝いだと、村長達に神前の儀のために1人で拝殿へ呼び出されたんだ。村長達は『御山荒神様が降りて来られる。朝まで誰も近づいてはならん』と・・・。でも、私は心配で、夜中に境内の床下に忍び込んだんだ。」
カヨの瞳に、10年前に見た漆黒の記憶が宿る。
「拝殿の奥から・・・聞こえたんだよ。サエの悲鳴と、何か重い木が擦れ合うような・・・ゴゴゴ、という低く恐ろしい音が。そして、男達の低い話し声が・・・。翌朝、拝殿の扉が開いたとき、サエの姿はなかった。上着の切れ端と、拝殿の床に残された赤黒いシミだけを残してね・・・。」
「男達の声?」
俺は思わず身を乗り出した。
「村長達の声だったのか?」
「わからない・・・。私はただ、ただ、怖くて、サエに何かあったのを目の前にしておきながら、何もできなかったんだよ!!!!」
カヨは突然大きな声を張り上げ、叫び出した。とても正気とは思えない。
「サエが消えた日の午後、村長達は山の奥にある禁足地の洞窟に向かって、酒と重箱に入った生肉を運んでいた。村長達は言っていたよ。『これでこれから先10年は村の安泰は約束された。山が鎮まった。』とな・・・」
カヨの震える声を聞き終え、俺達は屋敷へと戻った。
雨音が響く暗い畳の間で、水無瀬がパソコンの画面に村の地形図を広げ、推論を組み立て始めた。
「カヨさんの証言から、1つの恐ろしい仮説が立つわ。」
水無瀬の声色は、冷たく冴え渡っていた。
「10年に1度の鎮魂奉納祭で選ばれた女性が消える。これは怪異や神隠しなんかじゃないわ。おそらく村長を中心とした村の大人達による、『人身御供に見せかけた連れ去り』よ。」
「人身御供・・・」
白石が息をのむ。
「そう。なぜかは分からないけど、23歳という若く健康な女性をターゲットにし、祭に乗じて、拝殿という密室の中で捕える。そして・・・神社の地下、あるいは裏手の禁足地にある洞窟へ連れ去っている。」
「水無瀬、何のためにそんなことすると思う?」
俺は電子たばこを作動させ、口に咥えた。
「理由は2つ考えられるわ。1つは、村の絶対的な統制のため、神の祟りという恐怖を定期的に植え付けることで、村人達を狂信させ、村長一族が絶対的な権力を握り続けるため。そして、もう1つは。」
水無瀬は画面上の『禁足地の洞窟』を指差した。
「洞窟の奥に、村長達が他人に知られたくない何かが存在している。そこに人を閉じ込めて何らかの労働をさせているのか、あるいは何かを守っているのか。どちらにせよ、あの拝殿には人を地下に落とすようなカラクリがあると思っているわ。」
ドン、ドン、ドン
時刻は間もなく日をまたぐと言うのに、玄関のドアが誰かの訪問を知らせる。
「こんな時間に誰だ?」
「私、ちょっと確認してきますね。」
白石が玄関に向かったところ、外からは村長である熊谷が玄関に入ってきた。
「ひよりよ。夜分遅くにすまんな。あと数日で鎮魂奉納祭が行われるが、鎮魂の儀は知っておるな?今回はその大役をお前に託したい。といっても、この衣装に身を包み、拝殿でお祈りするだけだがな。」
熊谷は脇に抱えていた風呂敷包みをゆっくりと差し出した。
結び目が解かれ、中に収められていたものが露わになった瞬間、白石は思わず息をのんだ。
そこに畳まれていたのは、光を吸い込むかのように禍々しい、深淵のような漆黒の装束だった。
一般的な神事で用いられる清らかな白装束とは、正反対の異彩を放っている。布地は古く、どことなく湿り気を帯びているように見え、近づくだけで古い木箱のカビと、かすかに鉄の匂いが混じったような異臭が鼻をついた。装束の袖口や裾には、一の鳥居で見かけたものと同じ黒く染められた紙垂がびっしりと縫い付けられており、かすかな風に揺れてシャリ、シャリと不気味な擦れ音を立てる。さらに胸元には、糸が変色した血のような暗赤色の刺繍で、見たこともない歪な紋様が刻まれていた。
「・・・これ、を・・・?」
白石が怯えた声で呟く。熊谷は黄色い歯を見せて不敵に笑った。
「そうじゃ。我が村の『鎮魂の儀』において、神に祈りを捧げる儀式――いや、巫女が纏うべき特別な装束での。村の男衆は神を迎えるために白い装束を着るが、儀式を司る巫女だけは、この黒を身に纏わねばならん。神の影となり、鎮めるためのしきたりじゃよ。」
熊谷の言葉とは裏腹に、その衣装はまるで「自分はこれから人身御供になるのだ。」と嫌でも自覚させるための、残酷な標識のように見えた。
滞在14日目
8月14日、明日はいよいよ鎮魂奉納祭の本番だ。雨はすっかりあがり、山からはむっとするような濃密な青臭さと熱気が立ち上っていた。村の中は朝から、どこか浮き足立った異様な雰囲気に包まれていた。家々の軒先には黒い紙垂が吊り下げられ、広場の楠には赤黒い幕がぐるぐると巻き付けられていく。
村人達は相変わらず親切だった。
しかし、俺達とすれ違う際に向ける彼らの笑顔の奥には、どこか「もうすぐ役目が終わる。」という、冷たい達成感のようなものが透けて見えた。
「車、出せるわね。」
水無瀬が社用車のキーをポケットから取り出し、低く言った。
「いつでも逃げられる。でも、今逃げれば、ひよりちゃんは一生、狂った村の神話に怯えて暮らすことになる。ひよりちゃん、決意は変わらないかな?」
奥の部屋から出てきた白石は、準備された不気味な黒い衣装を抱えていた。彼女はすぐには答えなかった。抱えた衣装の布地を、白くなった指先で固く、破れんばかりに握りしめている。その肩が、かすかに震えていた。
「私、ずっと逃げてきてたんです。」
ぽつりとこぼれた声は低く、喉の奥から絞り出すようだった。
「10年前、サエさんが消えたあの夏、村の大人達が『御山荒神様も満足された。』って囁きあっているのを聞いて、怖くてたまらなかった。だから18で高校を出たあと、逃げるように東京へ出て・・・。村のことなんて、全部忘れたふりをして生きてきました。」
白石は一度言葉を切り、天井を見つめた。
「でも、忘れたことなんて一日もなかった。私がだけが普通に暮らしている間も、カヨさんは狂ってしまい、サエさんの生死は分からないまま、警察に通報する者もいない。自分には関係ないと、見ないふりをしている罪悪感から、ずっと逃げられなかったんです。」
俺と水無瀬は無言で彼女の言葉を待った。雨上がりの湿った風が、格子窓の隙間から滑り込んでくる。
「それに・・・両親のことです。」
白石が顔を下げた。その瞳には、長年胸の奥に燻り続けていた深い痛みが見て取れる。
「私の両親は、私が12歳の時に『登山中に足を滑らせた事故』で亡くなったと聞かされていました。でも、この2週間、村の大人達の冷たい目を見ていて、確信したんです。父と母は事故なんかじゃない。村長達のやっている狂気に気付いて、止めようとして消されたんじゃないかって。」
白石は抱えていた黒い衣装を畳の上に置き、俺と水無瀬の目を真っ直ぐに見つめ直した。そこにはもう、震えも戸惑いもなかった。
「ここで今、お二人の車に乗って逃げたら、私はまた一生、罪悪感と恐怖から逃げ回ることになります。両親がなぜ死んだのかも、サエさんに何が起きたのかも分からないまま、次の犠牲者が出るのを指をくわえて待つのは、もう嫌です。」
白石の背筋が、すっと静かに伸びた。
「私自身の過去を清算するため、私が行きます。明日の夜は予定とおり、鎮魂の儀のために拝殿へ向かいます。私が中にいる間に、お二人は拝殿の地下のカラクリと、禁足地の洞窟を暴いてください。サエさんのような犠牲者を、私で最後にします。」
言葉には出さずとも、俺と水無瀬は深く頷いた。
真夏の太陽が、血のように赤く染まった空を残して山々の向こう側へと沈んでいく。村全体が、息をひそめるような深い漆黒の闇に飲み込まれて行った。引き返せない運命の8月15日まで、あと数時間。
俺達の、命をかけた決着の刻が、静かに迫っていた。
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