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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十五、雪(1)

 何事もなく季節は過ぎ行き、再び冬が巡ってきた。山々は真っ白に覆われ、降り積む雪に通行人の足跡はすぐに消え去っていく。

 暖炉にあたりながら、窓の外から景色を眺めていると、

「ハンス、外に出ようよ」と声がした。

 ヨアヒムが誘ってきたのだ。

 去年は初めて迎える冬と言うこともあってほとんど外出せずに終わったが、今年は二度目となって落ち着いていた。前までは学業を放り出したことが気に掛かっていたが、大叔母と会って、戻りたくないという意志を告げた今ではどうでもよくなってしまった。

 もう、義務感から解き放たれて、宙ぶらりんの状態に慣れている。重苦しい気分はなくなり、幸い体調もすこぶるいい。

 ――それなら、一つ、遊んでみようか。

「うん、出よう」

 二人で毛皮の防寒着を着込み、外へと飛び出した。スキー板という物を生まれて初めて装着した。前に長く広がって、足が自分のものでなくなったような気分だ。

 並んで雪原を歩いた。とても進み辛い。吐く息毎に白くなっていく。時々いとこに寄りかかってしまう。帽子とイヤーマフを装着したヨアヒムは優しくそれを受け止めてくれた。

「ヨアヒムは、滑ったことあるの?」

「うん、去年も、一昨年もかな。病気になる前からスキーはしてたし……」いとこは首をこちらに寄せてきた。

「そうなんだ、ぼくの知らないうちになあ」「そっ、そんなことないよっ、ハンスもちょっとやればすぐに上達するから! ぼくが教えて上げるよ」

「ヨアヒムの教え方は扱きみたいだからなあ」冗談めかしてハンスは言った。

「そ、そんなことないよ」

「前、テニスやった時は大変だったなあ……呼吸困難になるまでコートを動き回らされたよ。それで一度もきみ(ドゥ)の玉を打ち返せなかったんだから、笑えるよね」

「あの時は、ごめん! つい、なんでも思いっきりやっちゃう癖が出て……」

「ボートの時もそうだったなあ。なかなか教えて貰っていることが頭に入らなかった。そういえば、あの後、ふふふふふっ、足に血が通わなくなって、ぼくがパニックになっちゃって。ヨアヒムが急いで漕ぎまくってなんとか助かったけど、下手したら海までいって漂流してたかも分からないよね」

「その時も、ごめん! 池とか浅い川で練習してからやるべきだったんだ」

「でも、そういや、きみ(ドゥ)には泳ぎ方は教わらなかったなあ……」

「そ、それは……」

 いとこの顔が赤くなっていた。最初は上気しているのかなと思ったが、すぐに、

「あああっ、すまない! きみ(ドゥ)は、そ、その、お、おんな、だったんだよね……」ハンスは自分の馬鹿さ加減に呆れた。それと共に妙な緊張感が生まれ、話がし辛くなったらどうしようかと思い始めた。

 ――一番の友達と気まずくなってどうしようっていうんだよ。

「いいんだ、いいんだよ、ハンス。全然気にしていないからね」優しい声でいとこは両手を振った。

「でも……」

「さあ、向こうに丘が見えてきたよ。一緒に滑ろう」話を変えるために、元気よくヨアヒムは叫んだ。

「ううう……緊張するなあ」

 いざ滑る段になって、ハンスの臆病さが顔を擡げた。足を前に出すこと自体が怖かった。

「さっ、いくよ!」ポールを振って、いとこは勢いよく滑り出した。麓の方まで一息にいくと、くるりとUターンして、こちらを向いて微笑んだ。

「うん、ここなら時間の変化も感じられないよ。普通な感じでいける! さあ、滑ってみて」

「こ、怖いよお……」ハンスはぶつぶつと呟いた。

「さあ! さあ!」大声でいとこが叫ぶ。「雪崩が起こるよっ!」

「大丈夫だよ、さあ!」

 ハンスは前に進んだ。途端に板がズルズルと滑って丘を下り始めた。凄い勢いだった。思わず叫んでしまう。 

「うっ、うわわわわわわわわわっ!」

「ハハハハハッ、ハンスったら大袈裟だなあ」ヨアヒムは笑った。

 ところがハンスは止まらない。ポールの使い方も分からないのだから、当然の事である。麓まで達してもまだ留まる様子を見せずに下り続ける。

「ハンス!」ヨアヒムは素早くポールを振って横に並び、肘でハンスの横腹を強く押さえ付けた。

 ――やっと止まった。

「まったくもう、世話が焼けるなあ」ヨアヒムは溜息を吐く。だがその顔はなぜか嬉しそうだった。

「ゴホッゴホッ」ハンスは咳をした。

「大丈夫? 胸を強く押しちゃった?」ヨアヒムは心配になったのか声を掛けてくる。

「大丈夫。それより助けてくれてありがとう」

「ありがとうって、きみ(ドゥ)とぼくの仲じゃないか……。そんなの、当然だよ!」恥ずかしそうに鼻の頭を掻いていた。

「そ、それじゃあ、気を取り直して、行こうか」

 照れ隠しなのか、いとこは一人で登り始めた。ハンスはその後を追う。まだまだ歩かされるのかと思うと、辛くなっていった。

 登り、登り、登り、足が疲れた。板を装着しているのだから尚更だ。

「また滑るの?」ハンスはうんざりしてきた。

「いや、そうじゃないんだ。きみ(ドゥ)に見せたいものがあるんだよ」

 既に周囲は夕暮れに包まれていた。太陽が落ちようとしているのだ。

「は、早くいかないと」ヨアヒムは焦っていた。

「何か待ってるものがあるの?」ハンスは不思議に思って質問した。

「行けば分かるよ、さ、さ、早く!」もたもたするハンスにしびれを切らしたのか、ヨアヒムは一度ポールから手を離し、ハンスに腕を回して、引き摺っていった。

 一際高い丘の上まで昇った。

 スキー板を外す。二人は足を開いたまま並んで座った。

 夕陽が辺りを照らしだし、真っ白い雪を薔薇色に染め上げている。それが見渡す限り続いているのだ。涯が見えぬ風景。人影も殆どなく、建物すらベルクホーフの他には山小屋数軒が覗えるだけである。風も凪いでおり、時間が止まったようだった。この山のことだし、本当に完全に時間が止まってしまったのかとすら思えるほどだった。

「薔薇色の夕焼け、薔薇色の朝焼けともいうんだ」

「凄いなあ」ハンスはぽかんと口を開けていた。

「凄いだろ。ぼくも最初に見た時は驚いたよ。こんな絶景がこの世の中に存在するのかってね。でもこれは絵の中の風景じゃない、実際の風景なんだ」ヨアヒムは立ち上がった。

「ヤッホー!」大声で怒鳴る。

「ヤッホー!」ハンスもそれに釣られて立ち上がり、叫んだ。普通ならこんなに声を出したら絶対に咳込むはずなのだが、不思議と口内は清々しかった。

「楽しいなあ……」ハンスは思わず口にした。

「ほんと?」ヨアヒムは顔を輝かせて聞く。「うん。こんな光景を眺められて、というか、きみ(ドゥ)と同じ物を眺められてと言うか……」

「ハンス。もしかして、もしかして、それって……!」いとこは顔を近付けてきた。

「えっ、えっ、どういうこと?」ハンスは戸惑った。驚いて身を引いてしまう。

「ああ、いいんだ……」相手は暗い顔になった。だが、それでも出来るだけ明るい笑顔を作ろうと努めているらしく、「んんとね、うん、そうだなあ……」と独り言つ。

「何?」ハンスは聞いた。

「あのね、ハンス。一度でいいから、ぼくをヨハンナって呼んでくれないかな。本当の名前で、ね」

「えっ!」

「親にも呼ばれたことがないんだ。これが自分の名前かあ、って……時々、思っていて。だって、呼んでくれそうなの、ハンスしかいないじゃん。だから、一度でいいから呼んでよ。今すぐじゃなくてもいいからさ。ぼくさ、元気になったらまた軍隊に戻ろうと思っていてね」

「そ、そんな。なんでだよ」

「ぼくは軍人だから。戻らないといけない。実際、今も体調はよくなっているし」

「でも、下界とここでは全く時間が違うって」

「いつか克服してみせるよ。実は最近こっそり下界に降りるようにしているんだ。近くの町なら、普通に歩けるようになった。だからね、お願いだよ」

「うん。分かった」

 日は沈んだ。じきに完全な闇が訪れるだろう。

「じゃ、帰ろっか」いとこは笑った。


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