十六、ページの向こうへ(2)
「あなたと再会したのはオーストリーのヴィエンナのカフェでしたっけ。苦しそうに咳をするあなたを見て、わたしは厄介ごとに巻き込まれるなと思ったんです」ナフタが言った。
春の野原なのに、冷たい風が一面に吹いていた。
「そんなこと、どうでもいいだろ」セテムの声も冷たかった。
ルドウィナ・セテムブリーニとレオナ・ナフタは対峙していた。その傍らにハンス・カストルプが立っている。
数メートルほどの距離を取って向かい合っていた。二人の手には互いに黒い銃身が握られている。
「銃の撃ち方は分かりますかねえ」ナフタが静かに言う。
「わ、分かるに決まっているんだろ」そう言うセテムの手は震えていた。
「そう、それじゃあ、ルドウィナ。あなたに機会を与えましょう。まず、あなたからわたしを撃ちなさい」
セテムの顔は真っ青だった。ハンスは彼女が本心はナフタを殺すことを望んでいないことがよく分かっていた。小さい頃からずっと一緒に暮らしてきた相手だ。簡単に銃を撃てる訳がないじゃないか。
「ほ、本当にいいのか?」
「何を躊躇っているのです。さあ」ナフタは平然と言い放った。だが、その顔にいつもの余裕が見られないことをハンス・カストルプは理解した。何かの感情に駆られているような気がする。
――死に駆られているのかもしれない。
そう思うと、どきりと心臓が高鳴った。ナフタは死のうとしているのではないか。セテムブリーニに撃たれて、殺されようとしているのではないか。
それはやがて確信へと変わっていった。ナフタの顔をよく見ると、とても白いように思えた。セテムはいつも情豊かだが、ナフタは自分の感情をどこか偽っているように思える。飽くまでも余裕を保っている素振りを見せたがるのだ。恥ずかしがり屋でもあるが。
そのナフタが、今はとても緊張しているように唇を閉ざしていた。
「さあ」ナフタが急かした。その声も矢張り震えていた。
バン。鋭い音が響いた。
セテムは銃身を空に向けて発射していた。そして、ナフタの方を見て、静かに言った。
「いいんだ。もういいんだ。今、分かったよ。わたしはお前を殺したくないんだ」
「そうですか、じゃあ」ナフタは冷たく言った。
「死になさい」凄く残酷な色が、その顔に浮かんでいた。
――ああ、ナフタは死のうとしているんだ。ナフタが撃とうとしているのは、セテムブリーニじゃない。
自分自身だ。
スローな動きの中で、ナフタが銃身をゆっくりと自分のこめかみに向けていくのが分かった。動体視力が上がっているのだ。もしかしたら、クローディアの血の影響かも知れない。
――止めないと。
ハンスは走り出した。思いっきり土を蹴って、若草を踏みつけて走った。
――もう、誰も死なせはしない。
一足飛びに跳ね上がると、ナフタのローブへと、飛びかかった。相手の目には驚きの色が浮かんでいた。今までには見られなかった表情だ。
また鋭い音が響いて銃が発射された。ナフタの頬を擦って、彼方に飛んでいく。
ハンスはナフタの身体と一緒に地面に倒れ込んだ。
「なんで」ナフタの声が聞こえた。その両目から流れる涙が止めどなく頬を濡らしていた。擦り傷の上にも、だった。
「ハンス……なんで……わたしの、ような、にんげんは、死んで、当然なのに……。あれっ、おかしい……泣けなくなった……はずなのに……」一際高い声で娘は啜り泣き始めていた。
「今は泣いてもいいんだよ、泣いても」ハンスは言った。自分も泣きそうになっているのが分かった。感情を抑えるのが精一杯だった。
娘は大声を上げて、泣いていた。長い間堪えていたものが一気に流れ始めているかのようだった。
かなり経って、泣き止むと俯きながら言った。
「わたしは、ハンスを騙そうとました。ペーペルコルンを嗾けて、ヨアヒムを殺させたのはわたしです。わたしが、一番君のいとこに妬いていたんです……その罪を、死を以て、償おうとしました……今、死ねばわたしは消えてなくなれるでしょう……『魔の山』は終わるのですから……それをとても望んでいたんです」
「何言ってるんだよ、ナフタ」ハンスは明るく言った。
「えっ?」驚いて顔を上げた。
「ぼくらはベルクホーフの仲間じゃないか」
ナフタは呆気にとられたようにハンスをただただ見やっていた。
セテムはそれを静かに眺めていた。仲の悪い相手なのだから、嘲笑うのだろうかとハンスは思ったが、凄く真剣な顔だった。
「もう、いいよ。この件は、これで終わりだ」素っ気なく言って後ろを向き、足早に去って行った。
「ナフタ、行こうか」
ハンスは手を差し出した。ナフタは素直にそれを掴んだ。まるで少女のようにあどけない表情を浮かべて。
手風琴の練習はとても疲れる。セテムはとても厳しい先生だ。腕が鉛のように重い。もう日が暮れかかって、窓の外には薄闇が広がっていた。
「ハンス、ダメじゃないか。この程度でへこたれていたら。教えてくれって言ったのは君だろ?」セテムは責めるように言う。だが、口調の熱心さとは裏腹にその顔はとても蒼白かった。
既に結核が大分進行しているらしい。時々、苦しそうに何度も咳をしていた。
「でも、流石に辛いよ……」ハンスはその姿を見て、いたたまれなくなりながらも言った。
その時、ふと、ベッド脇に置いてあった新聞の一面に眼が止まった。東欧で、オーストリーの皇太子夫妻が暗殺されたと大きく見出しが出ていたのだ。
「ああ……これで戦争が始まるんだ。我が国はやがて諸国に宣戦布告をすることになるだろう」セテムは溜息を吐いた。
「それは、セテムが経験してきたことなんだよね」
「うん。何度も、何度も、止められなかったよ。君は戦争に行くだろうね」その顔には諦観の表情が浮かんでいる。
「もちろんだよ。国の大事に出征しないと男が廃るよ……って、当然嘘だよ。でも、見届けたい事があるんだ」
「『魔の山』の終わりを、かい」
「うん。『魔の山』のページがこれでお終いなら、その向こう側へ行きたいんだ。もしかしたら、と思っていることがあって」
「なんだい、それは?」セテムは不思議そうに聞いた。
「今は、秘密だよ」




