第28話 最後の修正
黒き竜が羽ばたく。
巨大な翼が巻き起こした暴風が、大広間を駆け抜けた。
「散ってください!」
レオンの声と同時に、五人はそれぞれ左右へ飛び退く。
次の瞬間。
轟音とともに、五人が立っていた場所へ黒き竜の前脚が叩きつけられた。
石畳が砕け、無数の破片が宙へ舞い上がる。
「すごい……。」
エルナは思わず息をのんだ。
一撃だけで、大広間の床が大きくえぐれている。
「あれをまともに受けていたら……。」
言葉の続きを口にすることはできなかった。
「まだです!」
リクは砕けた石畳を蹴り、一気に間合いを詰める。
聖銀の剣が黒き竜の首元へ向かって振り抜かれた。
しかし。
黒き竜はわずかに首を傾けるだけで、その一撃をかわす。
勢いのまま通り過ぎたリクへ、巨大な尾が迫った。
「リクさん!」
レオンが飛び込む。
剣で尾を受け止めるが、その衝撃は想像を超えていた。
「ぐっ!」
レオンの身体が大きく吹き飛ばされる。
床を何度も転がり、ようやく柱へ背中を打ち付けて止まった。
「レオンさん!」
エルナが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
レオンはすぐに立ち上がり、再び剣を構えた。
口元から血が流れている。
それでも、その瞳は黒き竜から逸れなかった。
「この程度では……倒れません。」
その言葉に、リクは力強くうなずく。
「みんなで勝ちましょう!」
「はい!」
ミアは両手を掲げ、大きな魔法陣を展開した。
「拘束魔法!」
幾重もの光の鎖が黒き竜へ伸びる。
鎖は巨体へ巻き付き、一瞬だけ動きを止めた。
「今です!」
エルナも魔法陣を描く。
無数の光弾が黒き竜へ降り注ぐ。
轟音。
閃光。
大広間が激しく揺れる。
煙が立ち込める中、リクは再び聖銀の剣を握り締めた。
「決めます!」
煙を切り裂き、一直線に駆け出す。
その時だった。
煙の奥で、黄金の瞳が静かに開く。
「甘い。」
低く響く声。
次の瞬間、黒き竜の魔力が爆発する。
ミアの光の鎖は一瞬で砕け散り、エルナの魔法もかき消された。
リクは思わず足を止める。
「そんな……。」
黒き竜は静かに五人を見渡した。
「力を合わせる。」
「それは間違ってはいない。」
「だが――。」
「まだ届かぬ。」
圧倒的な魔力が、大広間を支配した。
圧倒的な魔力が、大広間を支配した。
黒き竜は静かに前脚を持ち上げる。
「終わりだ。」
その一言とともに、巨大な爪がリクへ振り下ろされた。
「リク!」
レオンが駆け出す。
ミアも魔法を放とうとする。
しかし、間に合わない。
その時だった。
「危ない!」
アルドが反射的に飛び出した。
リクの前へ身を滑り込ませる。
両手で杖を握り締め、黒き竜の爪を受け止めた。
――パキッ。
乾いた音が、大広間へ響く。
全員の動きが止まった。
アルドの杖。
中央に一本の細いひびが走っていた。
「そんな……。」
エルナが息をのむ。
アルドも驚いたように杖を見つめる。
「ひびが……。」
「入ってしもうた。」
黒き竜は、その杖だけを見つめていた。
黄金の瞳が大きく揺れる。
「馬鹿な……。」
低く漏れた声には、初めて隠しきれない動揺が混じっていた。
「砕けるはずが……。」
その言葉は途中で止まる。
黒き竜は何かに気付いたように、ゆっくりとアルドへ視線を向けた。
そして、小さく目を閉じる。
「そういうことか……。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
リクたちには、その意味が分からない。
だが、エルナだけは違った。
黒き竜の表情。
杖のひび。
今まで胸の奥に積み重なっていた違和感。
すべてが一つにつながろうとしていた。
「まさか……。」
エルナは震える手で、自分の胸を押さえる。
遠い昔、図書館で読んだ一冊の古い書物。
そこに書かれていた、ある伝説。
記憶の断片が、ゆっくりとよみがえり始めていた。
エルナの脳裏に、一つの伝承がよみがえる。
幼い頃。
魔法学院の図書館で読んだ、古びた書物。
誰も史実とは思っていなかった、おとぎ話のような伝承。
『初代魔法使いは、世界で最初に魔法を極めた賢者。』
『その杖には、世界の魔力そのものが宿っていた。』
『しかし、その杖は主と運命を共にし、最期の時に砕け、この世から姿を消した。』
だから――。
その杖は、存在してはいけない。
「……そうだったんだ。」
エルナは震える声でつぶやく。
「私がずっと感じていた違和感は……。」
アルドの杖を見つめる。
「あの杖は……。」
「初代魔法使いの伝説の杖……。」
その場の空気が凍りつく。
「伝説の……杖?」
ミアが思わず聞き返す。
エルナは小さくうなずいた。
「でも、おかしいんです。」
「その杖は、初代魔法使いが亡くなった時、一緒に砕けたと伝えられています。」
「この世界に存在するはずがありません。」
レオンも目を見開く。
「では、なぜ……。」
誰も答えられない。
ただ一人。
黒き竜だけが静かに目を閉じていた。
まるで、すべてを悟ったかのように。
アルドは困ったように杖を見つめる。
「そうじゃったんか。」
「わしは何も知らんかった。」
少し笑って頭をかく。
「ただ、気付いた時には、この杖を持っとっただけじゃ。」
エルナは一歩前へ出る。
瞳には迷いがなかった。
「アルドさん。」
「お願いがあります。」
「その杖を……。」
「私に託してください。」
アルドは目を丸くする。
「わしの杖を……か?」
「はい。」
「理由は、まだ説明できません。」
「でも、分かるんです。」
「この杖が、最後に選ぶべき人は……私です。」
アルドはしばらくエルナを見つめていた。
やがて、ふっと優しく笑う。
「そうじゃな。」
「お嬢さんに預けるのが、一番ええ気がする。」
そう言って、何のためらいもなく杖を差し出した。
エルナが両手で受け取る。
その瞬間。
杖が淡く、優しい光を放った。
アルドは自分の口元に手を当て、照れたように笑う。
「……また口が勝手に動いてしもうた。」
エルナが杖を受け取った、その瞬間だった。
杖の淡い光が、ゆっくりとアルドの身体を包み始める。
「……あれ?」
アルドは自分の腕を見つめた。
袖の先から、小さな光の粒が静かに舞い上がっていく。
「アルドさん……!」
リクが駆け寄る。
ミアも思わず一歩前へ出た。
「そんな……。」
レオンは言葉を失い、ただアルドを見つめる。
アルドは何度か自分の身体を見回し、不思議そうに首をかしげた。
「なんじゃろうな。」
「身体が光っとる。」
その声に、不安はなかった。
本当に不思議がっているだけだった。
リクはアルドの腕をつかむ。
「大丈夫ですよね?」
「消えたり……しませんよね?」
アルドは優しく笑った。
「さあのう。」
「わしにも、さっぱり分からん。」
少し空を見上げる。
舞い上がる光を眺めながら、小さく笑う。
「じゃが。」
「不思議と怖くはないんじゃ。」
その言葉に、誰も返事ができなかった。
静かな沈黙だけが流れる。
アルドはゆっくりとリクへ視線を向ける。
「リク。」
「はい。」
「お前さんは。」
少しだけ間を置く。
「最後まで、お前さんじゃったな。」
リクは首をかしげる。
「え?」
アルドは穏やかに笑う。
「それでええ。」
いつもと何も変わらない笑顔だった。
「お前さんと旅ができて。」
「本当に楽しかった。」
リクの目に涙が浮かぶ。
「アルドさん……。」
アルドは少し照れたように笑う。
「そうじゃのう。」
「また旅を――」
言葉が途切れる。
舞い上がる光が、少しずつ増えていく。
アルドは少し寂しそうに笑った。
「……したかったのう。」
リクは思わず一歩踏み出した。
「まだです!」
「また一緒に旅をしましょう!」
アルドは何も答えなかった。
少し照れくさそうに頭をかく。
そして、いつものように笑う。
「……また口が勝手に動いてしもうた。」
その笑顔のまま。
アルドの身体は無数の光となり、静かに空へ溶けていった。
誰一人、言葉を発することができなかった。
ただ、無数の光だけが静かに舞い続けていた。
静寂が、大広間を包む。
誰も動けなかった。
舞い上がる光だけが、ゆっくりと消えていく。
黒き竜は、その光を黙って見つめていた。
やがて静かに目を閉じる。
(……そうか。)
その一言は、誰にも聞こえない。
(最後まで。)
(何も知らぬまま、消えていったか。)
長い時を生きてきた黒き竜の瞳に、初めて悲しみが宿る。
(見事だった。)
(アルド。)
短く、それだけを心の中で告げる。
ゆっくりと目を開く。
その黄金の瞳は、今度はエルナの手に握られた杖へ向けられた。
杖には、先ほど入ったひびが残っている。
(その杖も……。)
(役目を終える。)
そして黒き竜は、静かにリクへ視線を移した。
何も知らない勇者。
最後まで変わらない勇者。
その姿を見つめ、黒き竜は心の中で小さく笑う。
(そういうことだったのか。)
(世界は最後の修正を終えた。)
(ならば。)
(我もまた、この結末には逆らえぬ。)
ゆっくりと翼を広げる。
広間に再び、重い魔力が満ち始める。
リクは涙をぬぐい、聖銀の剣を握り直した。
その瞳には、悲しみはあっても迷いはない。
黒き竜は静かに口を開く。
「勇者。」
低く響く声が、大広間に響く。
「来い。」
それだけだった。
リクは小さくうなずく。
「……はい。」
再び、決戦の火ぶたが切って落とされた。
リクが地面を蹴る。
黒き竜も静かに前へ踏み出した。
二人の距離が一気に縮まる。
その瞬間だった。
エルナの手に握られた杖が、淡く輝き始める。
「……え?」
思わず足を止める。
杖が温かい。
いや、それだけではない。
何かが、自分の中へ流れ込んでくる。
見たこともない魔法陣。
聞いたこともない詠唱。
誰かの記憶のような景色。
「これは……。」
エルナは杖を見つめた。
自分は何もしていない。
それなのに、身体が自然と動いていく。
「エルナさん!」
ミアが叫ぶ。
エルナはゆっくりと杖を構えた。
唇が動く。
自分の意思ではない。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
静かに紡がれる古代の詠唱。
誰一人として聞いたことのない言葉が、大広間へ静かに響いていく。
杖の先へ、眩い光が集まる。
黒き竜は、その光から目を逸らさなかった。
黄金の瞳を細め、静かに見つめる。
「……やはり。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
次の瞬間。
眩い光が一本の奔流となって黒き竜を飲み込む。
轟音が大広間を震わせた。
漆黒の鱗が砕け散る。
巨大な身体が、初めて大きく後方へ押し返された。
「効いてる!」
レオンが声を上げる。
ミアも目を見開く。
「あれほどの黒き竜が……。」
エルナは震える手で杖を見つめた。
「私じゃない……。」
「この杖が……。」
黒き竜はゆっくりと体勢を立て直す。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「そうだ。」
「それでいい。」
静かに目を閉じる。
「勇者。」
「今なら届く。」
リクは聖銀の剣を強く握り締める。
その瞳に、迷いはなかった。
黒き竜へ向かって、一気に駆け出す。
リクは一直線に駆ける。
黒き竜もまた、静かにリクを見据えていた。
互いの距離が、一歩、また一歩と縮まっていく。
やがて。
リクは大きく踏み込み、聖銀の剣を振り上げた。
「はあああああっ!」
銀色の軌跡が、大広間を駆け抜ける。
黒き竜は避けなかった。
静かにその一撃を受け止める。
聖銀の剣は、砕けた鱗の隙間を貫き、黒き竜の胸へ深く突き刺さった。
広間から、音が消える。
黒き竜はゆっくりとリクを見つめた。
黄金の瞳には、もう敵意はなかった。
「勇者。」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
リクは剣を握ったまま、黒き竜を見つめ返す。
黒き竜は小さく笑う。
「最後まで……。」
「変わらなかったな。」
リクは意味が分からず、小さく首をかしげた。
黒き竜は、その反応を見て静かに目を細める。
「……それでいい。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
ゆっくりと空を見上げる。
まるで、誰かの姿を探すように。
そして、小さくつぶやいた。
「これが……。」
短い沈黙が流れる。
「この物語の結末か。」
その一言を最後に。
黒き竜の巨体は静かに崩れ落ちた。
轟音が大広間へ響く。
誰も動かなかった。
長い戦いが、終わった。
リクは聖銀の剣を握ったまま、その場に立ち尽くす。
アルドが消えた場所へ、思わず視線を向けた。
もう、そこには誰もいない。
静寂だけが、大広間を包んでいた。
次の瞬間だった。
エルナの手に握られた杖が、ふっと淡い光を放った。
エルナは手の中の杖を見つめた。
淡い光が、ゆっくりと杖全体を包み込んでいく。
「……。」
誰も声を出せなかった。
先ほどまで黒き竜と戦っていた広間には、静かな時間だけが流れている。
「エルナさん。」
リクが小さく声を掛けた。
エルナはゆっくりと首を横に振る。
「分かるんです。」
「この杖も……。」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
理由は分からない。
それでも、不思議と理解できた。
もう、この杖の役目は終わったのだと。
光は少しずつ強くなっていく。
アルドが消えた時と同じように。
優しく。
穏やかに。
エルナは杖を胸へ抱き寄せた。
「ありがとうございました。」
その声は、小さく震えていた。
杖は何も答えない。
ただ静かに、光だけを放ち続ける。
やがて、杖の先端から一粒の光が舞い上がった。
続いて、もう一粒。
古びた木肌は少しずつ光へと変わり、空気へ溶けていく。
エルナは最後まで、その杖を離さなかった。
そして――。
最後の光が夜空へ昇るように消えた時。
エルナの両手には、もう何も残っていなかった。
静かな沈黙が流れる。
リクはアルドが消えた場所と、杖が消えた場所を交互に見つめる。
誰も理由は分からない。
それでも、五人は同じことを感じていた。
何かが、本当に終わったのだと。
その時だった。
何もなかった空間へ、小さな光が一つ灯る。
続いて、もう一つ。
無数の光が大広間いっぱいに舞い始めた。
「……綺麗。」
エルナが思わずつぶやく。
その光は黒き竜の亡骸を包み込み、砕けた石畳を照らし、静かに広間全体へ広がっていく。
やがて、黒き竜の身体もまた淡い光となり、ゆっくりと空へ溶け始めた。
リクはその光景を、ただ黙って見つめていた。
敵だった。
けれど最後の黒き竜の表情は、不思議と穏やかだった。
誰一人として言葉を発さない。
ただ、光だけが静かに舞い続ける。
その光が天井へ届いた瞬間――。
世界が白く染まった。
床も。
柱も。
天井も。
視界のすべてが白い光へ溶けていく。
「また転移……?」
レオンが周囲を見渡す。
ミアも魔法陣を展開しようとしたが、その光はあまりにも穏やかで、敵意はまったく感じられなかった。
エルナは思わずリクの腕をつかむ。
「リクさん……。」
リクは小さくうなずいた。
「大丈夫です。」
その言葉を最後に、白い光が五人を静かに包み込む。
誰も抗うことはできなかった。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
その時。
どこからともなく、一人の声が静かに響いた。
「勇者よ。」
その声は、不思議とリクだけの胸へ届いた気がした。
次の瞬間。
白い光がすべてを包み込み――。
五人の姿は、その場から静かに消えていた。
次回『物語の外側』




