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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十五、雪(6)

 目覚めるとクロコフスキーが顔を覗き込んできた。その膝の上に頭を凭せ掛けて、眠っていたらしい。横にはセテムブリーニの姿が見えた。戻ってきた患者たちも心配そうに見下ろしている。

 ――ああ、懐かしい『水平状態』だ。

 ハンスはとても安心した。

「ハンス」セテムは身を屈めてきた。「大丈夫か? 突然居なくなって心配したよ。まさか、ベルクホーフまで戻っていたとは、しかも、こんなことになっていて……」

 そう言って項垂れた。

「大丈夫、心配はいらないよ。ぼくはすっかり元気だよ」ハンスは伸びをした。そして、軽くよろけながら、立ち上がった。

「セテムこそ、大丈夫? 時間の流れが明らかに変わったし、身体に堪えないの?」

「うん」出来るだけ力強くセテムは口にしたが、その手袋を嵌めた手は強く、しかし不器用にステッキの柄に彫られたガーゴイルを握り締めていた。ハンスはそれを見ていて、とても不憫に思った。

 手を差し伸べて、一緒に握った。

「これで、どう?」

「ハンス……」セテムの顔は見る間に赤らんでいった。

「『魔の山』、守れなかったよ……」ハンスは静かに言った。

 途端にセテムの顔が曇った。絶望的な表情に変わっていく。

「ごめん」

「ハンスのせいじゃ、ないよ、悪いのは……」セテムはそこで黙った。

「クロコフスキーさんはどうするんです?」「院長を弔った後、山を下ります。ここに居ると分かった以上『エンス・ボート』はまた私を追ってくるでしょう。あなた方に迷惑を掛ける訳にはいきませんし……、私はもうここに留まっていることは出来ないのです」静かに、だが決然とクロコフスキーは言い放った。

「ですが、その前に、あなたたち患者の面倒はしっかりと見ます。どうか不安にならないで下さい。皆の居場所をちゃんと見付けた後に、私は去って行くつもりです。それを疎かにすることは決して致しません」

 そして、遠くを見やった。まるでラダマンテュスがこちらに走ってくるのを待っているかのようだ。

しかし、向こうから現れたのは、ペーペルコルンだった。真っ青になって、よろよろと近付いてくる。先程の戦闘の疲労と、時間の変化の衝撃が押し寄せてきているらしい。

 セテムブリーニの態度が一番冷ややかだった。ステッキから手を離し、蹌踉めきながらも、ペーペルコルンの前に立って、相手を睨み付け、怒鳴った。

「お前が、『エンス・ボート』の一人だな」「そうよ、それが何か」

 パン。

 少女の頬が思いっきり張られていた。しかし、ペーペルコルンは表情を変えずに、相手を見詰めていた。 

「お前は何をしたんだ。お前は何を!」セテムは叫んだ。

「何って?」ペーペルコルンは肩を竦める。「私はベルクホーフを壊しにきたの。実際見事に焼け焦げたでしょ。任務は完了。後は帰るだけね」

「それで済むと思うのか? 無事に戻れると考えているのかよ」セテムブリーニは激昂していた。

「何なら、やる?」口調だけは挑戦的だったが、その瞳は限りなく虚ろだった。じっと相手を見る。「そりゃ、武器も鎧もなくなったけど、あんたの首ぐらいならこの手でねじり上げられる」

「……」セテムは力なく肩を落とした。

「セテム、ぼくが言うよ」

 ハンスは思い切って相手に向かっていった。

 ――そりゃ、憎い相手だよ。

 ヨアヒムを殺し、ラダマンテュスやシュテールやエンゲルハルトも犠牲にした。ベルクホーフを焼き払った。今まで暮らしていたところが炎上してしまったのだ。『魔の山』も炭になり、時間の流れが大きく変わっていこうとしている。

 しかし、それに抗える訳もない。それに、向こうに戦意はないようだ。

 ――それにクローディアも、ペーペルコルンもベルクホーフの屋根の元で一度は過ごした仲間じゃないか、例え本性がどのようなものであっても、その事実には変わりはない。

 ハンスは血を飲んでから、クローディアへの執着を一切感じないようになっていた。  タヴォス行きの汽車の中で掛けられた魅了は完全に解かれたのだ。

 騙す気だけで近付いて来たならば、あんな小瓶をこちらに渡す積もりなんてないだろう。 ――クローディアは気付いて貰いたかったんだ。

 そして、相手に向き直る。出来るだけ優しい声で言ったつもりだ。

「それじゃあ、さようなら。良き旅を、ペトラ」

 ペーペルコルンにとって、この答えは意外な物のようだった。

 目を見張ったままで、顔を歪めないで泣いていた。

 涙は止めどなく流れ落ちるが、表情は少しも変わらない。嗚咽のような音が、ゆっくりと口の中で響いているのが分かった。

 突然、少女はくるりと後ろを向いて歩き出した。

 ハンスは少しだけ可哀想になった。ペーペルコルンは二度と振り返らないだろう。

「あんな輩、構うことはないよ」セテムブリーニが吐き捨てるように言った。

「でも……」ハンスは口籠もる。

「でも、なんだよ」セテムブリーニは突っかかってきた。

「ベルクホーフの仲間だから」

 セテムはそれを聞いて呆れていた。



黒い帽子を被ったペトラ・ペーペルコルンは歩き続けていた。もう戻る当てはないのだ。ベルクホーフも、『エンス・ボート』も自分を受け入れてはくれない。

 ――自分は全くの一人になった。

 ハンス・カストルプの言葉は全き拒絶の言葉だ。

 ――ここには私はいちゃいけないんだ。

 寂しくて、怖くて堪らなかった。歯の根が合わなくなってきた。ガタガタと音が鳴っている。

 暗い森に入り込んでいく。木の枝が少しの隙もなく頭上を覆って、影が大きく広がった。

「怖くない……怖くない……」何度も小さく囁いた。心細さは正反対にいやましていく。

「ねえ、怖いのでしょ。本当は?」

 びくっと背中が震えるのが分かった。相手の声で、大体予想は付くというのに。

 ――ああ、自分はどれほど臆病になったことだろう。

 ナフタが前に立っていた。相も変わらず黒いローブを着て、腰を少し曲げて。

「もう、カストルプ君には逢えませんよね」

「それが何よ」自分の声が震えているのが分かった。

「あなたは何をやりたいのです?」

「何も、何も」

「じゃあ、なんでここにいるんです」

「もちろん、元いた組織に、帰るのよ」

 ――こいつならば鎧を壊してしまったことが騎士の資格を奪われ、『エンス・ボート』から追い出される事を知りはしないだろう。

 そう思った。

「もう戻れないでしょう。そう言う決まりになっているんですから」

「え?」驚きの余り、思わず変な声が出た。

「なんで、そ、それを知ってるの」

「知ってるもなにも」ナフタがほくそ笑んだ。「わたしがその『エンス・ボート』を作ったんですから。それに『元いた』なんて言っちゃうと、馬鹿でも分かりますよ」

 頭が狂ったのだろうか。少女は訳も分からず相手を見ていた。

「ど、どうしてあんたが……」

「あなたたちが石工党を模して悪事を行うテロ組織、だなんてこと、とうに知っていますよ。というか、わたしがそう設定付けたんですから、当然と言えば当然ですね」

「何を、訳の分からないことを」

「この世界は、結局『魔の山』と言う一つの本の中での出来事だったのですよ。あなたはそこの登場人物にしか過ぎません。と、言うよりもわたしが書いたんですよ。会ったのは今回が初めてになりますけどね。もちろん、クローディア・シャウシャットも。ただ、こちらは前回からカストルプ君に関与していますが」

 ハンスの話が全てを裏付けていた。少女は耳を塞いだ。だが、声は無常にも聞こえて来た。

 ――やつは小さな声で喋っているはずなのに。

「それで、結局どうするんです。あなたはもう、『エンス・ボート』には戻れない。首領は厳しいはずです。鎧を壊した者は処罰される。……というか、あなたはもう追われる身です。さて、どうするのでしょう?」ふざけた調子で語り立てる。

「聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない」

「ハンス・カストルプはどうなのです?」突然、ナフタは言った。

「え」少女は相手を見た。なぜか突然力が湧いてきた。

「愛しい! 大好き! 愛されたい! 私の全てよ! もう何もないじゃない。それより他は!」

 感情のままに捲し立てた。言っている最中はとても気持ちが良くなった。小気味よく笑いさえしている。

「ハンス。ハンスに会いたい。それだけが私の望み。悪い? 何度でも会ってやる。全てを奪ってでも」

「でも、カストルプ君はあなたには興味を持たないと思いますよ」

「なに、それは、なによそれは。そんなのわかってるわ、ハンスの大好きないとこを私が殺したからでしょ。それで恨まれても構わない。でも、何としてもハンスを振り向かせたい。どんな手段を使ってでも! それぐらいしかないじゃない。それぐらいしか、私には出来ないじゃない」

「いえいえ、そんなことじゃなく」とナフタは微笑みながら近付いて来て、顔を寄せたかと思うと、ペーペルコルンに耳打ちをした。「カストルプ君は年上好きですから」

 その言葉だけで全てが理解された。自分は最初から、ハンス・カストルプの眼中にはなかったのだ。

「ふふふふふ」妙な笑い声が漏れた。

 ――そうだ。

 ――当たり前じゃないか。そんなことは、分かりきっていたはずなのに。ハンスは自分を年下の少女として見ており、その態度はずっと変わることがなかったではないか。

 ペーペルコルンは無心に懐を探った。

 幸いなことに、その注射器は残っていた。捕らえられた時に、いつでも自殺できるように持ってきたものだ。既に毒薬がそこには入れられている。

 それは妙な形をしていた。コブラの頭を機械的に模倣したもので、針が牙状になっているのだ。

 その内側に毛細血管のような細い管が通っていた。下部にはゴムの袋があり、中に毒液が仕込まれている。管はこのゴム袋とコブラの歯を直結させており、袋を押すことでコブラの口が開き、肌へ噛み付く。それによって毒が体内へと流し込まれる機関からくりとなっていたのだった。

 少女は思いきってゴムの袋を押した。

 コブラの口がすぐに開く。その奥から毒液が外へ飛び散った。少女は服の袖を捲り上げて、腕を出した。

 特に力を入れずとも、針は少女の薄い白い腕を突き刺した。

 深く、深く血管へと食い入っていく。

「ううっ……」苦悶の吐息を少女は漏らす。注射器に入れる力が弱くなった。途端にゴムは膨らみ、元に戻った。

 毒は即効性だ。目眩がして、周囲の風景が歪む。呼吸は荒くなり、胸苦しくなってきた。

 しかし、ペーペルコルンは幸せだった。もう既にこの世に留まりたくなかったのだ。

 笑顔を浮かべながら倒れたペーペルコルンを見下ろして、ナフタは真顔になって言った。

「あなたは棄権したのですね。わたしもまた……」

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