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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十六、ページの向こうへ(1)

 憎悪の眼差しでセテムブリーニはナフタを睨み付けていた。時間が変化してから、既に大分経っていたので、速さに少しづつ適応し始めたらしい。 

 まだステッキは握っていたが、帽子の鍔を深く落として、顔に陰を作っている。赤毛が耳元でピンと跳ねていた。

「お前が全てやったんだ。すべてこれはお前の作り出した者によってなされた。お前の責任だ、これは!」顔色が蒼白くなるまで叫んでいた。 

「これに関しては否定はしませんよ」ナフタは腕を後ろで組んで、他人事のように言った。

「大体お前はいつも、わたしのやろうとしていることと反対のことをする。前回も、前回も、お前の妨害で、戦争が勃発することを防ぐことができなかった」

「今回もでしょう。そして、次回はないですよね」

「なんだと!」セテムは何度も雪の上にステッキを突き立てながら、相手に近付いていく。

「なんで、パパはお前なんかに、『魔の山』を書き継がせようとしたんだ! それが分からないよ。お前なんかに、なんで……。石工党を侮辱し、テロ組織をでっち上げるようなやつに!」

「それが、あなたの父親の望みなのですから、仕方ないでしょう。わたしは、やりたいことをやったまでですよ」挑発的に肩を竦める。

「セテム」ハンスは後ろから、セテムブリーニのステッキを持っていない方の手を握りしめた。「戻ろうよ」

 セテムは振り向く。その蒼白い顔に僅かに赤みが差した。

「ハンス……君が言うのなら……」

「先ずは、戻ろうよ」

「どこに戻るっていうんだ」

「クロコフスキーさんが他の患者たちの行き先を決めていったよ。みんな、家族に引き取られたり、また近くのサナトリウムに引っ越したりするようだ。決まっていないのはぼくたちだけだよ」

「どこにも行く気はないよ」力なくセテムは言った。「もう、『魔の山』は焼けたんだ。わたしの望みはどこにもないよ。実を言うと、もうナフタを憎む心も強くは持てないんだ」

 深い溜息を吐いた。張り詰めていた力が、一気に抜けたかのようだった。

「セテム」ハンスは力強く言った。

「まだ終わりじゃないよ」

「終わりなんだ。ハンス。君に何が分かるんだ! 君は一回きりの命だ。ところが、わたしはもう何度も何度もこのベルクホーフでの生活を送っている。わたしの何が分かるんだ、ハンス。わたしたちは別々の存在だ。君に何が理解できる!」

 今までのセテムからは聞いた事もないような弱音だった。ハンスはショックを受けていた。

「カストルプ君」ナフタが声を掛けて来た。「なんだい」ハンスは出来るだけ不快感を与えないように、明るい振りを装った。ナフタも大事な仲間なんだ。決して、悪くはない。ただ、大切なものが欠けてしまっているだけなんだ。

「君との時間も、そう長くはないかも知れませんね」とても、静かに言った。

「えっ?」

「『魔の山』も焼けましたし。後の望みも殆どないでしょう」

「君たちはどうなるの?」

「さあ。死ぬなり、君が戦争に行くなりしても、元の世界に戻れるかどうかは定かではありませんね。そこで消滅してしまうのかも。あるいは、小さな○は大きな○と交わらずに、それぞれ別の世界という事になり、戻れないことになるのかも知れないですし。どちらにしてもわたしたちに明るい未来はないでしょう」

「元の世界――その、大きな○の世界では君たちはどうなっているの?」ハンスはそれを聞いていなかったことを思い出した。

「ここタヴォスのベルクホーフの廃墟の地下室で二人で横になっていますよ。『水平状態』になっている訳です。そして、本の中の世界とリンクしている」

「だから、『水平』なんだ……」ハンスは予期せぬネタばらしに驚いていた。

「そんなに驚く必要ないですよ。わたしたちが作り出した世界ですし、この『魔の山』はその世界の模倣にしか過ぎないんです。君はそこの世界の住人ですし」

「でも、違うんだ!」ハンスは叫んだ。

「ほう」興味深そうにナフタは小首を傾げる。

「ぼ、ぼくはもっと昔から君たちとは友達だった気がする。そう思うんだ。とても小さな君たちを知ってるよ。ぼくは遊んでいたんだ」

 突然、ナフタの顔が赤くなった。そっぽを向いて、恥ずかしそうに視線を外してくる。

「なんだよ、ナフタ」

「べ、別に、ハンス君は知らなくていい事ですよ」

「いや、そんなことないよ。ぼくは、二人とは友達だった。そして、小さい時は一緒に遊んだんだ!」

 不意にセテムが倒れ込んだ。それまでは杖に縋りつつもヨロヨロと立っていたのだった。ハンスは驚いて、走り寄った。抱え起こして、一息入れて、背負い上げる。接してみると案外大きかった胸が背中に当たるのを感じた。

 ――ちょっとドキドキするが、仕方がない。

 ナフタの下宿までの路を、二人で辿る。目覚めたらセテムが騒ぎ出すかも知れないけれど、今は仕方がない。

「なんでセテムは、この世界の住人じゃないのに結核なの?」ハンスは聞いた。

「ルドウィナは、元の世界で結核になったんですよ。何でも無理して頑張る性格でしたからね。それで、一人で『魔の山』を完成させようとした。だから、わたしが手伝わざるを得なくなったんです。この娘の父親に言われたから、仕方なく、ですけれど」

「あっ、今初めてファーストネームで呼んだ」ハンスは微笑んだ。「本当は仲、悪くないんでしょ。ぼくは分かるよ。今は気が立っているだけなんだ。暫くしたら、仲直りするよ」

 ナフタはまた恥ずかしそうにした。

「カストルプ……ハンス君。君はやっぱりハンス君ですね」やがて、にっこりと微笑んだ。ナフタのこんな笑顔を、ハンスは初めて目にした。

「ち、ちょっと、それどういう意味だよ!」ハンスは焦った。

「ま、一応、二人で育ちましたからね。そして、君も一緒にいた訳ですが」

「うん。思い出した。むかしむかし、ぼくも君たちと一緒だったんだ」

 突然ナフタが顔を寄せてきた。セテムを抱えたままのハンスはビックリして後退った。 その手がしっかりと押さえられる。暖かな感触を頬に感じた。口付けされているのだ。とてもあっさりとしていて、数秒も続かなかったぐらいに。

「ささ、これは忘れて」ナフタは微笑んだ。

 下界の時間が流れてきて、時間の過ぎて行くのが速いのか、既に地表を覆う根雪が溶け始めて、フキノトウなどの緑がところどころに顔を出していた。


 

――セテムが少し元気になるだけで、何ヶ月もかかったような気がする。それまで彼女はずっとベッドで寝付いていた。

 気がするとはどう言うことか、代わってわたしたちが説明するならば、主人公ハンス・カストルプがまるで日付を気にしなくなっていったからなのだった。

 ただ、暇潰しも兼ねて、看病のためにベッドの隣りに坐りながら、セテムの鎖の付いた懐中時計と、元々ベルクホーフにあった柱時計を見比べることは趣味になりつつあった。

 少し煤けていたが、柱時計は無事だった。炎の中を一人の住人が横抱きにして走り出たため、全焼を免れることが出来たということである。その人が持っていく訳にもいかなかったので、ハンスたちが譲り受けることになったのだ。

 結局、ナフタの下宿に新しい部屋を借りて住むことになった。ハンスの部屋も別にあるのだったが、セテムの看病のためにそちらに足を運ぶことが自然と増えた。

 クローディアの血を飲んでから、ハンスの体調はすこぶるつきに良くなった。一週間のうち熱が三十七度を切る日が何日も続くようになったし、咳も余り出なくなった。

 クロコフスキーは皆の去就が決まると、安心して山を降りていった。軽く頭を下げて、挨拶も言わずに行った。ハンスはこの人らしい去り際だなと思った。

 本はあらかた焼けてしまったし、ナフタの持っている本は難解かつナーバスな気分になる内容ばかりだったので、読まなくなっていった。

「ハンス……」セテムブリーニが上半身を起こした。バジャマを着たセテムは、普通の女の子みたいだ。眠そうに目を擦っていた。

「あ、起きてたの」ハンスは聞いた。矢張り、ちょっとドキマギはする。

「うん、大丈夫。わたしは大丈夫だよ」セテムが胸を張っていった。ところが、その拍子にまた咳が出た。

「全然大丈夫じゃないじゃないか、取り敢えず、ほら」ハンスは水差しからコップに水を入れて渡した。

「ありがとう。ハンス」セテムはそれを飲み干した。

「あのね、セテム」

「なんだい?」

「手を出して」

「えっ、き、君は何をする気なんだ。まさか……そんな、心の準備が出来てないよ」セテムは震えていた。

「へ、変なことしないよ、するもんか!」ハンスは声を大きくしていった。「返したいものがあるだけなんだ」

 セテムは枕を胸の前に置いてギュッと掴み、防波堤であるかのようにしてそっと掌を差し出した。 

 ――そんなに警戒されると、寧ろショックなんだけど。

 ハンスはそっとその手のうえにちびた鉛筆を置いた。

「はい、これ」

「えっ」セテムは自分の掌の上に置かれたそれを、驚いて見詰めていた。

「約束通り、やっと返せたよ、鉛筆、プリービスラフ・ヒッペくん」

「き、君は、気付いていたのか……」

「うん、なぜか知らないけど、あの雪の日から全ての記憶が正確に思い出されてきたんだ。もしかしたらクローディアに何か魔法を掛けられていたのかも知れないけど。それにしても驚いたよ。でも、びっくりしないでね。しかも、前は覚えていなかったことまでも、だよ」

「ええ、じゃあ、ベルクホーフで一緒に遊んだことも?」

「うん、そして、君と突然離ればなれになったことも」

 セテムは目元を拭っていた。

「そうか……そうなんだ……今まで、何回も、何回も君はそれに気付いてくれなかった。きっと、あのクローディアが絡んでいたんだよ。これで君に、臆すことなく、全てを話せるんだね」

「うん、実はちょっと受け容れられなくて……きついんだけど」

「ハンス……」セテムは心配そうに見詰めてくる。

「赤毛だとちゃんと覚えていたはずなのに、記憶の中ではヒッペ君は栗毛色の髪になっていたんだ、ほんと、あのクローディアは凄いよ」

「ほんと、忌々しいやつだ」セテムはまた激昂した。

 突然、ドアが開いたかと思うと、ナフタが入ってきた。

「貴様か……」セテムはそれを睨み付けた。「憎らしいやつ」

「さぞ憎らしいでしょう、セテム」ナフタは言った。そして、何かをベッドの上に投げ出した。

 ハンス・カストルプでも理解出来た。鈍く黒光りする鉄の塊、それは拳銃だった。

「フリッツ・ワルサー氏のモデル一ですよ。この時代ではそれを二挺手に入れるのが精一杯でした」

「どういう意味だ。これは!」セテムは怒鳴った。

「決闘を申し込みに来たんですよ、わたしは。白黒付けたいでしょう。わたしもです」

「面白い。望むところだ」セテムは叫んだ。

「ちょっとセテム、ナフタ!」ハンスは混乱していた。突然こんなことになったのが本当に理解出来なかった。

 ――ナフタという人の発想はほんとにわからない。それを受けるセテムもセテムだが……。

「なんで、そんな危険なことを!」

「ハンス。いつかはこうならざるを得なかったんだ。もうわたしと君は会えないかも知れない。今回で終わるんだ。『魔の山』は潰えたんだ。もう戦争を止めることは出来ないし、それを作り出した元凶はこのナフタなんだ。だからわたしはそれを滅ぼすよ。決闘を行う。君はその立会人になってくれ!」

 セテムは鉛筆をハンスの手に返した。

「でも、でも」

「カストルプ君。そろそろ、この時間は、お終いだって言いましたよね」ナフタが静かに笑った。

 有無を言わせないものが、そこにはあった。

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