第2話 最初の村で予言を聞き流した
王都を出て十分ほど。
リクは焼きたてのパンを片手に、鼻歌まじりで街道を歩いていた。
「やっぱり焼きたては美味しいな。」
外は香ばしく、中はふわふわ。
異世界に来て最初に感動したのがパンというのもどうかと思うが、美味しいものは美味しい。
そんなことを考えながら歩いていると――。
「勇者様ぁぁぁぁぁぁ!」
後方から切羽詰まった叫び声が響いた。
「ん?」
振り返ると、一頭の馬が砂煙を上げながら全速力でこちらへ駆けてくる。
馬上には、先ほど城で見送ってくれた若い騎士が乗っていた。
「はぁ……はぁ……。」
騎士はリクの前で馬を止めると、肩で息をしながら深く頭を下げた。
「よ、ようやく……追いつきました……。」
「どうしたんですか?」
リクはパンを一口かじりながら首をかしげる。
「勇者様……逆です……!」
「え?」
「東です!」
「……東?」
「勇者様が歩いておられるのは、西へ向かう街道です!」
一瞬、沈黙が流れる。
リクは周囲を見回し、来た道を振り返った。
「あ、本当だ。」
驚くほどあっさり認めた。
「逆だったんですね。」
騎士は思わずその場に膝をつく。
「王様が地図をお渡ししたではありませんか……。」
「あ、そういえば。」
リクは革袋をごそごそと探り、一枚の羊皮紙を取り出した。
地図だった。
折り目以外のしわは一つもない。
まるで一度も開かれていない。
「……まだ見てませんでした。」
騎士は静かに空を見上げた。
「神よ……。」
数分後。
街道の分かれ道。
騎士が何度も何度も東の方角を指差して確認する。
「勇者様。この道を真っすぐです。」
「真っすぐですね。」
「途中で分かれ道があっても真っ直ぐです。」
「分かりました。」
「地図も見てください。」
「はい。」
「本当に見てください。」
「大丈夫ですよ。」
リクは笑顔で親指を立てた。
その笑顔が、騎士には少しだけ不安だった。
「では、私は城へ戻ります。」
「ありがとうございました。」
騎士は何度も振り返りながら馬を走らせていく。
リクも今度こそ東へ向かって歩き始めた。
それから三日後。
街道は石畳から土の道へ変わり、周囲には広々とした畑や風に揺れる麦畑が広がっていた。
小さな木製の看板には、こう書かれている。
『東の村 ようこそ』
リクは看板を見上げ、小さく息をついた。
「やっと着いた。」
その一言を聞いた見張りの青年が、大きく目を見開く。
「勇者様だ!」
その声を合図に、静かだった村は一気に活気づき始めた。
家から人が飛び出し、畑で働いていた人たちも鍬を置いて駆け寄ってくる。
「本当に勇者様が来た!」
「王都から知らせが届いていたんだ!」
「ようこそ東の村へ!」
「お待ちしておりました!」
あっという間に人だかりができた。
「え、えっと……こんにちは。」
これほど歓迎されるとは思っていなかったリクは、少し照れくさそうに頭を下げる。
すると、人垣の奥から杖をついた老人がゆっくりと歩いてきた。
長い白髪に、深いしわの刻まれた穏やかな顔。
村人たちは道を開け、一斉に頭を下げる。
「村長。」
老人はリクの前まで来ると、静かに一礼した。
「私は、この東の村の村長でございます。」
「相沢リクです。」
リクも慌てて頭を下げ返す。
村長は優しく微笑んだ。
「ようこそ、お越しくださいました。」
「勇者様を、この日まで三百年、お待ちしておりました。」
「三百年?」
リクは思わず聞き返す。
「もちろん、私が三百年生きていたわけではありません。」
村長は小さく笑う。
「この村には代々、勇者様を迎える使命が受け継がれているのです。」
「へぇ。」
リクは素直に感心した。
「すごいですね。」
「ありがとうございます。」
村長は再び表情を引き締める。
「ですが、本日お呼びしたのは歓迎するためだけではありません。」
「勇者様に、どうしてもお伝えしなければならないことがあります。」
「お伝えしたいこと?」
「はい。」
村長は村の奥に建つ、小さな石造りの神殿へ視線を向けた。
「あそこには、この世界の命運を左右する予言が刻まれています。」
「どうか、ご覧ください。」
リクも神殿を見上げる。
古びた石造りの建物は、長い年月を感じさせる静かな佇まいだった。
「神殿か。」
「ちょっと楽しみかも。」
そう呟いたリクは、何の疑いもなく村長の後を歩き始めた。
神殿の中はひんやりとした空気に包まれていた。
外から差し込む光が石の床を照らし、壁には長い年月を感じさせる壁画が描かれている。
「こちらです。」
村長に案内され、神殿の最奥へ向かう。
そこには、人の背丈ほどもある大きな石碑が静かに立っていた。
表面には、びっしりと古い文字が刻まれている。
「これが……?」
「はい。」
村長は石碑を優しく撫でた。
「三百年前、初代勇者が黒き竜を封印した後、この村へ残した予言です。」
リクは石碑を見上げる。
「……字、小さいですね。」
「え?」
「これ彫るの、大変だっただろうなって。」
村長は一瞬だけ言葉を失った。
「そ、そうですね……。」
軽く咳払いをして気持ちを切り替える。
「では、お聞きください。」
村長の表情が真剣になる。
「赤き月が空を染める夜――。」
その一言で、神殿の空気が変わった。
「黒き竜は再び目覚めます。」
「その時、勇者は聖銀の剣を手にし――」
リクは静かに石碑を眺める。
(石って意外ときれいなんだな。)
(磨いたりするのかな。)
「四つの神殿を巡り、三人の仲間と共に世界を救う。」
村長は一文字一文字を噛みしめるように読み上げていく。
「この予言は三百年間、一度も変わることなく語り継がれてきました。」
「つまり勇者様は――」
リクは石碑にそっと触れてみた。
「冷たい。」
「……勇者様?」
「あ、すみません。続けてください。」
村長は小さく息を吸い、話を続ける。
「勇者様には、必ず聖銀の剣を手にしていただかなければなりません。」
「その剣だけが、黒き竜を完全に討つことができる唯一の武器なのです。」
「聖銀の剣は、この村の広場に眠っています。」
「しかし、古くから『選ばれし勇者にしか抜くことはできない』と伝えられているのです。」
神殿の中は静まり返る。
村人たちも固唾を呑んで見守っている。
勇者は、この話をどう受け止めるのか。
誰もが、その返事を待っていた。
リクは少し考え込むように顎へ手を当てる。
「なるほど。」
村長は安堵した。
理解してくださった。
そう思った、その時だった。
「ところで。」
「はい?」
「この村って、美味しいご飯屋さんあります?」
神殿の空気が、ぴたりと止まった。
村長の口が半開きのまま固まる。
周囲で見守っていた村人たちも、互いに顔を見合わせた。
「……ご飯屋さん、ですか?」
村長が恐る恐る聞き返す。
「はい。」
リクは真顔だった。
「旅って体力使いますし。美味しいもの食べておいた方が頑張れそうなので。」
あまりにも自然な理由だった。
だからこそ、誰もすぐには言葉を返せない。
しばらくの沈黙のあと、村長は小さく咳払いをした。
「も、もちろんございます。」
「本当ですか?」
リクの表情がぱっと明るくなる。
「この村自慢のシチューがありまして……。」
「シチュー!」
今までで一番いい反応だった。
村人たちの表情が複雑になる。
世界の命運より、シチュー。
勇者の優先順位が、誰の予想とも違っていた。
「……勇者様。」
村長は気を取り直すように姿勢を正した。
「食事も大切ですが、その前にもう一つだけ。」
「はい。」
「聖銀の剣についてです。」
村長は石碑の横に刻まれた紋章を指差す。
「この剣は勇者にしか扱えない特別な剣です。」
「歴代の勇者は皆、この剣を手にして黒き竜へ挑みました。」
「ですから、勇者様も――」
「へぇ。」
リクは頷く。
だが、その視線は村長ではなく、神殿の窓の外へ向いていた。
どこからか、香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
(シチューかな。)
(パンも焼いてるのかも。)
そんなことを考えていると、村長が真剣な声で言った。
「勇者様。どうか忘れないでください。」
「聖銀の剣だけは、必ず手にしてください。」
「それだけが、この世界を救う唯一の希望なのです。」
リクは笑顔で頷いた。
「分かりました。」
その返事に、村長は胸をなで下ろす。
――しかし。
リクの頭の中では。
(シチューって、クリームかな。)
(ビーフかな。)
(パンのおかわりできるといいな。)
すでに剣の話は、きれいさっぱり消えていた。
その時だった。
「……あなた。」
静かな声が神殿の入口から響く。
一人の少女が腕を組み、じっとリクを見つめていた。
肩まで伸びた淡い銀色の髪。
深い青色の瞳。
年齢はリクとそう変わらないように見える。
だが、その落ち着いた雰囲気は村人たちとはまるで違っていた。
「本当に勇者なの?」
少女は半信半疑といった表情で尋ねる。
リクは肩をすくめる。
「そうらしい。」
「……そうらしい?」
少女は小さくため息をついた。
「村長。」
「はい。」
「この人、本当にさっきの話、聞いてました?」
村長は困ったように苦笑いを浮かべる。
「……聞いては、いたと思います。」
「“聞いていた”と”理解していた”は違います。」
少女は額に手を当て、大きく息を吐いた。
「自己紹介がまだだったね。」
少女はリクの前まで歩み寄る。
「私はミア。」
「この村で賢者をしています。」
リクも軽く頭を下げた。
「相沢リクです。」
「よろしく。」
ミアはその笑顔を見つめ、数秒黙ったあと、小さく呟いた。
「……先が思いやられる。」
その一言に、村長も村人たちも、静かに同意するしかなかった。
ミアは小さくため息をつくと、神殿の外へ歩き出した。
「ついてきて。」
「どこに?」
「あなたに見せるものがある。」
リクと村長も後を追う。
神殿を出ると、村の中央広場には人だかりができていた。
その中心には、一振りの銀色の剣。
台座に深く突き立ち、何年も抜かれていないことが一目で分かる。
村人の一人が静かに呟く。
「三百年間、誰にも抜けなかった伝説の剣です。」
ミアはリクを見つめる。
「勇者なら……きっと抜ける。」
リクは剣を一瞥し、
「へぇ。」
とだけ呟いた。
そのまま歩き出そうとする。
「……え?」
ミアが目を丸くした。
次回『絶対に抜くべき剣を抜かなかった』




