十五、雪(5)
ハンス・カストルプが気付いた時、まず最初に捉えたのは向こうからあたふたと走ってくる深海色でもじゃもじゃの髪の少女だった。
――ラダマンテュスだ。
「おおおい。クロコフスキー! 一体これはどうなっとるんじゃー」
はっとなったクロコフスキーはそちらを振り返った。
途端にベルクホーフを覆う火はまた強くなり、辺りは赤々とした光の反映に再び充たされている。
「おやおや、集中が足りないようだねえ」既にクローディアは血相を変えて、奇妙な笑みを浮かべながら、相手を見ていた。仲間が倒れたのに見向きもせず、ただクロコフスキーを仕留めることのみ、執念を燃やしているようだった。
「それじゃあ、これでどうかね」
爪をさらに長く伸ばし、雪の上を高速で走り出した。
向かうは、ラダマンテュス。
ローブごと、貫き通した。
「ごほっ」ベーレンスは血を吐いた。
クローディアはグリグリと爪を相手の腹の中に抉り込んで、掻き回している。
「さっさと死にな!」
ハンスがかつて見た優しさのかけらもそこには見当たらなかった。ただ、冷酷な吸血鬼の笑みだけがそこにあった。その時には魅了からある程度は自由になっていたらしい。
驚愕したクロコフスキーがこちらに駆け寄ってくる。
「愚か……じゃの……」血を吐きながらも、ラダマンテュスは余裕の笑みを見せていた。
「何さ!」ヒステリカルな声を上げて、クローディアは相手を睨んだ。
「お主は、何を……燃やしたと……思って……おる。あの……燃えさかる……建物を見てみい。おお……梁まで焼けて……舞踏室が剥き出しになっておる」と弱々しく指を差し向けた。今まさに火が付いて燃えようとしていたのはクローディアの肖像画だった。
「あれが、何だって言うのさ」
「わしが……何もしなかったと思うか……お主の……ような記者がいないことは……問い合わせればすぐ分かったわ……様子を……見ようと……思って……ここまで泳がせて置いたのは……わしの失態じゃ……あの絵はお主自身じゃぞ、ああ、火が着いた、よく燃えおるのぅ」
クローディアの絵は瞬く間に燃えた。油絵なので尚更である。
と、不思議なことに、クローディアの身体にも火が燃え移っていたのである。近くには火種は一切ないにも拘わらず。それは絵の燃える速度と足並みを合わせるかのように、すぐさまクローディアの全身を覆っていく。
「きっ、きさまっ、きさままで、そんな事が出来たのかああああっ」皮膚を焼かれながら、クローディアは叫び続けた。苦悶の表情を浮かべていたが、反対に、絵の中では涼しい顔をしたままだった。両手を振って爪をグルグルと回し、ラダマンテュスを向こう側へ抛り投げた。勢いよく落下する。
「伊達に……長く……生きてはいない……わい」そう言ってぐったりとなった。
そこにクロコフスキーが駆けつける。
「院長、治療致します!」
「おぬし……治癒の術は……苦手じゃ……ろう。いくら医学を……学んでも、魔法は……攻撃のみ……なのだからの……おぬしは……」
「私の手で、治療します!」この人らしからぬ大きな声でクロコフスキーは叫んだ。
火達磨になったクローディアはそれでもまだ立ったままで、歩いて行く。
ハンス・カストルプの前へと。
怯えたハンスは身を引き離そうとした。だが、クローディアは炎に包まれながらも、近付いてくる。
「は、ははは……。あたし、らしい最後だね」小さな声がする。
そして、最後に漏れた言葉を、ハンス・カストルプは聞いた。
「受け取りな」炎の中から、小瓶が雪の上に落とされた。まだ声帯までは焼けていないようだったが、とても小さな、囁くような声だった。「それで、何もかも思い出せるからね。ハンス君、ごめん……、騙していて」
赤い液体が中には詰まっていた。
――クローディアの血だ、とハンスは直感した。
ハンスは急いでそれを手に取り、懐へと納める。
クロコフスキーが怒りに満ちた顔で、燃えさかるクローディアに走り寄った。
半月刀が、心臓があると見られる辺りへ向かって貫き通される。
血がもう吹き出さないほど、クローディアは黒く焼き尽くされていた。
カサッカサッ。
軽い音が鳴って、クローディアは崩れ落ちていった。熱風と雪風が交じり合って吹き寄せてきて、それをさらっていく。とうとう跡形もなく消えてしまった。
ぽかんとハンスはそれを眺めていた。
クロコフスキーはラダマンテュスの許へ駆け寄った。
「院長。奴は倒しました。さあ、治療をしましょう……」
「も……よい。わし……深手じゃ。到底助からん……」
「院長!」クロコフスキーは相手を身体を抱き締めて、暖めようとする。
「お……あ、あいかわらず……巨乳じゃの……あ、暖かい」
「院長、ラダマンテュス」クロコフスキーは相手の名前を強く呼んだ。その両方の目から二筋の涙が流れていた。
「おお……泣いて……初めて……見るわい」
「貴方なしで、私はどうすれば!」
「じ、自由に……生き……るんじゃ……なんと……でも、なる」それを最後に、ラダマンテュスは言葉を発しなくなった。
死んだのだ。
クロコフスキーは柄にもなく、大声を上げて泣いていた。
――何かよく分からないけど、愛し合っていたんだな。
ハンス・カストルプはそう思った。
――でも、ぼくは……そうだ。『魔の山』を探さなくちゃ。
燃えるベルクホーフを前にして、腰が抜けそうになる。
炎は、セテムブリーニの書斎を半ば覆っている。しかし、窓は半開きになって、中の様子を窺うことは出来た。
ハンスは思い切って駈け出した。よく分からないけれど、『魔の山』が焼けてしまっては大変なことになる。
――なんとか、取り戻さないと。
窓から入り込むと、炎は部屋を囲み、既に本棚の大半は焼けていた。
『魔の山』も半分以上が焼けている事に気付き、急いで取り出す。
床の絨毯に何度か叩き付けて鎮火しようとしたが、開いてみると、ページの殆どは消し炭と化している。
写真は前にセテムブリーニが抜き出したのか、挟み込まれてはいないようだ。綺麗なページ、それも白紙のページが何枚か見えた。ハンスは思い切って、それを破り取った。
炎が、目の前に押し寄せてきた。
ハンスは防寒着を脱いでそれを払い、本を脇に抱えると、煙を吸い込まないようにして、外へと飛び出した。
普段から窓の外には盛り上がった土があり、僅かに傾斜していたので、ゴロゴロとそこに溜まった雪の上を転がった。
幸い、火傷はないようだ。
「ヨアヒム、さようなら」
音を立てて燃え上がる、かつて暮らした建物を前にして、ハンスは呟いた。涙がこみ上げてくる。手の甲で拭いた。でも、止めどもなく流れてくる。クローディアの死によってなのか、さっきまで麻痺していた痛みの感情が急激に襲ってきた。
それと共に時間の動きが速くなったような気がした。当然だ。本は焼けてしまったのだから。ハンスの脇に挟まれているのは、真っ黒な炭なのだ。
恐らくは下界の時間が、一気に山の上に押し寄せてきた、と言うことだろう。
――『水平』に、出来るだけ『水平』にならなきゃ。
ハンスは目眩がした。少し身体を動かすと、とたんにふらふらとする。この急激な変化に耐えられるだろうか。
――そうだ。
ハンスはクローディアから貰った瓶のことを思い出した。
――あれを飲めば、もしかしたら少しはマシになるかも知れない。
以前クローディアの血を飲んだ時、感覚が大きく変わった。
――時間感覚の変容を、鈍化させられるかも知れない。
ハンスは瓶の栓を抜き、その中の血を一気に飲み干した。普段ならば躊躇するだろうが、こんな時にそんなことは言っていられないのだ。
変化はすぐに訪れた。目眩を感じなくなった。と言うよりも、全身の感覚が鈍くなったのだ。心の痛みも、和らいでいく。両手両足を重く感じるようになった。意識が朦朧としてくる。立ち上がることはもう出来ない。時間の流れを感じ取ることもなくなった。
だが、耳元で足音だけは聞こえてきた。小さな、しかし確固とした意志の強さを持つ足どり。
「今日もよぎりぬ 暗きさよなか
まやみに立ちて まなこ閉ずれば
枝はそよぎて 語るごとし
来よいとし友 此処に幸あり」
『菩提樹』の二番が聞こえて来た。これは幻聴かも知れない。蓄音機の影すら、その場には見えなかったからだ。
「ヒッペ……くん」ハンスは呟いていた。「ああ、そうか! 君だったんだね。君は、君だったんだ! 全て分かったよ。記憶が戻ってきたんだ」
ハンスは体中の力を振り絞って、大声を上げた。
そして気絶した。




