第8話 鳥居の奥
コト……。
小さな音は一度だけ響くと、森は再び静寂に包まれた。
リクとミアは顔を見合わせる。
「今の音……。」
ミアは小さくつぶやき、祠へ目を向けた。
リクも祠の前まで歩いていく。
「中から聞こえましたね。」
鈴が収まった台座には、もう何の変化もない。
しかし、そのすぐ前にある石畳だけが、ゆっくりと震え始めた。
ゴト……。
石と石が擦れる重い音が響く。
「動いてます……。」
ミアは思わず息をのんだ。
石畳は少しずつ持ち上がり、その下から一枚の古い石板が姿を現す。
長い年月、土の中に眠っていたのだろう。
表面には苔が付き、角も欠けていた。
石板いっぱいに、見たこともない文字が刻まれている。
「何か出てきましたね。」
リクはしゃがみ込み、石板をじっと見つめた。
「読めますか?」
「えっ?」
突然聞かれたミアは慌てて石板へ近づく。
文字を一つひとつ目で追う。
しかし、見たことのない文字だった。
「……分かりません。」
「そうですか。」
リクはあっさりとうなずく。
「じゃあ、この辺りの人が読む字なんですかね。」
「どうなんでしょう……。」
ミアは石板から目を離せなかった。
何かがおかしい。
そう思うのに、その理由が分からない。
「触ってみますか?」
リクが石板へ手を伸ばそうとする。
「だ、ダメです!」
ミアは思わずその手をつかんだ。
「え?」
「さっき鈴を戻しただけで、石板が出てきたんですよ?」
「これ以上何が起きるか分かりません。」
リクは石板と自分の手を見比べる。
「確かに。」
素直に手を引っ込めた。
「じゃあ、触るのはやめておきます。」
ミアはほっと胸をなで下ろす。
その時だった。
石板に刻まれた文字が、一瞬だけ淡く光ったように見えた。
「……!」
ミアが目を見開く。
しかし次の瞬間には、何事もなかったかのように光は消えていた。
「どうしました?」
リクが首をかしげる。
「い、いえ……。」
ミアはもう一度石板を見る。
そこには、最初と変わらない古い石板があるだけだった。
「気のせいだったのかな……。」
小さくつぶやく。
「何かありましたか?」
リクが心配そうに尋ねる。
「何でもありません。」
ミアは笑顔を作って答えた。
「たぶん、見間違いです。」
「そうですか。」
リクは安心したようにうなずくと、改めて石板を見渡した。
「でも、不思議ですね。」
「何がですか?」
「この石板です。」
リクは石板の周りをゆっくり歩く。
「こんな大事そうなものが埋まっているなら、誰かが管理していてもよさそうなのに。」
「確かに……。」
ミアもうなずく。
祠の周りには足跡一つない。
落ち葉も積もり、人が来た形跡はまったくなかった。
「ずっと誰も来ていないみたいですね。」
「だからこそ、不思議です。」
リクは石板を見つめながら首をかしげた。
「鈴を戻しただけで出てきたんですから。」
「……そうですね。」
ミアは静かに答える。
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
やがてリクは立ち上がり、服についた土を軽く払う。
「読めないものを見ていても仕方ありませんね。」
「次の町へ行きましょう。」
「もう帰るんですか?」
ミアは思わず聞き返した。
「何か手がかりがあるかもしれません。」
「手がかりなら、その町で聞けば分かるかもしれません。」
リクはいつもの笑顔で答える。
「ここには誰もいませんから。」
ミアは石板をもう一度見つめる。
胸の奥のざわつきは消えない。
それでも、小さくうなずいた。
「……分かりました。」
二人は祠に背を向け、鳥居の方へ歩き始めた。
石板だけが、静かに二人の背中を見送っていた。
しばらく歩くと、赤い鳥居が見えてくる。
「戻ってきましたね。」
リクはそう言って、何の迷いもなく鳥居をくぐった。
その瞬間だった。
森を包んでいた重苦しい空気が、ふっと消える。
木々を揺らす風が吹き抜け、どこかで鳥がさえずり始めた。
「さっきまでとは、全然違いますね。」
リクは大きく息を吸い込む。
「やっぱり山の空気は気持ちいいです。」
「……。」
ミアは返事をせず、鳥居を振り返った。
鳥居の向こうは静かな森が広がっているだけだった。
祠の姿は、もう見えない。
「どうかしましたか?」
リクが不思議そうに尋ねる。
「いえ。」
ミアは小さく首を横に振る。
「何でもありません。」
「そうですか。」
リクは笑顔でうなずく。
「落とし物も返せましたし、近道もできました。」
「結果的にはよかったですね。」
ミアは苦笑した。
「……そうですね。」
その言葉を口にしながらも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
二人は再び西へ続く山道を歩き始める。
やがて、その姿は木々の向こうへ消えていった。
森に静寂が戻る。
誰もいなくなった鳥居の奥。
小さな祠の前にある石板が、ゆっくりと淡い光を放ち始めた。
カラン……。
どこからともなく、鈴の音が一度だけ響く。
石板に刻まれた古い文字が、一文字、また一文字と静かに光を帯びていく。
まるで、長い眠りから何かが目を覚ますように。
しかし、その光景を見届ける者は誰もいなかった。
第一章 完
次回『世界がおかしくなり始める』




