十六、ページの向こうへ(3)
寝室に戻ると、ハンスはすぐにベッドへ横になった。すこし、うとうととする。
ふと、人の気配がした。誰だろうと思い、身を起こす。
「ハンス……」
ヨアヒムの声だった。
信じられない。ヨアヒムは死んだはずだ。
でも、確実にどこからか、声が聞こえる。「ヨアヒム」
いとこがベッドの横に立っていた。とても優しい顔をしていた。
「ハンス、きみ(ドゥ)は山を降りると決めたんだね」
「うん。今さっきね。新聞を見るまではそんなこと決めてなかったけど。飽くまで戦争が起きたら、の話だよ。幸い体調はもうほとんどいいんだ。平熱に戻ったしね。ぼくはちょっと信じられないけど」
「だよね」ヨアヒムは笑った。
「ヨアヒム、きみ(ドゥ)の分までぼくは戦うよ。山を降りられなかったきみ(ドゥ)の分もぼくが、頑張るよ」
「ありがとう、でも、辛かったら頑張ることはないんだよ。それに、ハンスが志願したら二等兵になる」ヨアヒムは笑った。
「それは、我慢するさ」ハンスは苦笑した。 暫く、間があった。
「それじゃあ、ぼくは帰るよ。もっと長く居たいけど、時間だから仕方がない。さよなら」ヨアヒムは言った。
「名残惜しいな……でも、さよなら」
ヨアヒムが身を屈めた。頬には何も感じなかったけれど、口付けだとすぐに分かった。「ぼくだけしないのは……悔しいから……」 ヨアヒムは後ろを向いた。窓の方に歩いて行った。
「待って、待ってよ」急に寂しさがこみ上げてくる。ハンスは手を伸ばした。
しかし、いとこは行ってしまった。
大声を上げると、目覚めていた。
窓から、朝の光が射し込んできた。もう何百回と訪れた、同じ朝。
頬を触ると、涙で濡れているのが分かった。
――悲しんでばかりは、いられないな。
ハンスは本棚へと歩いて行った。黒焦げになった『魔の山』を取り出す。その間にはちぎった白いページが何枚も挟み込まれていた。
ハンスはその一枚を抜き出した。そして、机の前に坐り、返しそびれたちびた鉛筆を使って、何かを書き始めた。
時々、ハンスはベルクホーフの焼け跡に戻ってみた。
時間の急速な進み方にはすっかり慣れきった。普通に歩き回れるようになっている。
「レオナ、ルドウィナ」ハンスはこっそり声に出して二人をファーストネームで呼んでみた。
何かとても、懐かしい感じがする。どこか別の場所で親しかった二人。ジョゼッペ・セテムブリーニらしき人の姿もうっすらと思い出す事が出来た。一緒に食事をしたことも。
――この世界は作り事なのだろうか。
ハンスは自問自答する。
――いや、違う。ルドウィナは大きな○の中の小さな○がこの世界だと言った。その二つには差異はきっとない。同じ世界にしか過ぎない。本の中と外、そんな物に差したる違いはないんだ。
「じゃあ、僕も何か出来るんじゃないのか」ハンスは言った。
――いや、絶対に出来る。僕にしか出来ないことがあるんだ。
ハンスは決意を固めた。
ハンスはトランクに荷物を詰めていった。何を見ても何かを思い出す、とはこのことだろうか。一つ一つの物にこの七年間(今はどうも一九一四年にあたるらしい)の記憶が詰まっているのだった。
皆の形見。ぺちゃんこになったヨアヒムのボール。ローブのポケットにあった、ラダマンテュスの絵筆も貰った。もちろんシュテールのスプーンやエンゲルハルトの薄い本も入れた。
今となってはみんな、思い出だ。
――とうとう、戦争は始まった。
ハンスにとっては信じられることではなかったが、新聞は刻々と正確にその事実を伝えていった。想像を絶する砲撃戦が欧州平野で繰り広げられている。ハンスはすぐに旅立つことを決意した。セテムとナフタは二人で駅までハンスを送ってくれると言うことだ。
――ちょっと不安だな。
「一応、ハーンブルクまで戻って、そこで兵隊に入る手続きをすることにするよ」二人を前にして言った。
「ハンス、本当に大丈夫なのか? 嫌だったら、すぐに止めてもいいんだよ」
「ここまで来たんだ。止められないよ」ハンスは笑った。
「カストルプ君」ナフタが気恥ずかしそうに言った。
「何だい、まさか『エンス・ボート』が襲ってくるとでも?」とハンスはおどけて言う。
「彼らは目的を達成したんです。もうこれからは壊す一方でしょう。戦争の合間に」ナフタは真面目に答えた。
決闘以来、ハンスとナフタはちょっと気まずい。
「さあ、馬車が待ってるよ、行こう」ハンスは元気よく叫んだ。
――来た時は、受け身だったな。ぼくは。でも、これからは……。
プラットフォームに着いた。まさに七年ぶりだ。
濛々と蒸気を上げて、ハーンブルク行きの列車が滑り込んできた。
「それじゃあ、セテム。ナフタ。さようなら」
「お別れは、言いませんよ」ナフタが言う。そして軽く拳を前に突き出した。「また、どこかで逢えることを願って」
ハンスはその拳に、自分の拳をぶつけてやった。
「今ならその、石工党の――ジョゼッペさんだっけ――が『魔の山』は二人で完成させなきゃならないって言ったのが分かる気がするよ」
「なんでさ」セテムは不満げに睨んできたが、顔色は良くない。頬も、やや痩け始めていた。
――いつか、そう遠くないうちに死が訪れるだろう。
そう言う風に思わせた。
「二つ、異なったものが必要なんだよ。それは互いに憎み合うかもしれない、でも切磋琢磨し合って、そこに何かが生まれるんだ……、それが人を破滅から救うものであったらいいな、なんつって」ハンスは舌を出した。
「その言い方、まるで、パパみたいだね」とセテム。
ハンス・カストルプは赤面した。
そのまま汽車に乗り込んだ。座席の窓から二人の姿が見える。
やがて、ゆっくりと車体は動き出す。
「ハンス」セテムが叫んでいた。速度を上げて汽車に併走していた。
「手を出して!」
「どうしたのさ」ハンスは窓から手を伸ばす。
セテムは震える手で消しゴムを渡そうとしているようだった。
鉛筆と、消しゴム。とある秋の庭で、交換しようとした物。
その手を掴む。しかし、ハンスはそれを強く相手の掌の奥深く押し込んだ。
「持っていて」小さな声で言う。
「な、なんで……」セテムの声は弱々しい。 「また、逢った時、渡してよ。それまで、ぼくも鉛筆を預かって置く」
「でも、でも」
「いつか逢えるよ、また、絶対に……」ハンスは微笑んだ。
汽車は駅を離れようとしている。ハンスはゆっくりと手を離した。セテムは立ち止まった。手を振りながら、もう片方の手の薬指で目頭を押さえている。
「それじゃあ、またいつか!」
大きく手を振る。戦地へ赴くのに、なぜか不安はなかった。
汽車は大きなトンネルに入って、また暫くして抜けた。冥府から抜けたのだろうか。明るい世界が目の前に広がってきた。
山また山である。しかし、ハンス・カストルプは一つ一つの山を区別できていた。自分が暮らしていた山もあの遙か向こうにあるのだから。
『大洋汽船』を膝の上で広げる。
――まだ、読む本が残っていたな。




