抜け落ちたページⅤ
一九二五年三月――
ヴィエンナのそのカフェでレオナはルドウィナを見かけた。
客とは誰とも話さず、隅の方の椅子に座って、本を開いて読んでいた。
しかし、時折不快そうに咳をしていた。レオナは修道院での経験から、労咳によるものだとすぐに気付いたが、構わずその前に坐った。
「おや、ルドウィナ……セテムブリーニさんですね。何年ぶりでしょうか」
「どなたでしょう……な、何でお前がこんなところに来ているんだ……レオナ、いやナフタ!」
ルドウィナはびっくりして思わず立ち上がった。「お、お前と話すことはないっ!」
「『魔の山』、完成したんですか?」レオナは単刀直入に質問した。
「し、したさ。もうとっくの昔に……」ルドウィナは口籠もった。いそいそと元の席に坐る。
「それなら、なぜあなたはその中に入らないのです。子供の頃のようにハンス・カストルプに逢いにいけばいいのに」皮肉な調子でレオナは言った。
「そ、それは……ああ、分かったよ。完成してないのさ! わたしの腕では、とても。ある程度までは書けた。でもそれ以上進まないんだよ」
「それなら、わたしが書きましょうか」
「お前にやらせたらとんでもない事になりそうじゃないか」
「でも、ジョゼッペさんは、二人で書けと」レオナはルドウィナを見詰めた。
「た、確かに父はそう言ったけど、お前に任せたからと言って上手くいく訳じゃ……」
「わたしは書けますよ。アイデアがあるんです」
「ど、どうして?」
「あなたと別れた後、わたしは欧州各地を遊歴しました。そして修道院に入り、修道士になったのです」
「修道士? 修道女じゃなくてか?」
「そうです。修道女では出来る事が限られていましてね。今なお続くこの大戦によって、前線の傷病兵が運び込まれている修道院でした。そこで長いこと看病に当たっていたのです」
「看病だって、お前らしくない」ルドウィナは胡散臭げに相手を見た。
「戦争がどういう惨禍をもたらすのか、この目で見たいと思ったのですよ。義勇心からではありません」
「まあ、そうなのか。それはそれでいいけどさ」
「あなたは病気ですね。セテムブリーニ」
「なんで気付いたんだ」少し顔が青ざめていた。
「見たら分かりました。結核の患者はそう言う咳をするものです」
「図星だな。よく見抜いたもんだよ。皆、わたしを避ける。お前も逃げた方がいいよ」
「そうも行きませんからね」
「なんでだ」
「『魔の山』を完成させなければなりませんからね」
ルドウィナは黙り込んだ。
それから数ヶ月掛けて、レオナは『魔の山』の草稿を完成させた。
ルドウィナの安アパートにレオナが住み込んで、共同生活を送りながら執筆を進めたのである。
レオナはルドウィナのぼろい机に坐り込んで終日鵞ペンを走らせた。机を奪われたルドウィナはベッドの中でひたすら本を読んでいた。
結局、ルドウィナは殆ど関与できずじまいだった。
彼女には小説を書く才能はほとんどなかった。レオナが確認したところ、二十ページも進んでいなかった。
何千枚にも及ぶ草稿を一読してルドウィナは驚いた。
「これは、何なんだ」怒気を含んだ顔で、詰問した。
「ですから、『魔の山』です」レオナは澄ましていった。
「認められないぞ! こんな話は! ハンス・カストルプがわたしのことを忘れるなんて」
「あなたは結局、一度男装して逢っただけです。それに、その方が面白そうでしょう? それとも最初からセテムブリーニが書き直すと言うのでしょうか」
「そ、それは……できない」
「それなら、わたしの書いたことを受け入れなさい」
「し、仕方ない……」ルドウィナは渋々頷いた。「だが、欧羅巴を潰乱させるテロ組織ってのがよく分からない。なんでこんなものを登場させるんだ」
「それはわたしの望みだからですよ」とレオナ。
「相変わらずお前の性根は腐ってるな。昔からそう思っていたよ」
「そんなことは充分承知しておりますからね」
「直す気はないのか」
「ありません。作中で戦争を阻止するなら、まず現実と同じように作中でも欧州は潰乱されなければならない。その象徴としてこの『エンス・ボート』なる組織は作られなくてはいけなかったのですよ」
「うーん」ルドウィナは両手を組んで唸っていた。
「どうやら納得して頂けたようですね」 「試してみなけりゃわからないから、何とも言えないな」
「それなら、試してみましょう」レオナは和やかに言った。
『魔の山』はレオナにより造本され、黒の地に金の文字でタイトルが書かれた立派な本に仕上がった。
レオナが全部活字を組んで刷り上げたのだった。その器用さにはルドウィナも驚いているようだった。
世界でたった一冊しか存在しない、貴重な本だった。
それでも、ルドウィナはあれこれ文句を言い続けたが、レオナはのらりくらりとそれを交わした。己が小説を書き上げることを出来なかったことをルドウィナはとても恥ずかしく思っているようだった。
いきなりレオナはルドウィナに言った。
「さあ、出発しましょうか」
「ど、どこにだ」
「もちろん、分かっているではありませんか。シュヴァイツにです」
「『世界の臍』か?」
「そう、『世界の臍』へ」
二人は何日も掛けて汽車でシュヴァイツへと向かった。
鞄の中にはしっかり『魔の山』を入れて置いた。誰かに見つからないように二重底にしまい込んで。
途中幾度か戦闘によって、車体が停止し、二人はその中で寝泊まりした。
激しい砲撃の音が遠くで響いてくるのが分かった。
夜の帷が降りてくるのが、四角い窓から見える。
アルプルの寒気はルドウィナの身体には殊に堪え、身体が冷え切ってしまったようだった。歯の根が合わないほどに震えている。
ナフタは羽織っていたローブを掛けてやった。
「そんなこと、しないでいいよ」恥ずかしそうな声でルドウィナは言う。
「あなたに死なれても困りますのでね」
「お前がそんなこと言うのか」
「仕方ないでしょう」素っ気なくレオナは言った。
「ふんっ!」
ルドウィナは席の上で横になったまま、そっぽを向いた。
タヴォスに付いた二人は、直ぐに馬車に乗ってサナトリウムへと向かった。
以前、ジョゼッペ・セテムブリーニが実験を行っていた施設だ。
幸い軍はここの存在には気付かなかったようだ。数年前と同じように、荒れ果てたまま放置されていた。
板で隠されていた地下室へと続く階段を下に降りていく。ひと足ごとに大きく音が響いて、誰からも追われていないにも関わらず、ルドウィナは背中を曲げて警戒しながら歩いていた。
そこには寝台が二つ用意されていた。毛布も置かれていた。たっぷり埃を被ってはいたが。
「二つ、だと」ルドウィナは驚いていた。
「どうして驚くのです」
「パパは、お前と本の中に入れって言ってた。そして寝台も二つ用意していた。こんなめちゃくちゃな内容の本を書くお前なんかに、なぜ! 最後に見た時は、寝台は一つしかなかったんだ、うっ、ごほごほ」
興奮してルドウィナは咳込んだ。
「さあ、時間はないのですし、早く横になりましょう」レオナはルドウィナの病の進行も考慮に入れて言った。
『魔の山』を縦に置き、その両側に銅の板を当てた。これで、倒れることはないだろう。
二人は寝台に転がった。ヘッドギアをして、毛布を被る。グルグルと身体に巻き付けるようにした。
「横臥療法ですね」とレオナ。
「父が書いた箇所だ。このやり方で寝転がると、時間の影響を受けないとか」
「言っておきますけど、ここは現実ですよ?」
「何が現実かなんて、分からないじゃないか」
「そうですね。これは一本取られました」レオナは微笑んだ。
「で、誰が機械を動かすんだ?」
「そう言えば、それを忘れていましたね」
「誰か呼んでこようか」
「そうもいかないでしょう。この計画を軽々しく誰かに知られてしまっては」
「それも、そうだな」
「少し時間を掛ければ、何とかなるでしょう」
レオナは容易く毛布を解いて外へ歩き出した。
「お前、機械も扱えるのか?」半信半疑な様子でルドウィナは詰問した。
「ちょっとは出来ますよ」
一週間ばかり、レオナはジョゼッペ・セテムブリーニが残した機械の改良に努めた。レバーやボタンに自動的に動く細工を施したのだ。なにかあれば、強制的に二人を起こす仕掛けも付加しておいた。
ルドウィナは黙ってそれを見ていた。
「わたしは細かい作業は苦手なんだ……」ぶつぶつと言っている。
ルドウィナも責任を感じてきているのかとレオナは思った。
「本の中に入って、我々が何もできない場合はどうなるんだ」
「それは、ふりだしに戻る、でしょうね。現実、いえ、我々が今いる世界で過ぎる時間は一冊を読了する程度でしょう。もちろん、作中では長いですが」とレオナ。「本自体が存在している限り、大丈夫ではないかと思います。もし本が焼かれたりした場合はどうなるか分かりませんよ。何しろこの現実の世界と、作中の世界、その両方を繋ぎ合わせる存在になっているのですからね。そして、このサナトリウム、名付けてベルクホーフが『世界の臍』となるのです。まあ、本の存在が『エンス・ボート』にばれない限り、何とかなるのではないでしょうか」
「なんで、そんな連中を作ったんだ」ルドウィナはまた同じような質問をした。よほど腹に据えかねるのだろう。
「その方がスリリングでしょう?」とレオナは笑った。
「でも、なんで作中で焼かれたら現実で焼けることになるんだ」
「ジョゼッペさんから聞きましたよ。ルドウィナは書きかけの草稿の中に入り込んで、消しゴムを持ってきたと」
「確かに」
「なので、小さな○の中にある世界と、外にある世界、いえ、大きな○の世界は繋がっているのですよ」
「と言うか、お前、なんでそれを知っている」
「もちろん、ジョゼッペさんから教えて頂きましたので」
「なんだと!」ルドウィナはショックを受けたようだった。「パパは、お前にも話していたのか」
「どうも、ジョゼッペさんは私も作中に入り込ませようとしていたようですね。そうなる前に捕らえられましたが。彼こそ、真の馬鹿ですよ」
「お前!」ルドウィナは顔を真っ赤にして両手を挙げた。「パパの悪口を言うな!」
「これはこれは、怒らせてしまったようですね」
「余計なことばかり言う奴だ!」
「さて、そうこうする内に行程が終わりました」機械の前に坐り込んでいたナフタが立ち上がった。手の甲で額の汗を拭う。
「そうかい」まだ不満そうだった。
「ハンス・カストルプがお待ちかねですよ」
「ハンスとやっと再会出来るのか!」途端にルドウィナの顔が明るくなった。
「でも、あなたのことは覚えていませんけどね」
「お前が忘れさせたんだろうが!」また怒り始めた。
「ちょっと考えてください。ハンス・カストルプは元々あなたなんか知りませんよ。プリービスラフ・ヒッペとして最初はあなたの事を記憶していた、というだけなんですからね」
「そういえば……そうだよな」
「そして、ハンス・カストルプはこの物語の主人公です。わたしたちはその中に入り込む訳です。彼が戦場に行くことによって物語は幕を閉じる」
「あ……」ルドウィナは今気付いたかのように声を上げた。
「いやはや。一番肝心なところを忘れていたのですか」レオナは呆れたゼスチャーをする。
「その先は?」
「ですから物語は終わりですよ。ふりだしに戻る訳ですね」
「うーん、よく分からないな」
「実際入ってみるまで、分からないものですよ」そう言ってレオナはヘッドギアを被った。
ルドウィナもそれに倣う。
二人は寝台にそれぞれ横になった。




