第4話
事務所のエアコンが、猛暑に抗うように不気味な重低音を響かせていた。窓の外では、アスファルトから立ち上るめまいのしそうな炎天下の中で、蝉の声が狂ったように鳴き喚いている。8月上旬、街全体がお盆休み前の独特な静けさと浮ついた空気感に包まれる中、ビル2階にある【ライフアシストジャパン】の社内だけは、冷え切った緊張感が漂っていた。
「社長、ぼーっとしない。地図の確認、次は神喰村の御岳神社の裏手ルートの確認だよ。」
ノートパソコンの画面に鋭い視線を走らせながら、水無瀬が指示を飛ばす。そのキーボードを叩く指先には迷いがなく、ディスプレイの光が彼女の瞳に青白く反射していた。その隣で、白石ひよりは麦茶のグラスを両手で包み込み、肩を極限まですくめ、ソファに座っていた。まるで、そうしていなければ自分の身体が恐怖でバラバラに砕けてしまうとでも思っているかのように、細い指先を真っ白になるまで握りしめている。
「・・・すいません。私の勝手な都合で、お二人を巻き込んでしまって。」
「気にしないで、ひよりちゃん。」
九条が視線を向けて声をかける。その声には、いつもの仕事モードとは違う、かすかな温かみが混じっていた。
「神喰村のあの不気味な背景を知った以上、ひよりちゃんを一人で帰すわけにはいかないよ。それに、依頼を受けた以上はちゃんとこなすのがうちの主義だしね。ほら、水無瀬もやる気満々だよ!」
「まままあね・・・頼りにされた以上はきっちり守るよ。社長がね。私はこの喧騒な大都会を離れて、自然豊かな田舎村で、愉快な風習を楽しむ夏休みにする予定よ。」
俺たちのくだらないやり取りを見て、ひよりは絞り出すような小さな息を吐き、少しだけ胸を撫で下ろしたようだった。しかし、その瞳の奥にこびりついた恐怖が消える様子は見られなかった。
先日、ネットの奥深くで見つけたあの気味の悪い手記——「神に喰われ、神を喰らう」という血肉の分配儀礼。そして、なぜか23歳の女性が標的になるという不吉な言い伝え。ひよりのもとに届いた不気味な手紙には、『あなたは選ばれました。』そして、『カナラズ、ミヤマニカエレ』という脅迫といっても過言ではない文章が書かれていた。投函された郵便局の消印は、間違いなく彼女の故郷である長野県の管轄のものであった。
「さて、行程と作戦の最終チェックするよ。」
水無瀬がホワイトボードをペンで叩く。そこには、ここ数日で彼女が組み立てた綿密な潜入、調査計画がびっしりと書き込まれていた。
「ここには、今まで社長と私で調べてきた内容とひよりちゃんに聞いた内容をまとめて、最良の作戦を立てておいた。時期は8月15日、お盆の当日。村では10年に1度、この時期に【鎮魂奉納祭】が行われるわ。過疎化した山間の村に、全国から親族や帰省客が一斉に戻ってくる時期。だからこそ、外部の人間が紛れ込んでも極端には目立ちにくい。私たちは『ひよりちゃんの大学のサークル仲間』という名目で村に同行する。」
「・・・サークル仲間、ですか。水無瀬さんはともかく、大丈夫でしょうか・・・?」
ひよりが俺の顔を不安そうに見つめる。29歳の俺と23歳の大学生。横に並べば微妙な年齢差であるのは否めない。
「大丈夫。社長は『サークルのOBで、車の運転手役として半ば強引に連れてこられた頼りない先輩』って設定にするから。むしろその方が、村の人間に対して不用意な警戒感を抱かせずに済むでしょ。」
「頼りないのは余計だし、すでに扱いが酷くないか、水無瀬よ。」
「まあまあまあ。ちょっと静かにしてて。それから、移動手段だけど、うちの社用車のワンボックスを使うわ。レンタカーを現地で調達したり、川崎ナンバーのレンタカーで乗り込んだりすると変に目立つから。『普段使いの車で、ちょっと荷物の多いドライブ旅行にやってきた』っていう体裁を装う方が自然よ。」
水無瀬はそう言いながら、デスクの引き出しから一般人からしたら、見たこともない電子機器の数々を取り出し、整然と並べ始めた。
「車内には、私がセットした小型の隠しカメラ、広帯域の盗聴器発見機、携帯型無線機、それから携帯電話の基地局が途切れたときのために民間用衛星通信モジュールを積み込んであるわ。山奥で完全に電波が遮断されても、このモジュールを使えば外部との連絡や位置情報の送受信が可能になる。現地での通信確保はこれで完璧よ。機材にかかった費用は、社長の給料から天引きしておきます。」
「・・・相変わらず手抜きがないな。便利屋の域を明らかに超えてるだろ。」
俺は並べられたブラックボックスのような機材を見つめながら感心した。水無瀬のこの徹底的なリスク管理と準備の速さには、いつも救われている。彼女がライフアシストジャパンのブレーンとして腕を振るってくれるおかげで、うちは倒産せずやりくりできているのだ。
「ひよりちゃん。もう一度確認したいんだけど、村での当日の具体的な動きについて覚えていることを話してくれる?」
俺に促され、ひよりは遠い記憶を手探りで探るように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「祭りは15日の夜、村の一番奥にある『御岳神社』の境内で行われます。昼間は村の男衆が神輿の準備や参道の提灯付けをしていて、夕方頃から神輿が村を練り歩きます。・・・私がまだ小さかった頃、祭りの夜に子どもが外を出歩くことは固く禁じられていました。『夜の山からは、御山荒神様が降りてくる。目を開けて外を見たら目が潰れるから、家に閉じこもって鍵をかけろ』っておじいちゃん、おばあちゃんに何度も叩き込まれて・・・」
ひよりの肩が、思い出して怯えるようにわずかに震える。
「でも、23歳になった村の選ばれた女性だけは、話が別なんです。その年の15日の夜、御岳神社の拝殿で『鎮魂の儀』という特別な儀式を納めなければならないという決まりがあって。」
「そして、その儀式を納めた後なのか、納める前なのか、過去に何人かその選ばれた女性達が消えているということなのよね。」
紬が腕を組み、目を細めながら話をまとめた。
「単なる怪異や、神様のきまぐれによる神隠しなわけがないと俺は思ってる。そこには必ず、物理的に人間を攫い、どこかへ消失させる人間の手によるトリックが潜んでいるはず。拝殿の構造、神社の裏手にある山道、あるいは村人の配置、禁足地と呼ばれる場所の存在・・・現地に着いたら、村人に怪しまれない範囲で村や神社の構造を洗い出そう。」
「承知よ!生贄だの神喰いだの言ったって、実際に動いているのは血の通った生身の人間よ。いくら怪しげな因習があろうと、物理法則を無視した消失なんてあり得ないわ。ひよりちゃんを絶対に守るんだから。」
紬が強く決意すると、ひよりは少し口元を緩め、「ありがとうございます。」と深く頭を下げた。
決戦は8月15日、予定日までちょうど2週間ある。今夜は事務所の奥にある小さめの仮眠室にひよりを泊め、明日の未明、まだ街が眠っている時間帯に車で神喰村に向けて出発する手はずとなった。
「ひよりちゃん、今日はもう無理して考えなくていいから、奥で少し休んでてて。移動中も長時間のドライブになるし、体力を温存しておかないとね。」
「はい・・・お言葉に甘えさせていただきます。」
ひよりが深々と一礼し、仮眠室へと姿を消した。部屋の中に、再びエアコンの低い動作音だけが戻ってくる。時計の針は午後6時を過ぎていた。外の激しい蝉時雨は、いつの間にか夕暮れ独特の静寂と、湿り気を含んだ風の音へと変わり始めている。長時間の詰めた打ち合わせで喉がすっかりカラカラになっていた俺は、立ち上がって息を吐いた。
「少し下に降りて、コーヒーでも買ってくるよ。紬は何がいい?」
「じゃあ、いつもの微糖で。ついでに冷たいオレンジジュースでも買って来てあげて。ひよりちゃんが起きた時に飲めるように。」
「了解。」
俺は千円札をポケットに詰め込み、事務所のドアを開けた。ビル自体の築年数が古いこともあり、一歩廊下に出るとエアコンの効いた室内とは打って変わり、ムッとした生暖かい熱気が肌にまとわりついてくる。薄暗い階段を一段ずつ降り、一階のコーヒーショップへ向かった。ビルの1階にあるコーヒーショップはエントランスから出たところに入り口がある。エントランスのガラス扉を開けようとした時、俺の視線はふと、壁際に並んでいるステンレス製の郵便ポストの列に留まった。うちの事務所の投入口——『ライフアシストジャパン』と手書きのテプラが貼られた古いポストの隙間から、白い紙切れの角がチョロリと覗いていた。
(・・・ん?)
俺は足を止め、怪しむように眉をひそめた。夕方の郵便配達は、2時間ほど前の午後4時過ぎには完了しているはずだ。夕方に郵便物が届くのは稀であり、配達員の誤配達か、あるいはチラシの類だろうか。だが、チラシにしては、紙の質感がどこか異質だった。胸の中に、冷ややかな不快感が急速に広がっていくのを感じた。俺はコーヒーショップへ向かうのをやめ、ゆっくりとした足取りでポストへと歩み寄った。ステンレスの金属扉に手をかけ、中身を確認する。中に入っていたのは、予想していたようなチラシでも、水道修理のマグネットでもなかった。それは、郵送されたものですらなかった。切手もなければ、宛名の記載もない。安っぽい市販の白い無地封筒が一通、ポツンとそこに落ちていた。裏返してみると、糊付けすらされておらず、封が開いたままだった。
俺は生唾を飲み込み、素手で触ることに一瞬の躊躇を覚えながらも、慎重に中の物を取り出した。入っていたのは、古びたざらざらとした手触りの和紙だった。そこに書かれていた文字を見た瞬間、心臓が跳ね上がる感覚が全身を包んだ。
ひよりのもとに届いたような、整った文字ではない。まるで、太い筆にドロリとした黒墨を塗りたくり、乱暴に叩きつけたような、あるいはミミズが狂乱して這い回ったかのようなおぞましい乱れ文字だった。紙面全体から発せられる異常な気迫に気圧されながら、俺はそこにかかれた文章を必死に解読した。
『余計な客を連れてくるな。山は、外の男の肉など求めておらぬ。邪魔をするならば、共に神の喰み物と成す。』
「・・・っ!」
激しい衝撃が頭を駆け巡った。
『外の男』——俺のことだ。
俺が紬とひよりと共に、三人で村へ行こうとしていることを、奴らは完全に把握している。それだけではない。この手紙がポストに投げ込まれたのは、ほんのわずか前、俺たちが2階の事務所で、秘密裏に行程や作戦を話し合っていた、まさにその最中だ。
敵は、もう目と鼻の先にいる。
遠く離れた山奥の『神喰村』の禍々しい影は、すでに川崎の、このしびれるような猛暑の街の中にまで、そして俺達の事務所のすぐ足元にまで、確かに伸ばされていたのだ。
背筋に巨大な氷塊を直接押し付けられたかのような、激しい悪寒が駆け抜けた。俺は弾かれたように振り返り、夕闇が迫るビルの前の通りへと飛び出した。打ち水された濡れたアスファルト、遠くの幹線道路を走り去るトラックの騒音、仕事帰りに汗を拭いながら歩くサラリーマン達。通行人は皆、普段通りの平和な日常の顔をして歩いている。だが、その雑踏のどこかから、又は路地裏の暗がりから、俺達をじっと見つめている冷たい視線があるような気がしてならなかった。
(誰だ? 誰がこんな物を・・・!?)
道行く人の顔を片っ端から確認しようとするが、誰もがただの通行人にしか見えない。手の中の手紙を、破れんばかりの力で固く握りしめた。敵はこちらの動きを読んでいる。何人で行動し、いつ出発しようとしているのかすら、すでに見抜かれているかもしれない。
俺はコーヒーを買うことも忘れ、力強い足取りで階段を駆け上がり、2階の事務所のドアを激しく開けた。
神喰村の『鎮魂奉納祭』まで、あと2週間。
俺達の戦いは、村に一歩踏み出す前から、すでに始まっていたのだ。




